4話
婆さんはその後、西方の僻地「涼州」の土地へと流罪となった。
土地は荒廃し、老体には堪える、冷えた気候が特徴的な地方。
兵に囲まれ、護送される婆さんの後ろ姿は酷く弱々しいもので、あの溌溂とした元気さはどこにも見えなかった。
ただ、何進が融通を利かしてくれているはずだ。
何皇太后の魔の手からも、何とか守ってくれるだろう。
せめて政争から離れた、緩やかな余生を送って欲しい。
そう願わずにはいられなかった。
俺は大丈夫。心配は要らないから。
☆
後ろ盾の無くなった俺の生活は、いくらか自由なものになっていた。
自由というか、何というか、皆がそこまで俺に興味を示さなくなったって感じ。
まぁ、外戚と宦官が手を組んで、劉弁の支えをしているからな。盤石の権力体制だ。
俺が付け入る隙は、今んとこどこにもない。
今んとこ、な。
「殿下、大将軍様が会見を求めております」
「俺に? 他に誰か来るの?」
「いえ、個別でお話しされたいとのことです」
俺の唯一の側仕えである宦官が、ぼそぼそと言葉を述べる。
後宮内の政争に加担していなかった老人らしく、官爵も特にない、まぁ無害なオジサンだ。
名前を聞いても教えてくれないんだよなぁ。
自分は卑しい身分だから「汚鼠」とでも呼んでくれとか言うんだよ。
流石にそこまで卑下されると、もうちょっと自信持っても良いよ? って心配になる。
「借りもあるし、断れないよなぁ。案内してくれない?」
「かしこまりました」
☆
通された先は、後宮の内の小さな一室。
小さな腰掛に座るのは、相当、恰幅の良い男だった。
虎ヒゲを蓄え、まるで力士の様な体付きである。その表情は極めて無機質で、感情が全く見えない。
これが一介の肉屋から、大将軍の地位まで上り詰めた「何進」の姿であった。
あのねぇ、こういうタイプって冗談が通じないから、ホントに怖いんよね。
「大将軍、何進が、殿下に拝謁いたします」
「いや、そういうの良いよ、もう。誰も居ないし」
「なるほど、噂は本当らしい。幼少でありながら、どこか達観しておられる」
「はぁ、どうも」
顔色が分からない以上、様子を窺ってみても、どうもよく分からん。
怒ってるのか、冗談を言っているのか。
うーん、何を考えているのだろうか。
「まぁ、何進将軍。婆さんの件に関しては、礼を言う」
「行動や交流の制限はかけますが、比較的に自由な生活を送れるようには配慮しました。私としてもこれ以上、妹の好き放題を許せないのでね」
何進と何皇太后は、異母兄妹だったはずだ。
見た目もこんだけ違うし。
一応表向きは協力関係だが、あんまり仲は良くないのだろう。
てか、皇太后って、仲良い人いるの?
あれはちょっと、キツいべ?
