71話
「急ぎ、近衛兵のみの部隊を、三千だ! 王允殿の屋敷へ急行し、李傕を捕らえる! 一万は宮殿を守護し、陛下をお守りしろ!」
董承は血相を変えて指示を飛ばす。
部隊の中に、涼州兵は含められない。いつ反旗を翻すとも分からないからだ。
略奪の味を占めた兵である。李傕の号令に、短絡的に従うこともあり得る。
「李傕の兵は」
「旗下の二百騎のみ! しかし乱に乗じて、涼州兵の一部が李傕についてもおかしくありません」
「まずは李傕だ、各所の反乱兵は後で良い。楊奉将軍は居るか!?」
「ここに」
「お前に一万の近衛兵を預ける。宮殿を警護しろ。それと、決してこのことを殿下に漏らすな」
「それは、何故」
「何をしでかすか分からんが、一番危険なところに飛び込もうとなされる。お前はそれを阻止せよ」
「御意」
重厚な武具を揃え、董承は槍を持つ。
「董承将軍。李傕は、将軍の首を狙っております。お気を付けを」
「誰よりも厳しい戦で生き抜いてきた。李傕如きに、この首が奪えるものか」
董承は指示を飛ばし、颯爽と駆けていった。
それを見届けると、楊奉は直ちに宮殿へと駆ける。
「殿下っ」
寝室へ入る。
しかし、誰も居ない。
楊奉は血の気が引くのを感じる。
慌てて、部屋の外の衛兵を掴み上げた。
「殿下は、殿下はどこへ行かれた!?」
「な……し、知りませぬ。今、この場に殿下が居られないのが、不思議でなりませんっ」
嘘はついていないようだ。だとすれば、どこへ。
いつも劉協が持ち歩いている剣も見当たらない。
ただ、竹で組まれた窓枠が一部、壊されていた。
子供一人が通り抜けられるほどの大きさで外されている。
「お前はすぐに、荀攸様の指示を仰ぎ、宮殿の警護を固めよ。陛下をお守りするのだ」
「将軍は」
「殿下を追う!」
あの怪我だ、さほど遠くには行っていないだろう。
じゃあ、どこへ行った。
馬を寄せて、考える。
一番、危険が及びそうな場所は。
「──あそこしか、ない」
楊奉はたった一騎のみで、馬を全力で駆けさせた。
☆
「李傕様、その、これから如何なさるおつもりで? せっかく招集した兵馬も、今頃、董承に討ち果たされて……」
「何が言いたい」
「僅か数百騎のみでの蜂起は、勝算が」
「良いから黙って従え。今度口を開けば、殺すぞ」
「ぎ、御意」
現在、李傕に付き従うのは、精鋭の数十騎。
董承との戦線からいち早く離脱していた。
この蜂起の目的は、朝廷の実権を握ることにあった。
長安の内側では李傕、徐栄軍では郭汜、それぞれの蜂起に合わせて、韓遂率いる涼州軍が長安へ圧力をかける。
韓遂は郿城までの涼州方面の実権を掌握し、李傕と郭汜で朝廷を牛耳る。
これで再び、董卓の秩序を復活させることが出来る。
勝算はあった。
必要なのは、王允の首と、そして、蔡邕の身柄。
この二つさえ確保できれば、長安を掌握出来たも同然である。
王允を殺せば、この長安全体の機能は、ほとんどが麻痺してしまう。
彼は、それ程の逸材であったし、混乱続く朝廷を治めるには、そうする他ないのが現実だった。
そして、蔡邕の身柄。
今の朝廷の顔役ともいえる存在は、間違いなく蔡邕である。
彼を慕う文武百官は多く、そんな蔡邕さえ抑えてしまえば、迂闊に手は出せない。
例え無理に攻め込んできたとしても、各所に反乱の種は撒いているのだ。
李傕の指示一つで、火の手があちこちから上がる。後は、韓遂が徐栄軍を打ち破るのを待つだけで良い。
つまり、戦う前から、この勝負は終わっているのだ。
「蹴散らせ」
李傕は剣を掲げる。
向かってくるのは、恐らく蔡邕の屋敷の守備兵達だ。
ただ、この急変に対応できておらず、混乱の最中の弱兵達は、容易く騎馬兵に食い破られる。
屋敷に到達したのも、あっという間であった。
馬から降りて、塀を越え、屋敷に斬り込む。
数多の守備兵が殺到するも、李傕は鮮やかに、躱し、踏み込み、断ち斬る。
剣舞でも踊るかの様な鮮やかさで、誰もそれを止められない。
「将軍、蔡邕を確認しました。地下の書庫です」
「分かった」
李傕に付き従うのは十人ばかりの兵士。
しかしこの数は、時が経てば増える兵数だ。
「ここに居たか、蔡邕」
「これはどういうことだ、李傕将軍。ただでは済まんぞ」
「もう、王允は殺した。既に、動き出しているのだ。後には戻れない」
「貴様……なんということを」
顔を青くしながらも、蔡邕は毅然と胸を張っていた。
何とみすぼらしい虚勢だろうか。老いた体躯に、小さな体。
命乞いでもしていた方が、まだ見ていられる。
「ん?」
書庫の奥に、まだ、気配を感じる。
そういえばこの屋敷で、まだ見ていない者がいる。
「娘はどうした」
李傕がそう言うと、蔡邕は分かりやすく動揺した。
なるほど、そういうことか。
「書庫の奥、あそこだ。人の気配がする、殺せ」
「なっ、止めろ! 儂の命が狙いなのであろうが!?」
「いや、あんたは殺さずに利用する。だが、それ以外は不要だ」
掴みかかる蔡邕を蹴飛ばし、兵を一人走らせる。
「止めろ! 止めてくれ!」
蔡邕は叫ぶが、兵の歩みは止まらない。
書庫の奥へ行き、叫び声が上がる間もなく、血飛沫が上がる。
「さて、蔡邕を縛れ。手足を落としても良い、抵抗させるな」
兵に、そう命じた瞬間だった。
ゴトンと、音を立て、書庫の奥から男が一人倒れる。
李傕の兵であった。喉を裂かれ、頭が割れていた。
血だまりが、床に広がる。
「何故だ……」
突如として、李傕の左の書棚が崩れ落ちる。
剣を抜き、咄嗟に書棚ごと斬り飛ばした。
「もういっちょおおおおおおおおおおぉぉお!!」
小さな体が、斬られた棚の後方から飛び上がり、李傕に剣を振り下ろす。
書棚を斬った剣で反応は出来ない。
左手を前に出し、籠手で何とか刃を防ぎ、跳ねのけた。
「っ……あー、くっそ、惜しかったな」
「で、殿下!?」
真っ先に驚いたのは、蔡邕であった。
誰も予想だにしていない登場に、周囲の兵にまで動揺が走る。
「これは、お前の負けだよ、李傕」
「殺す人間が増えただけだ」
劉協は笑い、李傕は笑わない。
互いに片腕を地にぶら下げ、向かい合う。
「嫁のピンチだ。駆けつけないと、後で何て言われるか分からねぇからな」
「なるほど、噂どおりの狂人だ」
そして、同時に地を蹴り上げた。