9話
荷台でゴリゴリに揺られて、完全に酔った。
走ってるの馬だし、しかも補装もされてない道だから、無理ぃ。
この時代なら仕方ないのかなとも思う。
すると、バカリと蓋が開き、オレンジ色の光が目を焼く。
その眩しさに慣れるとそこには、映画の世界でしか見たこと無いような、大人数の騎馬隊が揃っていた。
百や二百とか、そんなもんじゃない。
たぶんケタがひとつ多い。見渡す限りの騎馬軍団である。
「陛下と殿下の縄を、解いて差し上げろ」
低く、野太い声がする。
巨人だった。
北斗の拳で言うところの、ラオウ。
筋肉に覆われ、立派な虎髭を生やし、そして、血に濡れた大槍を手に持っている。
傍らには、首の無くなった死体があった。
きっと、あれは張譲だったんだろう、と、理解出来てしまった。
縄を解かれながら、劉弁はガチガチに震えている。
俺は正直、怖い人間に対する耐性はある方だ。
体が何よりも先に、相手にナメられちゃいけないと思う様に出来てしまっている。
ここで、育ちの悪さが良い方に出た。
でも、死体を見て気持ち悪くない訳じゃないよ? 酔いもあって、普通に吐く。
「皇帝陛下に、并州牧の董卓が拝謁致します。万歳、万歳、万々歳」
董卓のみならず、兵士の全てが馬から降りて、その場にひれ伏した。
辺りは既に暗く、篝火だけが点々と奥の奥まで続いている。
劉弁は、口を開かなかった。
震えは既に治まっている。
固く口を結び、目を閉じて、荷台にしっかりと腰を据えて、動かなかった。
流石にこのままでは、董卓や兵士が気の毒である。
董卓、三国史上最悪の暴君であり、皇帝である劉弁をも手に掛けた極悪人。
気に食わない人間をジャンクフード感覚で惨殺。
兵士に略奪を好きに許し、人間の虐殺を娯楽として楽しむような男。
それが歴史で見る「董卓」の姿だった。
しかしこの目の前に居る男は、そういった野蛮さを持っているようには見えない。
確かに恐ろしい風貌だが、頭の回転が良さそうな、溌溂とした光を持っているように思えた。
まぁ、だからといって警戒はしなくちゃな。
俺は劉弁に代わって「面を上げられよ、将軍方」と促す。
ようやく兵士達も、董卓に遅れて顔を上げた。
統率も非常に行き届いているらしい。
「陛下、殿下、お怪我は御座いませぬか? 逆賊の張譲はこのように討ち取りました故、もう心配には及びませぬ」
「助かった。陛下に代わって、礼を言おう、董卓」
「……陛下は、ご気分が優れませぬかな?」
「あ、あれほどの事があったんだ。察して欲しい」
「左様ですか。であれば、陛下と殿下に是非、会って欲しい御方をお連れしています。きっと幾分か、気分も和らぐことかと」
董卓が手を叩くと、奥から、大きく物々しい、豪奢な御車が現れた。
ゆったりと近づき、車輪を止める。
戸を開いて、身を乗り出したのは、婆さんだった。
「おぉ! 協や! 無事で、無事で何よりじゃ!!」
「ど、どうしてここに」
「董卓将軍が、協の身が危ないと教えてくれてな、私を連れて来てくれたのじゃ! 良かった、良かった。居ても立ってもおられぬ心地であった」
婆さんは俺にひしとしがみ付くと、おいおいと泣き出した。
董卓もまた、もらい泣きをするように、鼻を啜り目頭を押さえている。
「殿下、臣にも老いた母が居ります。長く苦労をかけ続け、恩返しも出来ず、臣は戦地に身を投じる毎日です。今、その母を思い出し、涙が溢れんばかりです」
「協や、この董卓は実に私に良くしてくれた。おかげで私も、あのような僻地で死なずに済んだ。彼こそ真の忠臣じゃ!」
思わず、身震いをしてしまった。
まさかこれが、董卓の狙い。
粗暴で野蛮。そうではない。
狡猾な姦雄、これこそが董卓の、本当の姿なのだ。
劉弁の行動も、正しかった。