見た目はドストライクだけど。
なんで俺、あーいうヤバイ人ばっかり好きになるんだろ。
昔っから。
「それで、太皇太后様の件を呑む代わりに、殿下に私は『貸し』を作りました。今回のその件についてです」
「出来ないことを言うのはやめてね」
「ご安心を。ただ、協力して欲しいだけです」
「協力?」
「はい」
何進が低い声で「入って来い」と言うと、部屋に一人の軍人が現れた。
威風堂々とした立派な出で立ちで、その風格だけで人間としての格が違う、という事をまざまざと感じさせる男だ。
なによりそのギラついた目の奥にある光が強すぎる。
自分が正しいと信じて疑わないタイプだぜ、あれは絶対。
「殿下に、西園八校尉が一人『袁紹』が拝謁いたします」
「な……袁紹、って、あの?」
「如何されましたか?」
「い、いや、噂でもよく聞く有名人だったから、少し、驚いただけ」
「光栄で御座います」
袁紹。それは、この後漢末期の時代で、最も天下に近づいた男の名だ。
四世代にわたって「司空」「司徒」「大尉」と呼ばれる三つの最高官位、通称「三公」に就任する人材を輩出した名門の生まれ。
その名門「袁家」の中でも、袁紹はとりわけ異端として知られ、その才気は並々ならないものだったと言われている。
まさに、未来の天下人。
その歴史を知っているだけに、思わず身震いしてしまう。
見た限りだと恐らく、年齢は三十に届いているかどうかか。
「今、洛陽の軍は我らの手にあります。私が近衛兵を統括し、この袁紹が西園軍を統括。しかし、万全を期すには『情報』が不足しております」
「万全? 情報? あの、何進将軍、一体何を」
「ご心配なく。我らが派遣する者を、後宮へ出入りできるよう、許可と協力を頂けるだけで十分です」
歴史ではこのあと「十常侍の乱」と呼ばれる事件が引き起こされる事になるはずだった。
一応、見当もつかないみたいな演技はしてみたが、何となく言いたいことは分かる。
この二人は、宦官勢力の排除を目的として協力している。
とくに袁紹は、宦官という人間の、そもそもの根絶を願っていたはずだ。
そうなってくるとこの二人が要求してくるのは、宦官の中でも大きな勢力を持つ「十常侍」と呼ばれる面々の情報。
つまり俺がやることは、何進や袁紹の息のかかった人間を、後宮へ容易く出入りさせるようにすることだ。
後宮はそもそも、男子禁制だ。
こうして何進も一応、出入りは出来ているが、それはあくまで皇太后の兄だからという理由に過ぎない。
そんな皇太后の兄でも、こんな小さな一室までしか入れないのだ。
宦官や皇太后に怪しまれず、なおかつ明確な皇族の許可がないと、自由な出入りは出来なかった。
本来なら俺が直接情報を提供すれば良いんだが、そこまでは信用してないんだろ。
あと、ガキだからってのもあるんだろうけど。
「でも、後宮への出入りを許可するにしても、理由が必要だろ。特に、俺はお婆様が居ない今、権限は無いに等しい」
「なるほど、話が早くて結構。しかし、理由とは?」
「必要だから呼んだ。そういう理由だな。武術の師範となる様な人を派遣して欲しいと、将軍に相談した、って話なら出入りくらいは許されるのかなーなんて」
「ふむ、なるほど。袁紹、適当な人材はいるか? 武術に秀でて、宦官に怪しまれにくく、信頼できる者だ」
「一人居ります。剣術は並ぶもの無く、宦官の出自を持ち、私の親友であり同僚でもある者が」
「それは誰だ?」
「名を『曹操』と申します。西園八校尉の一人です」
何進は顔を歪めた。
「ヤツか。ただ、アイツの宦官嫌いは有名だ。宦官の者を必要以上に過酷な刑に処して、殴り殺したという話も聞くが、余計に警戒させないか?」
「殴り殺したのは、ケン碩の一族の者です。それに刑の執行も正当なものでした。ケン碩は、宦官の中でもあまり良く思われてなかったですし、心配ないでしょう」
「汚職塗れの宦官と、清廉で過激な曹操か。不安は残るが、そうする他あるまいな」
「後ほど手配いたします」
曹操。
名を聞いた瞬間に、体が震えた。
まさに、一代の英傑。
三国志最強の国である「魏」の基盤を作りあげた天才こそ、曹操なのだ。
そして、実質的にこの曹操が、四百年続いた漢王朝の未来を封じた男になる。
こうして会える事になろうとは。
俺は汗ばむ手のひらを、膝で拭った。
・袁紹
四世三公と呼ばれる、四世代に渡って三公を輩出した名門「袁」家の出身。
後漢末期に、北方の四州を支配下に治め、最大の勢力を誇った。
天下分け目の「官渡の戦い」で曹操に敗北。その後、袁紹の病没と共に袁家は衰退の道を歩んだ。
・三公
行政の最高位にあたる役職。
「司徒」「司空」「大尉」に分かれ、行政や監察、軍権を担当している。