25話
僅かに、砂利に足を取られながらも、董承は走った。
劉協が駆け込んだのは、この一室で間違いない。
董承は扉の前で膝をつき、まずは息を整えた。
「殿下、ここに居られるのでしょう。何故、この董承からお逃げになる」
返事は、すぐには返ってこない。
二呼吸おいた後、小さなため息交じりに、あの気だるげな声が聞こえた。
『逃げたのではない。急ぎ、蔡文姫殿をお連れしただけだ。あのような姿で外には居れまい。気も使えんのかお前は』
「それは殿下とて同じこと。ならば声を一つかけてくれればよろしい。それに、別室にお連れしたならばすぐに殿下も部屋から出て、侍女を待つなりした方がよろしいのでは?」
『俺も服が濡れた』
「はぁ……殿下は男でしょう。女々しいことを言われますな。早く、殿下は出てきてくだされ」
身分がどうこうよりも、今は董卓からの任務を果たす事が優先だ。
董承は立ち上がり、扉に手をかけた。
その瞬間だった。
『んっ…ふっ……ッ』
僅かに漏れる、少女の小さな吐息。
それは艶やかな色を帯び、董承の動きをピタリと止めた。
思わず頭を抱えたくなる。
そういえば聞いたことがあった。
劉協は沐浴の際、侍女にやたらとスキンシップを迫ったりして、少し問題になっていたとか。
まだ幼少ながら、色に目が無い性格なのだろう。
だとすればこの一室で何が起きているのか。想像するだけでも頭痛がする。
「殿下、ならば蔡邕様をお連れ致しますので。いい加減にして下さいませ」
『なっ、ちょ、オイ!!』
扉の向こうから聞こえる慌てた声。
自分はどうしてこのようなガキの監視を。
戦場で命を賭けるのとは別の、うんざりとした気分を感じた。
もう一度殺してしまおうかと思ったが、鈍く痛む額が許してくれそうにない。
☆
ようやく董承が離れた。
うまく勘違いしてくれたみたいだ。
「あ、あなた、一体なんなの……」
水で貼りつき、透ける衣服。
顔は赤く染まり、瞳は僅かに潤んでいる。
吐息も熱く、艶っぽい。
てっきり怒られるものだとばかり思ってたが……何でコイツ抵抗しなかったんだ?
まぁ、好都合だ。全部良しとしよう。
結果として変に董承も勘違いしてくれたことだし!
「は、はやく、この腕の帯を解きなさいっ」
「ん? 自分で解けるぞそれ」
「え? あ、あれ?」
この部屋に連れ込んでから、暴れようとした蔡文姫を無理やり押し倒して、両手を帯で縛らせてもらった。
とはいえ力を入れれば簡単に解けるくらい雑な結びだったが。
押し倒した後は口を塞ぎ、静かにしろと耳元で囁いた。
そっからなんだよな、なんか様子がおかしいんだよコイツ。
抵抗する素振りばっかで、全く力がこもってやしない。
挙句にはこっちがドキッとするような声を漏らすし。
別にガキには興味は無いんだぁが……
ようやく彼女の上から体をどかす。
するとキョトンとしたまま、腕の帯をするすると解いていった。
「こ、これから私をどうするつもりよっ、この獣! 私の心まで奪えると思ったら大間違いなんだから!!」
「さっきからお前は何を言ってるんだ。訳分からん。これだから乳臭いガキは嫌いなんだ」
「は、はぁぁああ!?」
沸騰するんじゃないかってぐらい顔が赤いな。
いったん落ち着け。風邪ひくぞ。
「どうしても今日、お前と二人きりになる必要があった。だから、どうかこれまでの非礼を許してくれ」
「……え、な、何なのよ急に。今日は様子がおかしいわよ?」
蔡文姫の前で膝を折り、頭を下げる。
こんなことでしか人に頼むことが出来ない身分なのが口惜しい。
それでも、守りたい人を守るために、手段は選んでいられなかった。
「大事な話なんだ。お前に、この漢王朝の命運が懸かっている」
漢王朝の命運。
それを聞いた瞬間、蔡文姫の表情も、いつものあの冷静で気高い顔に変わった。
「何故、私にそのような大事を託されるのでしょうか、殿下」
「董卓に正面から進言し、許されるのはお前の父上くらいなものだ。そしてその父上を動かせるのは、お前をおいて他にない」
「内容次第では……」
「蔡邕殿だけではない。お前も、蔡家の一族まで危険が及ぶ。だから、この話を父上に打ち明けるか否かは、お前が判断してくれ。所詮、狂人と呼ばれる幼少の王の戯言だと思っても構わん」
「分かりました。謹んでお聞きいたします」
流石に三国志随一の烈女「蔡文姫」だった。
微塵も動揺の色を見せることなく、静かに居住まいを正す。
とにかく一つ一つの所作が、流れるように綺麗で、思わず目を奪われる。
これでまだ俺の五つ上。十三歳ってんだから驚きだ。
「執金吾を吸収し、皇太后が亡くなった今、董卓が何を考えているか、分かるか?」
「……いえ」
「間違いなく次に、陛下の廃立に動く。そして擁立されるのは、俺だ」
「なっ……しかしそれは、天下が許しません。董丞相は、皇室とは何の所縁もない出自です。そのような決定権はないはず」
「それでもやるのが董卓だ」
「殿下は、父上ならそれを止められると御思いで?」
「無理だろう。董卓には太皇太后の後ろ盾がある。蔡邕殿にお願いしたいのは、その後だ」
「廃立後、の事でしょうか」
「劉弁陛下を、守って欲しい。きっといつか董卓は、兄の命を奪う。俺を皇位につけるとなれば、対抗勢力が兄を担ぐのは当然だからだ。その時に間違いなく、殺される」
「……それは、でも、殿下の推察の域を出ない話」
「だから、戯言と思ってくれても良い。いつか董卓の魔の手が消えた時、俺は兄に帝位を返すつもりだ。その時まで守れるのは蔡邕殿をおいて他に居ない」
蔡文姫は目を閉じる。
あまりに現実味のない、飛躍した話だ。
信じてくれるかどうか。それで大きく未来は変わるはず。
頼む。祈る様に、俺は頭を下げる。
「……あの殿下が、人に頭を下げるのです。分かりました、父上に後日、お話しいたします」
「信じてくれるのか?」
「勘違いしないでください。陛下と、唐姫様の為です」
離れたところから、荒々し気に砂利を踏む音が聞こえる。
董承が戻って来たのだろう。
「やっべ……と、とりあえずお前、その変に露出の高い身なりを何とかしろ! 勘違いされたらかなわん!」
「は、はぁああ!? 嫌なのはこっちですけど!」
「声が大きいんだよ馬鹿が!!」
この後、蔡邕さんの怪しげな目線にずっと晒されて、ほんとに居たたまれなかったです。