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57話


 背が焼けるように熱く、激しく脈打っている。


「陛下、どうかご安静に。致命傷ではありませんが、動けば血が流れ過ぎます」


「これしきのこと」


「ご自愛ください。陛下が倒れれば、我らは奴隷に逆戻りなのです。戦も、我らにお命じを」


「俺が餌にならねば、韓遂は釣れないだろうが」


 俺の体を抱えて馬を走らせるのは、奴隷上がりの兵の一人であった。

 確か、百人部隊の隊長として頭角を現した男である。匈奴出身らしく、馬の扱いがとにかく上手い。


「韓遂は」


「後方の歩兵が殿として踏みとどまっていますが、韓遂の手はすぐに届くでしょう」


「殿など置くな。とにかく、指定の場所まで駆けよ、逃げるのだ」


「ハッ」


 ここまで全て、荀攸の画策した通りになっていた。

 あの精強な涼州軍の一挙一動すら、見通したかのような計略。心が震えた。


 とはいえ荀攸は、これは犠牲が多くなる下策だと言っていた。

 本当ならば馬騰と韓遂の仲を引き裂くのが最上であるらしいが、韓遂の抜け目のない性格を考えると、下策を取るしかなかったと。


 後方に、高く舞う土煙が見えた。

 間違いない、韓遂の軍だ。


「急げ!!」


 叫ぶ。皆、声も出さずに、必死に走っていた。


 深き、長草の茂る獣道。

 急いで追撃したせいか、間延びした韓遂の軍。


 それを分断する様に、茂みから伏兵が一斉に顔を出した。


「馬から引きずり下ろせ! 奪えるものは全て奪え!!」


 伏兵を指揮する、気の荒い部隊長の命令が飛ぶ。

 一度囲んでしまえば、勢いのなくなった騎馬隊など怖くはない。



「ここで良い、一度下ろせ!」


「陛下ッ!?」


「上半身を布できつく縛って、傷を塞ぐ」


 劉協はふらふらと馬から降りて、鎧を脱ぎ、背中の傷が開かない様に上半身を衣服でぐるぐると縛る。


「馬を」


「な、なりませんっ! 陛下は血を流し過ぎています!」


「この戦は、俺の戦いだ。俺が戦わずに、兵にばかり命を賭けさせられるものか」


 追いすがる部隊長を何度も蹴り飛ばす、それでも、彼は劉協の足にしがみつく。

 斬られることを覚悟しての抵抗である。


「陛下が死ねば、我らは奴隷のまま。我らの子供も、妻も、奴隷です。だからこそ、皆命を捨てて陛下の為に戦っております! 報いてくれると信じ、喜んで命を捧げているのです!」


「俺が死んでも、兄上が約束を果たす。劉弁は漢の為に命を捨てないと言った、だから俺はこの命を燃やそうと決めた。それが俺の信じる天下への道だ」


「陛下ッ!!」


 劉協はついに追いすがる部隊長の顔を蹴飛ばして、戦場へと駆け出した。





 思った通りである。

 ただ、心の中では、この予測を裏切ってくれという思いもあった。


 伏兵部隊の最後方。

 茂みに潜み、董承は弓矢を引き絞る。



 あれほどの傷を負いながら、劉協は再び戦場へ現れた。

 兵を斬り伏せ、雄たけびを上げ、戦い続けている。


 あの小さな体のどこから、狂気にも思える程の戦意が溢れ出しているのか。

 いつもそうだ。全くもって理解し難かった。


 弓矢の照準は、その、劉協。


 短い間であったが、少し情が沸くほどには、近くに仕え続けてきた。

 だが、自身の栄達に、曇り無き野心に従って生きてきたのが、この董承である。


 奴隷の身分から身を起こし、何度も何度も死線をくぐり、ようやく掴んだ将軍の地位。

 それでもまだ足りない。満たされない。


「悪いな……」


 劉協の死で、いくらかそれが報われるのだろうか。

 長く、静かに、息を吐いた。




「何をなさっているのですか? 董承将軍」


 不意に背後から声をかけられ、反射的に声のした方へ矢を放った。

 しかしそこには、盾兵。


 囲まれた。董承の周囲には、数十本の槍先が並んでいた。


「軍師殿、か」


「やはり、私の思った通りです。馬騰、韓遂は董卓と裏で通じていました。その意図は、恐らく、陛下の殺害。それも、将軍、貴方に殺させようとしていた」


「殺すか?」


「はい」


 董承は静かに、剣を抜く。

 何度も死地を乗り越えてきた。この程度、切り抜けるのなんて訳もない。


「……まぁ、私は殺した方が良いと思っていますが、陛下が、お許しになられなかった」


 荀攸が溜息を吐くと、槍先は地面に下ろされる。

 意味が分からない。董承は戸惑いながら、剣をまだ構え続ける。


「私は忠告したのです。恐らく将軍が、陛下の命を狙っていると。未然に防ぐべきだと。しかし陛下は笑って、私の案を取り上げて下さらなかった」


「あいつは、馬鹿なのだ。自分の事に、無頓着が過ぎる」


「えぇ、私もそう思います。陛下は、こうも言っておられた。将軍に殺されようなら、どのみち董卓には勝てないと。だから、天命を信じるように、将軍を信じると」


 ようやく、剣を下ろす。

 やはり、馬鹿なのだ。大器だの、狂人だの言われるが、あれは馬鹿だ。

 笑うしかなかった。


 そして、負けだな、とも思った。


「ここで俺を見逃せば、また、同じことをするぞ。殺せ」


「死にたくば、直接、陛下に掛け合ってくだされ。私が出来るのは、将軍に利を説くことのみ」


「利?」


「董卓につくか、陛下につくか。その利です」


「……聞こう」


「董卓に何を対価として提示されたか分かりませんが、陛下の首を取って得られる地位は、どうせ董卓を越える事はありますまい。されどここで将軍が陛下に従えば、今の董卓と同じ位置につけます。そして何より、歴史に名を刻めます」


「しかし、それは勝てればの話だ」


「それこそ、将軍にかかっています。ただ、はっきりしているのは、董卓につけば悪人の汚名を、陛下につけば、偉大な忠臣として歴史に名が刻まれましょう」


 歴史に。

 そう言われ、ストンと、何かが腑に落ちた気がした。


 最高の栄達とは何か。

 将軍になる事でも、女を抱える事でも、金を集める事でも、戦功を上げる事でもない。


 この名を、未来永劫に遺す事である。


「……目が覚めた気がする」


「如何なさいますか?」


「あの馬鹿に、忠誠を誓おう。しかし、あれが道を外れた時、俺は迷いなく兵を挙げて、取って代わる気でもいる。それだけは忘れるな」


「良いご判断です」



 勝鬨が聞こえた。

 韓遂の騎馬隊を、撃退したのだ。


 劉協は血にまみれながら、兵達の輪の中心で、剣を高く掲げ、吠えていた。



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