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29話


 叔父上が、殺された。

 それも、罪人という汚名を着せられ、董卓の独断で。


 袁紹は血が滲むほど拳に力を籠め、叫び出し、気が狂いそうになる想いを歯噛みして抑え込んでいた。


「お気持ちは分かりますが、袁紹殿、食事くらいはとっていただきたいのだ」


「何から何まで、心遣い痛み入ります、韓馥かんふく殿」


「私は袁隗様に取り立てていただいたからこそ、今がある。それに袁紹殿は盟友だ。何も遠慮されることはない」


 細く痩せた壮年の男は、袁紹の手を握り、力を籠める。


 名を、韓馥かんふく

 かつては袁家に仕えた役人だったが、今や冀州一帯を治める男となっていた。


 現在は、亡命してきた袁紹を助け、屋敷で保護していた。


「叔父上は、父を亡くした私と弟に目をかけてくれ、厳しくも、愛の溢れる御方だった。私は、口惜しくて、口惜しくて……」


「私とて身を裂かれる思いだ。何故、袁隗様が殺されなければならないのか。天は漢朝を見放されたのか、と」


 握られた手を、袁紹も握り返す。

 強く、強く。

 韓馥かんふくは眉間を歪め、驚きを顔に浮かべる。


「え、袁紹殿?」


「しかし韓馥かんふく殿、どうして叔父上が出奔する計画を、董卓が未然に知り得たのでしょう」


「どうしたのだ? 袁隗様を、董卓が見張っていたのでは?」


「私の計画が未然に漏れたと? それもあの田舎者に? 見くびられては困ります」


「先ほどから、何が言いたいのだ?」


「この計画を事前に知っていたのは、私と韓馥かんふく殿だけなのです」


 すると急に扉が開かれ、数人の衛兵が、酷い拷問を受けて息も絶え絶えの男を一人、韓馥かんふくの前に連れ出した。


「彼をご存じですね? 韓馥殿の側近の一人です。少し殴りすぎて、顔の形は変わってますが」


「な、なにを……」


「白状しましたよ。韓馥かんふく殿、貴方は袁家にも良い顔をして、いざという時の為、董卓とも繋がりを持っていたらしいですね」


「それは、その、誤解なんだ! 袁家はそもそも董卓を支援していた側だ! まさかこのような事になるとはっ」


 ズダンッ


 韓馥かんふくの目の前で、衛兵により男の首が斬られる。

 この時になって、ようやく気付いた。

 袁紹を受け入れてしまった瞬間から、すでに自分は飲み込まれていたのだと。


 兵も袁紹の指示に従っている。腰が砕け、膝から崩れ落ちる。


韓馥かんふく殿、されど貴方は私の盟友で、恩人だ。殺しはしません。冀州牧を私に譲っていただきたい。今度は私が、お守りします」


「……分かった」


「結構」


 袁紹は手を放して立ち上がり、そのまま部屋を出た。

 外では、袁紹の昔からの参謀である「逢紀ほうき」が待ち構えている。


 文官らしく、太く肉付きの良い体格をしていた。


「お疲れ様で御座います」


「お前は直ちに民政を整えよ。軍は、韓馥配下の者をそのまま使う」


「では、麹義きくぎ将軍と、沮授そじゅ殿が適任でしょう」


「多少無理にでも兵糧と兵をかき集めるのだ。戦だ。曹操と張邈が声を上げる、それに乗る」


「無理を言われますな。事前に準備していたとはいえ、急すぎるかと」


「無理を何とかするのがお前の仕事だ。とにかく急げ。曹操は性急な男だ」


「御意」



 誰も居なくなり、一人になった厠で、袁紹は嘔吐した。

 胃には何も入っていない。ただ苦し気な呻き声だけが漏れる。


 袁隗を殺したのは、自分だ。


 韓馥かんふくが中立にいたことも、董卓がこういう行動を取ることも、すべて知った上での計画だった。

 董卓の後ろ盾には太皇太后がいる。例え反乱軍を興したところで、大義名分が立たない。


