63話
僅か十歳ながら、その事績はあまりに偉大で、一部では狂信的な声望を集めつつあった。
特に、共に戦った、罪を許された数千の囚人達がそうだ。
自ら陣頭に立ち、剣を振るい、率先して血を流す幼帝の姿に、誰もが熱狂した。
未だかつて、こんな皇帝が世に居ただろうかと。まるで、彼らにとっては救世主である。
列侯になる事を拒んでまで、劉協と共に戦場を駆けたいという兵が多数存在したのも驚きであった。
「……董卓が居なくなった途端にこれでは」
荀攸は頭を悩ませていた。
十歳といえば、まだ政治的権限を持つことはできない。
今までは董卓がその後見役であったが、その董卓も死んだ。
これからは、王允、蔡邕、董承を中心として国政を見ていかなければならない。
しかし、董卓が死んだらすぐに、ここで争いが起きた。
王允は董卓に対して恨みが強すぎ、蔡邕は董卓に対する恨みが薄い。
董承に至っては、政治に関心がなく、董卓に対してもそれほど興味がない。
話がまとまる訳がなかった。
彼ら三人でまとまらなければ、再び国は乱れる。まだ天下は荒れているのだ。
そんな争いを鎮めたのも、また、劉協だった。
重症の治療を行いながら、僅かに目覚めた時間で、指示を出して、それを無理に押し通した。
董卓の国葬は、確かに軍事的な目で見れば最良と言える。
外にはまだ、牛輔が居た。彼の軍は最も精強で、残虐で、董卓に心酔した者達ばかり。
今は、彼らへの対処が第一である。
「浮かない顔ですね、荀攸殿」
「これは……弘農王殿下に、荀攸が拝謁いたします」
荀攸は今、弘農王、劉弁を訪ねていた。
現在、十八歳。元皇帝の身分である王だった。
劉協の切り裂くような雰囲気とは真逆の、温和で大らかな、重厚な雰囲気をまとっている。
これで十八歳かと、荀攸は驚いた。
まるで、数多の経験を積んできた壮年の男の様である。
「まずは荀攸殿にお礼を申し上げる。陛下を、いや、弟を救って頂き本当にありがとうございました」
「私はただ、懸命に付いて行っただけです。陛下は自分で、道を切り開かれました」
劉弁は何も言わず、静かに、一つ二つ頷いた。
この兄弟は、よく互いを理解しているのだ。それが何となく、理解出来た。
「それで、荀攸殿、今日はどのような御用件で? 私にできる事があれば何でもご協力いたします」
「今日は、一つ質問があり、直接伺わせていただきました。陛下はよく、戦場で死地に飛び込む際、殿下の名を挙げられます。そこで、もしやと思いまして」
「はい、何でしょう」
「陛下は、殿下に皇位を返還する考えをお持ちなのではないか、と」
「……その通りです。それが私たち兄弟の、交わした約束です。董卓に実権を奪われたあの日、共に誓い合いました。私は玉座を守り、協は戦う。そうやって、漢を再興しようと」
「陛下が頑なに自称を『朕』にされないのは、そのせいでしたか」
少しの沈黙。
荀攸は深く思案に耽り、劉弁は庭の様子を眺めながら茶をすする。
「殿下は、陛下が皇位を譲ると仰せの時、お受けになるつもりですか?」
「そういう約束でしたから。ただ、私の次の皇帝は弟です。私に子が生まれても、それは変えません。劉協が、皇太子です」
「ふむ、それは中々……難しい話です」
「どうされましたか?」
「いえ、殿下の器が不安だと申しているわけではありません。むしろ、陛下はあまりに我が強く、皇帝に向きません。しかし……陛下の功績が、あまりに大きい。神話的ですらある」
荀攸が心配していたのは、今の劉協の支持者である。
劉協が皇位を譲ると言い出したら、民や文武百官の多くが、黙っていないだろう。
実権を、自らの手で勝ち取った。劉協だからこそ勝ち取れた。
王允の暴走を一声で止めたことが、実権が今、劉協の手にある何よりの証拠である。
その事実が「劉」の血脈の覚醒を思わせた。
古の、劉邦、劉秀の再来だと。
