42話
パチパチと小気味の良い音を立て、小枝の山が赤く灯り、煙を吐いていた。
煙は木の蓋で覆われ、上手く外に逃げられずに、まるで雲の様に集まっている。
その雲の中。
じっくりと燻されているのは、羊を解体した肉であった。
劉弁は、灰に汚れながら薪をくべ、肉を面白そうに眺めている。
「弁様、蔡邕様から枝が届きました。こちらに置いておきますね」
「こんなにも多くの、いやぁ、後で礼を言わねばな」
「ところで、今日はどの木材で、燻されているのですか?」
「蜜柑だ。肉によく合うと、蔡文姫が話していた」
いつも華奢でおしとやかな唐姫でさえ、くたびれた着物の袖をまくり、小枝を折る。
数か月前からは考えられない光景であったが、劉弁はこの穏やかな日々を楽しんでいた。
勿論、漢室の事をひと時たりとも忘れたことはない。
それでも、あの弟が居る。
その事実一つが、劉弁の心にいくらか余裕を持たせてくれていた。
「ある程度まで完成したら、体の汚れを落として、夕食にしよう」
「今、侍女たちに作らせてますので、もう少し楽しんでも構いませんよ」
「では、そうしようか」
良家の出だけに、唐姫はこういう暮らしを嫌がるのではないかと心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。
むしろ最近はよく体を動かし、屋敷の掃除や炊事まで、楽し気にこなしている。
そんな唐姫の姿もまた、劉弁の心の支えであった。
「──弘農王殿下」
「宗越じゃないか、最近姿を見ないから心配していたのだぞ」
ふらりと庭に姿を現したのは、数日間、姿を消していた宦官の宗越であった。
劉協に仕えている宦官らしく、劉弁の身辺の警護までも担う、唯一の信頼できる臣である。
宗越は相変わらずの能面で、少しうつむき加減に膝をついている。
「董卓が、洛陽から長安への遷都を決定しました」
「あぁ、蔡邕殿から聞いた。奴め、この漢王朝の歴史を何だと思っておるのだ」
「それに伴い、董卓が大きく動く可能性が御座います。殿下にはこの数日間、より一層の注意を」
「分かってる」
董卓は以前から、自分の命を度々、陰ながら狙っていた。
その手から守ってくれていたのが、この宗越である。
侍女や従者も、身辺を細かく洗い出し、信用に足る人間しか側にはおいていない。
「それと、おそらく本日の夕食に、毒物が入っていると思われます。殿下並びに奥方様は、それを食べるふりをし、後ほど捨てて下さい」
「身辺から暗殺者が出たというのか?」
「間違いなく。それを確かめる故、泳がせたいのです。御身を危険に晒してしまい、大変申し訳ありません」
「いや、助かっている。お前が居なければ、すでに死んでいた」
「泳がせた後、敵の根本を断ちます。私に何かあった際は、他の者がお伝えしますので、急ぎ蔡邕様の屋敷へ」
宗越は一礼し、影に消えていく。
胸騒ぎがする。それも、悪い予感の、胸騒ぎだ。
だが、狼狽えてはならない。自分は、誰が何と言おうと、この国の皇帝なのだ。
怯えている唐姫に優しく微笑み、その細い手を握った。
☆
劉弁は、死ななかった。
思わず爪を噛む。
ボロボロになった親指の先から、じわじわと血が滲んでくる。
前々から屋敷に侍女として忍ばせていた者の一人が、毒を入れる手筈であった。
確かに仕事はした。そう聞いていた。
だが、死ななかった。
「また、あの宦官か……ただの、腕利きの身辺警護じゃない。あれは、こっち側の人間だ」
こちらの息が掛かった侍女は、あの宦官自らに選ばせた女であった。
自分で選んだ人間ですら寸分も信用しないとなれば、それは普通ではない。
こっちと同じ思考を持った人間に違いなかった。
李儒は闇夜に紛れ、音もなく道を歩く。
黒い布で顔を隠し、陰に潜む。
篝火は煌々としており、衛兵は眠そうに欠伸をひとつ。
フッ
加えた細長い筒に息を吹き込むと、小さい針が勢いよく飛び出す。
すると、衛兵は目玉を剥き出し、首元を掻きむしり、苦し気に倒れる。
足元で倒れている衛兵は、泡を吹いており、既に意識は無いようだった。
董卓の命令。それは、劉弁の暗殺。
長安への遷都の日は迫ってきている。
それまでに殺せと言われていた。
これ以上、時間を無駄には出来ない。
確実に、殺す。この手で首元を斬りつけ、殺す。
衛兵の目の無くなった劉弁の屋敷に、正面から堂々と潜入。
この部屋だ。
劉弁の寝室。
李儒は静かにそこへ手をかけ、開いた。
「──お待ちしておりました」
「よく分かったな。腐れ者め」
寝室。立っていたのは、一人の宦官。
直感で分かった。こいつが、散々邪魔をしてきた奴だと。
「あの侍女を泳がせ、ようやく、貴方の尻尾を掴んだのです」
「それにしては、無防備だな。罠も無く、お前一人だけ」
「罠を仕掛ければ、貴方はそれを察知して近づいてこないでしょう。私と貴方は、生きてきた世界が同じ。鼠は罠に敏感です」
「まさか、一人で、勝てると思ってるのか?」
「無論。汚き鼠、一匹で十分です」
わざわざ、巣穴から出てきた鼠。
罠にかけるまでもない。簡単に殺せる。
そうすれば、劉弁の命は握ったも同然だろう。
李儒は面倒そうに息を吐き、懐から短剣を取り出した。
・燻製肉
冷凍庫などが無かったこの時代、燻製肉は保存食として重宝されていた。
蜜柑の木材の燻製肉は色づきもよく、現在もよく用いられる。