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72話


 俺と、賈詡の想定した以上の事が起きている。

 まさか、李傕が直々に蜂起するとは思わなかった。


 長安内部の各地で涼州兵を蜂起させ、その兵士らから李傕と郭汜が奉戴される。

 そうやって流れを作ると考えていたからだ。


 恐らく、韓遂の想定していた構図もそうだろう。


 だからこそ先手を打ち、賈詡に汚鼠を預けて、裏に手を回した。

 韓遂の謀略の手を一つ一つ丁寧に潰し、反乱の芽を摘んでおいたのだ。



「くっそ……あばらが軋むし、右手も動かん」


 それでも何故か、笑えてくる。

 翠幻から、李傕の蜂起を聞いた瞬間に、俺は剣を握って外へ飛び出していた。


 李傕の動向や、その突飛な発想は誰も予想できないだろう。

 ただ、何を目的としているのかは分かる。


 王允を殺せば、長安の神経回路はズタズタ。

 董承を殺せば、軍は機能しなくなる。

 蔡邕を殺さずに捕らえれば、人心を握れる。


「王允が、死んだ……次は、間違いなく蔡邕だ。たぶん、董承にそれほどの価値は無い」


 俺は道を急ぎ、手近な衛兵を捕まえて、皇族の持つ剣で脅しつけた。

 衛兵は顔を真っ青にして怯えている。


「蔡邕の屋敷に俺を入れろ。誰にも気づかれずにだ」


 額を地面にこすりつけながら、男は何度も頷いた。





「よいか、琰。奥から決して出てくるでない。儂に何があろうと、決してだ」


「しかし……」


「数千の守衛があり、それに敵は、儂の命の価値を分からん馬鹿でもあるまい」


 蔡邕は優しく笑い、書庫の入り口付近で、外の喧騒を聞いていた。

 あまりの急変に思考は追い付かず、蔡文姫も急ぎ、書庫の奥へと隠れた。


 曲がり角の奥、ここならパッとは目につかない。

 小さく体を丸め、服の端を握る。


 これほど、命の危険を間近に感じた事など、今までに一度もない。

 劉協に、共に戦いたいと言いながら、恐怖で体の震えが止まらない。


 あの、幼少の馬鹿は、こんな場所で戦っていたのか。傷ついていたのか。


 今すぐに会いたいと、願ってしまう。

 何をしているのだろうか。ちゃんと、守ってくれる人は居るのだろうか。



(──おい、おい!)



 そう、こんな声だった。

 恐怖のあまり幻聴まで聞こえてきた。


 落ち着いて深呼吸を一つ、二つ。


(話を聞け! チビ! 胸無し! すっとんとん!)


 幻聴のくせに、腹が立ってきた。

 眉をしかめて思わず目を開くと、そこには、会いたいとひたすら願っていた馬鹿の姿があった。


 あっ、と声を出す前に、おもむろに口を塞がれる。


(騒ぐな、落ち着け。話を聞け、良いな?)


 まだ苛立ちが収まらず、思わずその手に噛みつく。


(バッ……えー、なんで? 痛い……)


(何をしてるんですかっ!? 馬鹿じゃないの!? どうしてここにっ)


(良いから、話はあとだ。今からきっと、李傕が直接踏み込んでくる。この混乱はあいつを殺さないと収まらん。だから、俺が殺す)


(その怪我で……こんな時に、ふざけないでっ)


(いつだって俺は本気だ。それに、嫁のピンチに駆けつけたんだ、喜んでくれよ。あ、そうだ、お前にこれを預けよう)


 手渡されたのは、一本の弓矢だった。

 矢の付け根付近が錆びついている、不思議な矢であった。


(生憎、弓も、弩も無いが、これは「武田のゆる矢じり」を、いや、何でもない。とにかく、自分の身はこれで守れ)


