15話
婆さんと董卓に無茶なわがままを言っておいて良かったな。
まさかこんなにすぐ乗馬の機会が巡って来るとは。
「殿下には練習用に、極めて大人しい老馬を預けたはずでしたが。完全に舐められておいでですな」
「へ?」
困った顔をして、俺の倍はあろうかというデカ馬に乗る董卓。
まっすぐ前を見つめて、何とも雄々しい名馬だ。キタサンブラック。
対して俺が乗る老馬は、あっちへふらふら、こっちへふらふら。
たまに道草をもさもさと食べ、足取りが遅々として進まない。
後続の護衛兵に促されてようやく前へ、仕方なくカポカポ。
「馬も人も同じです。心を通わせて初めて、騎兵が生まれるのです。されど殿下の馬は、まるで殿下の事を無視しておられる」
「なんだとこんにゃろう! 毎日世話してやってんのに!」
「あぁ、それは駄目だ」
董卓が声を出すと同時に、俺は老馬から振り落とされる。
高い位置から、老馬が意地悪気に笑った気がした。
ただ、そこで黒馬が大きく鼻息を漏らした途端に、老馬は急にシュンとしぼんだ。
「殿下、お乗りください。少し叱りつけましたので」
「お、おう」
「しかし殿下もいけない。馬とて心はあるのです。それにこやつは老馬で、殿下はまだ子供です。世話してやってる、という姿勢が駄目だ」
「黙って俺に従えないもんかね」
「殿下は、馬に向いてないのかもしれませんなぁ」
☆
俺は今回の戦のお飾り、ただの旗印として董卓軍に担ぎ上げられていた。
実権が無くとも、まだその血の使い道はある。董卓はそれをよく分かってるらしい。
現に、丁原側に付いた諸将の大半は、自分から積極的に戦を仕掛けようとはしていない。
董卓の攻勢に対応するなら口実も出来るが、自分から攻めかかれば「逆賊」の名を免れ得ない。
蛮勇ではない。どこまでも狡猾で合理的。
だからこそあの袁紹でさえも、逃げ出したのだ。
歴史は起こるべくして起きた。
後世において「暴君」と言われ続ける董卓を見てると、そう思わざるを得ない。
なぜ彼が暴君たり得たのか。
俺が掴まなければならないのは、そこだった。
「では殿下、我が涼州軍の実力を、とくとご覧下され」
丁原軍、総勢八千。そのうちの主力が、丁原直下の二千。
董卓軍、総勢一万。そのうちの主力が、涼州騎馬軍の三千。
まさに映画の中に居る様だ。
押し潰されるような緊迫感と、圧倒的な重圧。
呼吸するのも難しいくらい、殺気が荒野に溢れている。
董卓が腕を上げた。
鳴り響く太鼓と銅鑼。
馬蹄と怒号で地は震え、空気は張り裂けんばかりに轟く。
丁原軍も同時に動き出す。
両者が選んだ戦法は、正面衝突だった。
「──さぁ、喰い荒らせ」
背筋が凍るような呟き。
血に飢えた獣の様に、董卓の目は異様に強い光を放っていた。
馬と人間が衝突し、骨の砕ける音と断末魔が響く。
不思議と、俺の血が熱を帯び、高揚していくのが分かる。
これが、乱世の光景。
力が全ての、狂った世界。
最高だ。
俺みたいな馬鹿には分かり易い。負ければ終わりの、そんな世界。
最初の衝突で大きく敵軍を押し込んだのは、涼州軍であった。
いや、押し込んだ、というのは生ぬるいのかもしれない。
この一撃で勝敗は既に決していた。
徐栄将軍の指揮する先鋒の騎馬隊は敵の正面を大きく食い破り、丁原の居る本陣、喉元に容易く喰らい付こうとしていた。
これに合わせて、近衛兵の歩兵部隊を率いる牛輔将軍は声を上げ、進軍を開始。
「徐」の旗が靡く騎馬隊の後方に、近衛歩兵がどっと殺到する。
「さぁ殿下、逆賊の首を見に行きましょう」
ここまで陣が崩壊してしまっては、立て直しは不可能と言って良い。
既に勝利を確信した董卓は大きく笑いながら、ゆるゆると馬を進めた。
ただ、俺は覚えている。
三国志最強の、あの男の姿を。
──呂布奉先
必ず出てくる。
さぁ、来い。見せてくれ。
この狂った世界を圧倒する、その名を聞かせてくれ。
俺は息を飲んだ。
僅かに「徐」の旗が揺らいだ気がした。
「ん……徐栄はなにをしている」
「か、確認して参ります!」
近くの兵が慌てて馬を走らせる。
遠目で見ても分かるが、明らかに先鋒の勢いが鈍っていた。
あれほどの勢いがあったのに、どうにも本陣を攻め切れていない。
