58話
「王允殿が訪って下さったというのに、あまり大したお迎えも出来ず申し訳ござらん」
「天下の呂布将軍に左様な事はさせられません。それに、急に訪問した私が悪いのです」
巨躯の呂布と同時に、向かい合わせで王允は席に座る。
熱めの茶が、ゆらゆらと湯気を立てていた。
外は、広い庭園である。
官位では王允の方が上なのだが、屋敷は倍も違う大きさだった。
それなのに、あまり人はいない。
戦争孤児であった為か、親族も居ないのだろう。
呂布の表情もまた、どこか寂しげである。
「それにしても、将軍が謹慎されていたとは知りませんでした」
「相国に、恐れ多くも無理を言ってしまい、反省しております」
「何を、とは聞きますまい」
「それで、今日はどのような用件で?」
王允は一口、茶を含んで、真っすぐに背筋を伸ばす。
眉間に深い溝が刻まれ、その瞳には光が宿る。
「実はですな、私には養女が居りまして、今は相国の屋敷で侍女として働いておるのです」
「それは、初耳でした」
「その娘から聞いたのです。最近、呂布将軍が良く、董卓様の屋敷で懇意になさっているという巫女が居ると。たしか、名は、申し訳ない、失念した」
「仙華、と申します。同郷の者であり、彼女は楽器も弾けるので、よく故郷の音楽を」
「なるほど、そういうことでしたか」
「それで、彼女に何か?」
呂布の目は真剣であった。
少し、意外に感じた。なるほど、王允は髭をなでる。
まるで、子供の様だ。恐らく自分の感情がどういうものかも、気づいておるまい。
「いや、何、親しくされているとはいえ、ただの巫女の事なのであまり将軍には関係ないことだとは思ってたのだが」
「関係なくはありません。後日、戦功を再び上げたなら、彼女を引き取りたいと思っておりました」
「そうでしたか。ならば、少し気の毒な話になるやもしれん」
「はっきりとお話しくだされ」
「その、仙華殿の行方が、数日前より分からなくなったと。突然、姿をくらまし、誰も話題にしないと。そういう話を聞いてまして。娘が仲良くしていた者であったので、呂布将軍に聞けばと思い、此度は尋ねさせていただいた次第。何か、ご存じでしょうか?」
「いや……聞いていない。それは、まことの話か」
「左様。最後に姿を見たのは、相国の部屋に呼ばれてからです。占いの要件だったとのことですが、それ以来。これが本当であれば、あの相国のことなので、何か勘気に触れたのやも」
既に、呂布の耳には、王允の言葉は届いていなかった。
「相国に、聞きに行く」
「お、お待ちくだされっ! それは危険でしょう。いくら将軍と言えど、謹慎を破り、相国の勘気に再び触れれば」
「約束したのだ! 必ず迎えに行くと!」
「……分かり申した。であれば、私が参りましょう。ははっ、諫言の良い機会です」
「な、いや、王允殿、お待ち下され。それこそ、貴方の身に危険が及ぶ」
「良いのです、もう十分に生きました。それに、天下を案じ、諫言することで死ねるのなら、これ以上の栄誉はない。あまりにも、相国の治世は人が死に過ぎる。もうこれ以上、忠臣が死ぬのを見たくは無い」
王允の目は燃えていた。
この目を、呂布は知っている。死してもなお折れない、不屈の意思。
それは、丁原の目と同じであった。
そしてその意思は間違いなく、自分にも脈々と継がれている。
「分かり申した。ならば、この呂布が兵を挙げましょう。相国への反旗を、掲げましょう」
「本気ですか」
「二言は無い。思えば、俺は戦場を求めて生きるしか、能が無い男だ」
ここしかない、王允はそう思った。
威風堂々と立ち上がる呂布の前に跪く。
呂布の顔は、涙に濡れていた。
「ようやく、気づいた。俺は仙華に、惚れていたのだな」
「心中お察し致します。されど挙兵は今しばらくお待ちくだされ、絶好の時が、間もなく」
「これは、俺の戦だ。誰にも指図は受けん」
「陛下よりの勅命でも、でしょうか」
立ち去ろうとする、呂布の足が止まる。
王允は言葉を続けた。
「今、陛下は涼州へと出兵なされております。その兵が長安へ退き返すとき、陛下は董卓の討伐を行う算段です。外より陛下が、そして内より将軍が兵を挙げれば、勝てます。立ち上がるのはその時です」
「陛下……あの小僧か。戦狂いの、あの」
「間もなく董卓には、陛下が韓遂に討たれたとの虚報が届けられます。敗残兵の受け入れの為、長安の門が開かれたとき、陛下と共に董卓を攻めてくだされ」
「すまない、王允殿」
「如何なされた」
呂布は涙で顔を歪めながらも、その口角は上がり、笑いながら、泣いている。
奇妙な表情であり、狂人のような、言い知れない恐ろしさを感じた。
「俺は、どうしようもない、戦狂いらしい……まともな人間ではないのだ」
「将、軍?」
「仙華は死んでるだろう。それは分かっている、あまりに悲しく、狂わんばかりに口惜しい……されど、それ以上に、あの小僧と戦が出来ると考えたら、喜びが溢れて止まぬ」
「まさか……」
「俺は、陛下と戦がしたい。相国の討伐は、それからだ」
「な、なにを!? 血迷われたか!?」
「これが、呂布だ。許してくれ。勿論、此度の事は、相国には漏らさん。あくまで、俺と小僧の戦だ。誰にも邪魔はさせたくない」
「ま、まさか、このような事になるとは……」
「俺じゃなく、徐栄将軍に話をしてみよ。蔡邕殿と共にな。あの将軍は賢い。時勢の分かる男だ」
涙を拭い、嬉々とした顔で馬小屋へと足を運ぶ。
戦が終わった時、大いに泣けばいい。今は、戦の事だけを考えていたい。
赤兎は呂布の意思に応え、その太い首を振るわせた。