 まるで悪戯でも思いついたかのように、無邪気にほほ笑む劉協。

 いつの間にか、蔡文姫の恐怖心も、どこかへ消えてしまっていた。




 それから、どれだけの間、隠れていただろうか。

 喧騒が耳を貫き、毅然とした父の声が聞こえる。


 何を話しているのかは分からない。


 すると、何かが派手に崩壊した。地面や空気までが震えた。

 矢を、強く握る。すると、不思議と力が湧いてくるのだ。



『──もういっちょおおおおおおおおおおぉぉお!!』



 雰囲気をぶち壊す様な、嬉々とした雄叫び。

 金属同士がぶつかり、弾かれる。


 蔡文姫は思わず立ち上がり、陰からそれを覗く。


 折れている右腕をだらんと下げる劉協と、左腕をぶら下げる軍人が一人、剣を構えて向かい合う。


(初撃が、防がれたんだ……だとすれば)


 血の気が引く。ひたすらに祈った。

 どうか、あの人を助けて下さい、と。


 最初の奇襲を受けられてしまえば、体躯も劣り、満身創痍の体では、とても。


(なのに、どうして)


 そんな絶体絶命の最中、あの人は、笑っていられるのだろうか。



 劉協と、李傕は同時に地を蹴って、剣を克ち合わせる。

 二人とも乱雑とした足元の中、舞うように剣を振るって、肉薄する。


 どこか、一瞬、美しいと、そう感じてしまうほどに。


 しかし、劉協は元々が右利きである。

 力の込められない斬撃は、李傕のそれを受け流すだけで精一杯である。

 どうにか隙を見つけようとしているが、李傕の剣舞には、微塵も隙が無い。


 息を荒くし、汗を流しながら、また、劉協は笑う。


 剣を投げつける。

 李傕はそれに驚きつつも、弾き、躱した。


 視界の下。

 その小さな体躯を活かし、劉協は李傕の体を押し倒した。


 ゴロゴロと転がり、李傕の持つ剣を、奪い合う。


 劉協が上だ。

 そのまま、奪ってしまえば。


 しかし、すぐにその優勢は覆され、李傕は劉協と体を入れ替え、剣をその首元に当てる。



 刹那、蔡文姫の体は飛び出していた。


 矢を李傕の右肩に、突進をかますように突き刺す。

 付け根が脆く、ポキリと折れ、矢じりは李傕の肉に深く突き刺さった。


「ハァ、ハァ……殿下、ご無事でっ!?」


「逃げろ! 蔡文姫!!」


 後ろを振り向くと、李傕が立っていた。

 剣は遠くに転がっている。突進を受けた際に、手放したらしい。


「このガキが……弱者のくせによぉ!!」


 長い黒髪が掴まれ、頭が引き上げられる。

 そして、首を握られた。息が出来ず、視界がチカチカと点滅する。


「一旦、退却するぞ。蔡邕を連行しろ、このガキは、衆目の前で、殺す」


 劉協を蹴飛ばし、李傕らは書庫を後にする。

 連れられる中、数人の兵士が、槍を持って劉協へ駆け寄るのが見えた。



「助かったよ、むしろな。あのまま掴み合ってたら、どれだけ時間を無駄にしたか。お前のその勇気が、皆を殺した」


「っ……」


「悔やむな、どうせお前も死ぬ。それに、戦争ではよくあることだ。仕方ないと諦めろ」


 涙が溢れて、止まらない。

 腕を殴り、腹を蹴る。しかし、非力な少女の抵抗は、李傕に通じない。


 ただ、その瞬間、李傕は眉をしかめて、蔡文姫の体を落とした。

 矢じりの食い込んだ肩が痛み、熱を持っている。力が、上手く入らない。


 麻痺毒かと思ったが、全身には回っていないし、何より傷みが激しい。



「これは」


「付け根を緩くして、肉から抜けないようにする最悪の弓矢さ。錆びついてるから、雑菌も多い。死にはしないが、その肩は壊死するぞ」


「なっ……何故、生きて」


 剣を持ち、血に濡れる少年は、無邪気に笑う。


「曹操や呂布に比べれば、あの程度。お前も所詮、弱者の一人だった。俺には敵わない。それに──」




「──蔡文姫を泣かすなよ。それは俺の物だ」




 李傕は背を向けて逃げ出すが、劉協はしなやかに飛び掛かり、その心臓を背後から貫いた。




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