4.紅い花、白い虫
..019
情報収集から戻った神刃を交えて、鵠たちは一室で額を突き合わせていた。
「……とりあえず、今は辻斬り事件の解決を目的として動こう。あいつらを追うぞ」
考えても答の出ない蚕のことはひとまず置いて、これ以上辻斬りの被害で人死にが出ることがないよう、事件の解決を目指すことにした。
あれは桜魔側の策略だった。目的は恐らく辻斬りを倒しに来た退魔師を殺すことだったのだろう。
数年前から朱櫻国王が大陸中の退魔師に呼びかけているだけあって、ここ最近かの国にはそれなりの戦力が整ってきた。高位桜魔たちはそれを警戒し、少数や徒党を組まず単身で行動している退魔師を狙って襲撃をかけることが多くなったと言う。
人間という生き物の弱味と強味。一人一人は弱くとも、集団で事に当たればとてつもない力を発揮することがあるということを、彼らは知っているのだ。
ただ一人の強靭な王を戴く桜魔とは違う。そして桜魔側はその桜魔王すらも、配下をきっちりとまとめてはおらず、ほとんど好きにさせているらしい。
もしも彼らが王の完全な統制の下に襲撃を仕掛けてきたら、果たして人類はもっと早く滅んでいただろうか。
鵠は一瞬考えたそれを、すぐに自分で否定した。
その時には人間側も桜魔の集団に立ち向かうために集合し、様々な思惑を持つ者たちも共通の敵の前に一致団結して桜魔に立ち向かうだけだろう。
人と桜魔の緩やかな絶望を育む膠着状態が長く続いたのは、結局のところ、人間側に音頭を取る存在がいなかったことが大きい。
だがその均衡が崩れ始めている。花栄国の隣国、朱櫻の国王は退魔師を集め、桜魔王に立ち向かうための戦力を必要としている――。
「一応花栄国の退魔師協会に報告は入れました。辻斬りは徒党を組んだ桜魔で、退魔師の殺害を目的に行動していると」
隣国のことは隣国のこと、今の鵠たちは、花栄国で起きた事件の解決を目指す。
辻斬り退治に鵠たち以外の退魔師が動くとしても、朱莉の忠告によりそれなりの戦力を揃えてからということになる。
ここに集った面々は一般の退魔師と比べればかなり突出した戦力の持ち主だ。普通の退魔師ではあれだけの高位桜魔に同程度の人数で立ち向かうことはできまい。
特に鵠はかつて最強の退魔師と呼ばれた男。
しかし、それ故にこの状況で退魔師協会と合流するのは些か面倒だった。鵠は一人で拳を振るうのは得意でも、大集団をまとめることなどできはしない。
長年暮らしておいてなんだが、鵠と花栄国の退魔師協会は相性が悪いのだ。
並の退魔師に頼られるのも頼るのも鵠は苦手だ。せめて向こうにも頭一つ抜けたまとめ役がいれば良いのだが、それらしい存在の話を聞いたことはない。
心当たりくらいはあるのだが。
数の優位をとるのは大事だが、単に数だけ揃えても意味がない。連携のできない相手でお互いの足を引っ張るようなら、互いにいない方がマシだろう。
だからもはや、この面子でやるしかない。
「ここ数日が勝負だな」
「「「……」」」
うんうんと頷きながら、何故かごく自然に作戦会議に混ざっている蚕。
一同は色々と思う所のある無言で彼を見つめた。しばらくしてげんなりした鵠が口を開く。
「お前もやるってのか?」
「お試しだと言っただろう? 遠慮なく戦力としてこき使ってくれ」
蚕は自信ありげに自らの胸を叩いた。
桜魔王以外の桜魔を倒すことにも、蚕はまったく抵抗がないらしい。仲間意識の薄い桜魔らしいと言えばらしいのだが。
「あの……俺、街で噂を仕入れてきました」
「どうだった」
蚕のことはとりあえず無視して、神刃が集めた情報の話を始めた。今はここでにこにこと話し合いに参加している無害な桜魔よりも、多くの犠牲者を出した辻斬りの方に早急に対処せねばならない。
「どうやら辻斬りによって殺された被害者には、共通点があるようです」
「共通点?」
「ええ。ある人物にとって邪魔な人間ばかりだったとか」
「!」
鵠は顔を顰める。
「まさか……」
「街では、ある人物が桜魔と手を組んで邪魔者を消しているのではという憶測が出回っていました」
殺された相手の評判もあまりよくないらしく、一人二人が死んだところでは街人も気にしなかったという。
しかしそれが立て続けに何人もとなれば、人は自然とその被害者たちの共通点に気づこうというものだ。
それ程、死んだ被害者と接点のある人物、彼らを動かせる人物の共通点は露骨だったらしい。
「桜魔を利用しているのか、それとも利用しているつもりで唆されたのか……」
「あの様子を見ると後者の気がするな。彼ら程の高位桜魔が易々と人間に利用されることはあるまい」
蚕がまたしても口を挟む。だがその意見には鵠たちも同意だ。
桜魔に対する知識の少ない只人は、高位桜魔の人間らしい外見や知性ある口調に往々にして騙されたり利用されたりすることがある。
「……愚かな話だな」
鵠は深く溜息をついた。
自分たちのような退魔師が桜魔の被害を防ぐために駆けずり回る一方で、人は自ら桜魔に近づき危険と罪に足を踏み入れるのだ。
人がこのような生き物だからこそ、桜魔ヶ刻という時代が生まれたというのに。
「放っておいてもいずれ足元を掬われる気はしますが」
朱莉も同じ気持ちらしく、呆れたような表情でそう口にする。けれど神刃は二人に真っ向から異を唱えた。
「だからって、それまでに出る被害を放ってはおけません!」
その言葉には鵠たちも頷く。そうだ。確かにこれ以上被害を放っておくわけには行かない。
今は腹黒い連中の潰し合いで済んでいるようだが、桜魔の狙いが他のことにある以上、いつその目論見に巻き込まれて更に被害が拡大するとも限らないのだ。
「神刃、お前は当然その『ある人物』の名まで調べてきたんだろうな」
「はい。情報屋から買いました」
神刃が告げる人物の名を聞き、その人物の屋敷の位置も知った鵠たちは、そこへ突入するための具体的な作戦を立てることとなった。
◆◆◆◆◆
街は茜色の闇に包まれている。すれ違う者の顔も見えぬ黄昏時。
とある商人の住む屋敷の見張りに、一人の女が声をかける。
