56話
暗く、月明かりも乏しい夜中。
数多の篝火が陣中を照らしており、見張りの兵がポツポツと立っているのみだ。
静かな夜だった。
「韓遂よ、本当に夜襲が来るのであろうな」
「間違いないさ、兄弟。書簡も見せただろう」
堂々とした巨躯を持つ馬騰は、怪し気に韓遂を睨んでいる。
しかし、韓遂はそんな視線を微塵も気にすることなく、微笑むばかり。
「奴らは急造の奴隷部隊だ。寡兵で、弱兵。奇襲を仕掛ける以外に勝ちは無い。そこを包囲して殲滅すれば、俺らの勝ちだ」
「ふん……戦って勝てるなら、どうしてこのように、我らが隠れる必要がある」
今、馬騰と韓遂の軍は、本陣から少し離れた小高い山に潜み、息を殺していた。
本陣に夜襲がかけられた後に、敵軍を包囲するのが狙いである。
「隠れずとも本陣で兵を構え、抜かりの無い防備をすれば敵は攻めてこない。そして後日、正面から叩き潰す。それが戦であろう」
「まぁ、そう言うなよ兄弟。この戦いはもともと、俺らにはあんまり益が無い戦だ。被害は小さい方が良い」
「そこに異論はない。だからこそ、こうしてお前の案に乗っている。ただ、好きか嫌いかで言えば、嫌いな策だ」
戦を、一つの芸術に捉えるような感性を、馬騰は持っていた。
敵にも常に敬意を払うのが、この男の美点であり、兵に慕われる所以でもある。
しかしその美学は、韓遂からすれば犬の糞と変わりはない。
戦とは本来、私利私欲が渦巻き、人間が悪鬼に落ちる場である。
感性も考え方も、目指す場所も違う。
利害で成り立っている関係性であるが為に、二人とも力を合わせているだけに過ぎない。
馬騰は疎ましげに鼻を鳴らすと、重厚な鎧を揺らしながら、自らの持ち場へと戻っていった。
「あーあ……人殺しに正々堂々なんて、馬鹿じゃねぇの」
溜息を一つ漏らす。
韓遂がこの策を用いたのは、もう一つの狙いがある。
まだ誰にも語っていない目的。それこそ皇帝「劉協」の首であった。
董卓とは裏取引をしていた。一度、官軍を蹴散らしてくれと。
そして再度軍を差し向ける。その時に従ってくれれば、それで良いというものである。
こうすれば確かに、こちらも、王朝も面目が保てた。
いくらか勤皇の心が厚い馬騰も、そういう話ならばと、此度の戦に乗り出した。
多少の不忠を一度は被るが、それだけで領地や官職が守られるのだ。
敵意が無いことも示せば、不忠の汚名も拭えよう。
しかし、韓遂はその先を読んだ。
董卓は恐らく、劉協の死を望んでいる。だからこそ出兵させたのだ。
二人の仲が良好でないことも、才気の走りすぎる劉協の話も聞いていた。
きっと董卓は、自軍に劉協を殺させ、不運の戦死として片づけるはずだ。
そうはさせない。
必ずこの手で首を取り、董卓に取引を持ち掛ける。
莫大な対価を要求しよう。これこそが、韓遂の狙いであった。
「……来るぞ」
不意に風が凪ぐ。
殺気が、荒野に張り詰めた。
☆
粗末な兵装に身を包んだ歩兵達は、喚声を上げて陣へと雪崩込んだ。
柵を打ち壊し、不意を突かれた守備兵らをことごとく殺し、各所に火を放つ。
歩兵らが陣の半ばまで差しかかる。火の手はもうもうと煙を吐き、夜空を覆った。
今だ。
韓遂は手を挙げる。
銅鑼が鳴り、声を押し殺していた兵達が、一斉に雄たけびを上げた。
「包囲しろ! 皆殺しだ!!」
