17話
丁原の頑固さは折り紙付きだな。
確かに何の考えも無しに、呂布と一騎討ちなんかするんじゃなかった。
冷静になりゃ分かるんだよ。
別に自殺志願者なんかじゃないんだから、思い出すだけで震えるわ。
「これ以上、丁原殿と交渉をしても疑いは深まるばかりだと」
「うーん」
宗越の報告を聞きながら、空っぽの脳みそを何とかひねってみる。
ただ、これはもうどうしようもない。
史実からして、呂布が裏切りますよー、なんて絶対に信じないだろう。
精々、身の回りに気をつけて、と注意するだけ。
「仕方ない。本人が大丈夫だと言ったんだ、それを信じよう」
董卓の弱体化には、丁原との争いを長期化させる必要がある。
そうやって二人を弱体化させ、機を見て実権を皇帝の名の下に取り戻す。
ただ、董卓も馬鹿じゃない。迅速に政権の安定化を図っている。
こうなれば少し方針を変更するべきかもしれない。
徳川家康作戦だ。
とにかく耐える。待つ。生きる。それだけ。
問題はあの、董卓が相手だという事。
「もう、丁原の方は良い。陛下の身の安全の確保を頼む。それを第一にしてほしい」
「御意」
奥の影に宗越の姿が消え、大きく溜息を一つ。
ガキ故に警戒されないけど、ガキ故に実権は皆無だ。
あの源義経でさえ、確か戦場に出たのは二十歳くらいだったか。
今は何とか凌いで、生きて、根を張るしかないだろう。
☆
とりあえずの戦勝祝いという事で、俺は劉弁に呼び出されていた。
勝ってないけどね。生きて帰れてよかったね会、みたいな。
頬の傷はまだ癒えておらず、大きなかさぶたが残ってる。
医者が言うには、痕が一生残るだろうとな。
肩や腕には包帯が巻かれてて、痣もあちらこちらに。
寝返りうてないんだよコレ。
勿論、婆さんには死ぬ程心配された挙句、馬も剣も奪われた。
パチンコもない世界で、やることも無い。筋トレでもしようかと思ったけど、怪我で無理。
そんな中でのお誘いは、なんだかとても嬉しいね。
はてさて、何を食べられるのかな?
博多のとんこつラーメンが恋しすぎる。
「本当に、本当に、無事で何よりだ、協」
眉を八の字に曲げた笑顔で駆け寄ってきたのは、皇帝「劉弁」であった。
まだ客間じゃない。
部屋を飛び出し迎えてくれる辺りに、その優しさを感じる。
「今日は、皇太后の看護は良かったのか?」
「最近の母上は落ち着いているから、少し安心しているところだ。それよりも、お前だ。怪我は大丈夫か?」
「派手に転んだみたいなものだよ。別に手が使えない訳じゃないし、すぐに治る」
「それは良かった。不幸中の幸いだ」
劉弁に手を取られて、俺は客間に通された。
聞こえるのは心を溶かす様な、心地良い琴の音色と、甘い香。
部屋に居たのは二人の女性。一人は琴を奏で、一人は淑やかに座っている。
座っている方の女性は知っている顔だ。
名は唐姫。すらりと細く長く、柔和な笑顔に微かな光が滲んでいる様に見える。
目を見張る様な、ハッとした美人というわけではないが、いつまでも傍に寄り添って欲しいと思える女性である。
生まれも家柄も申し分ない、劉弁の妻であった。劉弁が成人すればきっと、彼女が皇后になるのだろう。
そしてもう一人。琴を弾く少女は、見知らぬ顔だ。
気の強そうな面持ちをしているが、琴線を弾く指はしなやかで柔らかい。
歳は俺と同じくらいだろうか? 背丈が低いのが特徴的だ。
彼女達はどうやら友人の関係らしい。
「あ」
突然、プツンと琴線が千切れた。
少女は不快に鼻息を漏らし、こちらへ顔を向ける。
「血の臭いのする、野蛮な人が来たせいで音が途切れてしまいましたわ」
「あん?」
明らかに俺への嫌みだった。
喧嘩を売られたら買うのが俺のルールだ。その不快そうな少女の瞳を真っすぐに睨み返す。
自慢じゃないが、俺は普通に老人でも女でも子供でも殴るタイプだよ?