「もし……」
「何用だ。ここをどなたの屋敷と心得る」
女と言うよりも、笠から覗く白い肌と滑らかな輪郭は、まだ若い少女のようだ。
「私はあなた方の主に飼われている者の一人。こう言えば通じます?」
「……ッ!」
桜魔を屋敷に引き込み、連日辻斬りをさせている商人の部下は、その一言に顔色を変えた。
少女の肩口に巻きついた布――と見せかけた大蛇が鎌首をもたげて、ちろちろと舌を見せる。
「わ、わかった。いつもの部屋でいいんだな」
「ええ」
「しかし、何故一人でこんな時間に……」
「あら、野暮なことをお聞きになるのねぇ……本当に知りたいんですの?」
反射的な見張りの問いに、少女は口元を着物の袖で隠し、くすくすと笑う。
紫紺の髪に緋色の瞳。人形のように整った造作に妖しい色香を伴った笑みを刷く姿が、なんとも美しく恐ろしい。
「い、いや! 結構だ!」
男は恐怖して思わずその場で二、三歩後退った。
人間であればそれが巨漢のならず者であろうと臆することなく槍を向ける見張りも、さすがに桜魔には敵わない。
妖力を操り人外の膂力を持つ桜魔に対抗できるのは、霊力によってその身を強化し様々な術を操って戦闘できる退魔師だけだ。
「まぁ……残念。何も知らぬ者を甚振るのもそろそろ飽きてきましたのに……」
少女が意味深な台詞を口に乗せれば、事情を半端にしか知らない見張りはわかりやすく怯えてくれる。
「迎えの奴を今呼んだ。あとはそっちで勝手にしろ」
「はぁい」
無事に門を潜り抜けた少女――朱莉は、そう言って屋敷へと入り込んだ。
..020
「どうやら無事に潜入できたようですね」
真っ暗闇の中で神刃は呟いた。
別に声を潜める必要はないはずなのだが、なんとなく自然と小さくしてしまうのだ。
「そうだな。しかし、まさかお嬢がこんな能力まで持ってるとはな……」
鵠も魅了の力を持つ退魔師に実際に会ったのは朱莉が初めてだ。配下の桜魔たちを利用したあまりにも多彩なその技には感心せざるを得ない。
まぁ……だからと言って、今この状況はちょっとどうかとも思うのだが。
「うーん、快適空間だな!」
一人蚕だけは、普段なら入れないような場所に入れたことを大層喜んではしゃいでいる。
「そんな馬鹿な」
「お前、本当に桜魔だな」
人間の退魔師二人は、一応連れてきたこの謎多き子どもの台詞にげんなりとした。
鵠や神刃にとってこの場所は真っ暗闇の中に無数の桜魔の気配と息遣いだけが充満していて、非常に居心地の悪い空間である。
「申し訳ありません。狭苦しい場所で……」
「ありがとう紅雅。でも問題はそこじゃないから」
彼らと共にいるのは、朱莉の一の配下で元は人間の辻斬りだったという中位桜魔・紅雅だった。
鵠からしてみれば今顔を合わせている紅雅は人間の外見にほど近い生真面目な青年に見えるのだが、彼ともそれなりに付き合いのある神刃からすれば、これは朱莉の力によって桜魔としての本性が大分抑えられている状態らしい。
その話を聞き、ますます朱莉と神刃の間にかつて何があったのか興味が湧いた鵠だったが、いたいけな少年少女の意味ありげな過去を邪推するような真似は大人としてぐっと堪えることにした。
元は人斬りだったという紅雅の経歴を聞いて、中位桜魔である彼が高位桜魔たちを相手にある程度持ち堪えられたことにも得心がいった。
紅雅の主である朱莉は今、「一人で」桜魔たちを取引した悪徳商人の屋敷に乗り込んでいるはずだ。
その彼女から桃浪と接触したという報せを受けて、鵠たちはその気配に集中し始めた。
◆◆◆◆◆
無事に潜入した、桜魔と取引している人間の屋敷。真っ先に顔を合わせた相手が桃浪であったことに、手間が省けたと朱莉は思った。
「おやおや、外回りの仲間が帰ってきたと言われて来てみれば……」
「あら、私はある意味あなた方の『お仲間』でしてよ?」
嘘は言っていない。朱莉は桜人だ。桜魔に味方する気はないが、桜魔に限りなく近い存在である。
「なるほどな。大胆だなあんた! いくらなんでもそんなに堂々と乗り込んでくるとは思わなかったぜ!」
何がおかしいのか、桃浪は笑い転げている。
「いいぜ、案内してやるよ。うちのボスと再戦したいんだろう?」
「……本当にいいんですの?」
あまりに事が上手く運びすぎて、朱莉は目を丸くした。
確かに桃浪であれば、話の運びによってはこちらの挑戦を受けて彼らの首領の下へ連れて行ってくれるだろうとは思った。そしてここで彼と戦闘になるなら、すぐ近くに救援がいるということでそれはそれで好都合。
しかしこうもあっさり頷かれると、逆に疑いたくなるのが人情と言うもの。……別に朱莉が極端に天邪鬼な訳ではない。
桃浪にこちらを騙す意図はなさそうだが、このまま素直に案内してくれるというのがどうにも信じられない。彼は何のためにそんなことをするのだろう。
「別にいいぜ。俺らだってどうせあんたらをいつか相手にしなきゃいけないのは同じだしな。廊下で戦うのと部屋で戦うのとどっちがいいかなんて俺が今ここで考えたところで意味ないし」
「そうですね」
ここまで来たらもう一緒だと、朱莉と並んで廊下を歩きながら桃浪は言う。案内すると言ってもさすがに前に出て敵に背中を見せる気にはなれないらしい。
「敵を前にしているというのに緊張感がありませんわね」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ、お嬢さん」
緊張感がないのは朱莉も同じだ。敵地に“一人”乗り込んだとはとても思えない。
「あんたは桜人のくせになんで人間の味方をしているんだ?」
「桜人だからこそと言うべきでしょうか。人間のまま変化したので、私の感覚は人間のままなのです」
桃浪と朱莉は平然と会話を続ける。
「へぇ、そうなのか。あんた、人生充実してる?」
「充実……しているのかもしれませんわねぇ。とりあえず今はあなた方の王様を倒すために日々精進していますので、何もせず何も出来ず緩慢に死を待つより充実しているのかも知れません」
