34話
日は高く上り、影一つない荒野に照り付ける。
真赤に染めた三千騎は、微塵も隊列を崩すことなく駆け抜ける。
「張遼」
「はっ」
「お前に千を預ける。右翼を指揮しろ」
「御意」
「高順」
「はーいよ」
「お前にも、同数。左翼を任せたい」
「親友の頼みは断らねぇよ。好きに命令してくれ」
「俺が先頭を駆ける。お前らはお前らで好きに付いて来てくれ。作戦はそれだけだ」
張遼はかしこまって頷き、高順は手をひらひらとさせ、持ち場へと馬を走らせた。
誰一人として、今から臨む戦について、不安を抱いていない。
三千と、八万。
前軍だけで考えれば二万。
圧倒的な差があるのは明らかだった。
それでも、我々は天下を喰らう最強の軍なのだ。
呂布が、そう言った。そう宣言をした。
ならば、万に一つの負けさえ考えてはならない。
「将軍、敵先鋒は鮑信軍です。数は、およそ五千。堅陣を敷いて出方を窺っている様子」
「分かった」
呂布は方天戟を高く掲げる。
股下の赤兎の全身に、力が籠った。
「走るぞ! ──喰い殺せ!!」
雄たけびも上げず、三千騎は一斉に荒野を駆け出す。
それはまるで、迫る烈火の如き勢いであった。
☆
鮑信軍は馬止の柵を前に、後方に弓兵を構えた堅陣であった。
騎馬隊の足を止めることに全力を注いでいる様だ。
たかが三千騎にそこまで警戒をするのか。
恐らく敵軍の指揮官は張邈ではない。曹操だ。
戦を本能で感じ取っているのだろう。
「構えろ」
呂布は戟を横に振る。
騎馬隊は横に広がり、弓矢を馬上から射掛けた。
射掛けてはすぐに敵の射程範囲の外へ逃れ、それを幾度となく繰り返す。
馬上の勢いもあり、こちらの扱う弓は全て強弓である。
鮑信軍はただの的に過ぎなくなっていた。
それでもそのまま堅陣を敷いていれば、突破は難しい。
ただ、三千の兵に好き放題射掛けられている現状を、鮑信がどう思うのか。
「まぁ、普通は我慢できないよな」
鮑信軍は弓兵を後方に下げて、盾兵を前面に展開。
馬止の柵を持ち上げて、そのまま前進を開始した。
すると颯爽と飛び出したのは、左翼の高順の部隊。
鉤爪のついた縄を次々と放り、柵を引きはがしてゆく。
その空いた穴に、張遼の部隊が突っ込んだ。
盾兵なぞ意味も為さない。
高順も今、敵の脇腹に喰らいついた。
敵は既に混乱に陥り、陣の意味をなさなくなっている。
呂布はただ、見極めた。敵の喉元は、どこにある。
揺れる「鮑」の旗が、動き出した。
「駆けるぞ」
赤兎が、土を蹴った。
まるで風である。
誰も付いてくる事の出来ない、無双の軍神。
後方へ今まさに逃げようとしている、鮑信の本陣を捉えた。
側近の部隊が懸命に追いすがってくる。
鮑信は相当慕われているのだろう、という事が敵兵の顔を見て分かる。
方天戟が、指揮官の首を流れるように跳ねる。
本陣を突き抜けた。
僅か十騎に満たない兵と共に逃げる鮑信の顔が、はっきりと見える。
呂布に付いてくるのは三百の精鋭。ただの一騎も失ってはいない。
届く。殺せる。
方天戟を真上に掲げた。
「曹操軍が将、この曹仁がお相手致す!」
「同じく、夏侯惇が参る!」
方天戟の間に入ってきたのは、二人の勇将であった。
黒に染まった敵兵が、壁の様に鮑信を守る。
よく訓練された精鋭である。何より、将の胆が据わっていた。
「先に行け奉先! ここは任せろ!」
「頼むぞ」
高順が黒い壁を、勢いだけで突き崩した。
その隙に、二将の剣をかち上げ、呂布は抜けていく。
張遼は総崩れになった鮑信軍を、追いに追い立てている。
この兵士が後軍にまで雪崩込めば、必ず撤退する。
あとは、張邈と曹操の軍さえ崩せば。
三百の烈火は、今まさに、曹操に届こうとしていた。
☆
「伝令です! 衛慈将軍が呂布に討たれました!」
「なんだとっ!? 敵は僅かに三百……衛慈は一万を指揮する、我が軍の核だぞ!?」
次々と入る報告に、張邈は顔色を真っ青にした。
呂布が、止まらないのだ。
鮑信軍は壊滅。
鮑信は最たる配下の弟を討たれるという敗北ぶりであった。
さらに勢いそのまま突っ込んだ呂布は、一切足を止めることなく、張邈軍第一の将である衛慈までも討ち取った。
「曹仁と夏侯惇はどうした?」
「一旦退こうとなされてますが、高順の用兵は巧みであり、逃れられません」
「敵兵千に対して、千五百を与えているのに、退くことも出来ないのか。あの二人が」
「すでに前軍は崩壊点に達しています。後軍の五万も撤退を開始。お二方も退却を!」
言われなくても分かっていた。
軍の空気を見れば明らかだ。もう、立て直しが不可能な事ぐらい。
「張邈、お前は退け。お前が討たれれば、この連合は立ち行かなくなる」
「曹操! お前はどうするのだ、友を捨てて逃げれようか!?」
「この際、仁義などどうでも良い! 先の事を考えろ! これは戦なのだ!」
曹操は拳を振り抜き、張邈の腹を殴りつけた。
重い音が響き、張邈の体が後方へと倒れこむ。
「な、なに、を……」
「典韋!」
「ここに」
「張邈を連れて陳留へ戻れ! 呂布は俺が食い止める」
「御意。どうか、殿もご無事で」
「急げ」
筋骨の隆起する大柄の武人は、地を掻いて喘ぐ張邈を抱え、幕舎の外へと飛び出した。
「夏侯淵」
「はっ」
「五百を率いて、夏侯惇、曹仁を援護せよ」
「直ちに向かいます」
「曹洪!」
「ここに」
「お前は俺と来い。呂布を討つ」
「お任せを!」
混乱の最中、崩れていく前軍の中で、曹操指揮下の黒づくめの兵士だけが、一切の隊列を乱していなかった。
この軍が負ける事などありえない。鍛えに鍛え上げた自慢の軍だ。
それに、戦わずに退く事だけは、決して自分に許さない。
負けても良い。ただ、自分で決めた乱世の道から、逃げる事は出来ない。
「進め!」
空気を張り裂くような雄たけびと共に、曹操は駆け出した。
・高順
呂布配下の武将。その勇猛さより「陥陣営」の異名がつけられた。
軍随一の勇猛さを誇り、幾度となく戦功をあげたが、あまり厚遇されることはなかった。
呂布が曹操に敗北した際、降ることなく処刑されて忠義を貫いた。
・衛慈
張邈の臣下。徐栄軍との戦いで奮闘するも、戦死した。
曹操を始めて見たとき「天下を平定するのはこの男だ」と称した。
自らの家財を傾けて曹操の兵力集めに協力した。