55話
「ふむ……」
怪しくゆらゆらと揺れる、瞳の光。
右目の上には斬傷の跡が残り、眉が無かった。
数本、白が残る髭を指でなぞり、韓遂は満面の笑みを浮かべる。
「要件、相分かった。だが、何故、荀攸殿は馬騰ではなく俺に密約を? 出自や経歴からすれば、密約を結ぶべきは奴の方だろう」
「軍師様は、馬騰殿は軍人である故、この策に乗らないであろうと。されど韓遂様は、梟雄である故」
「梟雄、か。ふふっ、はははっ! 嬉しいことを言ってくれる」
荀攸から、韓遂へ宛てた書簡。
ここには「我が軍は二日後の夜、夜襲をかける故に協力してほしい」と書いてあった。
「さて、応じるか否かは、報酬の如何によるな。義兄弟を裏切るに値する対価を、提示してもらおうか。それに普通に戦ったとて、俺はお前らを簡単に潰して、全てを奪えるぞ?」
「報酬ですか……ここで韓遂様がご協力くだされば、涼州全域が、貴方のものになります」
「今の陛下に、それ程の権力があるのか? 董卓の操り人形に過ぎないガキが、いくら官位を与えたところで、何の意味も無い」
「いえ、お考え下さい。仮にここで我が軍を討つことは容易いでしょう。しかし、撃退した暁に、韓遂様には何が残りますか? 何が手に入りますか?」
「む……」
「しかし、ご協力くだされば、話は別でしょう。馬騰を討つことが出来ます。さすれば涼州は実質的に韓遂様のもの。相国とて、異民族の事を考えれば韓遂様に手出しは出来ますまい」
「陛下が、俺に涼州牧を与えると?」
「お望みとあれば。州牧のみならず、大将軍でも何でも。相国もお認めになりましょう。それ程の功績です」
「ふむ、一理ある」
「如何なさいますか」
深く息を吐き、韓遂はぐぐぐと考え込む。
涼州の独占は、確かに昔からの夢であった。
この地を足掛かりに、天下を掻き乱すのも悪くは無い。
未来に対する確かなビジョンなどは無い。楽しそうだから、それだけで生きてきた男である。
平穏なぞ、糞くらえ。未だ中華には、戦火が足りない。
「分かった。乗ろうか、その案に。荀攸殿にはよろしく伝えてくれ」
「感謝いたします」
すると、浅黒い肌の青年は、スッと闇に消えた。
韓遂は顔を覆い、クツクツと喉奥で笑う。
「……んなわけねーだろ、バーカ。俺は梟雄の韓遂だぞ? ガキの首を取って、董卓から金を巻き上げて、馬騰も潰す。乱世は、まだまだ乱れ足りないなぁ」
☆
董卓の冷えた視線の先に、小さな少女が跪き、頭を下げていた。
透き通るような白い肌である。薄暗い部屋で、その肌ばかりがやけに目立っていた。
「仙華、占ってくれ」
「……私めに、で御座いますか?」
「そうだ。だからそなたを呼んだ」
「まだ、巫女としては未熟な身で御座います。ご期待に添えられるかどうか」
「呂布に出来て、儂には出来ぬと?」
「い、いえ、滅相も無い……では、謹んでお受けいたします」
冷えた殺意を董卓の声に感じたのか、仙華は僅かに震えながら礼をした。
仙華は体の向きを変え、蝋に灯る小さな炎に、両手をかざした。
「あぁ、仙華よ。占うのは、儂ではない。お前だ。お前自身の事を占え」
「え……私を?」
「そうだ」
小さく息を吸い、長く吐き出す。
空気は張り詰める。僅かに感じる光を見つめ、仙華は意識を集中させる。
今この時、仙華の首筋に、董卓の大刀が構えられているとも知らずに。
「見えたか?」
「……見えません」
「ほぅ、巫女であるというのに、何も見えんのか? まさか相国である俺を騙していたのか?」
「いえ、何も見えない。という事が、見えたのです。恐らく私は、近い内に命を落とすのでしょう」
「っ」
董卓は僅かに体を硬直させ、その大刀を下ろす。
盲目であるというのも、嘘ではないらしい。
声色一つで震えていたのに、大刀を構えられても動じなかったからだ。
「やけに冷静だな。自分が死ぬと分かっていながら」
「これも運命です故。それに、呂布様が以前、死とは常に隣にあるものだと言っておられました。恐れる事ではない、と」
「……儂を、寂しい人間だと、そうも言ったらしいな」
「はい。恐れ多くも」
「お前には人の心が見えるのか」
「盲目であるがゆえに、見えないものが見えてしまいます。特に、人の心というのは、よく見えます」
「見てはならぬものを見た。あまつさえそれを、話してはならない者に、お前は話した。許しがたいことだ」
「申し訳ありません。拾って頂いたご恩を、仇で返す事になろうとも知らず。弁明のしようもありません」
董卓は、大きく息を吐く。
殺していたはずの心の内が、溶けて色づいてく、そんな気がする。
不思議な巫女であった。
決して語るまいと思っていた言葉まで、胸から溢れ出してくる。
「儂は、誰よりも、天下と向き合った。天下の平穏を、誰よりも願った」
「はい」
「だが、儂に手を貸そうと思う者は居なかった。出自が、戦歴が、倫理が、世界の全てが儂の敵であった。その価値観こそが腐敗の原因だと、誰も気づかなんだ」
「はい」
「一度全てを壊さねば、腐敗は止まらん。だから儂は、董卓となった。暴君と恐れられる道を選んだ。儂が生きている内に、平穏を作る為に。暴君のまま、誰も悲しまない、孤独に死ぬ道を」
「存じております」
「誰にもこの心内を語る訳にはいかなかった。語れば、全てが崩れる。出自も何も関係ない、たとえ奴隷でも、国を治めることが出来る、皇帝になることが出来る。儂が目指した、常に覇者が天下を統べるという世界。完成に近づいたこの道を、誰にも崩させてはならんのだ」
再び、董卓は大刀を構える。
仙華の体の震えは、止まっていた。
「この思いを語ったのは、お前が初めてだった。そして、これが最後だろう」
「光栄に御座います」
「呂布がどうしてお前を好いたのか、分かる気がする」
「私も、お慕いしておりました。そして、約束を守れず、申し訳ありません。そう、お伝えください」
「それを儂に頼むか……酷な話だが、お前の功に報いよう」
「ありがとうございます」
大刀はそのまま、勢いよく振り下ろされた。