朱莉は足下の“影”の中から一体何を敵と仲良くおしゃべりしているのかと責めるような視線を感じたが、さらりと無視した。
桃浪はなおも声をかけてくる。桜人に興味があるのか、退魔師に興味があるのか、それともまた別の理由か。
一見自由気儘に見えるこの辻斬りにも、何か柵があるとでも言うのだろうか。
「桜魔王を倒すためか。いいねぇ、俺もあの人とやれたらなぁ」
「あら、あなたは桜魔王と戦いたいのですか?」
「戦いたいよ。だって桜魔の王だぜ? あらゆる桜魔の中で、一番強い。戦えたら楽しいだろうなぁ~」
「ただの戦闘狂ですか」
「その通り」
朱莉の容赦ない評価にも心底楽しそうに頷いて、桃浪は一人酔ったように続ける。
「戦いはいい。戦っている間だけは、生を実感できる」
「それが、桜魔として何人も斬り殺した理由なのですか?」
「いいや、あれは上の命令さ。俺にも逆らえない相手ってのはいるんでね」
「逆らえない相手がすでにいるのに、桜魔王と戦いたいなどと仰るの? その相手は桜魔王より強いのですか?」
朱莉は不思議に思って尋ねた。これまでの彼の言動からすると、桃浪はひたすら強さに価値を見出す手合いに見えたからだ。
だが、桃浪は朱莉の問いにゆるゆると首を横に振る。
「そういうわけでもない。桜魔にもそれぞれ事情があるのさ」
「……それはそれは」
否定の仕草だがそこにあるのは苛立ちでも諦めでもない。彼は納得してその位置にいるのだ。
「ついたぜ。お嬢さん」
◆◆◆◆◆
「のこのこと一人で、よくもやってきたもんだね」
屋敷の最奥の一室は、桜魔の巣へと改造されていた。
幾人かの人間型の高位桜魔、そして無数の獣や爬虫類に似た下位桜魔に囲まれて、朱莉はそれでもにこにこと笑っている。
「退魔師としてはこれ以上あなた方の暴虐を放っておくわけには行きませんの」
朱莉はまったく動じることなく、上座へ陣取る敵の頭領、華節に言い放った。
「退魔師として、あなた方桜魔を滅します」
「ふざけるな! この小娘が!」
華節は手下たちに指令を下す。
「彼我の力量差も見抜けぬ愚かな贄よ! やっておしまい!」
華節と朱莉ならば、朱莉に魅了者としての素質を含めても、年季の入った剣士である華節の方が実力は上だ。
朱莉はなまじ魅了者であるために、直接戦闘力は低い。切った張ったのやりとりは苦手である。
だが、苦手ならばそんなことは別の人間に任せればいいだけだ。
「ですってよ、皆さん」
一人でやってきたと桜魔たちは言う。
だが朱莉はこう返す。こんな敵地に一人で乗り込むわけないでしょう、と。
足元の影――普段は配下の桜魔たちが術で繋いで棲まう場所から人影が出現する。
「さぁ、殲滅開始ですわ!」
朱莉の魅了者としての力の応用で影に隠れていた、鵠と神刃、そして蚕が飛び出した。
..021
朱莉の配下の能力の一つに、「影渡り」という術がある。
魅了者たる朱莉が配下の桜魔を自らの影に潜ませているのと同じ原理だ。術者の影に潜む桜魔の性質を利用して、影から影へ物体を移動させる。
鵠と神刃、そして蚕も今回はその術を朱莉にかけてもらって、彼女の影に潜み一緒に乗り込んできた。話も全て影の中で聞かせてもらった。
だから鵠は、真っ先に華節へと飛び掛かる。
辻斬り集団の桜魔たちの中で、この女が首領であり実力も一番上だと判断したからだ。
「ちっ!」
辻斬り対策で今回も刀を握った鵠は華節に斬りかかる。華節自身も刀を使う桜魔らしく、自らの得物で即座に鵠に応戦する。
衝突する霊力と妖力、その影響で桜魔の巣となっていた部屋の幻影が跡形もなく吹っ飛ぶ。
「ここは……」
なるほど、屋敷の一室はただの入り口でそこから桜魔たちが作り上げた空間に繋がっているのか。鵠は簡単に辺りに目を走らせて周囲を確認すると、斬りかかってきた華節の一撃を防ぐ。
「若造が。お前如きが、私に勝てるとでも思っているのかい?」
「ああ、当然!」
華節は強気な口を叩くだけあって、相当な剣の使い手だった。
太刀筋は桃浪のものに似ている。辻斬りの実行犯は恐らくこの二人なのだろう。
見た目ももはや完全に人間にしか見えない高位桜魔は、人間と同じように鍛錬によって剣の腕を上げている。
これが本職ではない鵠にとっては、確かに強敵だ。
仕掛けた技はほぼ全て受け流され、向こうの連撃は防ぐので精一杯だ。
だが、かつて最強と呼ばれ、今もその名を他に譲ることのない退魔師を舐めてもらっては困る。
剣の腕は確かに華節に劣るかもしれない。腕力に関しても、霊力で強化される退魔師に対し、桜魔は妖力によってまさしく人外の膂力を得ている。
それでも鵠は、その程度の優位性で相手に逆転される程度の退魔師ではない。
相手が急所を狙ってきた一撃を、盾の役目も果たす強化した籠手で弾く。
「!」
攻撃をいなされてできた隙に、鵠はすかさず一撃を叩きこんだ。
「ぐっ!」
しかし向こうも剣を扱うだけあって鎖帷子を着こんでいる。いくら霊力を最大に注いだ一撃と言っても、簡単に致命傷を受けてはくれない。
鵠の太刀は華節の鎖帷子を切断したものの、肝心の本体は掠り傷という結果に留まった。
「やるね。伊達に真正面から乗り込んで来てはいないということか……!」
勝敗を分けるのは純粋な剣技だけではない。
しかしそれならば桜魔側も条件は同じ。否、むしろ桜魔こそがその条件で戦う者だ。
剣士同士の公平な精神など、本能のままに人を襲う桜魔と、それを害虫のように狩る退魔師にとっては何の意味もないことだ。
「じゃあ、こっちも本気を見せてやるよ」
鵠相手に力の出し惜しみはできないと判断したのだろう。
ごきごきと嫌な音を立てて、華節の体が変形する。人に近かったその姿が、途端に化物じみて膨らむ。
これがあるから、高位桜魔は厄介なのだ。人間に近いのはあくまで表面上の姿だけ。その内部に奥の手を隠している。
ばかりと開いた胸から異様な白い刃物が突き出した。
「……こんなに見ても楽しくない女の胸は初めてだぜ」
鵠は軽口を叩きながらも、再び剣を構えなおした。
◆◆◆◆◆
朱莉は自らの配下の桜魔を、それぞれ適切な相手にぶつけていった。
