72話
俺と、賈詡の想定した以上の事が起きている。
まさか、李傕が直々に蜂起するとは思わなかった。
長安内部の各地で涼州兵を蜂起させ、その兵士らから李傕と郭汜が奉戴される。
そうやって流れを作ると考えていたからだ。
恐らく、韓遂の想定していた構図もそうだろう。
だからこそ先手を打ち、賈詡に汚鼠を預けて、裏に手を回した。
韓遂の謀略の手を一つ一つ丁寧に潰し、反乱の芽を摘んでおいたのだ。
「くっそ……あばらが軋むし、右手も動かん」
それでも何故か、笑えてくる。
翠幻から、李傕の蜂起を聞いた瞬間に、俺は剣を握って外へ飛び出していた。
李傕の動向や、その突飛な発想は誰も予想できないだろう。
ただ、何を目的としているのかは分かる。
王允を殺せば、長安の神経回路はズタズタ。
董承を殺せば、軍は機能しなくなる。
蔡邕を殺さずに捕らえれば、人心を握れる。
「王允が、死んだ……次は、間違いなく蔡邕だ。たぶん、董承にそれほどの価値は無い」
俺は道を急ぎ、手近な衛兵を捕まえて、皇族の持つ剣で脅しつけた。
衛兵は顔を真っ青にして怯えている。
「蔡邕の屋敷に俺を入れろ。誰にも気づかれずにだ」
額を地面にこすりつけながら、男は何度も頷いた。
☆
「よいか、琰。奥から決して出てくるでない。儂に何があろうと、決してだ」
「しかし……」
「数千の守衛があり、それに敵は、儂の命の価値を分からん馬鹿でもあるまい」
蔡邕は優しく笑い、書庫の入り口付近で、外の喧騒を聞いていた。
あまりの急変に思考は追い付かず、蔡文姫も急ぎ、書庫の奥へと隠れた。
曲がり角の奥、ここならパッとは目につかない。
小さく体を丸め、服の端を握る。
これほど、命の危険を間近に感じた事など、今までに一度もない。
劉協に、共に戦いたいと言いながら、恐怖で体の震えが止まらない。
あの、幼少の馬鹿は、こんな場所で戦っていたのか。傷ついていたのか。
今すぐに会いたいと、願ってしまう。
何をしているのだろうか。ちゃんと、守ってくれる人は居るのだろうか。
(──おい、おい!)
そう、こんな声だった。
恐怖のあまり幻聴まで聞こえてきた。
落ち着いて深呼吸を一つ、二つ。
(話を聞け! チビ! 胸無し! すっとんとん!)
幻聴のくせに、腹が立ってきた。
眉をしかめて思わず目を開くと、そこには、会いたいとひたすら願っていた馬鹿の姿があった。
あっ、と声を出す前に、おもむろに口を塞がれる。
(騒ぐな、落ち着け。話を聞け、良いな?)
