月夜に来訪
その日の夜は満月だった。
美しい夜の空に、少し生暖かい風が混ざる。冬の季節は一か月ほど前に終わり、本格的な春が近づきつつある夜空だった。
そんな夜空の風を切るのは、鳥たちばかりとは限らない。獣たちの中でも、魔の力を有した魔物たちが空を飛ぶことの方が夜は多い。
月の光が降り注ぐ地上では、巨大な岩の外壁に守られた都市モーリスが存在していた。
モーリスは円形にできた巨大な街で、ベルーテ王国に所属していた。
城下町というわけではないので王族は暮していないが、巨大な街なので経済的に重要な都市であり、王国の兵士たちが常に警備してる。
夜の城壁の上には、たいまつがいくつも掲げられて、兵士たちがそれを守りながら見張りをしている。
兵士たちのほとんどは男性だ。だが、その中に一人若い女の姿が混じっていた。
「寒くないか?」
「いえ、大丈夫です」
先輩の兵士に声をかけられ、女の兵士は笑顔でそう答える。
この女兵士の名前はアンネという。歳は十八で、モーリスに配属されたばかりの新人だ。
「配属早々夜の警備ですまないな。急な欠員が出て人が足りないんだ」
「気にしないでください。これも騎士になるための訓練ですから」
アンネは試験に合格して基本訓練を終えたばかり。アンネが合格したのは、ただの兵士試験ではなく、騎士試験だ。今は訓練の一環として大きな街の警備をしているが、将来順調にいけば王族に遣えることになる。
「うん? 今何か動いたな」
「え、どこですか?」
アンネと話をしていた兵士が、街の外で動くものを見つける。
モーリスは、開けた平原の真ん中に作られているので見晴らしがいい。さすがに夜は見通しが悪いが、月明かりが強い今日は平原に動くものがあれば見つけられるくらいには明るい。
動物か? あるいは魔物か? どちらにしても城壁があるから街には入ってこれないが、正体を確認するためにアンネと兵士は望遠鏡を手に取った。
「……人だな」
望遠鏡をのぞきこんで目に飛び込んできたのは人だった。凶悪な魔物でなかったので安堵できるかといわれるとそうでもない。むしろ兵士は面倒なものが近づいてきたと思った。
当然ながら人影はモーリスへと近づいてくる。
「ここを任せていいか? 俺が対応してくる」
「いえ、私に対応させてください。本当なら私が見つけなくてはいけなかったものですから」
アンネは兵士が少し対応するのを嫌ったのを表情から察し、進んでそれを引き受けて城門へと降りて行く。
「すみませーん」
アンネが城門前に着くと、ほどなく門の裏側から男の声が聞こえてきた。
「こんな夜遅くに何の用か?」
「はい、ここはモーリスで間違いないでしょうか?」
若い男の声だった。街の名前を聞いてきたということは、男の目的地がここなのだろう。
「ああ、ここがモーリスだ。すまないが旅の者。遠くから来たのだろうが、今の時間はこの門を開けるわけにはいかない。朝日が昇ってから出直してもらえないだろうか?」
兵士が面倒だと思ったのはこれが理由だった。
夜中の間は門を開けることはできない。大きな街にとってはそれが常識なのだが、時々それを理解できない者もいる。
こんな夜の平原に放っておくつもりか? 魔物が出たらどうする? お前には俺が魔物に見えるのか? などなどと、文句を言う声に一晩中付き合わなければならないこともしばしばある。
根負けして開けるわけなどないが、無視をするというわけにもいかないので無駄に疲れることになる。その上、朝になってようやく開門してやれば、相手の第一声はたいてい罵声や怒声だ。人間によっては掴み掛ってくるからたちが悪い。
しかし、今日の声の主はあっさりと引き下がってくれた。
「いえいえ当然です。人に化ける魔物だっていますし、城門を開け閉めしている間に魔物が近づいてこないとも限りませんからね。むしろ、しっかりした方たちに城門を守ってもらえるのだと思えるのは心強いです。ありがとうございます。俺、この街を選んでよかったです」
あっさりと了承したかと思えば、締め出されているのに感謝までされてしまった。思っていた反応と違い、アンネは少し困惑する。
何と返事をしたものか迷っていると、遠ざかっていく足音が聞こえてきたのであわてて聞いた。
「お、おい旅の者。名前は何というんだ?」
すると足音が止まり、返事が返ってきた。
「ハンスといいます。ハンス・ヒンドルフです」
それが月夜のモーリスに来訪した男の名前だった。
* * *
「ハンスというのか。この辺りはさほど魔物は出ないが、あまり街から離れないようにしておけ。北には森があって、そこから魔物が平原に出てこないとも限らない」
気遣いの言葉をありがたく思いながら、ハンスは声を返す。
「ありがとうございます。街からそんなに離れるつもりはありません。近くで休みながら日の出を待たせてもらいます」
そう返事をしてから、ハンスは近くの岩に腰かけた。たき火をするか迷ったが、焚き木を集めて火をつけるころには夜も明けてしまうだろう。月の光も強いし、城壁にはたいまつが掲げられているから見通しが悪いわけではない。このまま夜が明けるのを待つことにしよう。
「着いたんだなー」
ハンスは目的地について安堵し、まぶたを閉じる。
『ハンス。この世には、二通りの人間がいる。善人と悪人だ』
目を閉じると、幼いころに聞いた父の言葉が思い返された。
『善人とは他者を愛し他者から愛されるような人間だ。自分以外の人間も、人間であるということを忘れず、他者の尊厳を尊重して生きる。善人として生きるのは大変なことだが、人間の生というのは辛いものなのだ。それを理解しているから善人として生きることを人々はためらわない』
そこで父親の声の調子が変わる。
『対して悪人とは、そんな善人として生きる努力を放棄した者達だ。悪人は善人から幸せを奪い、その幸せを食い散らかして生きる。だから人々は悪人を嫌い、憎み、法律によって罰を下す。それなのに、悪人として生きることを選ぶものが後を絶たない』
父親は目を細めて続ける。
『人は一人では生きられない。お互い助け合わなければ成り立たないんだ。それが嫌だという人間が、他者から奪い取る道を選んでしまうのだろう』
ハンスの父親は、子供のハンスに対してよく善人と悪人について語っていた。善人と悪人の違いについて一通り語った後、締めくくりにいう言葉だけはいつも同じだった。
『ハンス。お前は善人になりなさい』
今日から投稿します。
少なくとも、第一章は一週間に一度、挿絵付きで更新したいと思っています。
のんびりお付き合いください。