人型の桜魔が多いが、全員が全員、桃浪や華節のように完全に人間にしか見えない高位桜魔ではない。人間型と獣型の中間にあるような姿の桜魔は、獣型の中でも突出した能力を持つ者なら良い勝負ができることもある。
この中では鵠が飛び掛かっていった華節と言う女が集団の纏め役なのだろう。つまりは一番強いということで、朱莉たち退魔師一行の中で一番強い鵠が彼女の相手をするのは理にかなっている。
退魔師の仕事は、桜魔を倒しきらねば達成されない。人数で優位をとれることもあるが、そもそも人間の中でも優れた退魔師はほんの一握りだ。
そして獣型の下位桜魔ではどれだけ集まっても人間の姿をした高位桜魔に敵わない以上、高位桜魔を倒すのは人間の中でも別格の強さを誇る退魔師が必要ということになる。
ただ、問題は――。
「うわっと!」
考え事をしていた隙に、危うく肩口からばっさり斬られるところだった。
朱莉は慌てて早花の一撃を躱す。
「ちっ。見た目より意外と俊敏だな」
「見た目よりは余計です」
人型の桜魔集団の中にひっそりと紛れていた高位桜魔。そのうち男が一人、女が一人、どうもひっそりとした佇まいとは裏腹な実力を備えているようである。
「貴女こそ地味に見えて意外と大胆な攻撃をしますのね」
「……地味は余計だ」
早花は朱莉に次々と斬りかかるが、全て呪符で防ぐか躱される。
華節の束ねる集団の中で浮くというよりも目立たぬよう沈んでいた二人――夬と早花は、本来桜魔王の側近を務める高位桜魔である。
夬の相手は、朱莉の配下では一番の実力を持つ中位桜魔・紅雅が引き受けている。
紅雅は元々人斬りの未練が強く残された桜魔だ。そのため中位ながら高位桜魔にも匹敵する実力を備えている。
朱莉の配下と華節の配下の獣型たちが見るも無残な食い合いをする中、人と人に近い姿をした桜魔たちが殺し合う。
朱莉は己の不利を感じ取っていた。
この女、強い。
早花の素性こそこの時点では知らぬものの、彼女が隠している実力の片鱗を早々に感じ取っている。
華節や桃浪のように自分の力を強さを誇示するわけではない。しかし歴戦の剣士のような、隙のない強さをすでに確立している。桜魔であれば自己流であるはずの剣技でさえ、誰かに学んだかのような綺麗な型だ。
「形勢は不利。あとは、神刃様と……」
一対一で相手の実力が上回るなら、数の優位を活かすしかない。だがそれをするには、今は全員が目の前の敵で手一杯だ。
誰かがまず目の前の相手を倒し、手を開ける必要がある。
そのために期待ができるのは、神刃――そして彼にくっついて桃浪と対峙する、謎の少年桜魔・蚕だけだった。
◆◆◆◆◆
「さて、では我々もやるとしようか」
「なんでお前がここにいるんだ。他の相手を――」
「と言っても鵠と朱莉はそれぞれ別の相手とすでに戦闘開始してしまった。しかも迂闊に手を出せそうにない」
「……俺が、一番弱いから援護でもないと勝てそうにないって?」
確かに鵠は強い。朱莉とて二年前までは素の身体能力では神刃が勝っていたのだが、今は桜人となった彼女の方が上だ。
あの二人に比べて、神刃は退魔師としてまだまだ未熟である。そう、神刃一人では目の前の敵を――桃浪を完全に抑えきることは難しい。
だから蚕は鵠や朱莉ではなく、神刃の援護と言う形で戦闘に割り込もうとするのかと。
「いいや」
だが蚕はその言葉通り気負いのまったく感じられない、極自然な口振りで言った。
「今この空間で、一番勝ちたいと思っているのがお前だからだ。なんとしてでも敵を、桜魔を倒そうと願っているのがお前だからだ」
共に桜魔王を倒すため、仲間にしてくれと言い放った自らも桜魔である少年はそう告げる。
「……!」
刀を抜いた桃浪がうずうずと斬りかかる隙を待っている。神刃はともかく、蚕の実力を感じ取ってこちらも迂闊に手が出せないのだろう。
「なんでもいいから、俺たちもそろそろ始めようぜ」
……否、単に真正面からやりあいたい戦闘狂かもしれない。
とにもかくにも、神刃と蚕の歪な同盟対、桜魔・桃浪の戦いが始まった。
..022
「へぇ、それで退魔師の中にねぇ」
「そういうことだ」
こいつらは何を平然と話をしているのか。神刃は短弓に矢をつがえながら思った。
今日は予備の剣を持ってきてはいるが、蚕の援護に回る形なので剣よりも弓を選んだ。
もし間違って当たっても、蚕も桜魔ならば早々致命傷にはなるまい。
人間型の桜魔はその急所も人間と同じく脳や心臓や首、主要な臓器や腹部なのだが、頑強さは生身の人間とは比べ物にならない。
神刃が弓を選んだのは急所狙いと言うよりも、矢を通すことによる縫い止めが目的だった。
しかし桃浪も蚕もかなりの腕前で、立ち位置が瞬時に入れ替わるような戦闘の中では中々桃浪に当てる隙が見つからない。
そんな中でも戦う二人自身は、神刃から見れば気楽に世間話を進めている。
「私にはそれ以前の記憶がないからな。どういう理由かは私自身も知らんが、桜魔王を倒さねばならないと本能が囁くのであれば、倒そうと思ったまでだ!」
蚕は素手で桃浪に殴りかかる。十歳にも満たない子ども姿の蚕が素手。二十歳過ぎの青年には見える桃浪が刀を振りかざしているのを見ると、どう見ても桃浪の方が一方的な惨殺を行おうとしているようにしか見えない。
だが実際は蚕の徒手空拳での格闘は侮れなかった。霊力……妖力を拳や脚に集め、周囲の下位桜魔なら余波だけで消し飛んでしまうような強力な一撃を放つ。
桃浪は刀で斬りかかるが、蚕はそれを身体能力だけで回避している。桃浪の方でも相手が斬るのではなく殴りかかってくるので受け太刀ではなく回避に費やしている。
その合間、蚕と桃浪の距離が離れた隙を狙って神刃は矢を放つ。何本か連続で放っても、桃浪は小憎らしいくらい簡単に躱す。
「でもそれ、ちょっと羨ましいぜ!」
「羨ましいのか? 華節を頭領としたこの集団に属するお前が?」
「あれ? お前、うちの頭が華節って名前だってこと知ってたのか?」
蚕の何気ない一言に、桃浪が怪訝な顔をする。