まだ苛立ちが収まらず、思わずその手に噛みつく。
(バッ……えー、なんで? 痛い……)
(何をしてるんですかっ!? 馬鹿じゃないの!? どうしてここにっ)
(良いから、話はあとだ。今からきっと、李傕が直接踏み込んでくる。この混乱はあいつを殺さないと収まらん。だから、俺が殺す)
(その怪我で……こんな時に、ふざけないでっ)
(いつだって俺は本気だ。それに、嫁のピンチに駆けつけたんだ、喜んでくれよ。あ、そうだ、お前にこれを預けよう)
手渡されたのは、一本の弓矢だった。
矢の付け根付近が錆びついている、不思議な矢であった。
(生憎、弓も、弩も無いが、これは「武田のゆる矢じり」を、いや、何でもない。とにかく、自分の身はこれで守れ)
まるで悪戯でも思いついたかのように、無邪気にほほ笑む劉協。
いつの間にか、蔡文姫の恐怖心も、どこかへ消えてしまっていた。
それから、どれだけの間、隠れていただろうか。
喧騒が耳を貫き、毅然とした父の声が聞こえる。
何を話しているのかは分からない。
すると、何かが派手に崩壊した。地面や空気までが震えた。
矢を、強く握る。すると、不思議と力が湧いてくるのだ。
『──もういっちょおおおおおおおおおおぉぉお!!』
雰囲気をぶち壊す様な、嬉々とした雄叫び。
金属同士がぶつかり、弾かれる。
蔡文姫は思わず立ち上がり、陰からそれを覗く。
折れている右腕をだらんと下げる劉協と、左腕をぶら下げる軍人が一人、剣を構えて向かい合う。
(初撃が、防がれたんだ……だとすれば)
血の気が引く。ひたすらに祈った。
どうか、あの人を助けて下さい、と。
最初の奇襲を受けられてしまえば、体躯も劣り、満身創痍の体では、とても。
(なのに、どうして)
そんな絶体絶命の最中、あの人は、笑っていられるのだろうか。
劉協と、李傕は同時に地を蹴って、剣を克ち合わせる。
二人とも乱雑とした足元の中、舞うように剣を振るって、肉薄する。
どこか、一瞬、美しいと、そう感じてしまうほどに。
しかし、劉協は元々が右利きである。
力の込められない斬撃は、李傕のそれを受け流すだけで精一杯である。
どうにか隙を見つけようとしているが、李傕の剣舞には、微塵も隙が無い。
息を荒くし、汗を流しながら、また、劉協は笑う。
剣を投げつける。
李傕はそれに驚きつつも、弾き、躱した。
視界の下。
その小さな体躯を活かし、劉協は李傕の体を押し倒した。
ゴロゴロと転がり、李傕の持つ剣を、奪い合う。
劉協が上だ。
そのまま、奪ってしまえば。
しかし、すぐにその優勢は覆され、李傕は劉協と体を入れ替え、剣をその首元に当てる。
刹那、蔡文姫の体は飛び出していた。
矢を李傕の右肩に、突進をかますように突き刺す。
付け根が脆く、ポキリと折れ、矢じりは李傕の肉に深く突き刺さった。
「ハァ、ハァ……殿下、ご無事でっ!?」
「逃げろ! 蔡文姫!!」
後ろを振り向くと、李傕が立っていた。
剣は遠くに転がっている。突進を受けた際に、手放したらしい。
「このガキが……弱者のくせによぉ!!」
長い黒髪が掴まれ、頭が引き上げられる。
そして、首を握られた。息が出来ず、視界がチカチカと点滅する。
「一旦、退却するぞ。蔡邕を連行しろ、このガキは、衆目の前で、殺す」
劉協を蹴飛ばし、李傕らは書庫を後にする。
連れられる中、数人の兵士が、槍を持って劉協へ駆け寄るのが見えた。
「助かったよ、むしろな。あのまま掴み合ってたら、どれだけ時間を無駄にしたか。お前のその勇気が、皆を殺した」
「っ……」
「悔やむな、どうせお前も死ぬ。それに、戦争ではよくあることだ。仕方ないと諦めろ」
涙が溢れて、止まらない。
腕を殴り、腹を蹴る。しかし、非力な少女の抵抗は、李傕に通じない。
ただ、その瞬間、李傕は眉をしかめて、蔡文姫の体を落とした。
矢じりの食い込んだ肩が痛み、熱を持っている。力が、上手く入らない。
麻痺毒かと思ったが、全身には回っていないし、何より傷みが激しい。
「これは」
「付け根を緩くして、肉から抜けないようにする最悪の弓矢さ。錆びついてるから、雑菌も多い。死にはしないが、その肩は壊死するぞ」
「なっ……何故、生きて」
剣を持ち、血に濡れる少年は、無邪気に笑う。
「曹操や呂布に比べれば、あの程度。お前も所詮、弱者の一人だった。俺には敵わない。それに──」
「──蔡文姫を泣かすなよ。それは俺の物だ」
李傕は背を向けて逃げ出すが、劉協はしなやかに飛び掛かり、その心臓を背後から貫いた。