24話
蔡邕と言えば、この時代における文芸の第一人者だ。
その学識の高さは有名で、音楽にも通じ、また政治家としても有能であったらしい。
宦官の専横を憎み、先の皇帝である「霊帝」に宦官の排斥を求めたことがきっかけで、蔡邕は宦官らに恨まれることになったとか。
その後、亡命生活を送ること、なんと十二年。
そんなに長い間、誰とも知れない人から命を狙われ続けるって、気が狂いそうだ。
逃亡生活は「十常侍の乱」によって終結し、蔡邕は今、董卓に請われて官吏に復帰。
あの董卓が、尊敬の念を抱いている唯一の人物だと言っても良いだろう。
だからこそこうやって、警戒対象の俺が、蔡邕に会うことも許されるってわけ。
「これは、殿下直々に。あまりに急であった為、歓迎のご用意も出来ず大変申し訳ございません」
「いや、急に来たのはこっちだ。無理を言ってすまんな」
小さく細身ながらも、不釣り合いなほどに頭が大きい。
そして何より、その眼光だ。丁原にどこか似た、不屈の光が煌々と宿っている。
今でこそニコニコしているが、いざ激怒すれば、めちゃくちゃ怖いんだろうなぁ。
「それで、何か御用でしょうか?」
「いや、勿論、高名である蔡邕先生から色々教えを乞いたいと思っているのだが、本当に用事があるのはご息女の、蔡文姫殿なんだ」
「娘の、琰に御用が?」
広い庭園を並んで歩きながら、蔡邕はその大きな頭を傾げる。
バランス崩して倒れちゃわないか心配になるな。
「いや、つい先日、陛下と唐姫様の宴席に呼ばれたのですが、その席に蔡文姫殿も居ました。しかし、俺が同席した途端に琴線が切れたので、それについてお詫びしようかと。陛下にも、そうした方が良いと言われましたので」
「わざわざそのようなっ……琴線が切れたのは、娘の不手際によるところ。殿下が左様な事をなさるべきではありませんっ」
「しかしそれでは、陛下に窘められた俺の立つ瀬がない。ここは子供の言うことだと思って、あまり深く考えられますな」
「むぅ、大変申し訳ございません。すぐに娘を呼んでまいります。また書室にて、ささやかながら茶のご用意も致しますので、娘と共においでになって下さいませ」
「お気遣いに感謝します」
あたふたと、蔡邕は小走りで庭を駆けていく。
この当時の価値観からしてみれば、公式的に男が女に頭を下げることなんて、相当に珍しいことだろう。
しかも、皇帝の弟である、王がそれをしようというのだ。
感心というよりは、むしろちょっと、変人の類に思われてるのかもな。
「なんだその顔は、董承」
「いえいえ。女に頭を下げるなど、殿下から最も遠いことだと思っておりました故に。まぁ、おかしな事をしでかすのは、今に始まったことでは無いですが」
なんだコイツ、俺のこと良く分かってるじゃん。
でもちょっとムカつくから、もう一回、その頭をカチ割っていいか?
☆
「殿下直々にご足労頂き、大変申し訳ございません」
客間にて待っていたのは、綺麗に着飾った蔡文姫だった。
以前見たときはまるで子供の様な容姿だったのに、化粧一つで、大人びた美貌が備わっている。
まぁ、身長は小さいまんまだけどね。
ただなぁ、俺を見据えるその目がなぁ、明らかに警戒心剥き出しなんだよなぁ。
「別に何もしねぇよ」
「信用できません」
「普通に謝りに来ただけだって……ちょっと、外に出て歩かないか? 陛下や唐姫様の事についても、色々聞きたいからさ」
「まぁ、分かりました」
ここまで自尊心というか、自立した気風を持つ女性も、この時代は珍しいんでないかい?
絶対に他人に媚びようとしないよな。
まさに清廉潔白。文武両道クソマジメ学級委員長。
すぐに先生に言いつける必殺技止めてくんないかな?