見ず知らずの男に、西方で独自に力を蓄えてきた群雄に、決して気を許してはならなかった。
そして今、死ぬはずだった婆さんがここで、こうして生きている。
歴史が、変わってしまった。
別に後の世にどう影響するかとか、そういうのはどうでも良い。
ただ、これで俺が悠長に生を全う出来る、その可能性がここで途絶えてしまった事に気づいた。
「ん? あれはどこの部隊だ? 捕らえて来い」
董卓は訝しげに遠方を睨んだ。
見えるのは僅かな土煙。
この暗闇で良く気づいたものだ。
董卓の側から、百騎程が駆けだした。
まるで風のような速さで飛んでいくそれを見て、婆さんが俺を抱きしめる力を強くした。
「陛下、殿下、太皇太后様。御車にお乗りくださいませ。後は万事、臣にお任せを」
「いや、俺はここに居る。陛下と、婆様は入っててくれ。中の方が安全だろう。いつ流れ矢が来るかも分からんし」
「殿下も、お入りくださいませ。御車はその為に大きなものをご用意いたしました」
「いや、良い。俺はお前と同じで、陛下に仕える身だ。守られる側じゃなく、陛下をお守りする立場。どうしてもというなら、将軍もどうぞ」
「ふむ、噂に聞いた通り、殿下は変わった御方だ。良いでしょう。それに、この体が御車に乗れば、車体が潰れますぞ」
今度は気前よく、ゲラゲラと笑う。
どうも感情豊かなオジさんだ。
俺はどうにか劉弁と婆さんの機嫌をなだめ、半ば無理やり、御車に押し込んだ。
ほんとは俺も疲れた体を横にしたいけど、俺以外に、この姦雄を見張れるヤツは居ない。
なんて、偉そうに気を張ってみた。
「離せっ! 私は、西園八校尉が一人、曹操だっ! どの身分で、拘束なぞする!!」
連れて来られたのは、曹操だった。
両手は後ろに縄で縛られているが、今でも牙を剥いて兵士に噛みつきかねない気の立ちようである。
「曹操!」
「殿下! ご無事でしたか! という事は陛下も」
「無事だ」
「それはよう御座いました」
「はて、陳留王殿下、この者はお知合いですか?」
「俺の剣術の師だ。そして、近衛兵を束ねる校尉の一人でもある。縄を解いてやって欲しい」
「それは出来ませんな。どうやら臣の兵を幾人か、殺しています」
「先に戦を仕掛けてきたのはお前らだ。それに私だって旗下を失った、お前らのせいでな。身分を弁えろ、董卓。私は陛下の西園軍を束ねる身分だ、お前が粗略に扱って良い男ではない!」
「黙れ小童ァ!!」
空気が破れんばかりの怒鳴り声であった。
一番側に居た俺は、思わずその怒鳴り声に、腰を抜かしてしまった。
耳も痛い。
「何が西園軍か! 陛下の身を危険に晒して、お前らは一体何をしていた!? あぁ!? それにお前は、腐れ者の出自らしいではないか。そんな者が陛下の身を守る事など、出来るはずがあるまい!」
「ッ……」
「フン、儂の配下なら打ち首だが、仮にも西園八校尉様だ、殺しはせん。最後尾で一人、馬に縛り付けておいてやる。安心しろ、お前もこの董卓が、安全に洛陽まで返してやろう」
すぐに曹操は引き立てられ、奥の方へと消えていく。
俺は董卓に手を差し伸べられ、それを握って立ち上がった。
戦場を生きてきた男の、本気の殺意。
思い出すだけで、体の芯から凍り付くような気がした。
「さて、殿下。申し訳ございません、急いで駆けつけた故に、替えの馬を連れて来ていないのです。曹操との小競り合いで死んだ配下の馬でよろしければ。手綱は配下に任せますので、お乗りになるだけでよろしいですぞ」
「助かる」
こうして、漢王朝の命運は、この姦雄の手に落ちた。
・騎馬兵
銃のない時代、最強を誇った兵科。
圧倒的な機動力を扱う事で戦場を自在に駆け、戦場を支配する。
天下統一には北方(幽州)と西方(涼州)の騎兵が不可欠とまで言われた。