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桜魔ヶ刻  作者: きちょう
第3章 桜の花が散り逝く刻
12/12

12.桜の花が散り逝く刻

..067


 鵠は剣を構える。朔との戦いの時には素手だったが、今回の相手は蚕月だ。無手よりも得物があった方がいいという判断だ。

「なるほど、剣か」

 蚕月も鵠の思考に気づいたのだろう。金色の瞳に面白がるような光を湛えている。

 初めて戦う相手ではない。これまで何度も何度も、それこそ鍛錬と言う名目で何度も手合わせを重ねてきた相手だ。

 とは言っても、実際の戦闘となれば今までと勝手は違うのだろう。

 何よりまず、相手の大きさが違う。これまでの“蚕”は十にも満たない小さな子どもの姿だった。今の“蚕月”は鵠より僅かに目線が低いだけの青年の姿だ。

 組手を始めた頃は、子どもを苛めているようで気分が悪いと思ったことを思い出す。しかしすぐにそんな感情は消えうせた。蚕は強かった。

 あの頃、鵠は桜魔王として朔を想定していたため、体格の違いにもやりづらさを感じたことを覚えている。主に無手で戦うのが鵠と蚕のみだったため、それでも彼との戦闘は朔との戦いには役に立った。

 今はその蚕――蚕月と戦うことになっている。あれだけ「今日」について考えたのに、いまだに不思議な気分だ。

「針対策だな」

 蚕は主に無手で戦っていたが、彼の得物はそれだけではない。

 名が示す通り、彼は「かいこ」の生態を模倣した桜魔のようだった。「蚕蛾かいこが」の幼虫であるかいこは、成虫になる際に糸を吐いて繭を作ることで知られている。その繭糸を紡いだものが絹だ。

 糸と絹。そのどちらも蚕の武器だった。中距離戦で使用する糸の針の能力と、載陽を倒した時に使った布の刃の能力。どちらも素手で対抗するには厄介な代物だ。

 鵠はそれを踏まえ、今回は剣を持ちこんだ。素手で戦うとは言っても霊力を纏わせることで尋常ではない防護能力はあるのだが、蚕月の能力の方が強い場合は少しの油断で手足を持って行かれかねない。

 今まで何度も戦ってきて、相手の力を知っているからこその用心だ。

「お前は本気のようだな」

「なんだ、手を抜いて欲しかったのか? 俺に勝たせてくれるっていうなら、今すぐ抵抗をやめて棒立ちで首を差し出してくれ」

「生憎だが、そうはいかない。私にも目的があるのでな」

「……」

 目的……蚕月の目的とはなんだろう。

 考えても詮無いとは知りながら、鵠は一瞬だけ考える。

 桜魔王として各地の桜魔を統べ、人類を滅ぼして大陸の覇権を握る。……本当にそうなのか?

 何度も心の中で繰り返した問いが蘇る。

 しかし、考え続けている暇はない。

 案の定飛んできた糸針を、鵠は剣で斬り落とす。その隙に飛び込んできた蚕月の蹴りも、同じように剣を身の前に構えて防御した。

 鵠が霊力で己の肉体を保護するように、蚕月も妖力による防護は完璧だ。やはりこんなものでは傷一つつかない。

「さすがだな」

「嘘を吐け。まだまだこんなものじゃないだろう? 俺もお前も」

 蚕月がにっこりと笑う。見慣れぬ大人びた顔立ちに、見慣れたあどけない笑みが重なる。

「そうだな。では体も温まったことだし、そろそろ全力で行こうか」

 今までのは準備運動だと言い捨てて、蚕月は再び攻撃を開始する。


 ◆◆◆◆◆


 夢見と桃浪の激しい戦いは続いていた。まさにこのために生きていると言っても過言ではない戦闘狂二人の戦いだ。他のどの場所よりも熱く激しく、森を破壊する勢いで繰り広げられている。

「ねぇねぇ桃浪! 聞いてもいいー?!」

「ああ、いいぜ!」

 だが、戦いを続ける当人たちに殺し合いをしているのだという不穏な気配は一切ない。両者とも相手を確実に殺せる機会を常に狙っているというのに、二人の間に流れる空気はどこまでも明るかった。