華節と言うのは、あの鵠と戦っている女の桜魔のことだったか? だが今の蚕の口振りだと、まるで以前から彼女のことを知っているかのようだった。
「む」
きょとんと目を丸くした蚕が、その隙を衝かれて攻撃を受ける。
心臓を狙った桃浪の一撃を、蚕は咄嗟に妖力を込めた両腕を交差させて守ることで防御した。
「蚕!」
神刃は思わず彼の名を叫んだ。朱莉や鵠も一瞬だがこちらを気にする様子を見せる。
「大丈夫だ。問題ない。ああ、それとも心配してくれたのか?」
「だ……誰が! いっそお前たちで共倒れになってくれた方がいいと思っただけで――」
にこにこと尋ねて来る蚕の様子は本当に余裕の表情だ。神刃はついつい、憎まれ口を叩いてしまう。
「残念ながらそうはいかないぜ、坊や」
蚕に手傷を負わせて充分な隙を作ったという考えか、桃浪は今度は神刃に仕掛けてくる。
神刃は予備の剣を抜いた。
「得物の形がこの前と違うな。それは、切れ味の足りない予備のなまくらか? それとも今日こそ本命なのか」
「どちらでも好きに思え」
神刃は霊力を流した剣を構える。
今日手にしているのはこの前のような小太刀とは違う。長さこそ同じくらいだが、平べったくまっすぐとした刀身を持つこれは「剣」だ。戦闘よりも、古き時代に神官や巫女が呪いや儀式に使った宝剣に似た形である。
蚕と神刃の立ち位置が入れ替わる。負傷した蚕に代わり、今度は剣を握った神刃が積極的に仕掛けていく。
「へぇ……!」
桃浪は爛々を目を輝かせ、打ちかかってくる神刃の剣を受ける。
「ところでちっちゃいの。お前さん、なんでさっき動揺したんだ?」
「それはだな」
神刃と役割を交換し、今度は援護に回った蚕に再び桃浪は話しかける。
蚕は蚕で、言葉と一緒に針に見える細い白いものを桃浪に投げ飛ばす。
それを躱しながら、桃浪は蚕の返答を待っている。
「お前に言われて気づいたのだが、私はあの女を知っているようなのだ。だが、何故自分にそんな知識があるのか、という部分の記憶がさっぱりない」
「なに?」
「華節だけでないな、向こうで朱莉と戦っている女は早花、その向こうの男は夬だろう。二人とも桜魔王の側近だ」
「よく知ってるな。俺だってつい数日前に聞いたばかりだってのに」
桃浪が夬と早花と出会ったのは、華節が彼らを連れてきてからだ。
「お前は」
剣を振るいながら神刃が口を開く。
「お前は一体何者なんだ?」
その問いは目の前の桃浪ではなく、蚕に向けられたものだ。
「さぁ――残念ながら、私にもわからない」
だから知りたいのだと。桜魔王を倒すことで。自分の生まれた訳を。
蚕の針が桃浪を一時的に障害物に縫い止める。
それは、朱莉の配下の獣に食い千切られた桜魔の死体。一瞬後には桜の花弁に変じてしまう残骸だ。
その一瞬の隙に、神刃は桃浪に斬りかかる。
「――甘い」
純粋な戦闘力では、どうやら桃浪の方が遥かに上だ。だからこの一撃も綺麗に躱せるかと思った。桃浪も、傍で見ていた蚕も。
しかし。
「!」
神刃の剣が一瞬紅い光と共に剣先を変形させる。そこで間合いを見誤って、桃浪は手傷を負った。
完全に油断しきっていたわけではないのでそれでも僅かな傷で済んだが、これが相手を舐めきって避けたところで油断していたら、ぱっくりと首を裂かれていたはずだ。
「なんだ今の! 面白ぇ……!!」
零れる度に桜の花弁に変じる血を流しながらも、桃浪は怒るどころかわくわくと高揚を見せている。
「やるな! 坊や!」
神刃は厳しい表情を変えない。これで倒せなかったとなると、この後もまだ厳しい。
「面白ぇ……本当に、面白ぇよお前ら……!」
桃浪はいっそ好感を抱いているかと言う程の笑顔を浮かべ、再び刀を構えなおす。しかし次の瞬間、その表情が凍りついた。
「っ! 華節!」
ここではない一つの局面が、決着をつけようとしていた。
◆◆◆◆◆
華節は劣勢に回っていた。
信じられない。こんな若造相手に? だが桃浪と見た目の年齢が然程変わらない歳の青年が、今彼女を圧倒している。
高位桜魔として発生し、更に剣術の修行を何十年も積んだこの自分が、負ける?
信じられない。許せない。
いつまでも力を誇示できるわけではないことはわかっていた。拾い子の桃浪が、いずれ自分の力を超えるということも予感していた。
だがそれは、まだ今ではないはずだ。
その日が来るまでに部下を率いて人間共を殲滅し、名実共に桜魔王の名を得るはずだったのに。
計画の最初のこんなところで躓くなんて。
「ぐっ……!」
青年の一撃は重く、鎖帷子の防御をものともしない。
桜魔と退魔師の戦いは、最終的には霊力の強さと技術の勝負になる。霊力や妖力が強ければ一方的な力押しができる。そうでなくとも、技術が相手を上回れば剣は通じる。
そう思っていたのに。
「ふざけるな。貴様ごときに、この私が……!」
華節の剣を受ける青年の動きは、剣士としてはそこそことしか言えない強さだ。
だがその腕の、その霊力の力強さは、剣士としての未熟を補ってあまりあるもの。そして。
「これでもくらえ」
鵠は手のひらに溜めた霊力の矢を、お互いが距離を取るために剣を引いた一瞬に放つ。
退魔師としての力量は、高位桜魔にも対抗できる、十分すぎるくらいに十分なもの。
遠い噂を思い返す。かつて花栄国で聞いた、最強の退魔師の噂。だがそいつは最強などと呼ばわれる割に、まったく自ら桜魔王討伐に名乗りを上げる素振りすら見せない。高位桜魔の中でも更に名の通った実力者が何人もやられたという話もあったが、どうせでたらめだろうと……。
「華節!」
穴の開いた胸は風通しがよく、遠い記憶が彼女をどこか遠くへ連れて行きそうになる。
だが桃浪の声で我に返った。そうだ。まだここで終わるわけには行かない。
胸の傷を妖力で応急処置として塞ぐ。
「さすがに高位桜魔はしぶといな」
鵠がまだ余裕を残した表情で舌打ちする。
だが。
「いいや。これで終わりだよ」
次の瞬間そこに現れた人影が、容赦なく華節の胸に、二度と塞ぎようのない穴をあけた。
..023
「陛下」
と、早花が呼んだ。
