26話
あれが「狂龍の血を引く王」か。
なるほど、誰が言い出したかは知らないが、言い得て妙な異名である。
幼げで端正な顔立ちに、似つかわしくない鋭い目つき。
平穏無事な幼少期を過ごしている、そんな目ではなかった。
あれは、無謀なまでの危うい大望を胸に秘め、清濁を合わせ飲み干す気概を孕んでいる。
王族ではなく、戦争孤児の様な、そういった子供の目なのだ。
「天は、あの子供に『龍』を与えられた。それは、漢室復興の光なのか、それとも……」
蔡邕は夜空に上る月を見上げて、眉をしかめた。
長い亡命生活の中で、各地の歴史を見て、渡り歩いた。
各地の英雄は如何にして生まれ、如何にして滅んだのかも知った。
果たして「劉協」はどの英雄になぞらえればいいのだろうか。
膨大な知見を有する蔡邕ですら、未だに答えは出てこない。
まだ、幼少だ。
結論を急ぐこともあるまい。
最終的にいつも、答えは全て、そこに帰結した。
「お父様、夜風は寒いでしょう。早く部屋へお戻りください」
「おぉ、琰よ。お前も、体調は大丈夫か?」
「あれくらいで人は風邪を引きませんわ」
愛おしい一人娘であった。
この子が男だったらと、蔡邕はいつも思っていた。
きっと「王佐の才」を持つ、稀代の大臣にまでなったであろう。
親の贔屓目を抜きにしても、彼女には優れた才覚があった。
しかし、その才覚故に、この世は生きづらいであろう、とも思えた。
決して曲がらぬ芯を持つ者には、多くの苦難が襲い掛かるものだ。
ましてや、女性である。
この愛しい娘の為に、財も地位も、積み上げておかねばならなかった。
そういった意味では、董卓の行いに思う所があれど、同時に恩義も感じていた。
「琰、お前は陳留王殿下を、どのように思った?」
「ど、どういう風に、とは? 全く、王たる自覚も無い、うつけの子供です!」
「はははっ、確かにな。あれほど王たる風格の無い王も珍しい。されど、ああいう形無しの風格を持つ男を、儂は二人、知っておる」
「どなたでしょう?」
「曹操、そして、董卓殿よ」
言い表すなら、強烈な自我。
いざとなれば倫理も道徳も捨てる、そういう性質。
こういった男の末路は、二つに一つ。
天下に名を馳せる英雄となるか、犬の糞とも変わらぬ屍となるか、だ。
「あの、実は、お父様にお話ししたいことがございます」
「どうした?」
「その、陳留王殿下より、密命を預かりました」
「密命とな? 殿下よりか? それとも、董卓殿や、太皇太后様からの言伝か?」
「殿下ご自身の言葉です。殿下は、信用できねば戯言として聞き流してくれても良いと」
この、形無しの男達の、特筆すべき性質がもう一つある。
それは、決して並び立たない事。
「……聞かねばなるまいな」
見極めなければならない。
自分はこの乱世において、誰が英雄となるかを見極め、後世に記録を残す義務がある。
月明かりに、薄い雲がかかり始めていた。
☆
劉協から預かっていた密命は、父に確かに伝えた。
董卓の強権的な行動は目に余る。民を殺し、略奪も繰り返す。
陛下の身の危険を聞けば、父はもちろん、陛下を助けてくれるだろう。
そう思っていた。
しかしその態度は最後まで煮え切らず、悩んだまま、口外してはいけないと念を押されただけであった。
一人、静かな自室に戻る。
鈴虫の音がよく聞こえる夜だった。
文机の上や、棚には多くの竹簡が蓄えられている。
その全てが自分で言葉を記したものだ。
世に出ている様な書物は、一度目を通せばすべて記憶できる為、部屋に置く必要はない。
机の前に座り、墨を擦って、竹簡を開く。
暇さえあればいつも、ここに詩文や教書、思いついた音律など、多くのものを書き記した。
例え父であろうと、決して他人には見せない、そういった書物達だ。
「ふぅ……」
筆を握る手にはまだ、締め付けられるような感覚が残っていた。
あの獣の様な目も、殺気を孕んだ囁き声も。
子供のくせに嫌に力が強いところも、生々しく残った頬の傷跡も。
首筋から覗く、龍の文様も。
思い出すだけで苛立ちが増し、体が火照る。
ムカつく。ムカつく。
思いのままに筆を走らせる。
理想の男性像とは真逆のガキだ。
乱暴で、口が悪く、思いやりも無い、傲慢な男。
本当は、劉弁と唐姫のような、綺麗で清らかな関係が理想だった。
何度もそう言う恋物語を頭に浮かべては、甘い夢の幸せに浸っていた。
「なのに、なのにっ……どうしてよっ!」
呟くように小さな声で、ギシギシと歯ぎしりをしながら、文字を書き殴る。
頭に思い浮かぶのは、劉協に組み伏せられる自分の姿ばかり。
嫌なのに、筆は止まらない。
背徳的な快感が脳を浸していく。
美貌の男性に抱きかかえられたいと思う反面、屈強で粗暴な軍人に組み伏せられたいとも感じてしまう。
こうしてまた、劉協と自分を題材にした下賤な詩文が出来上がってしまった。
竹簡いっぱいに乱暴な文字がこれでもかと押し詰められ、美しさの欠片も無い、ひどい詩だ。
もう、二度と開き読むことはないだろう。
きっと恥ずかしさで死んでしまう。
でも捨てるには、何故か惜しい。
蔡文姫はため息交じりに、その竹簡をぐるぐると紐で縛り、書棚の奥に放り込んだ。
この渾身の詩文は、遠い後の時代にまで残ってしまうのだが、そのことについて劉協は知る由もなかった。
・王佐の才
帝王を補佐し、大業を成し得る優れた才能。
曹操を助けた荀彧、献帝に尽くした王允などが、こう称された。
・竹簡
竹で作られた札。ここに文字を記した。
バラバラにならないよう紐でまとめ、巻物にしている。