 戦闘狂同士、退魔師についた裏切り者と、桜魔王の配下として立場こそ極端に別れ敵対しようと、所詮は似た者同士なのだ。

 二人ともそう考えていた、今日この日までは。

「桃浪はぁ、何のために生まれて生きて、戦ってるのー?」

「あん? なんでって、お前そりゃ……」

 答えようとした桃浪の隙を突くように、夢見の強烈な蹴りが襲う。咄嗟に刀で防御したが、桃浪はまたも足で地面に深い痕を残しながら、後方に押し遣られた。

 話しかけておいて人の返答は聞かず、夢見は一方的に喋り続ける。

 誰も知らない彼女の過去を。

「あたしはねぇ、とにかく殺したかったの! あたしにとって邪魔な人間すべてを! だってみんなうるさいだもん! あれしちゃ駄目、これしちゃ駄目って、あたし、最初から人間に馴染めなかった」

「ん? ってことは、お前さんもしや……」

 夢見の告白を聞いて、桃浪は気付いた。

 彼女の口にする状況は桜魔の発生状況ではない。生まれた時周囲にいたのは人間で、それを殺した。これは……。

「だからあたしぃ、みんな殺して、桜魔になったの。桜魔になれたから、もっともっと殺したの!」

「お前さん、桜人か!」

 きゃらきゃらと笑いながら、夢見は戦いになんら関係のない無駄な動きをとっている。そんな状態でも、夢見にはまったく隙がない。

 ……いや、隙自体はあるがいざ攻撃を仕掛けるとその隙は罠として機能するのだ。やりづらい相手である。

 そんな夢見は、本来は桜魔ではなく桜人なのだという。

 朱莉と同じだ。だが彼女と朱莉とはある意味でまったく違う。

 朱莉の方は、恋人である桜魔を神刃に殺されて、再び人として生まれ変わる彼を探すために永遠の時間を欲して桜魔――桜人になったのだという。それは計算し尽くされた意図的なものだ。

 しかし夢見の場合は、人として生まれながら人として外れてしまった意識が魔を呼び寄せ、憑りつかれたことにより桜魔化した存在。死者の念からの発生ではなく、生きた人間を核に変質したその存在を桜人と呼ぶ。

 確かに桜人の発生としては朱莉よりも夢見の方が一般的だ。人とは心の均衡を喪えば、あっと言う間に魔に憑りつかれる生き物である。

 だからこそ桜魔などと言う存在も生まれるのだ。桜魔は死者の怨念に桜の樹の魔力と瘴気が結びついて生まれる妖。誰も何も恨まなければ、桜魔も桜人もこの世には存在しないのである。

 夢見の中途半端な説明では、彼女に具体的に何があったかはわからない。そんなことは本来どうでもいいことなのだろう。夢見は桜人として、強い者と戦い殺し合うことに満足している。

 その姿は、人の意識を残したまま魔に変じる桜人と言うよりも、死者の念を核に発生する桜魔本来の姿に余程近かった。誰も言われねば夢見が桜人なのだと気づかない程に。

 だが、それでも自分と同じような戦闘狂と評される桃浪に某かの共感を覚えたか、夢見が普段は捨て去っている元人間としての感情が初めて顔を見せた。

「桜魔なんて、みんな憐れよ。どいつもこいつも、生まれる前のことばかり考えて、泣いて苦しんで、その苦しみから逃れたくて人間を襲うの」

 人を恨んで死んだ死者の想いから生まれるから。

 桜魔はどうしても、人間を憎まずにはいられない。

 いつも甘ったるく溶けている夢見の語尾が明瞭になる。今までも何度かあったことだが、今日はまたいつもと様子が違う。

「ねぇ、桃浪? あたしたち、本当に憐れね。人生をやり直すために生まれて、こうして戦っている」

 桜人として生まれ変わったはずなのに、人間だった頃の感情に縛られている夢見も。

 元々が死者の怨念から発生し、その憎悪を生きた人間に向ける桜魔も。

 どちらも憐れだと彼女は告げる。

 死ぬのは嫌だと嘆きながら、殺し殺される世界でしか救われない。

 ――けれど、桃浪は夢見の台詞をその体ごと一閃する剣と共に切り払った。

「憐れ? 自分で自分を憐れなんて言うなよ。誰からどうやって生まれようが、俺は俺だ。それ以外の真実なんてないね!」

 桃浪は「今」のために戦っている。過去? 前世? 自分を作る核となった死者の怨念? そんなものはどうだっていい!

