11話
まだ、劉弁の年齢は十六と、成人していない。
その場合、後見役となる皇太后が政治の実権を握るようになっている。
しかし今、後ろ盾となっていた大将軍の何進を失い、「十常侍の乱」以降心身を崩していた何皇太后では、聴政をまともに行う事は出来なくなっていた。
そこで台頭したのが、霊帝の実母であり、劉協の育ての親でもある、董太皇太后だ。
そんな彼女の後ろ盾として強力に実権を握る者こそが、董卓であった。
地位も身分も低いが、太皇太后の寵愛を受け、更には何進の指揮していた近衛軍をも自軍に組み込んだ董卓の権勢は強大。
更には劉弁と劉協を救った功績により、最高官位である「三公」よりも上位の「丞相」となった。
くそ、史実よりも厄介なことになったな。
婆さんという大義名分を握っている以上、董卓の権力の掌握は極めてスムーズだ。
早めに手を打たないと、もしかすると本当に董卓の王朝が爆誕するやもしれん。
歴史知ってる俺が居るのに、未来が不味い方向へ転んでるのは、流石に草なんだけど。
大言壮語した以上、後には退けないな。
とりあえず、董卓に権力が集中するこの状況を、誰かがぐちゃぐちゃに掻き回してくれないだろうか。
俺は、一人の男の顔を浮かべながら、ようやく眠りについた。
☆
腸が煮えくり返る思いだった。
本来であれば、董卓ではなく、自分が丞相の座に就くべきはずであった。
董卓はただ、転がり込んできた子供を偶然にも二人拾っただけだ、という思いがあった。
朝廷の大敵であった宦官を皆殺しにした自分こそが、今回の乱において、最も多くの功績を挙げた人間なのだ。
手柄を横取りされた。それも、田舎武将如きに、だ。
袁紹はその笑顔の裏で、激しい怒りの業火を燃やしていた。
「兄上、董卓から昇進の話が来てるというのに、何故、断ったのだ」
「聞いてないのか、術よ。今は洛陽が荒れていて、軍の掌握が急務だ。西園軍の代表格である私は多忙であり、現状の変化を望むべき時ではあるまい」
「西園軍はもともと兄上の指揮下だ、軍律も行き届いているし、洛陽で反乱等の不穏な兆しも無い」
弟の袁術は、宦官を殺せてそれで満足なのか、あまり董卓に対しての敵愾心は抱いていないようであった。
勿論、家柄の格差がある。袁術も董卓を下には見ていた。
だからといって、現在の状況に対する妬みや嫉妬は無いないらしい。
これが本当の血の差か、と袁紹は一層腹が立った。
袁紹は袁家の長男といえど、母の身分は低く、妾の子であった。
対して袁術は正室の子であり、順当に行けば、袁家の跡取りは袁術になるはずである。
そういった余裕みたいなものが、この弟には生まれつき備わっている。
自分こそが正当な袁家の人間である、という絶対の自信。
対して袁紹は、その逆境をどうにかして好転させるべく、今までじっと牙を研ぎ続け、力を蓄えた。
今は乱世だ。力が全てだ。
そこに袁家の血筋が備われば、誰も文句は言えなくなる。
この大きな野心こそが、最大の原動力でもあった。
「紹、術、揃っておったか」
「叔父上」
書室の戸を開け、髪の白くなった初老の男が二人の前に現れる。
名を「袁隗」。
朝廷の最高官位である三公の内の一つ「司空」に二度も就任し、現在は皇帝の指南役である「太傅」に就く大人物である。
神経質な面持ちをしており、目の輝きは極めて鋭い。
危険な事をよく策謀する袁紹に、面と向かって叱りつけられるのは、この袁隗のみである。
その為、袁紹もこの叔父にだけは、頭を上げることが出来なかった。
「まぁ、座れ。言いたい事はたくさんある」
「……叔父上、宦官は殺さなければならない存在でした。私は、間違ったことはしておりません」
「私もそう思います。事実、多くの将兵が兄上に従い、この結果を称賛しております」
「結果論だ」
兄弟の申し出を、袁隗はぴしゃりと遮った。
目には怒りの色が滲んでいる。
「陛下も、陳留王殿下も、無事であったから良かった。しかし、後宮は灰となり、董卓の専横を許す結果となった。一家臣が独断で行動して良い範疇を大きく超えている」
