46話
「相国、虎牢関の戦況が届きました」
「聞かせてみろ」
牛輔は息を切らしながら董卓の前で膝をつく。
よほど急いでいたのだろうか、元々青白いその肌が、更に白く染まっていた。
「華雄が討たれ、胡軫軍は孫堅軍に壊滅させられました。今現在は呂布将軍が臨時で全権を握り、虎牢関を固く守っております。袁術の軍は合流が遅れているとのこと」
「ほぅ……孫堅は独力で、それ程の将なのか。袁紹や袁術よりも、よっぽど恐ろしいな」
胡軫は独り善がりな蛮勇の将であるが、攻める事のみを命令すれば、これほど突破力のある将も居ない。
更に、下に付けていた華雄は胡軫の補佐として非常に優れており、こうも簡単に討たれる様な男ではないはずだった。
戦線の膠着は念頭にあっても、壊滅的打撃を受けたとは、予想以上の結果になってしまったと言える。
「しかし、この敗戦、どうも怪しき調査報告が上がっております」
「ほぅ?」
「呂布軍の将である高順が、胡軫軍に虚報を流し、優勢であった戦況をひっくり返してしまった、と。これが事実であれば、呂布将軍は裏切り者です。即座に処断すべきかと」
「クククッ……ハハハハッ!! それは良いことを聞いた。最近、気の滅入る報告ばかりであったが、久々に痛快な気分だ」
「し、相国?」
董卓は膝を叩き、大口を開けて笑う。
劉弁の暗殺が失敗し、李儒の首まで取られてしまった事実が、ずっと董卓の心に熱を落としていた。
その怒りはやがて黒く粘性のあるものへと変わり、ふとしたときに、目の前の人間すら斬り殺したくなる衝動に襲われる。
今までは常に心を殺し、感情を抱かないように生きてきた。
感情を顔に出すときは、あくまで必要と感じたときのみ。心などないと、思っていた。
ただ、今はどうだ。
暴飲暴食や淫蕩に耽らないと、人を殺したくてたまらなくなるほどの怒りが燻っている。
そんな近況の最中にて、この報告は久々に陰鬱とした心を晴らしてくれていた。
「牛輔よ、その報告は恐らく事実だ。お前は、どう処断すべきだと思う?」
「裏切り者は全て、兵からその親族に至るまで全てが処断の対象でしょう。即刻、呂布軍を呼び寄せ、その全てを処断します」
「違うな。お前は相変わらず、了見が狭い」
「はい?」
「胡軫を呼べ。奴の軍は、そのまま呂布の指揮下に収める」
「な、なにを仰られるのですか!? 裏切ったのは、呂布ですぞ!」
「裏切りも戦法の一つさ。結果、呂布は胡軫に勝った。そして、我が軍に、敗者はいらん。処刑するのは、胡軫の方だ」
牛輔は思わず、息をのむ。
冗談ではなかった。董卓は、このような冗談を言わない。
敵であろうと味方であろうと、敗者は一切を奪われる。それが、この軍の方針であるからだ。
眉をしかめ、牛輔は董卓の命令に頭を下げた。
「しかし、徐栄からは何も報告は無いか」
「はい。相変わらず袁紹陣営は静まり返り、緊張こそ高けれど、攻め込む気配は見せないと」
「袁紹め……何を考えているのだ。とりあえず、警戒は緩めさせず、こちらから攻めるなと伝えよ。準備が出来次第、長安へ撤退させる」
「ハッ」
☆
ここが、長安。
一大軍事都市であり、董卓の勢力範囲の為、防備は固く、兵も多い。
確かに軍事的観点で見れば、この遷都の意味は大きいだろう。
宮殿も堅固で大きいが、董卓の屋敷もそれに並ぶ豪勢さであった。
広い屋敷に次々と荷物を運びこむ中、俺は、蔡邕からの献上品である名馬の手入れをしていた。
筋肉の隆起した栗毛の馬で、極めて大人しい性格である。
常に眠たげな眼で、ぼんやりと空を眺めていることが多い。
「陛下、ご自身で手入れなさらずとも、従者にお任せくだされ」
「馬にも人と同じく心があると、以前、董卓に言われた。いざ戦場で、言う事を聞かなくなった時に困る」
「まだ言っておられるのですか。陛下が戦場に出る事はありません」
「ほんとにそうか? ん?」
ここに居るのは、俺と馬と、そして賈詡のみ。
別に気を使う必要もないだろう。
「何を、仰られたいので?」
「兄上が暗殺されそうになった。それを阻んだのは、俺だ。お前は分かってんだろ?」
「……陛下は以前より、宦官の手の者を謀略に使われておいででした。この件も、陛下が以前より警戒し、相国を先回りされていた」
「正解」
「そして私はそれを、相国にお伝えしております」
「だろうな。お前はあくまで中立だ。んで、次の董卓はどう動く」
「弘農王殿下の脅威よりも、陛下の脅威の方が、相国の中で上回った現在。陛下はその命を狙われるでしょう」
「そうだ。ただ、暗殺は出来ない。自分で擁立した皇帝を殺すことは、自身に傷をつける事になるからな。じゃあ、どういう死が自然か」
「……まさか、そこまでお考えで」
劉弁暗殺の一件は、間違いなく、俺が董卓に勝った初めての瞬間だ。
それを、董卓は決して許さない。あいつはそういう男さ。
はっきりと今、俺と董卓は、対立している。
そしてそれを理解しているのは、賈詡だけだ。
「董卓は俺を、戦死、という扱いにするはずだ。そして皇帝の戦死を天下平定の大義名分として、方々に軍を派遣し、乱世を握り潰す。まぁ、袁紹との戦線に俺は派遣されるだろうな」
「陛下は戦場が、恐ろしくないのですか? 死が、怖いとは思わないのですか?」
「恐ろしいし、怖い。それでも、戦場にしか俺の生きる道はない。勝てば良い。俺はそうやって、董卓にも勝つぞ」
「狂っておられる」
「誉め言葉だ」
栗毛をブラシですき、砂ぼこりも払い落す。
馬は気持ちよさそうに目を閉じていた。
「賈詡、もう一度聞く。所領の半分を与える、俺に仕えろ。漢室再興には、お前の力が必要だ」
「私は……」
「俺の敵に立つというなら、躊躇なく殺す。まぁ、それだけは覚えておいてくれ」
「御意」