 桜魔・桃浪として生まれ生きてきた全ての時間のために今戦っているのだ。彼が戦う理由は復讐と言う過去のためだが、過去は過去でもそれは紛れもなくこの桃浪自身が生きて得た軌跡である。

 誰かの人生のやり直しなんてした覚えはない。するはずもない。

「……ああ、そうだったね。桃浪は華節の復讐のために戦っているんだった。立場としては祓の方に近いんだっけぇ?」

 あっさりと攻撃を避けた夢見の喋り方がいつも通りになり、桃浪も調子を戻す。

「あの坊やとは気が合いそうにないけどな」

 同じ復讐者でも生真面目に桜魔王・朔に従っていた祓と、最初から朔に従う気がなく、華節の一件で即座に裏切った桃浪では絶対に馬が合わないだろう。

「じゃあ余計な話だったなぁ。ごめんねぇ、桃浪ぉ。無駄な時間使わせちゃったぁ。じゃあ、すぐにこの時間を終わらせるからねぇ」

 生を憐れみ死を産む女は、死によって生まれ生を積み重ねた男と対峙する。

 手に妖力を溜めはじめる夢見に対し、桃浪は剣を構えなおしながら告げた。

「いやいや、俺こそお前に無駄な時間を使わせてるからな。そろそろ――終わらせようぜ」


..068


 祓の小刀が飛んでくるのを、朱莉は霊符と身体能力全てを使って躱した。手数の多い相手は面倒だ。

「まぁ、手数には私も自信がありますけどね……!」

 この日のために作りためておいた霊符を出し惜しみなしに投入する。

 祓は目前で爆発した霊符から礫が飛んできたのを見て取り、手にしていた小刀で危うく叩き落した。

 その隙に朱莉が近接の間合いまで走り込んでいる。懐剣を抜いて斬りかかるが、これは呆気なく祓に捌かれ再び距離をとった。

「やっぱり近距離は向きませんわね」

 中距離戦はどちらに分があるとも言えないが、近接戦闘はやはり祓の方が強い。

 ただし朱莉にはまだまだ切り札があって、魅了者として影の中に棲まわせている配下の桜魔たちの能力を借りれば、更に手数を増やすことができる。

『朱莉様、私は出なくともよろしいのですか?』

「もう少し待って紅雅……まだ様子見の段階なの」

 危なくなったらすぐに呼ぶからと、一の配下に言い聞かせる。

 朱莉はまだ迷っていた。このまま祓を殺してしまっても良いものか。

 勿論、どうしても勝てないようなら殺してしまうしかない。祓に鵠と蚕月の戦いの邪魔をさせるわけにはいかない。

 だが今のところ、彼と自分の力は拮抗している。

 朱莉にはある考えがあった。一か八かの博打だが、上手く行けば祓を正気に戻せるかもしれない。

 だが、その手をそもそも使う意味があるのかと、冷静で冷徹なもう一人の自分が疑問を投げかける。

 祓も桜魔王の一味。このまま洗脳状態で死ぬことになったところで、誰も困りはしない。むしろ彼が桜魔としてしてきただろうことを考えれば、人類のためにその方が良いのではないか。