 力と、大義。これがなければ、動けなかった。


 だからどうしても、豊かで広大な冀州を手中に収め、天下に名の轟く袁隗に死んでもらわなくてはいけなかった。

 そして、袁家の当主が死んだことで、国政は全て董卓の手に握られた。

 この後に董卓がやることも、分かっている。兵を挙げるのは、その時だ。


 最小の被害でもって、国を治める。

 これで自分は、人ではなくなった。きっとろくな死に方をするまい。


 それでも、やらなくてはならなかった。

 自分には天下を治める義務がある。


 今や天下に名の轟く名門「袁家」の当主は、この、自分なのだから。





「宦官と外戚によって国は荒れ、汚職は蔓延し、賊が蜂起し、民は苦しみ、漢の威光は損なわれた。その崩壊を止め、秩序を取り戻されたのが、董丞相である」


 太皇太后からの勅命は、側仕えの宦官によって高らかに読み上げられる。

 董卓はそれを下段で涼やかな顔をして聞いていた。


 劉弁は、天を仰ぐ。


 これ以上にない屈辱であった。

 自分も、あの弟の様に全てを捨てきれたら、どれほど楽であろうか。


 ただ、それは出来ない。自分は、あの母の子なのだ。

 生まれながらにして、自分はこの国の皇帝として相応しい人間になる様にと教えられてきた。

 しかしその器ではない。それも、よくわかっている。


 それでも、皇帝だった。皆がそう思わずとも、自分だけはそう思い続けてきた。


 間違いなく、英雄の器は劉協にある。

 だからこそ一度は、自分の全てを譲りたいと思った。

 漢王朝を救うにはそれが一番良いと、皇帝としての判断だった。


 しかし、弟は言った。

 皇帝とは、劉弁のみであると。


 自分以外に、自分を認めてくれる人間が居たのだ。

 その時に変わった。

 屈辱に耐える道を歩もうと。


 泥を被った子供を、誰が皇帝だと思うだろうか。それならば死んだ方が良い。

 かつてはそう思っていた。しかし、今は違う。


 ただ一人、たった一人の男が、泥を被った自分を皇帝と呼んでくれる。

 ならば、いくらでも屈辱に耐えられる気がした。



「──以上の功により、董丞相を『相国』に昇進。そして乱を招き、職務を全う出来なかった劉弁は皇帝に相応しくないとし、天の意思、並びに先帝のご遺言に従い、陳留王『劉協』を新たな皇帝とする」



 劉弁は一つ息を吐いて立ち上がり、その冠を脱いだ。


 目の前に立つのは、弟の劉協だ。

 世の中の全てが不満なのではないか。そう思うほどに、悪い目つきをしている。


 狂った龍。


 まことしやかに、そう囁かれていた。

 良い異名だ。劉協という名によく合っているではないか。



「すぐ返すから。皇帝は、あんただけだ」


「ならば、僕も耐えよう。もう二度と、この誇りは手放さない」



 こうして、董卓と太皇太后によって、劉弁が廃立され、劉協が即位した。


 その一報が天下を駆け巡ると、曹操と張邈が声を上げ、反乱軍が各地で勃発。

 反董卓連合。盟主は、袁紹。


 戦乱の世が、幕を開けた。



韓馥かんふく


 袁家に仕える役人だったが、董卓によって冀州牧へ昇進した。

 袁紹と共に反董卓連合へ参加。その後は公孫瓚や董卓の脅威に怯え、袁紹へ地位を譲った。

 居場所が無くなった為、張邈に保護してもらうが、不安が募り厠で自害する。



相国しょうこく


 漢王朝における最高官位。

 劉邦を補佐し、建国の功績が特に秀でていた「蕭何しょうか」「曹参そうさん」のみが就いた。

 この二人に並ぶ功績が無いと相国にはなれない、この二人だけのものであるとされていた。


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