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51話


 日も差さず、ポツポツと灯る小さな灯が、明かりの代わりであった。


 空気が湿気り、カビっぽい臭いが充満している。

 ここは、地下牢。死刑を待つだけの、罪人が収容されている施設。


「何故、陛下自らこの様なところへ」


「会いたい奴が居る。賈詡、お前と並ぶほどの才を持つものだ」


「む……」


 服の裾で鼻と口を抑えて、あからさまに嫌な表情を浮かべるのは、賈詡である。

 数日後には、牛輔と共に朱儁将軍の討伐へ向かう手筈になっていた。



 俺は勢いあまって、宣言をしてしまった。

 涼州の雄である、馬騰ばとう韓遂かんすいの討伐を、直々に行うと。


 猛反対したのは、蔡邕である。

 まぁ、それもそうだろう。自分が担ごうとしている皇帝が、自ら死地に赴こうとしているのだから。


 ただ、考え無しに宣言したわけではない。

 董卓が、戦場で俺を殺そうと考えているのはよく分かっている。

 分かったうえで、その挑発に乗ったのだ。


 戦場で、真正面から董卓を叩き潰して、初めて、漢王朝復興の狼煙が上がる。


 朱儁の挙兵は、願ってもない好機。

 并州では、丁原の暗躍が功を奏し、更に董卓の兵力を割くことが出来た。


 ここで涼州への討伐軍を俺が率い、軍を翻し、董卓と決戦を行う。


 勿論、こんなものは空論だ。絵に描いた餅である。

 だからこそ画餅を、実現する策謀の士が、俺には必要だった。


 俺の周りにいる人間、みんな苦労してるなって? ほっとけい。



「董卓暗殺を企て、今はただ死刑を待つのみ。しかしそれを恐れず、狼狽えず、獄中にて泰然自若。実に俺好みだ──荀攸じゅんゆうよ」



 暗き折の中。

 胸を張り、瞳を閉じ、堂々と腰を下ろす姿は、文官というよりは軍人の様である。

 ただ、その容貌はあまりに凡庸である。


 垂れ下がった眉と、長く伸びた髭。

 まだ、賈詡ともさほど歳も変わらない様に見えた。


 俺が声をかけてもなお、荀攸じゅんゆうは目を開けず、微動だにしない。


「私の名を呼ぶのは、誰ですかな。処刑人にしては、声が若すぎますが」


「陳留王、劉協。今は董卓の手により、仮初の皇位に付く者だ」


「……なんと」


 荀攸じゅんゆうはようやく目をカッと開き、急ぎその場にひれ伏した。



 三国志を記した陳寿ちんじゅは、こう記している。

 曰く「荀攸、賈詡は、ほぼ算段に失策は無く、権変に達すること張良、陳平に次ぐ」と。


 曹操の躍進に協力した参謀格の一人であり、その実績は、荀彧に次ぐ逸材であった。

 内政や人事、軍略まで全てに通じ、曹操配下の軍師筆頭として名が挙がる。


 見た目は愚鈍で覇気は無くとも、内に深謀遠慮を秘め、その智略は千里を飛翔する。


 今の俺に、無くてはならない人材であった。


「何故、陛下が、このようなところへ。罪深く、死を待つだけの私に」


「此度、涼州にて馬騰、韓遂の動きが怪しいとの報告があった。そこで俺は自ら親征し、反逆者を討つことにした」


「なりません。涼州は元来、治め難き辺境の土地。陛下の御身に何かあってからでは、遅う御座います」


「ふっ。この長安と、涼州。果たしてどちらに居た方が、俺の身が危ういだろうか」


「それは……陛下は、なにを仰られたいのでしょうか」


「この親征で、俺に従軍するのは、新しく将へ取り立てられた董承だ。軍の総勢は一万。そのうちのほとんどが囚人の部隊で、正規兵は少ない有様」


「それは、死ねと、言っている様なものです」


「あぁ、そうだ。董卓はそれを望んでいる。だからこそ、やる価値がある」


 頭を上げ、ようやく、荀攸と目が合った。

 怯えにも似たその眼差し。ただ、俺はわくわくが抑えきれず、思わず笑ってしまう。



「力を貸せ、荀攸。お前の智謀が必要だ。俺はこの戦で、董卓を討つ」



 動いたのは、賈詡である。

 俺は襟元を締め上げられた。


 この、小さな体が宙へ浮き、ギチギチと俺の気道が締まっていく。


「今の発言は、許しておけません。お忘れですか? 私は、董卓様の配下です」


「だが……中立だ。お前も、覚悟を決めろ、賈詡。俺は、決めたぞ。董卓は俺に、喧嘩を売った。ここで許せば、男が廃る」


「死ぬことになります」


「そのときは、漢王朝が、滅ぶだけだ。俺は今更、死を恐れない」


 ようやく離され、体が落ちる。

 酸素がめちゃくちゃ旨いな。


「聞かなかったことに、しておきます」


「董卓が俺を殺そうとしている。だったらその逆もあるのは当然だ。賈詡、決断できないなら、お前は見てろ。俺が董卓に勝った時、牛輔を説得し、俺に降れ」


 答えは無く、重い足取りで、賈詡は去っていく。

 乱れた衣服をそのままに、荀攸に向き直る。



「どうせ俺が率いるのは囚人部隊。死刑囚を一人引き抜いたところで、文句はないだろう。それに、囚人を引き抜く権限は、董承にあるしな」


「私は一度、董卓に負けた者です。だからこそこうして、囚人の身分となりました。何故陛下は、斯様に目をかけて下さるのですか。面識もない、一人の文官に」


「負けてなお、獄中にて堂々としている、それを聞いた。そこで思ったのだ。荀攸は、まだ諦めていないと。獄中にあって、囚人の身分でまだ、死ぬ寸前まで董卓を殺す算段を考えているのだろう、と」


 荀攸は、その場で勢いよく地面に頭を叩きつけ、嗚咽にも似た声を漏らす。

 山の様に構えていた男が、初めて見せた激情であった。


「荀攸、もう一度言う。その力を貸してくれ。罪人のまま死ぬか、弱小の幼帝に従い死ぬか。選ばせてやる」


「この荀攸、身命を賭して陛下にお仕えいたします。決して、死なせはしません。必ずや勝利を、この微才を尽くし、手に入れて見せましょう」



 それは、途方もない空論。


 難しいのは百も承知だが、この空論うつろには、命を賭ける価値があると、そう思った。




荀攸じゅんゆう


 曹操の躍進を大きく助けた軍師。荀彧とは従兄弟の関係にある。

 中央にある頃、董卓の暗殺を企てるが発覚してしまい、死刑囚となる。

 死刑直前で董卓が討たれたことにより生き延び、後に曹操に仕える事に。

 内外における働きが認められ、曹操の筆頭軍師となり、その覇業を大いに支えた。


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