37話
婆さんが体を崩している最中、政治の実権を握っているのは俺の後見人である董卓だ。
蔡邕はその下で様々な政務を取り仕切る一人でもある。
めちゃくちゃ忙しいはずなんだが、急に謁見を申し出るなんて、うーむ、どうしたんだろ?
「あれ? 董承はこの場に居なくていいの?」
「蔡邕様から話は聞いておりますので。まぁ、よくも、もの好きな方ですなぁ、蔡邕様も」
「?」
多少の呆れ顔を浮かべながら、董承は部屋の外へと出て行った。
どうしたんだろうか?
とりあえず、離れた場所に放置した砂糖菓子を拾い、菓子置き場へどさりと積む。
するとしばらくして、董承と入れ違うように、蔡邕、そして娘である蔡文姫が部屋へと入ってくる。
「蔡邕、並びに娘の蔡琰が、陛下に拝謁いたします」
「あ、人払いもしてるし、形式的なヤツは無しにしよ、ね?」
「とは言いましても……陛下は逆に、もっと皇帝らしくですなぁ」
「あー、お説教はやめてくれぃ」
勉強とお説教と礼儀作法は苦手なんでぃ。
あとは、メンヘラね。あれは苦手と言うより、命の危険を感じる。怖い。
でも結局顔が良いと抱いちゃうんだよなぁ。絶対ヤバいって分かってるのに。
「陛下? 何か別のこと考えてませんか?」
「え、あ、なんでもないよ。それで、人払いまでして、何の用事かな? いや、それよりもまずは俺から話があるんだ」
「どういう、ことですか?」
蔡文姫が首を傾げると、劉協は高くに位置する椅子から降りて、深々と頭を下げた。
慌てて蔡邕も蔡文姫も、平身低頭する。
「なにをっ、なりません陛下! 我ら臣下に頭を下げるなどっ」
「誰も見ちゃいない。これは皇帝じゃなく、兄を助けてくれた恩人に、弟が礼を言ってるだけだ。俺を信用してくれてありがとう」
劉弁は皇帝から廃立された後「弘農王」となり、その身柄は董卓の管理下に置かれる運びであった。
それに待ったをかけたのが、蔡邕である。
弘農王を誰かが担ぎ上げ、反乱の旗印となる事を恐れて、董卓は自分の手元に置こうと考えた。
しかし蔡邕は、それこそ反乱軍が兵を挙げ、諸侯が背く口実になると訴えかけたのだ。
皇帝の廃立でさえ諸侯の反感を買っているのに、さらに追い打ちをかける真似は避けた方が良い。
連合に参加せず、まだ中立の立場である、益州の劉焉、幽州の劉虞が動きかねないと述べた。
董卓は難色を示したものの、これ以上、太皇太后に心労を重ねる事は出来ないとしてそれを承諾し、蔡邕の庇護下に置くことを決定したのだ。
「難しい立場だったと思う。でもこれは、董卓に信用され、漢室の忠臣でもある、あんたじゃないと出来なかった」
「……有難きお言葉で御座います。ただ、今回、私が陛下に謁見を申し出たのも、その件に関連しております」
「どういうことだ?」
「これは、賭けです。私は『蔡』家を守るべく、命より大事なものを、陛下に賭けさせていただきます」
大きな顔面を上げ、力強い眼球がギョロリと俺を睨む。
目を逸らしちゃいけないのだろう。何となくそれを理解した。
「まず、陛下にお聞きしたいことがあります」
「聞こう」
「陛下は、虎と龍が、手を取り合って並び立つことが出来ると思いますか?」
「無理だろうな。どっちかが喰われるまで平穏は無いと思う」
「陛下と、董卓様では」
最後は、絞り出すような小さな声。
それでも俺には、はっきりと聞き取れた。
そして、その問いに対する答えは決まっている。
「無理だな。董卓が俺を殺すか、俺が董卓を殺すか、だ」
「……でしょうな。そう仰ると思っておりました」
「俺が逆のことを言ってたらどうした?」
「蔡家を守るべく、弘農王様を董卓様へ引き渡しておりました」
っぶねー。
もうちょっとよく考えて答えるべきだったわ。
いい加減、反射神経で動いちゃうのを止めないと、絶対後で痛い目を見る。
「これで、この蔡邕も覚悟を決めました」
「ん?」
なにやら蔡文姫の視線が気になる。
顔を赤くして、こっちをチラチラ。
えー……また何か怒ってるの? めんどくさいなぁ。
別に今日は何も悪いことしてないじゃんか。
「陛下、我が娘を娶っていただけませんでしょうか? これより蔡家は、陛下の外戚として、全面的な支持をする所存です。来るべき対立で、立場を明確にするために」
「へ?」
ごめん、ちょっと待って、情報量が多すぎる。
それに何で、蔡文姫はそんなに満更でもない様子なの?
えー、ちょっと。
えー……
「何でそんなに嫌そうな顔してるのよ! 嫌なのはこっちよ!!」
「ほら、すーぐ怒るじゃん! そんなにキャンキャン騒がれちゃ、俺だって頭痛いわ」
「なによこの鬼畜! 強姦魔! 私に散々あんなことやこんな事をしておいて!」
「やめろ! 謂れのない罪を俺に被せるな! 何もしてねーし、俺はもっとボンってしたお姉さんが好みなんだぃ!」
「私だって成長期じゃい! キーッ!!」
「あっ、やめろ! 助けて蔡邕! ほら、今こそ蔡家を挙げて皇帝を守るべき!!」
「私は娘の味方ですので。陛下は多少の痛い目を見られた方がよろしいかと」
「ひーっ!」
☆
「おや、陛下。どうしてそのように、顔に引っかき傷が? はて、蔡邕様はサルでも連れてきたのですか?」
「何も聞かないでくれ、董承。いてて……」
・弘農王
皇帝から廃立された劉弁が封じられた、王の呼称。
長安から洛陽にかけた地帯に位置する要衝の土地である王のこと。