67話
長安周辺の地図を広げ、荀攸、董承、賈詡は腕を組んでいた。
内部はかろうじて落ち着き、均衡を保っている。
しかし、外部の諸勢力との関係は難しい。群雄割拠の時代だ。
皇帝の威に服する諸侯は少なく、一大勢力を誇る袁紹、袁術はこちらをまるで無視しているといっていい。
袁紹に至っては、散々、董卓の威に染まった皇帝など正統とは言えないと、喧伝し回っている有様である。
劉協から劉弁へ皇位を移したのは、この袁紹を牽制する狙いもあった。
この一件によって確かに袁紹の声は収まったが、僅かばかりの貢物を差し出すだけに留まっている。
変わらず、幽州牧の劉虞を正当な漢室の後継と見ているようだ。
ただ、それよりも、今の朝廷には差し迫っている問題があった。
郿城、である。
董卓の築いた要害堅固の城塞。
長安の頼もしい支城であり、喉元に突きつけられたナイフと同様の立地。
戦略上、ここを手放す事は出来なかった。
とはいえ、董卓打倒の際、韓遂にはここを引き渡すと密約を交わしてしまっている。
「現在、朝廷が実質的に支配できているのは長安から洛陽にかけての一帯。とはいえ洛陽は廃墟同然であり、防衛可能なのは長安周辺のみ」
荀攸は地図に指を置いて、長安の周辺をなぞる。
中華全体で見れば、限りなく小さな土地であった。
「董卓の支配していた、涼州、并州を収めたいが、涼州は豪族の力が強く、并州には袁紹の手が既に伸びている。駐屯していた李粛も、既に并州を去ったという」
「群雄の庇護下に入る、それが、この漢王朝を守る有効な手段でしょう」
「袁紹か? 袁術か? 庇護下に入った途端、王朝は終わりだ」
「しかし、多くの人命は助かります。無用な血が流れない」
賈詡と荀攸はこうして、度々言い争いになる事が多かった。
荀攸からすれば、賈詡は劉協に信任されているだけで、実績も何もない男である。
実際に苦しみ、戦い抜き、命を賭けたという自負が、荀攸にはあった。
賈詡の方も、生来の性格なのか、他人の感情を無視して、冷酷なまでに現実を語る事がある。
それに、多くを語らないというのも彼の特徴であった。
大事なのは使命でも忠誠でもなく、自身の命。誤解や、言葉尻を捉えられることを嫌った結果であろう。
いつもそこで、仲裁に入るのは董承である。
「待つのだ、二人とも。今は全体の戦略でなく、郿城だ。この城を約束道りに韓遂へ渡すのか、それとも、反故にして涼州豪族と一戦を交えるのか」
「郿城を渡す。そう、私と殿下は苦肉の策として、止む無く密約を交わしました。されどここを渡せば、いよいよ長安から外には出られません。ここは、答えを先延ばし、力を蓄えるが良い」
「私としては、独力で勢力を保つのは不可能かと。現に、袁兄弟が中華を二分する体制となっており、彼らは漢王朝に否定的です。一旦、郿城を渡し、外交にて盟約を結ぶ諸侯を選んだ方が良い」
「荀攸殿は引き渡しを避け、戦力の増強の後、軍事力で涼州を抑え込む。賈詡殿は引き渡した後に、外交にて頼れる諸侯と盟を結び、周囲に抗していくべきと。なるほど」
董承は腕を組み、唸る。
どちらの策も、実現は厳しいものだろう。
前者はあくまで涼州にばかり目を向けて、諸侯に対する思考が疎かになっている。
しかし、成功すれば見返りは大きい。
袁紹や袁術がすぐに動くとは考えにくい情勢であるのは間違いないが、危うい綱渡りであった。
後者は、これ以上にないほど現実的な案である。しかし、飛躍は無く、逼塞は避けられない。
それでも、外交次第では諸侯と盟を結ぶことは可能なのだ。
袁紹もこちらに難しい態度をとっているが、頼みの劉虞が擁立を拒み続けている。
劉虞が結局折れなければ、漢王朝に敵対出来ない。外交で付け込む隙は大きいと言えた。
「こればかりは、どうにもならんな」
軍事を担う董承であるが、戦略的視点は皆無であり、自分もそれを良く分かっていた。
皇帝である劉弁に決断を委ねたいところだが、劉弁は文官の資質が大きい。
これは、軍事の話である。
文官が出す答えは決まって、軍費が少なく済む戦略ばかり。
治世であればそれで良い。
しかし、乱世である。
「皇太子殿下に、聞く他あるまい。されど、面会が出来ん」
「……実に不甲斐ないですが、結論は急がねば。密偵を、こちらから出しておきます」
荀攸は頭を抱え、大きく溜息を吐いた。
結局、この絶望を切り開いたのは、あの幼少の狂人であるのだ。
☆
「俺が出る」
「……いや、それは」
「お前までそんな苦い顔すんなよ、翠幻。半分は冗談だって」
「もう半分は本気なのですね」
俺が寝付いたと思い、蔡文姫も居なくなった夜の事。
闇の中から、翠幻の声がした。
うーん、どうも軍師二人が上手く行ってないらしい。
これを良くまとめてたってんだから、曹操ってやっぱスゲーよな。
「それぞれの得意分野の違いかな。賈詡は人の心の機微を読むのに長けている。それこそ複雑な外交や謀略は、朝飯前だろう。対して荀攸は、戦略眼や兵法が卓越している。戦までの道筋を描くことに関しては、比類ない人材だ」
「如何なさいますか」
「涼州や、韓遂の動きは?」
「現在、兵を集めており、総勢は四万に上りましょう。しきりに郿城の引き渡しに関する催促も来ており、間もなく軍を発たせるものと」
「引き渡しというより、奪いに来てるな。対して長安の総兵力は八万。しかし、軍の編成が済んでないし、これじゃあ戦なんて出来ない。元々が、董卓の兵士だ。従うかどうかも怪しい」
「不満を燻らせている将兵も多いです。やはり、略奪の禁止が響いているのかと」
「ふむ……」
荀攸の策を取るか、賈詡の策を取るか。
ふむふむ、なるほど。よし!
「攻める!」
「え」
闇の中から、素っ頓狂な声が聞こえたな。
そんなに変なこと言った? 俺。
「だって、ここまで来たんだ。一度でも立ち止まったら勢いが止まる。負け色が濃いなんて今に始まったことじゃない。何か勘違いしてるかもしれんが、董卓が死んだってのはこういう事だろ? 今度は自分達で立ち上がらないと」
「で、では、どのようにお伝えすれば……」
「徐栄に五万を与える。副将を張済、軍師は賈詡。編成は任せる。即刻、反逆罪で韓遂を討て。アレは生きてる限り一生俺らを悩ますからな、必ず討ち取れ。以上」
「御意」
「ま、賈詡には一度、死にそうな思いで戦ってもらおう。今まで中立を保っていた償いをさせないと、納得いかんだろうて」
それに、韓遂の様な食わせ物には、賈詡を当てるのが一番いいだろう。
そんなことを考えながら、ふわと、大きな欠伸を一つかました。