突然現れて華節の心臓を貫いた青年姿の桜魔に対し。
「桜魔王……?!」
鵠の、神刃の、朱莉の驚愕が重なる。
力を失った華節の肉体から、青年は血まみれの腕を引き抜く。ぬるりと一度地に落ちた血痕が、そこから桜の花弁に変わっていく。
そしてそれを追うように、青年の手が離れ支えを失った華節の体も倒れ込んだ。
「華節」
「頭領!」
ぽつりと呟いた桃浪の声を、他の部下たちの叫びがかき消す。
「桜魔王陛下、どうして」
桜魔王は鵠とさして年齢も変わらぬような、白銀の髪に桜色の瞳をした青年だった。
そしてその顔立ちは。
「……鵠さんに似てますわね」
朱莉は小さく囁いた。独り言だ。だが近くにいた早花には聞こえていたらしい。しかし彼女は何も言わず、朱莉の傍を離れて桜魔王に駆け寄る。
「陛下、どうなさったのですか?」
「別に。この女の言う計画とやらがどうなったのか見に来ただけだ」
夬も紅雅の剣を押し返し、桜魔王の側近として彼の傍に早花と共に侍った。
「頭領!」
華節の命が絶えていく。
「失敗したようだな。街を見て来たが、退魔師協会が動き出している。あいつらに色々と突っ込まれると面倒だ。帰るぞ」
「了解」
早花と夬は桜魔王の命により華節の作戦を手伝っていただけ。本来の主が戻って来たならば、その命に従う。
一方、主を桜魔王に殺された華節の部下たちは動揺しきっていた。華節は彼らの主ではあるが、桜魔王は全ての桜魔の主君。どうしていいかわからないと言った風情で、躯の華節と桜魔王を見比べている。
「ああ。だがここを後にするその前に」
桜魔王の手の中に光が――全てを消し飛ばす暴力的な妖力の光が生まれた。
「後片付けはしておかないとな」
次の瞬間、華節を喪って崩れかけていた桜魔の巣は、跡形もなく吹き飛ばされた。
◆◆◆◆◆
「逃げろ!」
鵠は神刃を抱え、咄嗟に爆発の中心点から飛び退いた。
「どういうことでしょうかね」
朱莉は紅雅にお姫様のように抱きかかえられて無事だ。蚕も危なげなく桜魔王の攻撃を躱している。
「桜魔たちの仲間割れ……か? あれは桜魔王だな。桜魔王と華節の間で何か交渉があり、それが決裂したという印象だ」
蚕の言葉に、鵠は顔を顰めて返した。
「そうか? 俺には一方的な粛清に見えるがな」
桜魔王は最初の一撃で獣型の下位桜魔たちの残党を吹き飛ばし、その後、華節の部下の高位桜魔一人一人に、丁寧にトドメを刺している。圧倒的な力の差で頭部をぐしゃりと潰し、確実に殺害する。
鵠たち退魔師には目もくれる様子がない。それは、桜魔王の側近二人も同じだ。あまりに異様な状況に、鵠たちも彼らに迂闊に手出しできずにいる。
その均衡を崩したのは、一人の青年桜魔だ。
「!」
桃浪が桜魔王に斬りかかる。
「あいつ……」
「今の実力では勝てないとわかっていそうだがな」
彼と戦っていた神刃と蚕は、思わずその動向を見守った。
「おや、やる気だな」
「てめぇ……!」
桃浪の気迫は、神刃と蚕の二人を相手にしていた時とはまるで違う。桜魔王に対する殺意に満ちている。
「今でもなかなかの実力だが」
しかし桜魔王は、桃浪の剣を素手のまま簡単にいなす。
「まだ甘い。そしてそのまま、頂点に届かず死んでいけ」
桃浪がぎり、と悔しげに唇を噛みしめた。
先程華節の胸を抉ったように、桜魔王は桃浪の心臓も貫こうと腕を突き出す。
その腕に、紅い矢が刺さった。
「神刃?」
「あ、えっと……」
咄嗟に矢を放っていた神刃は、鵠に声をかけられて我に返る。
「まぁ、良いのではないか。我々は元より、桜魔王に対抗するための集団なのだから」
神刃に続いて蚕が攻撃を仕掛ける。はっきりとした意志の下でなされた攻撃を躱すために、桜魔王は桃浪から手を離した。
そして桃浪は宙を蹴り、一度鵠たちのいる側まで下がった。
「おい、なんでこっちに来るんだ」
「気にしないでくれよ。お互い桜魔王に恨みを持つ者同士じゃないか」
俺は別に桜魔王に恨みがあるわけじゃない……と内心で反論している鵠に対し、桃浪はとんでもないことを告げてきた。
「というか、俺もお仲間に入れてくれよ」
「はぁ?!」
「俺にもできちまったんだよ。桜魔王を倒す理由が」
桃浪の顔は笑っているが、目はいまだにぎらぎらと獣のように輝いて桜魔王を睨んでいる。
「すでにそっちのちびっこがいるんだ。今更桜魔は仲間にできないなんて言わないだろ?」
「……こいつも別にまだ仲間じゃない。というか辻斬りを仲間にするわけないだろう」
蚕の方を指して告げてくる桃浪に、鵠は呆れながら反論した。
朱莉は無反応だが、神刃は驚きなのか呆れなのか怒りなのかで、もはや声も出ないようなのだ。
「ま、いいから」
「良くない!」
「落ち着いてください神刃様。今は油断できる状況じゃありませんわよ」
叫ぶ神刃を朱莉が窘める。桜魔王がまだそこにいるのだ。桃浪が彼らの側まで下がってきたことで、彼はようやくこちらに意識を向け始めた。
「ほー、退魔師が桜魔と組むのか。斬新な組み合わせだな」
圧倒的で無慈悲な力の持ち主とも思えず、桜魔王はどこかとぼけた性格のようだ。
「どうするんですか、陛下? 華節一派の残党君が退魔師と手を組むとなると、ここで全員殺しておきますか?」
夬の言葉に、鵠たち退魔師側も一気に緊張を高める。
鵠たちは華節たちとの戦いで少なからず消耗している。それに比べて桜魔王はいまだ無傷。朱莉と紅雅は慎重に戦っていたため、早花も夬も目立った負傷はない。
今戦うのは分が悪く、もともと桜魔王に彼らの実力で通じるのかも定かではない。
ただ。
「そっちがその気なら、相手をしてやるぜ」
「鵠さん!」
向こうがやる気だと言うのなら、鵠は応戦する気持ちと、それでも一方的な勝負にはならないという自信はあった。
今なら負傷しているとはいえ桃浪もいる。華節とは頭領と部下以上のどういう関係だったかは知らないが、彼は華節を殺されて桜魔王に対し怒りを持ったように見えた。
人数差をつくのであれば――。
「……いや、やめておこう」
