52話
功を挙げ、将に上る。
長い間、奴隷上がりの身分であった自分が、大軍を率いる将軍になれたのだ。
大きな屋敷を構え、従者も多い。
だが、何か足りない。
呼び寄せた家族や親族の、感涙を前にしても、心は満たされなかった。
こんなものか、と。
命を賭けて、何度も死地を潜り抜けた結果にしては、虚しい気がしてならない。
まだ、将の末席だからだろうか。
この席次が上がれば、また景色は違うのだろうか。
内に燻る野心は、なおも渇いて止まない。
「相国、お呼びで御座いましょうか」
董承は武具を身に着けたまま、その場に膝をつく。
深く椅子に座る巨漢は、董卓。隣には董旻が立っていた。
今や、誰もが恐れてやまない存在となったが、董承の心中は特に変わりはない。
董卓が功に報いる姿勢を失くせば、いつでも反旗を翻せる。
恐怖も、忠誠も無い。地位や金銭で成り立っている関係と、割り切っていた。
「此度の戦についてだ。お前には、予め話を通しておくべきだろうと思ってな」
「涼州平定の件ですね」
これも一種の、あの皇帝の一声によって決定してしまった事項である。
馬騰や韓遂の動きが不穏だからといって、彼らは反意を抱くどころか、まだ董卓に恭順の意思を見せている勢力であった。
だからこそ董卓は、自分の勢力地で、彼らが兵を持つことを許していた。
それを今更、平定しようなどと言うのは、無駄な出兵でしかない。
董卓が無駄な喧嘩を売ってしまったと、董承は呆れた気持ちで眺めていた。
「馬騰と韓遂の兵力は、合わせていくらか知っているか?」
「二万から三万ほど。それも、涼州の駿馬をそろえた精強な騎馬兵が主力です」
「そうだ。それに対し俺はお前に、僅か一万五千の囚人、奴隷の軍のみを与え、陛下の与力となるように命じた」
「お言葉ですが、この軍では馬騰と韓遂には到底敵いません。寡兵であり、兵の練度も低く、武具も揃わず。これでは死にに行くようなものです」
「誰が勝てと言った」
「え」
「お前の任務は、負けて帰ってくる事だ。もう、馬騰と韓遂にも、話を通してある」
「よく、話が分かりません」
困惑する董承。
すると補足をするように、董旻が前に出た。
「董承将軍はそのまま涼州軍と対峙し、戦い、負けて下さい。その後、将軍が帰還し次第、今度は将軍の副将に徐栄将軍を付けて再度侵攻。そのとき、馬騰と韓遂は正式にこちらへ恭順を示す、という手筈になっています」
「何故、そのようなことを」
「馬騰と韓遂は、涼州の豪族に支えられており、素直に降ってしまえば彼らの反感を買います。そこで、一芝居をうつのです。この方法ならば、互いに利がある。そもそも彼らは異民族の抑えとして、軍を持たせておかねばなりません」
まぁ、あくまでそれは建前だ。
董卓はそう言った。
顔には不敵な笑みがこぼれ、董承は思わず目を逸らしてしまう。
あれが、本来の董卓の顔。
まるで悪魔であった。魂を、悪魔に売った男の顔だ。
「董承、お前にはもう一つの任務がある。極秘の、任だ」
「なんでしょう」
「──劉協を殺せ。流れ矢に当たったとか、そんなもので良い。対価は、新しき皇帝の外戚としようか。その地位は、三公に並ぶぞ」
頭を下げ、董承は諾とした。
☆
荀攸が頭を抱えています。
おいおい、普段の泰然自若を体で表したような人柄はどこに行った?
「これは……勝てないですね」
「マジで?」
すまん、最終回が前倒しになりそう。
「馬騰らの騎馬兵は、圧倒的な強さです。それこそ天下に名が轟くほどに。それに対するのが、急造された奴隷部隊。率いるのが董承将軍というのが、また絶望的です」
「指揮官としてダメなの? アイツ」
「死兵を率いたことしかない時点で、指揮官としての能力は分かりません。まぁ、兵を逃がさない、という点では卓越した腕を持っているでしょう」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
「董承将軍には校尉、側近が居ません。今まで配下が全員死ぬような戦をしてきたので当然ですが。つまり、戦場で実際に、兵を指揮する部隊長が居ないのです。これでは統率を取る術がありません。戦う事はおろか、目的地にたどり着けるかどうかも怪しいところ」
思ってた以上に絶望的だった。
一応、近衛兵も軍に入っており、その地位で部隊長などが割り振られてはいるが、あくまで軍の体を為すだけのものに過ぎない。
「勝ち負けよりもまずは、戦が出来るかどうかって話か」
「そういう事になります」
「じゃあ仮に、戦になったとして、どうすれば勝てる? 出来れば董卓と戦う前だから、犠牲は少なく、味方に出来れば最上だ」
「……勝利、その一点に焦点を絞るなら、戦をしない事です」
「?」
戦わないで、勝つ?
手品かしらん?
「戦えば負けます。これは絶対です。恐らく、生きて長安にはたどり着けません」
「なるほど、董卓と戦う以前の問題っていうね」
「孫氏曰く、戦の勝敗は、戦う前に既に決まっている。どうにかして、この状態に持っていく、それを考えるのが私の役目です」
「翠幻、いるか?」
名を呼ぶと、音もなく居室の戸が開かれ、一人の宦官が姿を現す。
彼は声を出す事もなく、その場でひれ伏した。
「翠幻、これから汚鼠を荀攸の指示に従わせろ。俺の指示を仰がなくても良い」
「陛下、現在汚鼠のほとんどは、并州にて手を回しており、動けるのは私のみです。私まで動けば、陛下の御身を守る者が居なくなります」
「構わん。負ければどのみち命は無いんだ」
「分かりました」
「……あの、陛下、この宦官は」
「謀略を担う者達だ。鼠と思って、使ってくれ。相応の働きはする」
「は、はぁ」
出兵は、三日後に迫っていた。
・韓遂
涼州軍閥の中核を常に担っていた軍人。生涯、中央への反乱を繰り返した。
馬騰とは義兄弟でありながら敵対を繰り返した。馬超が曹操へ兵を向けるとそれに従軍する。
馬超が敗れてもなお曹操への反乱を続け、七十を過ぎて、その首を討たれた。