そう言った熱狂的な世論がある以上、皇位の返上はあまりに危険である。
「しかし、それでも弟は、無理を押し通すでしょう」
「分かっています、そういう人です。だからこそ悩んでいるのです」
「あまり、難しく考えなくても結構ですよ」
劉弁は、静かに笑う。
思えばずっと、悩んでいるのは荀攸一人であった。
「批判をしたいならすればいい。しかしそれで折れる程、私の覚悟は半端ではありません。漢室の再興、兄弟で掲げたこの夢の為なら、私は全てを受け入れます。協を、信じます」
「……左様ですか。であれば、言う事は御座いません。日程や筋書きに関しては、私の方でご用意いたします」
「かたじけない」
劉協が戦っている間、この劉弁もまた、戦っていたのだ。
常に、この国に向き合っていたのだ。誰よりも長く、真剣に。
頼もしいではないか。
差し出された茶を味わいながら、荀攸はようやく、ほっと一息を吐いた。
☆
その報が届いたのは、深夜の事である。
老将である朱儁の軍を容易く蹴散らし、陳留へ攻め込まんとしていた矢先の出来事。
──董卓の死。
あまりの報告に、数日をかけて何度も確認させたが、間違いない情報であった。
そして間もなく、牛輔が狂った。
狂いながら闇夜に飛び出し、数刻後、森の中で野犬に喰い殺されているのが発見された。
今は暫定的に、副将である張済が軍を束ねていたが、良くも悪くも、軍人に過ぎない男である。
戦の指揮は上手いが、言われたこと以上の働きをする事は無く、自分で考えて行動するのも苦手だった。
つまり今、軍を動かしているのは、李傕、郭汜、そして賈詡の三人。
空気はあまりに重く、暗かった。
「何故だ、何故、董卓様が斯様な……」
悲痛な叫びを漏らし、地を掻き、殴りつけているのは郭汜である。
董卓の軍部で、最も董卓に心酔している軍人だった。
李傕の方は、生気をまるで失っていた。
その蛇の様な不気味な目は、虚空を彷徨っている。
「全ては、呂布だ。奴が、奴が憎い……四肢を落とし、その皮を寝床にしても飽き足りぬっ!」
すると幕舎に、賈詡が入ってきた。
相変わらずの無表情で、目の下の黒は深い。
「今しがた、張済将軍に軍の引継ぎと編成を指示してきました。とりあえず今晩は、大丈夫でしょう」
「おぉ、軍師殿! 貴方を待っていた!」
郭汜は慌てて立ち上がり、賈詡の手を取って、席へ促す。
その席次は賈詡が最上であり、下に李傕と郭汜が並ぶ。
「軍師殿、我らはこれよりどうすれば良い。どこへ向かえばいい。いっそのこと、李粛将軍の下へ向かうか、涼州へ帰る他ないのではないか?」
荒廃した、強きものが全てを奪う残酷な土地。涼州。
董卓という傑物が現れてからは、その弱肉強食の世界に秩序が築かれたが、今はその秩序すらない。
「いえ、どちらもお勧めしません。帰るにしても兵は飢えて散り散りになり、涼州までは戻れません。そして李粛将軍は、呂布の親友です。果たして、我々を受け入れてくれるでしょうか?」
「ならば、李粛を潰す……そこに、勢力を打ち立てる」
李傕はそう呟くが、賈詡は首を振る。
「この士気での戦は、勝ち目がありません。それに敵方に呂布がいれば、恐らく、勝敗は一瞬で着きましょう」
「では軍師殿! 我らはどうすれば!?」
「長安を攻めるか、降伏するか。生きる為には、これしかありません」
「降伏だと!? 劉協は、董卓様を殺した敵だ! そのような奴に頭を下げろと!?」
「されど、殿を国葬で葬ると、宣言しております。親族も処刑はせず、あくまで平民に落とすのみ。軍人の罪も全てを許すと」
「まさか……」
李傕も郭汜も、しばらく押し黙った。
しかし、答えはもう、一つである。
「憎きは、呂布。そう思う事にする……降伏しよう。李傕も、それでよいか?」
「あぁ」
賈詡はそれを聞き、深く頷く。
「では、こちらで取り計らいましょう」