徐栄将軍と言えば、董卓軍の中でも有数の猛将である。こんな下手をうつとは考えづらい。
「董卓様、申し上げます。丁原は方陣を敷いて防戦に全力を注いでいるとのこと。しかし、時間の問題であるとの報告が先鋒より届いております」
「ふん、丁原め。無駄に足掻きおるわ。磨り潰せ」
その瞬間であった。
小さな戸惑いが視界の端で生まれ、それがやがて怒号へ、そして混乱へと広がっていく。
右端。そこは近衛兵が薄く待機し、俺らの本陣を包んでいる場所だ。
董卓のこめかみがピクリと動いた。
敵影もない場所で、何故か血飛沫が上がる。
「報告! 報告! 右翼より敵襲に御座います! 殿下と董卓様はお退き下さい!」
「丁原は目の前だ、それに右翼に敵影は見えぬではないか」
「敵は、一騎です! たったの一騎で、本陣へ向かってきております!」
「馬鹿な。そいつは誰だ」
「あれは間違いなく、呂布に御座います!!」
全身に鳥肌が立ち、歓喜に打ち震える。
股下の老馬は殺気の迫るこの空気に怯えていた。
腿をぐっと締める。
怯えるな。前を向け。逃げるなよ。
「我らが」
董卓の側に居た数十騎の若い武者が、血飛沫の跳ね上がる戦地へと突撃を開始。
そして、ついに見えた。
あれが、呂布だ。
ゲームなんかで見る、無茶苦茶な猛将という感じはしない。
まるで海を泳ぐ魚の様だと、そう錯覚してしまう。美しいとさえ思ってしまう。
人の波に逆らい、すれ違う敵兵を撫でる様に切り伏せていた。
突撃した騎兵もまた、同じであった。
大勢の兵士と何ら変わらない。一瞬にしてすり抜け、屍が重なる。
「殿下、我らは退きましょうや」
「董丞相でも、呂布は無理か?」
「ふん、身分が違います。敵の勝機を効率的に、僅かでも潰すのが戦です。ここは牛輔に任せましょう」
心底面倒そうな顔で董卓は馬首を返す。
本当に怖くはないらしい、流石に百戦百勝の常勝将軍と言われてきた生え抜きの軍人だった。
戦は、勝つ事が全てだ。
呂布の様な狂人を相手にする理由は一つも無い。
だから今から俺がすることには、何の意味も得もない、愚かな蛮行だ。
でも、狂ってるなんて、今に始まったことじゃねぇ。
「なっ、殿下!?」
俺は剣を抜き、その腹で老馬の尻を叩いた。
その皮膚は薄く切れ、馬は驚きのあまり、暴れる様に駆け出す。
全力で股を締めて暴走を制御し、手綱で無理やり正面を向かせた。
「そのままだ、そのまま走れ! ほら見てみろ、今、万を越える注目を俺らで独り占めだぞ! 奴らを全員、あっと言わせてやろう。俺達で主役を喰うぞ!!」
いつの間にか、股下の震えが止まっていた。
老いを感じさせない力強い馬蹄は、土を高く蹴り上げる。
あと少し。十メートル、五メートル───
「小僧!!」
迫る。呂布の方天戟。
その瞬間に俺は体重の全てを乗せて、老馬を引き倒し、胴を地面に削りながら、呂布の馬の足を斬った。
投げ落とされる呂布。
再び、老馬を起き上がらせる。
俺の頬と肩からは肉が見え、血が溢れているが、今は別に気にならなかった。
「最強の男の、首を取る!」
駆ける。
ただ、呂布の方が早かった。
俺らが立ち上がり再び駆けだす間に、呂布は近くの涼州兵から馬を奪い、包囲から抜け出していた。
そして俺は瞬く間に近衛兵達に身柄を拘束され、董卓の前に引き出される。
「退きます、殿下」
「任せる」
「この戦の間、身柄を拘束させてもらいます。勝てる戦を、殿下が取りこぼした、そのことをお忘れなきよう」
殺されるのかと、そう思う程の殺気。
ただ、後悔は無かった。
勝てなかったから、死ぬ。分かり易くて気が楽だ。
そうやって拘束されたまま、俺は洛陽へと戻された。
・方天戟
槍の両側、左右対称に三日月状の刃が付いている武器。
「切る」「突く」「叩く」「薙ぐ」「払う」など、汎用性が高かったとされる。
・牛輔
董卓の娘婿。姻族ということで重用された。
賈クや李傕、郭汜などが配下であり、董卓軍の主力の指揮権を担っている。
極めて臆病な性格であり、処刑台を傍に置いたり、吉兆を占ってからでないと人に会わなかった。
・徐栄
董卓配下の猛将。
反董卓連合に対抗するべく出陣し、曹操や孫堅軍を散々に打ち破る活躍を見せる。
董卓死後は王允、呂布に降伏。李傕、郭汜軍と対峙するも配下の裏切りにあって殺害された。