36話
「陛下、太皇太后様がお呼びです」
「分かった」
日も暮れて、虫も鳴き始めたころ、宦官が俺を呼びに来た。
賈詡は多忙な為に不在だが、董卓の息の掛かった護衛兵や宦官は多いから、下手な事は出来ん。
董承はじっとしてられないのか、屋敷の見回り中である。
そういや最近、宗越に会ってないが、元気だろうか?
一応、今は劉弁の最たる護衛として側に侍らせている。
董卓も裏の人間を使うと聞いてる。
それに、探らせているはずの李儒の情報が全く掴めない、ってのが余計に怪しかった。
用心に越したことはない。
長い廊下を歩き、屋敷の奥の奥、大きな部屋に通される。
ここから先は許可が無ければ、宦官すら出入りの出来ない禁制の空間。
「婆さん、劉協が来たぞ」
「おぉ、協や」
痩せていた腕は、以前よりもずっと細くなった。
俺の手に触れるその、骨と皮だけの指は冷たく、生命の温もりが衰えていることを感じさせる。
僅かに震える、力無きその指を、優しく握った。
横になっている婆さんの皺だらけの顔が、優しく笑う。
「少し、起き上がらせてくれ。お前の顔を、よく見たい」
「あんまり無理をしないでくれ。俺の顔なんて寝てても見えるだろ?」
「これ、協よ。お前はもう皇帝じゃ。『俺』ではなく『朕』と名乗りなさい」
「分かったよ。朕を、あまり困らせないでくれ」
「それでよい、それでよい」
婆さんは結局俺の手を握り、上半身を起き上がらせた。
プライドの高い人だ。寝たきりの姿など、自分で自分を許せないのだろう。
俺は極力意識して「朕」という言葉を使わない様にしていた。
というのもやっぱり、劉弁のこそが本当の皇帝だと思っているからだ。
特に、董卓の前では絶対に「朕」とは言わない。
でもやっぱり、婆さんと二人きりの時は、皇帝を演じた。
そうすれば婆さんが喜ぶから。
婆さんは、反董卓連合が発足してから、急に体調を崩し始めた。
長年の夢であった、俺の即位が叶ったことで気が緩み、そこに連合の発足で心労が重なった。
その結果なんじゃないかと勝手に思ってる。
「協よ、儂は幸せ者じゃと思っておる。こんなに幸せな晩年が送れようとは、夢にも思わなんだ」
「幸せなら、何よりだ」
「若い頃は、本当に貧しかった。苦しかった。名家に生まれながら、王族の末端である夫に嫁ぎ、その夫は儂と劉宏を残して早世した。明日の食にも困る生活の中で、お前の父を育てたのだ。そして、奇跡が起こった」
劉宏とは、先の皇帝、霊帝のことである。
本当は王族の末端、平民と大して身分の変わらない立場であったが、奇跡的にそんな劉宏が皇帝になったのだ。
というのも後漢末期の皇帝は幼少での崩御が相次ぎ、後継が居なくなった。
そんな時に目を付けられたのが、何の力も持たない末端血統の劉宏だった、というわけである。
「それでも、気は休まらなかった。あの肉屋の女狐が、全てを奪っていった。長かった。ようやく、ようやくそれを取り戻した。宏より継がれる血を、お前という英雄の器に収める事が出来た。我が子との約束も果たせ、愛する孫に手を握られ、これ以上の何を望もうか」
婆さんは、プライドが高く、あまり良い人間ではなかったかもしれない。
独善的でわがままで、典型的な老害だろう。
でも、俺に唯一、無償の愛を注いでくれた存在だった。
野心の為にというよりは、愛する我が子の、孫の為に、という思いが強かった。
それを歪んだ愛だというかもしれない。
それでも、俺にとってはこれ以上にない優しい愛だった。
「まだ朕は幼い。婆さん、辞世の句を詠むよりも、体調を良くすることに集中してくれ。まだまだやることは多いぞ?」
「ふふっ、そうじゃな。なに、少し懐かしくなっただけじゃ」
「連合軍も、董相国の軍に退けられた。もう安心してくれ」
「たまにあの目を怖く感じるが、やはり、董卓は忠臣じゃ。協よ、董卓を敬い、この漢室を立て直しておくれ。龍の紋をもつそなたには、それが出来る」
「分かった分かった。おやすみ」
☆
どっさりと砂糖菓子のお土産を貰い、また居室に戻る。
これ好きじゃないんだよなぁ。
マックのポテトがめちゃくちゃ食べたい。
煙草への欲が消えた代わりに、添加物への欲求がたまらない今日この頃。
そんな俺が最近、欲を打ち消す為によくやってることがある。暇つぶしも兼ねて。
それが、宮殿内に居る護衛兵にいきなり打ちかかる事。
そーっと近づいて、木刀で殴りつける。これだけ。
ただ流石に訓練を積んだ兵士だから一筋縄ではいかないし、相手も反射的に反応するからこっちが蹴り飛ばされるなんてよくある事だ。
まぁでも、管理者が董承だからね、別に兵士にお咎めは無いよ!
軽く見られてんな。我、皇帝ぞ?
「……お、董承が戻ってら」
砂糖菓子を地に置いて、腰に下げてる木刀を、ゆっくりと抜いて構える。
へへっ、相手は武器なんか持ってないからね。一発かましたれ。
抜き足差し足で忍び寄り、間合いに入った瞬間に振り下ろす。
「何の真似ですかな?」
董承は一歩下がってそれを躱し、木刀を踏みつける。
「んぐぎぎ……どきやがれっ」
「馬鹿な事に付き合わされる兵の気持ちも汲んでほしいものですな。いい加減にしてください」
「ごめんなさい」
董承は足を上げる。
「隙ありっ」
足を挙げた瞬間、横に凪いで逆足の脛を叩いてやった。
やーいやーい。
「……すぞ」
「え、ごめんて、そんな目を子供に向けるもんじゃないと思う」
思い切り舌打ちをした董承。
本気の殺気は、八歳を相手に放つものじゃないと思います。
怖くてちょっとちびっちゃったじゃん。
「はぁ……陛下に謁見をしたいという者が来ております。どうなさいますか」
「え、だれ?」
「蔡邕様です」
「おぉ、すぐに会おう!!」
劉弁生存ルートに、今は絶対に欠かさない人物、それが蔡邕。
今も、皇帝を廃された劉弁を、自分の保有する屋敷へと移して保護していてくれていた。
蔡文姫が上手くやってくれたんだろう。えらいえらい。
しかし、突然わざわざ訪問しに来るとは、どうしたんだろうか?
・朕
皇帝が自分を指すときの自称。
・劉宏
後漢末期の皇帝。霊帝。劉協と劉弁の父。
宦官と享楽に耽り、漢王朝の財政を圧迫させた為、民は困窮したといわれる。
宮廷では商人の姿に扮し、商売の真似事などを行って遊んでいたという。