 投げ付けられた小刀を躱し、爆炎の目晦ましをかけながら思考を巡らせる。

 炎と煙を切り裂いて飛び込んできた祓の目の前で発動するよう、もう一枚霊符を仕込んでおいた。だがこれは彼が咄嗟に妖力で生み出した全方位を覆う結界によって阻まれる。

 仕掛けておいた追撃も、その結界によって防がれた。

 形勢はまた振り出しに戻る。

 祓は確かに桜魔王の側近一味の中では一番弱い。脅威となる程の相手ではない。

 だからと言って、易々と倒せるような相手でもまた、ないのだ。彼を仕留めようとするならば、それなりの時間をかけるか、犠牲を覚悟することになるだろう。

 だが今はどちらも選ぶ訳にはいかない。桜魔王を相手取る鵠に数の優位をもたらすためには、できる限り傷を負わずにこの場を切り抜ける道が必要だ。

「やはり……殺すしかなさそうですわね」

 人に近い姿をした桜魔を殺すのはやはり、手にかけるこちらとしても心が痛む。だからと言って、このまま桜魔に大陸を蹂躙させてやるわけにはいかないのだ。

 覚悟を決め、朱莉が祓を殺す奥の手を用意したその時だった。

「!」

 彼らから離れた場所で、大きな妖力の爆発が起こった。


 ◆◆◆◆◆


 神刃と夬も接戦を続けていた。ここ数か月の経験で急激に成長した神刃の能力は、いまや夬を圧倒とは言わないまでも、確実に足止めするぐらいにはなっている。

「やれやれ……華節の件で顔を合わせた時にはまだまだひよこだったはずなのに」

 神刃は元々それなりの退魔師として鍛えてはいたが、それでも桜魔王の側近級と戦えるような人材ではなかった。急激な成長は、鵠の、朱莉の、そして桃浪や――蚕のおかげだ。

 その蚕を、蚕月を彼らは倒さねばならない。

 納得の行く決着をつけるためにも、ここで夬を足止めし――逆に足止めされるわけには行かないのだ。

 とは言うものの、神刃自身はいまだこの状況を打開する策を見いだせないでいた。

 夬は載陽の弟子の一人である。剣の腕はもちろん、朱莉の霊符と似た呪符を使った撹乱にも慣れている手練れだ。

 歴戦の猛者たちに比べればまだまだ未熟と言われる神刃では、一人ではなかなか崩しにくい相手だった。

 剣戟の音が止み、夬が一旦後方に跳んで距離をとる。

 放たれた呪符を、神刃は素早く持ちかえた弓で射落とした。

 案の定地面に縫い付けられた札が小さな爆発を無数に連鎖させる。こんなもの小太刀で斬りおとしたらひとたまりもない。

 弓に持ち替えた隙を狙って夬が飛び込んでくる。

 神刃は無理に小太刀を抜き直さず、夬の斬撃を短弓で受け止めた。

「!」

 刃が食い込んだ瞬間に霊力で強化し、夬の得物を絡め取る。

「ちっ!」

 今だ! と相手の剣ごと自分の弓を投げ捨てて小太刀で迫るが、さすがに桜魔王の側近はそう簡単に首を獲らせてはくれない。

 夬は咄嗟に自分も被害を受ける覚悟で呪符を破裂させ、神刃が爆発に怯んだ隙に再び距離をとった。

「やってくれるじゃないですか……」

 夬の表情が厳しくなる。得物を失って追い込まれた男はいよいよ本気を見せるのかと、神刃は警戒した。

 しかしその時、戦う二人の気を逸らすような大きな爆発が起こり、妖力が一気に膨れ上がって――消えた。

「夢見?!」

 夬が仲間の名を叫ぶ。神刃も。

「桃浪……?!」


 ◆◆◆◆◆


「う、ふふふ。うふふふふふふ」

 夢見は笑う。最期のその瞬間まで。

「やっぱ強いなぁ、桃浪……」

「ああ。お前さんも強かったぜ、夢見」

 桃浪も笑みを浮かべた。だがその口元は、すぐにせり上げてきた血の塊に濡れて赤く染まる。

「が、がはっ……!」

 夢見の曲刀の片方が桃浪の片腕を貫いて動きを制限し、もう片手の刃が今まさに彼の首を掻き切ろうとした瞬間のことだった。

 かつてなく接近したこの距離と、両腕を広げて大きく隙を見せた夢見の行動。桃浪は自らが攻撃を回避することよりも、迷わず自分の一撃を相手に食らわせることを優先した。

 桃浪の刀が夢見の心臓に深く差し込まれると同時に、それを察した夢見も首より心臓に狙いを切り替える。

 この距離で真正面から刺し合えばお互いの攻撃は外れない。――外せない。

 どちらの刃も見事相手に届き、急所を貫いた。

 後から後から流れ落ちる血があっという間に桜の花弁へと変わり、ひらひらと風に吹き流されていく。

 いくら桜魔が人間より余程頑強な肉体をしていると言っても、これは致死への一撃だと夢見も桃浪も理解していた。

「あーあ、ここまで勝ち続けて来たのに……」

 夢見の残念そうな、けれどどこかほっとしたような声に桃浪も頷く。

「悔しいなぁ。でも、楽しかったよぉ、桃浪……」

「俺もだぜ、夢見……」

 本当は。

 桃浪は華節の仇をとるために、桜魔王・朔を殺して復讐するつもりだった。

 けれどそのためには、桜魔王だけではなく彼の側近連中も片付ける必要がある。さすがに一人では無理だと理解していた桃浪は、そのために利用するつもりで鵠たち退魔師と手を組んだ。

 けれど鵠と、神刃と、朱莉と、蚕と、他の面々と――同じ時を過ごすうちにいつの間にか、復讐よりも彼らと同じく「桜魔王を倒す」ことが目的になってしまったのだ。

 ここ数か月、自分と拮抗する能力を持つ夢見と剣を合わせる度に、桃浪の中で以前抱いた復讐心からの目的よりも、一行の中で自分が果たすべき役目を強く意識するようになっていった。

