28話
初めは、袁家の力をもってすれば、簡単に御せる相手だと思っていたのかもしれない。
所詮は田舎武将に過ぎず、袁家にへりくだる態度からして、運が良いだけの将軍、としか思わなかった。
それに自分としても、あの「袁隗」だぞ、と。驕りは確かにあった。
三公を歴任し、太傅に就いている、名門袁家の当主だ。
董卓なぞ、辺境で戦しか知らなかった男である。それに、黄巾の乱では負けているではないか。
ヤツを丞相に据えて栄華を楽しませ、袁家の勢力で漢室を立て直す。
十常侍の消えた政界でなら、言うほど難しくはない話だ。
しかし、どうだろうか。蓋を開けてみれば、御されているのは自分であった。
袁家の名を好きに使われ、強力で粗暴な涼州軍は民を人質に取り、逆らうものを罰し、靡く者を重用する。
実に賢く、狡猾で、憎らしいほどに上手い「力」の使い方である。
運が良かったのではない。前々から、水面下で着実に準備していたのだ。
あのへりくだった態度も、もしやすれば、あの黄巾の敗退でさえも、全てが群臣の目を欺く為であったのではないか。
これでは、袁家の名声は董卓の食い物になるだけだ。
「……袁隗様」
夕焼けで薄暗くなった広い庭園で、どこからともなく声が聞こえる。
従者は少し離れて後方にいるが、彼らの声ではなかった。
「誰だ」
「袁紹様の、密偵の者に御座います」
「なに?」
袁紹は、洛陽を出奔してから、プツリと連絡が途絶え行方不明になっていたはずだ。
ただ、無事なら良かった。思わず袁隗は、ほっと胸を撫で下ろす。
「袁紹は今どこに」
「名は明かせませんが、盟友である御方の屋敷に匿われて御座います。心配はいりません」
「それは良かった。本当に、良かった」
「この度は、袁隗様にも出奔なさっていただきたいと、主君からお伝えするように言われております」
「……急な話ではないか。それに董卓は儂に手出しは出来ん、大丈夫だ」
「されどそれも、時間の問題では?」
思わず口をつぐむ。
確かに、今はまだ袁家の名が大きく、董卓とて手出しは出来ない。
しかし、このまま董卓が急成長を続け、袁家の名すら不要になれば。
その時は間違いなく消される。今でさえ、じわじわと喰われ続けているのだ。
それにまた、袁術の成長も、董卓にとってはかなり目障りになってきている。
今でこそ、賊軍の討伐という名目で勢力を着々と伸ばしているため、そこに異論を挟むことは出来ないだろう。
ただ、それでもはっきりと、袁術は独立した勢力になっていた。
どこかで董卓が手を打ってきてもおかしくはない。
「主君は袁隗様の御身を心配しておられます。何かあってからでは遅いのです。董卓が除かれるその日まで、身を隠していただきたい」
「……分かった。袁紹の言う通りだ。儂は、董卓を見誤っておった」
「では、明日の夜」
「すぐに準備しよう」
☆
ガチャガチャと、重厚な鎧を揺らし、三人の大男が床板を鳴らす。
中央を歩くのは董卓。腰に大刀を下げ、感情の消えた大きな瞳で正面を見据える。
その後方。比較的若く、体中に傷を残すのは、涼州騎馬隊を率いる二人の勇猛な校尉。
名を、李傕、そして郭汜という。
その立ち居振る舞いはあまりに礼を失しており、連絡もなく押し掛けるのは不忠にも程がある。
まだ赤々として、濡れて間もない血が、鎧のあちこちに付着していた。
劉弁は、腰を据え、瞳を閉じ、グッと堪える。
「陛下、どうか気を安らかに。手練れを隠しております故、何かあればすぐにお逃げください」
「大丈夫だ。朕は逃げない」
後ろに侍る宦官は、名を宗越という。
十常侍の乱の数少ない、生き残りの一人であった。
そして、密かに劉協に仕えているらしいこの男は、劉弁が信頼できる唯一の家臣でもある。
「陛下、あまりに急な出来事であった為に、事前にお伺いを立てることもせずに大変申し訳ございません。どうかお許しを」
跪きもせず、人の良さそうな笑顔を浮かべる董卓。
劉弁は不快な目を向け「構わん」と短く、一言だけ答えた。
「それで、董丞相、何があった。朕や太皇太后様に伺いも立てず、どのような了見か」
「いやはや、一大事でございました。なんと謀反人が、あろうことか陛下の側に侍り、挙句に洛陽を出奔しようとしていましたので」
「捕らえたのか?」
「いえ、事も事なので──処刑させていただきました」
劉弁は立ち上がろうとした我が身を抑え、静かに、ゆっくりと息を吐く。
「丞相、それは困る。生殺与奪の権は本来、皇帝にのみ許された権限だ。捕らえる事が出来たのであれば捕らえ、朕と太皇太后様の前に引き出してもらわねば」
「ただの罪人であれば臣とてそうします。されど、非常事態でありました故に。捕らえてしまえば、更なる反乱が起きる可能性が御座いました」
董卓は李傕の名を呼ぶ。
後方に控えていた長身の、蛇の様な目をした武人は、抱えていた箱を劉弁の目の前に置く。
「こちらが、罪人の首に御座います」
李傕が箱を開くと、そこには、袁隗の首が入っていた。
・李傕
董卓配下の武将。董卓死後は、王允を処刑して国政の実権を握った。
幼馴染である郭汜と共に董卓死後の実権を握ったが、後に仲違いをするようになる。
同士討ちによって都は荒れ果て、後に衰退し、三族ともに処刑された。
・郭汜
董卓配下の武将。董卓死後は、王允を処刑して国政の実権を握った。
幼馴染である郭汜と共に董卓死後の実権を握ったが、後に仲違いをするようになる。
同士討ちによって都は荒れ果て、後に衰退し、曹操の武将に追われて首を取られた。