一気に山を駆け下り、怒涛の勢いで陣を囲む。
自分達が放った火に阻まれて逃げ場を失った官軍は、包囲の中で小さく固まり、方陣を形成。
韓遂軍、馬騰軍は一気にそこへ殺到した。
荀攸の話では、少数の精鋭を率いて夜襲をかける手筈になっていた。
そこには荀攸を含め、劉協自ら、兵を率いるという話であったはずだ。
どこだ、どこにいる。
戦火の中に目を凝らし、ただ劉協一人を探す。
「……おかしい」
韓遂はそこで、違和感に気づいた。
敵兵の士気が異様に高いのだ。
きっと、劉協が居るからだろうと思っていた。しかし、見当たらない。
ならば何故、この絶望の中で、決して勝てない戦況で、武器を下ろさないのか。
思えばその兵数も、少なすぎた。
「これは……まずい。一旦退くぞ! 馬騰にもそう伝えろ!!」
銅鑼を鳴らすが、兵達は止まらない。
圧倒的な優勢を前に、勢いを殺す事は難しい。
背後より、近づく馬蹄。
地が、震えていた。
闇夜に紛れ、砂煙を上げ、真っすぐにこちらへ向かってくる少数の騎馬隊。
その後方には、何千という歩兵を従えていた。
「──我が名は劉協! 漢の皇帝、劉協である! 今ここに、漢室復興の狼煙を上げん! 突撃!!」
怒号を切り裂く、高らかな宣言。
すると、赤き「漢」の旗が立ち上がり、戦火に照らされる。
五百の騎馬隊の先頭を走るのは、子供であった。
赤い頭巾を被った、子供である。
しかし何千という兵が、その子供に、迷うことなく従っていた。
あれが、劉協。
韓遂は思わず身震いをした。
「千の騎馬を後方に回して迎撃させろ! 我らは一旦体勢を立て直した後、奴らを叩く!」
「馬騰様には如何様にっ」
「放っておけ! 漢の旗が最前線に掲げられた以上、奴は守る事しか出来ん! 我らだけでアレを潰す!!」
千の騎馬隊が突出し、劉協の五百とぶつかった。
兵、そして馬の質が全く違う。五百騎はたちどころに飲み込まれ、揉み潰される。
しかし、彼らは必死に劉協を守り、やがて殺到した歩兵に、韓遂の騎馬部隊は一度散らされてしまう。
なおも、攻撃の手を緩めない、劉協。
剣を振るい、再び兵の先頭に躍り出る。
「奴は、狂っているのか!?」
馬騰の軍は、動きを止めて、防陣を敷いた。
しかし官軍は、韓遂の独力で十分に抗し得る。問題は無い。
体勢を整え、全軍でもって迎撃した。
劉協が陣頭に出てきたのは、嬉しい誤算であった。首を取れる確率が跳ね上がったのだ。
しかし、敵兵は弱小ながらも、前へ、前へ。小さな体は、常に先頭にある。
どうして、恐れない。何故退かない。
圧倒的な優勢であるのに、韓遂は若干の恐れを抱く。
あれは、皇帝でも、子供でもない。
ただの狂人だ。
狂人と戦をすることは、何よりも恐ろしいと言える。
利害も何もない。目の前の敵を殺す事しか考えてないのだ。
勿論、自分の命なんて眼中にもない。
韓遂は更に声を張り上げ、兵を押し込む。
やがて劉協は傷を負い、側近の兵に抱えられて、軍の後方へと連れていかれる。
連れていかれながらもなお、劉協は剣を振るい、敵兵にのみ目を向けていた。
まるで獣だ。
しかし、好機である。
官軍は退却を開始。兵の多くを失っていた。
対して、韓遂の軍はほとんど無傷に近い。
「追撃だ!! 俺に続け!!」
まだ、首を取っていない。
決して逃すものか。
鼻息の荒い馬を寄せ、飛び乗った。