桜魔王側はその挑発に乗らなかった。鵠、神刃、朱莉、それに蚕と桃浪、姿を見せている紅雅も含めれば六対三だ。さすがに無理はするまいと考えたのだろう。
「今日は華節のやり口を見に来ただけだからな。用事はもう終わった」
桃浪がぎりりと唇を噛む。華節を殺し、華節の部下たちも彼以外の全てを殺し、それが済んだ用事だと言うのか。
桜魔王側は影渡りの手法でさっさと道を開き、この場所から消える。
後には桜魔の巣が消えて半壊になった屋敷の一室が残された。周囲の喧騒がだんだんと耳に入ってくる。
「とりあえず、後始末が面倒だな」
鵠の深いため息が、全てを物語っていた。
..024
「俺は、反対です」
「私はもうどうにでもして、と」
「……」
蚕だけではなく、桃浪まで押しかけてきた家で、三人の退魔師は額を突き合わせて考えていた。
「二人とも強いので私の配下にもできませんしね」
魅了者の朱莉が支配下に置いた下僕ならば話は簡単なのだが、完全に自分の意志で行動する自由な桜魔を仲間に引き入れるとなればそうもいかない。
で、どうする? という鵠の問いに対するのが、冒頭の二人の答だった。
「蚕については今回の戦いで神刃様の味方をしてくれたこともありますし、ひとまず桜魔王を倒したいと言う目的は信じてもいいのではないかと」
自身が桜人である朱莉は、桜魔を仲間に引き込むことに関してもそれ程抵抗はないようだ。
「神刃……」
「俺は、嫌です」
一方の神刃は、頑なに蚕と桃浪の受け入れを拒否し続ける。
神刃の気持ちもわからなくはない。と言うより、むしろそちらの方が常識的な反応だろう。桜魔は人類の敵だ。
今目の前にいる、桜魔王打倒のために退魔師の仲間になりたいなどという桜魔二匹が異常なのだ。
「……何度も繰り返したが、私の目的は桜魔王を倒すことだ」
蚕は神刃の態度を目の前にしても、不快を表すことすらせず、いつもの歳不相応に不思議な落ち着きを宿した瞳で語りかける。
「これを信じてもらうのは難しい。お前たちを納得させるだけの理由を、私自身が持っていないからな。けれど、願いそのものは本当だ。私にはそれを繰り返すしかない」
「……」
蚕に関しては神刃も複雑な想いがあるようだ。実際彼は、神刃に味方して桃浪と戦った。その時に言われた言葉を神刃も忘れていない。
――今この空間で、一番勝ちたいと思っているのがお前だからだ。なんとしてでも敵を、桜魔を倒そうと願っているのがお前だからだ。
「はーい、じゃあ次、俺の理由ね」
神刃の物思いは能天気な青年の声に中断された。桃浪が悪びれもなく口を開く。
「俺の理由は簡単だ。華節を殺された恨みで、桜魔王に復讐したい。それだけ」
「それだけって……お前……」
蚕の素性もなかなか謎めいているが、桃浪についてはもっと問題だった。
彼は辻斬りの一味の実行犯で、すでに何人もの人間をその手にかけている。人間を手にかけたことはないと断言した蚕と違い、桃浪の手はあまりに血塗られ過ぎているのだ。
「それだけさ。分かりやすい理由だろう? 復讐ってのは」
「……」
神刃が、鵠が、朱莉が、それぞれに黙り込む。確かにこれ程わかりやすい理由はない。
「偽善的で綺麗なお題目と違ってこれ程簡素な動機もないぜ。俺は……」
朱い瞳がすっと光を失い、憎しみを宿す。
「あの男を殺すまでは、絶対に死なない」
鵠が桃浪に問いかける。
「華節というあの女は、お前にとって何なんだ」
「俺は生まれたばかりの弱弱しい餓鬼でしかなかった頃にあの女に拾われたんだよ。つまりは養い親ってわけだな。俺に剣の基本を教え込んだのもあの女だ」
だから復讐をしたいのだという桃浪の言葉に、神刃がぴくりと反応する。
養い親。復讐。その二つの言葉が、神刃が普段封じ込めている記憶を思い起こさせる。
詳しい事情まではわからずともそれを察せられるだけの知識がある鵠は、ある決断を下すことにした。
「――わかった」
「鵠さん?」
徐に口を開く。
「蚕。桃浪。お前たちには、俺たちと協力して桜魔王を倒してもらう」
「鵠さん!」
神刃が再び鵠を呼んだ。その声には非難の色が強く宿っている。
「神刃。どっちにしろ決断は下さねばならない」
「でも!」
「ここで追い出したところで、どっちも納得せずにどこまでも押しかけてきそうな性格だしな」
「……っ」
それは確かに否定できないと、神刃も苦々しげに頷く。だが彼らを受け入れる理由にはならない。
「――この二人は、桜魔です」
「知っている。だがここで殺すのもな。特に桃浪はともかく、蚕が人を手にかけたところは、俺たちも見たことはないわけだし」
結局そこなのだ。
「……」
朱莉は黙って、鵠と神刃のやり取りを見守っている。この三人の中では一番強い決定権を有しているのは鵠だ。
神刃も朱莉も退魔師としての実力は相当にあるが、それでも他に代わりがいない人材と言うわけではない。だが、桜魔王に対抗できるだけの退魔師ともなれば、今この大陸には鵠だけだ。
「こいつらが俺たちを裏切ったり、人を無闇に傷つける存在だと判明したらその時は殺す。逆に言えば、そういう奴だと危惧するなら野放しにはしておきたくない」
視線を向けられた桃浪が頷く。
「はいはい。もう人間に手をかける真似はしません。元々俺が好きなのは強い奴と戦うことだ。華節の命令に従って辻斬りを行ってはいたが、無力な町人を何人殺したところで楽しめるわけでもないしな」
「楽しいとか楽しくないとか、そういう問題じゃ……!」
「神刃」
鵠は穏やかに、けれど強く呼びかける。
「信じなければ始まらない。そう俺に教えたのはお前だ」
鵠のその言に、これまで心を閉ざしていた彼をようやく説得した少年は、ぐっと言葉を呑み込む。
「蚕のようにお試し期間とは言わないが、妙な真似をしたらすかさず斬れ」
「わー。俺って信用なーい」
「「当たり前だ」」
鵠と神刃の声が重なる。
「蚕、お前もそれでいいな」
「ああ。もちろんだ。今のところそんなことをするつもりはないとはいえ、私が人間を躊躇なく襲うようになったら、それは私が私でなくなった時だ。その時はお前たちも遠慮なくやってくれて構わない」