「少し、意外でした。殿下は人に頭を下げる様な方だとは思わなかったので」
「それさっき聞いた」
「?」
庭に出て、子供が二人、ゆっくり並んで歩く。
少し離れた後方で、董承がぴたりと俺の動向を窺っていた。
マージで邪魔だな。ここまで付いてくるとは思わなんだ。
「それで、陛下と唐姫様について、何かあったのですか?」
「いや、俺はこの通り、ずっと董卓や董太皇太后から監視されてて、陛下には会えてないからな。皇太后が亡くなられてからも、会えていない。落ち込んでるんじゃないかと思って」
「確かに、気分は塞がっておいででした。しかし今は、ご立派に明るく振る舞っておられます。それこそ、どこか憑き物が取れたように」
やはり、皇太后様の存在は、どこか陛下の枷になっていたのでしょう。
周囲をはばかる様に、蔡文姫はそう呟く。
確かになぁ、あれが母親ってのは流石にキツかっただろうってのは思う。
野心の為なら人殺しだってなんのその。
確かに劉弁の事は愛していただろう。
だけどその愛は、劉弁に対してか、それとも野心に対してか。
でも、はちゃめちゃに美人さんだったなぁ。初対面の衝撃は未だに忘れられん。
「まぁ、元気ならそれでいい」
気弱な暗君。
それが後世における劉弁の印象、評価だと思う。
でも、そうじゃない。
むしろ死に際の逸話なんかを見てみれば、劉弁は立派な男だったと思う。
それにその覚悟も、俺は知っている。
このままどうにか、皇位にあり続けてくれれば、きっと名君になる素質はある。
だからこそ、守らないといけない。
「あの、殿下」
「ん?」
「そういえば、殿下からの謝罪の言葉を、まだ聞いておりませんでしたので」
「あん?」
「それで今回の件は終わりとしましょう。私も、非礼をお詫びしますから」
そういや、そんな用事でここにきてたんだっけか。
すっかり忘れてた。
「蔡文姫よ」
「はい」
「今からお前は転んで、この池に飛び込め。なるべく全身、びっしょりと。自然に転べよ」
「……は?」
キリリとした表情が、一瞬にして間の抜けた顔に変身。
止めろよそう言う顔するの。バレちゃうだろうが、董承に!
「良いから言うとおりにしろ、危急の用事なんだよ」
「何を言うかと思えば、またそのような……少しでも殿下に期待をした私が馬鹿でした!」
これ以上騒がれたら、董承が寄ってくる。
クソッ。もう知らんぞ、お前が悪いんだからな!
足元の小石を横にけり出す。
それは、華やかな衣服で歩きづらそうにしていた蔡文姫の足元に転がり、そのバランスを僅かに崩した。
「アッ、アブナイゾ、サイブンキー!」
俺は見事な演技をブチかまし、彼女に手を伸ばしながら、その足を董承から見えない角度で払った。
少女は目を真ん丸に開き、浅い池に全身でバッシャーン。
鯉も慌てて逃げ惑う。
俺は急いで引き上げ、羽織っていた衣を蔡文姫にかけた。
ははっ、頭に藻屑がのってらー。
「殿下っ、如何なされたのですか!」
「こっちを向くな、董承! お前は蔡文姫殿に恥をかかせたいのか!?」
「なっ……御意」
濡れた衣服は透けて肌に張り付き、その柔肌の色や形を鮮明に映し出す。
勿論、蔡文姫の目は怒り百パーセント。
仕方ないんやって。ごめんて。
身分としては、ただの一介の武人に過ぎない董承が、目をやって良い現場ではない。
野心だのお金だのに目が無いコイツでも、一応、ちゃんとした身分を弁えるところがあるからな。
「これはどういうっ──」
「いいから、少し黙れ」
流石にこれ以上騒がれると、俺も怒る。
僅かに感じた殺気に、蔡文姫も思わず、口を噤んでしまう。
「……殿下、もうよろしいですか? あれ、殿下?」
少し経って、董承が振り向くと、そこに二人の子供の姿はなかった。
これは、どういうことだ。
董卓には注視しておけとキツく言われてあるのに、この失態。
すると視界の端、少し離れた地点に、小さな影が見えた。
間違いない。劉協が蔡文姫を抱きかかえて、走り去っていく影だ。
「何をする気だっ?」
董承は慌てて、二人の影を追いかけた。
・蔡邕
後漢末期の学者、政治家、書家。文芸における第一人者。
宦官との確執の為に、董卓に抜擢されるまでの十二年以上の間、亡命生活を送った。
董卓誅殺の際、僅かに死を惜しむ表情を見せた為、王允に問い詰められ、死刑に処される。
・劉弁の辞世の句
董卓による追手が迫り、自分の死を覚悟した劉弁は、唐姫と酒を交わしながらこう話した。
「運命はどうにも出来ない。地位を捨て、土地を守らんと思えど、生きながらえる事は出来ないらしい。今はただ、浄土へ旅立つことを願う」
「漢は崩れ、国土は奪われ、貴方の命は若くして砕かれようとしています。夫婦として一人残される私は、悲しみに潰されそうな思いです」
「君は皇帝の妻だ。誇りを持ち、どうか再婚もしないでほしい。体も大事にしてくれ。では、さらばだ」