30話
洛陽の軍権の全てを握り、ようやく董卓の権威は盤石となった。
ただこれは、あくまで洛陽、そして本拠地である涼州、并州での話だ。
各地では群雄が独立して力を振るい、董卓の影響力もそこまで大きくはない。
それに厄介で、目障りだったのは、やはり袁術だろう。
荊州の北部から予州の西部にかけて勢力を伸ばし、孫堅を筆頭とした強力な軍閥も抱えている。
まさに洛陽とは、目と鼻の先という距離にまで勢力は近づいていた。
間違いなく、これから戦になる。
これは軍事に携わる者なら確信に近い予感となっていた。
袁術との衝突は避けられない。そう考えたとき、董卓には大きな不安の種が一つあった。
それが、袁隗である。
今までは袁家の助けがあったからこそ、董卓は政権を掌握できた。
ただ、そのメリットが、袁術との戦でデメリットに裏返る事は大いにありうる話である。
戦の最中に内部で反乱など起きれば、董卓といえど再び辺境の果てまで逃げ帰らないといけなくなる。
袁家の当主である袁隗にはそれが出来た、一声上げるだけで多くの者が協力するはずだ。
袁隗は戦の際、自分に付くか、袁術に付くか。
それを冷静に見極め、迅速に処刑した。
冷酷であり、極めて効率的な一手。
これで袁家の補佐は無くなったが、軍事力で無理やりまとめれば、政権は機能する。
董卓はつまりそちらの道を選び、更に支配体制を強める為、劉弁の廃立を実行したのだろう。
「即位間もなく、大変申し訳ないのですが、陛下並びに太皇太后様に勅を賜りたく思います」
「相国よ、何かあったのか? それは協の即位に関わる事か?」
「左将軍の董旻より、ご説明させていただきます」
董卓が呼ぶと、文官の格好をしている董旻が早足で駆けてくる。
何というか、これが「皇帝」の光景なのか。
一時的な借り物の座だが、宮廷の全てを見渡せるこの玉座は、確かに心震えるものがある。
いつかこの場に居る全員が、俺の一声で、規律正しく頭を地に付ける。
一度で良いからそんな光景を見てみたいと、深く心に刻まれた。
「左将軍、董旻が陛下に拝謁いたします」
「早く聞かせてくれ、そういうの面倒だから」
「え、あ、はぁ……今回、袁隗及び袁家一族の者達を処刑した反逆罪についてです。最近、冀州では、朝廷より牧に任じられていた韓馥が、袁紹に地位を奪われるという事が起きました。袁紹曰く、任の重圧に耐えきれなくなった韓馥殿より譲り受けた、と申し開きしてますが、反意があるのは明らかです」
「しかしそれはあくまで袁紹の問題だろう。袁隗やその一族は関係ない」
「袁隗は裏でその袁紹と通じておりました。そこで近々、はっきりと、軍を挙げることも明示されていたので迅速に処断いたしました。現に袁術は軍備を整えており、賊の討伐という名目で兵の調練まで行っていますが、袁紹の挙兵に示し合わせた動きでしょう」
「袁紹、袁術だけか?」
「陛下はご賢明であられますな。他にも、陳留太守の張邈、その弟の張超。河内太守の王匡。東郡太守の僑瑁。豫洲刺史の孔伷など、多くの者が加担している様子に御座います」
婆さんは、顔色を真っ青にしていた。
これは、洛陽を包囲する様に、諸侯が立ち上がるという事なのだ。
勿論董卓としても、いざとなれば全軍で対処しなくてはならない。だからこそ袁隗を処刑した。
「それで、今回受けたい勅命とは?」
「討伐の為、出兵の許可をいただきたい。相手は、袁術。彼らは連合の恐らく核となる軍になりますので、ここを始めに叩き、先手を打ちます」
「きょ、許可するぞ! 協の名を汚そうとする者は誰であろうと許してはならん! 相国よ! 早く乱を抑えよ!」
婆さんは慌てふためき、董卓に助けを求める。
権限の無い俺は、とりあえず董卓に任せる事にした。
「あの、董卓さーん? 俺も戦に出たいんですけど」
「ダメです。金輪際禁止です」
「ぐぬぬ」
ダメ元で言ってみたら、ダメでした。案の定。
まぁ、他にも大事な用事はある。
皇帝としてやるべき事、やれること。
董卓は、連合軍の旗印となる事を恐れて、劉弁を暗殺する。
そんな運命を食い止めなければ。
これが今、俺の考えなくてはならない事だった。
☆
「兵は全軍でどれほど集まっている」
「およそ、四万ですな。うち一万は我が軍です」
「兄上から何か連絡は?」
「南より袁術様、北方より袁紹様、東方より孔伷様、そのほかの諸侯は張邈殿の下、陳留より進軍を開始し、洛陽へと圧を掛ける手はずです」
「なるほど。見事に洛陽を取り囲んでいる。西方は、まぁ、董卓の拠点だから仕方ないか」
袁術の前に地図を広げ、駒を一つ一つ、盤面にそろえていく。
がっしりした体の、壮年の男は、周囲とは一線を画す独特な風貌をしていた。
燃えるような赤い髪に、海の様な蒼い瞳。鼻筋は高く、目の周りの彫りが深い。
彼こそ、三国志を代表する英雄の一人「孫堅」である。
「いやはや袁術様は、大局を前に落ち着いておられますな」
何一つ様子を変えず、淡々と事務をこなすように作戦を聞く袁術を、頼もしく思ったのか、孫堅は笑う。
ただ、袁術は自分でもこの穏やかさに驚いていた。
元々あまり感情の起伏が激しい方ではないが、大恩のある叔父や一族が殺されてもなお、どういうわけか涙を流せなかった。
涙を流すふりなら出来る。実際に、臣下の前ではそうした。
そうした方が良いと思ったからだ。他に理由はない。
子供の頃から、どこか自分の心が欠落しているのではと、薄々気づいてはいた。
他人の痛みも分からないし、喜怒哀楽も、表現した方が良いという理由があって初めて、顔に出した。
袁隗の死は確かに悲しい。悲しいが、それ以上の思いは無かった。
「落ち着いていられるのは、名将である貴殿が居るからだ」
「過分なお言葉で。微才を尽くし、粉骨砕身の気概で戦に臨みましょう」
痛快に笑う孫堅も、特に信用してはいなかった。
人を惹き付ける魅力を持ち、人格に曇りなく、戦では天賦の才を持つ。
それに、野心も感じる。
嫉妬に似た感情なのかもしれない。
「諸侯は、まずはどこが進軍を開始するのか」
「袁紹様が言うには、まずは我々が初戦を行い、張邈殿を筆頭とした諸侯が洛陽へ迫る手筈です」
「分かった。初戦で全てが決まる、頼むぞ、孫堅将軍」
「お任せを」
孫堅は首に巻いていた赤い布を解き、頭に被せ、結ぶ。
類稀な孫堅の将器が上か、勇猛な涼州軍が力で押し切るか。
袁術は笑顔を作り、見送った。
・孫堅
呉の礎を築いた「孫呉三代」の初代。孫策、孫権の父。
自らを「孫氏の兵法」で知られる孫氏の末裔と称し、多くの戦で勝利を挙げた名将。
荊州刺史の劉表を攻めている際、勝利目前で流れ矢に当たって戦死した。