65話
あのようになってしまった劉協は、誰にも止められない。
董承と蔡邕はそれを知っていたし、王允はまざまざと見せつけられた。
ただ、誰もが思っていた。
劉協は確かに、皇帝には向かないと。
我の強過ぎる英雄が頂点に立つと、その国は早晩に滅びるのだ。
革新的な政策や、王の行動に耐えられず。
殷の紂王などがそうだろう。
妲己という美女に溺れ、酒池肉林で暴政の限りを尽くしたとされる、あの王だ。
元々、紂王は非常に優秀で英邁な頭脳の持ち主であり、弁論も爽やか、体格も極めて逞しかった。
従来言われている暴君とは異なり、名君の素質を大いに持っていたという。
しかし、紂王は自らを頼む所大きく、周囲の諫言をあまり聞く事がなかった。
その結果、革新に耐えられない各地の王などが反旗を翻し、殷を亡ぼしたと言われる。
秦の始皇帝もまた、その部類に入るだろう。
そんな中、今、最も忙しくなったのは、蔡邕だった。
儀礼や道理に関する一切を取り仕切る蔡邕は、関係各所に皇位の返上の手配を進め、その小さな体を奔走させていた。
いくらか痩せたそんな重臣は、大きく溜息を吐き、今回の軍議に顔を出す。
軍議では主に、董承と荀攸が話を進め、王允、蔡邕、そして徐栄が同席していた。
「やはり私は、張済の軍の受け入れは反対だ。誰があれを御すのだ、内部から喰い殺されるぞ」
苦り切った顔で、王允はそう言った。
彼の軍人嫌いは有名なところであり、なかでも涼州軍閥を最も嫌っていた。
血の気が多く、略奪の限りを尽くす蛮族の集団。
話も道理も通じる相手ではない。
その最たる部隊が今、降伏を申し出ている。
王允としてはあまり気が乗らない話であった。
「しかし、陛下が董卓を国葬にしたその真意は、この張済の軍に叛意を抱かせない為です。今、まだ軍のまとまりがない長安では、退路の無い彼らを迎え撃つことは極めて困難です」
「王允殿。彼らは牛輔の首と、捕虜としている朱儁将軍の解放まで、条件として差し出している。無下には出来ますまい」
荀攸と董承は、揃って王允の意見に異を唱える。
軍略に関する事を彼ら二人に委任すると劉協が命じた以上、王允も反論できそうになかった。
「では、これも良い機会です。劉弁殿下に皇位が戻った、その威に服した張済軍が降伏を願い出た。目に見える実績があれば、この皇位返上に異を唱える人間も減りましょう。気持ち程度は」
こうして会議の内容はまとまる。
ただ、徐栄は口を噤んだままで、一言も発言しようとはしない。
董卓を裏切った形で、新政権に加わった。
時勢に逆らえなかったとしても、根っからの軍人である徐栄には、何か思うところがあるのだろう。
最初から、忠誠という感情とは無縁の董承とは、タイプの異なりが目立つ将軍である。
とはいえこの政権下では第一の実力者でもある。
時が彼の感情を解きほぐすのを待つしかあるまいと、荀攸は見ていた。
☆
張済、李傕、郭汜、そして賈詡は揃って頭を地に付ける。
玉座に座るのは、再び皇位についた、劉弁である。
以前の様な、軍人の血の臭いに怯えていた弱き皇帝ではない。
常に、自分の死と向き合い、漢王朝の復興を願い続けた姿がそこにはあった。
多くの人間が命を落とし、血を流し、守り抜いた玉座。
地獄に落ちるならば、劉協ではなく自分であろう。
それでもなお、劉弁はその顔に悲しみを浮かべず、深く据えた眼差しで未来を見据えていた。
「降伏を許す。これよりは、朕に一層の忠誠を誓い、天下の平穏の為に尽くすが良い」
劉弁の近くに立つのは、王允と董承。
郭汜はギリリと歯を軋ませ、深々と何度も頭を地につけた。
「これより各人の任を言い渡す」
王允は書簡を広げ、胸を張り、高らかに宣言する。
「張済を、涼州刺史とする。よく民を抑え、賊を退けよ」
「ハッ」
「賈詡を中軍師とする。同じく中軍師である荀攸を、良く補佐し、戦略を担え」
「御意」
「李傕、郭汜を副将軍とする。率いていた兵団は一度解体し、才に応じて各部に振り分ける。貴殿らは徐栄、董承の補佐を行うように」
「……承知しました」
「沙汰は以上である。それぞれ、任に赴け」
宮廷を後にする郭汜の顔は、煮え滾るほどに赤く染まっていた。
隣を歩く李傕もまた、その目が血走っていることが分かる。
時世の流れとは言え、耐えがたい屈辱であった。
劉弁や王允などは手の平で怯えている雛鳥に過ぎず、董承などはついこの前までは奴隷の一人であった。
それが今やひっくり返り、自分達が頭を下げるようになっていた。
何よりも、王允の目が気に食わなかった。
自分達を犬か何かだとでも思っているんじゃないだろうかと、そういう目である。
「力こそが全てであった、以前の日々が恋しいな、李傕よ」
「……仕方あるまい。その力に、董卓様は、敗れたのだ」
「我らがいれば」
「言うな」
校尉から将へ昇格した。しかし、実権は以前より小さくなった。
自分達の手で育て上げた騎馬兵も全て取り上げられている。
降将の扱いとしては、好待遇だろう。
しかし、好きに戦い、好きに生きてきた彼らにとっては、耐えがたきものでもあった。
自分達は負けていないと、そういう思いもある。
「おぉ、その堂々たる立ち姿、どこぞの高名な武人と見た! ささ、どうぞ! 今日は良い酒が入りました!」
長安は賑わっていた。まるで、董卓の死を祝っているかのようである。
この雰囲気もまた、郭汜の気分を逆なでる。
ただ、酒は好きだ。
大きく溜息を吐き、その感じのいい店主の声に、二人は招かれた。
「良い酒か、どこの酒だ? 俺らが満足できねば金は払わんぞ?」
「へへっ、大丈夫でさぁ旦那方。西涼のさらに西で作られた酒さ。冬場でも、これを飲めば裸で外を走り回れるほどの逸品さ」
「ほぅ……どうやって手に入れたのだ。あの地域は異民族と、豪族らの土地だ。その酒が、ここまで出回るかね?」
店主は怪しく微笑み、二人に耳打ちをする。
「とある御方から、旦那方への、贈り物でさぁ……西涼の豪族を束ねる、ね」
咄嗟に郭汜は剣を抜こうとするも、李傕に押さえつけられる。
思い当たるのは、あの憎き食わせ者の顔。
董卓ですら手を焼いていたヤツだ。
「……落ち着け、郭汜。店主、案内してくれ」
「へへっ、毎度あり」
二人は鎧を揺らし、酒場の奥へと足を運んだ。