「……と、言うことだ」
鵠は一応確認の意味で朱莉を見る。
「私もそれで構いませんわ」
そして鵠と朱莉、二人の視線が集中し、遂に神刃は折れることになった。
「……わかり、ました。鵠さんの意志に従います。でも、全面的に信用するわけじゃありません」
「当然だ。むしろ全面的に信用なんてするわけには行かないだろう。桜魔王を倒す戦力としては数えるが、一応普段から気を付けてくれ」
「はい」
桜魔王には今回見た男女だけでなく他にも側近がいるはずだ。本当に彼らを倒すならば、こちらも頭数を揃えねばならない。桜魔王というのはもはやあの青年個人ではなく、桜魔王陣営全てを指すのだ。
「じゃ、早速部屋割りを教えてくれよ!」
「私は別に部屋はいらん。どこでも寝られる。あ、でも足りない記憶と知識を補うために本が欲しいな。書物のある部屋に案内してくれ」
「お前ら本気で図々しいぞ!」
全身で拒絶していた割には、反応が素直な神刃は桜魔二人に馴染むのも早そうだ。
この先の波乱を目いっぱいに予感させながら、それでも一つの事件がようやく終わった。
◆◆◆◆◆
「そう言えばあの屋敷の住人は結局どうなったんだ?」
非正規退魔師だと名乗りながらも、朱莉はどこかに伝手をもっているらしく、正規の退魔師協会ともちょこちょこ連絡を取り合っているらしい。事後処理は任せろという彼女の言葉に甘え、非正規退魔師である鵠はその結果報告を聞いた。
「とりあえず警吏と退魔師協会の方で連携し、裏で色々やっているらしいですわよ。桜魔と手を組んで邪魔者を謀殺していったのですもの。国を怒らせましたわね」
くすくすと笑う朱莉の笑顔に、これ以上詳しいことはあまり聞かない方がいいのだろうなと鵠は察することにした。
鵠は確かにかつて最強の退魔師と呼ばれたが、そう言った人間があまり深く王に、政府に関わるものではないと考えている。強い力を持つ人間が王になるという原始的な時代はとっくに終わっている。
争いに勝つ力を持つ人間が王を務めるというのは、桜魔ヶ刻をもたらした緋閃王の過ちを繰り返すだけだ。
それより今は気になることがある。鵠と二人きりになる機会を見計らっていた朱莉の方もそうだろう。
「神刃様のこと、気にかけてくださってありがとうございます」
「……あんたはあいつの姉か何かか? そんなに気にするな。俺が俺の意志で勝手にやったことだ。誰に感謝される謂れもない。あんたにも……神刃にも」
「それでもあなた様が彼ら二人を受け入れる決断をしたのは、神刃様のためなのでしょう。私はそれをありがたいと思っております」
総てを見透かしたような目で、朱莉はくすくすと笑っている。桜人とはいえ、侮れない少女だ。そうでも考えないと、鵠は自分はそんなにわかりやすい人間なのかと落ち込むことになる。
「あいつの中には矛盾があるんだな。桜魔は総て敵であり、殺さねばならないと憎む気持ちと」
「桜魔であっても、残酷なことはできないという良心……」
鵠が蚕と桃浪の二人を殺すのは、難しいが不可能ではない。
桃浪は抵抗するだろうが、彼相手ならば鵠はぎりぎりではあるが勝つだろう。神刃や朱莉の援護があれば更に確実だ。
そして蚕は彼自身が言った通り、人を傷つけない。鵠が本気で彼を殺そうとしたら、さすがに無抵抗ではないだろうが鵠たちを傷つけずに逃げようとするだろう。
だがその選択は、恐らくきっと、神刃の心も傷つける。
それを、鵠も、朱莉も理解している。
「だから多少傲慢に見せても、あなたは神刃様のためにあの二人をひとまず受け入れる決断をしてくださったのですね」
初めはむしろ逆だった。依頼を受けた対象だからとはいえ鵠は相手がどんな桜魔だろうときっちり殺して来たし、神刃はその残酷なやり方に異議を唱えていた。だが。
「……そういうわけでもない。俺は別に神刃と違って、桜魔ならなんでも殺す主義でもないからな。使えるものはむしろ使うだけだ」
だが、十にも満たない子ども姿の蚕。
そして、養い親を殺されたために復讐を望む桃浪。
あの二人の姿や境遇は、神刃の心を刺激しすぎるのだ。ひとまずは生かしておいた方がいいだろう。
「……まぁ、ここで仲間にしたことで、あの二人が本当に桜魔王討伐の切り札になる可能性もありますしね」
「そうだな。そうなってくれればいいんだが」
鵠としては、神刃に桜魔への憎しみを捨てろと言う気もなければ言う意味も感じない。全体としては、あれは憎むべき存在だ。
だが、桜魔全般を憎むあまりに視野が狭くなれば神刃自身の精神的にも良くない。桜魔にだって個性があるのだ。戦法だって個体差が激しい。それらの前提を忘れたり歪めたりするような無駄な拘りは推奨しない。
そういう意味では、蚕や桃浪との付き合いは神刃を変える一助となるのかもしれない。
「まぁ、とにもかくにもこれから賑やかになりそうですわね」
「……あのなぁ」
朱莉の穏やかな感想が、全てをさらっていった。
◆◆◆◆◆
――なんだい、餓鬼。そんな死んだような目をして。
初めて会った時、女は彼を見て笑った。
――弱いからそうなった? ああ、そうだね。そりゃあ仕方ない。桜魔の世界は力が全てだ。
――だからお前にも力をやる。死ぬのはそれが通じないとわかってからでも遅くないよ。
酔狂な女だった。死にかけの子どもを拾って育てるとは。それで彼女に何の価値が、意味があったのか、今でも彼にはわからない。
「だが、まぁ、いいさ」
――桜魔ってのは、どいつもこいつもやりたいように生きるだけさね。
元より桜の樹の魔力と瘴気、そして死者の念が結びついて発生する妖。桜魔の生に意味も価値もなければ、崇高な理念など塵とも必要ではない。
「だから俺も、やりたいようにやる」
復讐どころか彼の人生さえ無意味なのだから、あとはどうにでもなれ。散り逝くために咲く桜のように、滅びるために生まれてきて何が悪い。
「あいつらもまぁ、面白そうな面子だしな」
ちょっとの間――そう、桜魔王を倒すまで付き合うのも一興だと。
今日もまた、夜と朝の間の桜魔ヶ刻で、一人の桜魔が笑うのだった。
続く.