「蔡琰、殿下に不敬ですよ」
「軍人は嫌いです」
「はぁ……申し訳ございません、殿下、陛下」
代わりに頭を下げたのは唐姫だった。
なんだあのガキはマジで……蔡琰、聞いたことあるな、えっと。
「あ、蔡文姫か」
三国志を代表する才女だ。それが、この少女。
波乱な人生で不遇に喘ぎながらも、父の記した膨大な歴史書の復元を、己が記憶力のみで成し遂げた天才。
もっと落ち着きのある淑女かと思ったが、負けん気溢れるガールじゃないか。
嫌いだわー。
学校のクラス委員長とかを思い出すね。
もっとちゃんと掃除しなさいよ! 真面目に歌いなさい! とか。ほんとにうるせぇんだよアレが。
「チッ、これだからガキは苦手なんだ。おまけに優等生か、反吐が出るね」
「はぁああ!? 貴方みたいな子供に言われたくないですぅ! 私だって貴方みたいに知性の欠片もない、野蛮な男なんて願い下げよ!」
「んだとガキが、あぁ?」
「ガキって言うなガキ!!」
「二人とも、止めなさい」
静かに、にこやかに、間に入るのは劉弁だった。
有無を言わせない圧力に、思わず気圧されてしまう。
あ、これ怒ってんな。
「蔡琰。身分を弁えなさい、彼は朕の弟で、王族です。貴方は重臣の娘に過ぎません」
「も、申し訳ございません」
「協もです。蔡琰は貴方の五つ年上ですよ? それに、言葉遣いも頂けない。王族としての振る舞いを意識しなさい」
「え、あ、はい」
いつもこれぐらいの覇気でいれば、董卓にも対抗できるんじゃね?
なんて思ったのは内緒である。
☆
強すぎる野心と、目を見張る美貌で、下賤な身分から一気に皇后の地位まで上り詰めた女性が居た。
皇帝を産み、今は何皇太后と呼ばれている。
宦官の権力も手中にし、軍権も兄が握り、政争相手も追い出した。
愛する息子の為に、盤石の権力体制を築きあげたはずだったが、それは一夜にして全て崩壊してしまった。
「私が、弁を守らなければ……」
一気に老いて、かつての美貌は見る影もない。
それでも、その野心と愛情だけは、未だに内側で煌々と燃え続けている。
「皇太后様に拝謁いたします」
「……誰だ」
「新しく担当させていただく事となりました従医の者です。前任の者は、先の戦に不安を抱いた為に逃げ出したものと」
「戦だと? 聞いておらんが」
「こ、これは申し訳ございませんっ」
気弱そうな細身の老人は、慌ててその場に額を付ける。
恐らく劉弁が口止めをしていたのだろう。
自分の容体を推し量って、あまり過激な情報を耳に入れない様にと。
「別に良い。最近は調子が良いのだ。それに、これ以上あの死にぞこないの老婆を好きにさせておれん」
「なるほど、確かに顔色もよろしい。おめでとうございます」
「だが夜になると、たまに孤独が恐ろしくなる。寝付きも悪い。食事は徐々に、喉を通る様にはなったのだが」
「あまり一人で思い詰めない事です。夜は風や雨の音に心を傾け、無心に呼吸のみを意識して下さいませ」
話を聞きながら薬草を調合し、老人はゴリゴリと漢方を擦り合わせる。
非常に落ち着いた、柔らかな声色だった。
「こちらは眠気を誘う薬です。湯と共に、心が落ち着かぬ時にお飲みくださいませ」
「ふむ、分かった。そう言えばそなたの名を聞いていなかったな」
老人は一礼し、ゆっくりと顔を上げる。
「李儒、と申します」
そう言って、静かに寝室を後にした。
・唐姫
劉弁の正室。即位期間が短かった為、皇后にはなっていない。
董卓によって劉弁が殺される際、共に酒を交わし、その最後を見送った。
劉弁の死後は決して誰にも嫁がず、李傕から妻になる事を強要されても、頑なに拒んだ。
・蔡琰
父は漢の重臣で歴史家でもある蔡ヨウ。弁舌巧みで知性に溢れ、音律に通じた才女。
董卓の乱によって残党が長安を襲うと異民族の匈奴に誘拐され、十二年も暮らし二人の子をもうけた。
その後、曹操によって洛陽へ戻され、失われた父の四百余りの蔵書を記憶力のみで完璧に復元させた。