「大将軍が暗殺されたのです。危急の事態でありました」
「紹、いつもお前は自分の意見ばかりだな。陛下の事を考えたのか? お前は『正しい』事を『正しい』と思い過ぎるのだ」
「人は正しくあるべきです」
「正しさばかりに目を向けると、今回の様に、大事なものを見失う。慎め、紹。人間は誤まる生き物だ」
「……肝に銘じます」
不服な声であった。
袁隗は眉をひそめ、大きく息を吐く。
「それと、紹。術もだ。董丞相から昇進の話が来ている、それを受けよ」
「私は受けるつもりですが、兄上は断りました」
「受けよ」
「何故でしょうか。袁家が、董卓の風下に立てと?」
「そうだ。これより我ら袁家は、董丞相を支持することにした」
「なっ」
今まで必死に押し殺して来た怒りが、ついに袁紹の心を突き破る。
はち切れんばかりに、額には血管が浮かんでいた。
「どうしてあのような田舎者を、我々が支持せねばならぬのです!? むしろ、声を上げて弾劾すべきです。今でさえ、その横暴は目に余ります!!」
「田舎者故にだ。丞相には軍略の才はあれど、政治に関しては素人。ただ、それを自身が理解しておられる。話の分からぬ相手ではない。だからこそ袁家が補佐して、朝廷を立て直すのだ」
「私は、納得いたしかねまする」
「お前は袁家を滅ぼすつもりか! 紹!!」
椅子に腰を据えたまま、袁隗は怒鳴り声を上げた。
刺すような袁隗の視線と、殺気溢れる袁紹の視線が交わる。
袁紹はその興奮を抑える様に、荒く息を繰り返していた。
「お前達二人には、王朝を補佐し得る才がある。しかし、惜しいかな、それを何故この国の為に使おうとしない。董卓憎しで目を曇らせるな、大局を見よ。宦官の居ない今ならば、国政を立て直す事が可能だ。私は太傅であり、国政に参画が出来ない。だからこそ、お前達が袁家を引っ張らなくてはいけないのだ」
「この力は、私の力です。どう使うかは私が決めます。そして、董卓如きには使いたくありません」
「紹!!」
「いくら大恩ある叔父上の話でも、こればかりは聞けません。御免」
袁紹は涙を堪え、書室を出て行った。
それに続く様に立ち上がった袁術もまた、涼やかな態度で袁隗に頭を下げる。
「お前も聞けぬか、術」
「私は、どちらでも。ただ、私は兄上ほど賢くはありません。なので、兄上が嫌だというものに、手を出そうとは思えないのです」
「そうか、もう好きにせよ」
「感謝します」
一人になった書斎で、袁隗は鈍く痛む頭を揉んだ。
先に亡くなった、優しき兄の姿が浮かぶ。
兄から託された、大事な二人の甥であった。
才能は恐らく自分の数倍はあるだろう。
だからこそ、惜しかった。
どうして敢えて、乱世を望むのだろうか、と。
☆
この数日後、袁紹と袁術、そして曹操など、西園八校尉の面々が洛陽から出奔した。
袁家に十分な誠意を表して、へりくだった態度で接していただけに、裏切られた董卓の怒りは大きなものであった。
しかし、袁隗を始めとした複数人の群臣の嘆願と進言により、董卓は袁紹の手配を取り止め、逆に爵位と領土を与えた。
それほどまでに袁家の力が大きかった、という事もある。
例え董卓であろうと、袁家はどうしても懐柔しておきたい勢力だった。
しかしこの采配が後に、袁隗の運命を大きく狂わせることとなるのである。
・袁術
袁紹の異母弟。血統で言えば、袁紹よりも正当な袁家の後継者であった。
南方に一大勢力を築き、公孫瓚や陶謙、呂布と手を組んで、袁紹と対立した。
ただ、勝手に自ら皇位を僭称したことで諸侯の反感を買い、自身の滅亡を招いた。
・袁隗
袁紹、袁術の叔父。
三公や太傅など高位を歴任して、朝廷の運営を担った俊才。
袁紹が反董卓連合を結成したことで董卓の反感を買い、後に処刑された。
・太傅
皇帝の養育係である官職で、最高の位にある。
しかし政治に関わる実権は一切なく、名誉職の様なものであったとされる。