69話
闇夜に潜み、兵も馬も皆、口に板を噛ませていた。
静かな行軍。
遠くの陣は、煌々と篝火を焚いている。
「このまま、敵の左翼を掻き乱す。火の手があがったのを見て、全軍が攻撃を開始する。俺らはその際、韓遂を決して逃さないように動くのだ」
「御意」
徐栄の簡潔な指示に、郭汜は静かに頷く。
騎馬兵も含めた兵が三千。皆、軍中の精鋭達である。
噛んでいた板を捨てる。
馬が息を荒げ、殺気が満ちる。
「突撃!」
徐栄の掛け声と共に、兵馬が一斉に敵陣に突っ込んだ。
思ってもいない急襲に混乱する敵陣。
敵兵を討ち、火を放つ。それは、一方的な蹂躙であった。
予定通りだ。
兵が方々を駆け巡るのを見て、徐栄は一つ頷く。
「……郭汜はどこだ?」
そういえば、騎兵を自在に操るあの猛将の姿がない。
それ程遠くにまで攻め込んでいるのであろうかと、首を傾げていた時であった。
後方で上がる喚声、断末魔。
飛び散る血飛沫が業火に照らされ、怪しく光る。
「ほ、報告!!」
「どうした。郭汜はどこだ」
「そ、その郭汜将軍が、反旗を翻しました! 軍の後方が郭汜将軍の兵に襲われております!」
「なんだと……」
突如、四方から銅鑼が鳴り、敵兵の雄たけびが戦場に響く。
徐栄は、その槍を握る手に、嫌な汗が滲むのを感じた。
☆
ちょっとひとつ、新しい変化がありました。
今までは董承や賈詡が俺の身辺警護をしてくれてたんだけど、いや、あれは監視か。まぁいい。
董承も賈詡も地位が上がったし、俺もなんか名声が高いらしいから、新たに身辺警護の兵を付ける必要があると。
まぁ、怪我とかあるし、確かに必要だ。
そんなこんなで荀攸から推薦されたのが、董卓討伐の一連の戦で、俺にいつも付き従っていた騎兵の部隊長であった。
聞いて驚いたんだが、なんとあの男、名を「楊奉」という。
洛陽や長安近郊に居た賊軍の一人だと聞いていたが、そんなもんじゃない。大物だ。
元々、黄巾賊であった賊軍の残党が、并州の白波谷に拠ったことで、その後からは「白波賊」と呼ばれるようになった。
朝廷に背き続け、異民族と共に各地を荒らしまわるなど、散々暴れまわってきた者達だ。
この「陽奉」は、そんな白波賊の頭目の一人である。陽奉→楊奉
まさか捕らえられていたとは知らなんだ。
史実では、初めは李傕の配下であったが、後に献帝に付き従い、李傕や郭汜と戦っている。
曹操も「陽奉の軍は精強であった」と明言するほどの武将であった。
なんでもこの陽奉旗下の賊軍は、朝廷に背く行動はあまり取っていなかったらしい。
黄巾党の教えを守り、強きを挫き、貧しい民に施しを行うなど、義賊的な行為を主に繰り返していたとか。
「俺は、その黄巾党を叩き潰した皇帝の子だが、憎くはないのか?」
「私達は、教祖である天公将軍(張角のこと)に忠誠を誓っていたわけではなく、あくまで教えを信仰しておりました。そして、宗教自体が武器を持つべきでもないとも、思っておりました。間違えたのは、天公将軍です。殿下に何の恨みがありましょうか」
「なら、良い。戦での働きを見て、お前を俺の警護を担う将へ任じたい。引き受けてくれるか?」
「わ、私に、ですか?」
「不満か?」
「い、いえ、あまりの大任にただただ驚くばかり。なにぶん、私は農民の出自です。家柄も低ければ、学も浅い。殿下の御威光を損ねないかと、心配になるのです」
「出自ではなく、働きを見る。そしてお前を相応しいと思った」
「身命を賭して、殿下をお守りいたします」
「よし。それと、お前の旗下の兵が居るなら、長安へ呼んでも構わない。お前の直属の兵として働いてもらおう」
「よろしいのですかっ!?」
陽奉は顔を上げた、喜色を露わにした。
いやしかし、これは俺からしてもすごく頼もしい話なのだ。
この陽奉の配下には、あの名将「徐晃」が居る。
ぜひとも、抑えておきたい人物。
兵法に長け、堅実な戦を行い、ただの一度も敗北したことのない名将。
手にしない理由は無い。
「優れた兵は、多い方が良い」
「ありがとうございます」
跳ねるように、陽奉は部屋を出ていった。
苦い顔をしているのは、同時に面会に訪れていた蔡邕であった。
「あのですなぁ、殿下……」
「あーもー、分かってるって」
「ただでさえ財政は逼迫しているのです。むやみに兵を増やさないでいただきたい」
「婆さんの……亡き、董太皇太后様の財宝が山と保管してある。それに、郿城を守り抜けば、あそこに貯まっている財宝や兵糧も手に入る。それを自由にせよ」
「言われなくとも、そのようにいたします。陛下も人がよろしすぎる。今の時期に戦などあり得ぬのに、それを許可なされた。王允殿に叱られながら、陛下も昼夜、職務に追われておりますぞ」
「んなこと言われても、俺はどうしようもない。怪我してるもん」
「だからこそこうして、嫌みを言いに来たのです」
うーん、この父にして、あの娘あり、ってところか。
耳が痛いぜこのやろう。
「それで、戦場はどうなっているか、聞いてないか?」
「うーむ、詳しくはまだ。ただ、対陣をして睨み合っているとか」
「えー……何やってんの、賈詡は」
「ともかく、今は戦ではなく、御身の事を心配なされよ」
「はいはい」
「琰よ、殿下を頼んだぞ」
「お任せください」
この子のせいで怪我が増えました、なんてとても言えない。