 夢見の変則的な戦い方は、恐らく自分か蚕のような特別な桜魔以外は抑えきれまい。だから何としてでも、この女だけは自分が倒す必要がある。

 桃浪はそう考えた。そうすれば鵠が桜魔王にトドメを刺す。そこまで考えて気づいた。

 手段が目的にとって代わっている。

 そんな自分を愚かだとは思うが、それを否定するほど真剣に生きてきたわけではない。

 桜魔王に対して今まで程の憎しみをいつの間にか抱いていない自分に気づいた。けれど彼を倒さなければいけないという想いはむしろ増して行った。

 鵠が、神刃が、真剣に桜魔王を倒し、この時代の終わりを願っているから、少しくらい協力してやろうと――。

 桃浪の復讐は、もしかしたらその時すでに終わっていたのかもしれない。

 仇を殺したところで結局死者は帰って来ないのだ。復讐もただ桃浪自身が己を憎しみから救い上げるための手段でしかなかった。でもそれはもう、必要ない。

 癒されていた。誰かと共に生きていた日々に。救われていた。もう魂はとっくに。

 総てを滅ぼすために生まれると言う桜魔としては、あまりにらしくない話だ。その時点で、桃浪の桜魔としての生は終わってもよかった。

 だが、願わくは、自分にその救いを示してくれた奴らに、ほんの少しでも自分の力を遺してやりたい。

 それが、桃浪以外には抑えきれないであろう夢見を確実に殺すことだった。

「ねぇ、桃浪?」

「なんだい、夢見」

 お互いが殺す者であり殺される者、死に向かう桜魔の男女は血を流しながら向きあって最期の会話を交わす。

「あなたは、幸せ?」

「ああ、最高にな!」

 そして彼らの姿はほぼ同時に糸が解けるようにその場から消え、無数の桜の花弁と化した――。


..069


 戦いは激化する。

「急ごう」

「ええ」


 ◆◆◆◆◆


 神刃の叫びが空気を切り裂く。

「桃浪!」

 二人の桜魔が相討ちした。

 一人は夢見、一人は桃浪。二人とも桜魔ではあるが、桜魔王の側近と退魔師の仲間として、立場を違えて争いあっていた。

 これまでにも変則的な戦い方をする夢見の相手は桃浪にしかできないだろうと、鵠たち一行は夢見の相手を彼に任せ切っていた。

「夢見……」

 夬も動揺している。桜魔側退魔師側問わず、他の面々も皆。反応を見せないのはいまだ操られたままの祓ぐらいだ。

「夢見が逝ったか」

「お前でもあいつの死を悼むのか?」

「いや、夢見は最期まで強く面白い敵と戦えて幸福だったろう。それに桃浪が夢見を倒すことは知っていた」

 知っていたとは妙な口ぶりだ。今は敵同士だが、かつては仲間でもあった蚕こと蚕月の言葉は意味深である。

「あちらばかり気にしている場合ではないぞ。決着がついたときにこの場所に立っていないかもしれないのは、お前も同じだ」

「そうだな」

 嘆くのも勝手に死にやがってと怒るのも、全てはこの戦いが終わってからだ。鵠はすぐに意識を切り替える。

 朱莉の方も動揺はしたようだが、彼女はなまじ相手の祓が洗脳状態で周囲の状況を意に介さないために一瞬も気を抜けない。

 そして神刃は。

「お仲間が消えたようですけど?」

「それは、そちらも同じですね」

 精神的に揺さぶりをかけようとする夬に、内心の動揺を押し隠しながら必死で対抗していた。

「おやおや、泣いて悲しまないのですか? 彼は桜魔、あなたにとっては所詮、仲間でもなんでもなかったということですか」

「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ。あなたこそ夢見の死を悼まなくていいんですか? 桜魔同士なのに」

 皮肉に皮肉で返しながら、神刃は桃浪のことを思う。

 辻斬りなどを行って、多くの人々に危害を加えた桃浪は神刃にとって最も信用のおけない男だった。

 だが神刃が皆の足を引っ張ったと落ち込んでいる時にはいつもの底を見せない笑みを浮かべ、からかい交じりに励ましてくれた。鍛錬だってそうだ、容赦なく弱点を突いてくる桃浪がいたからこそ、神刃はここまで強くなれたという面がある。

「随分と冷静なことだ」

 夬が言う。冷静? 誰が? 自分が?

 腕は勝手に剣を振り夬の呪符を弾く。体は叩き込まれた動きを繰り返し、相手の一挙手一投足に目を走らせながら隙を狙っている。

 けれどその一方で、頭の奥が酷く冷えていた。

 見知った顔が無数の桜の花弁となって風に流され消えて行った、一瞬の光景が脳裏に焼き付いてる。

 桜魔は死しても遺体を残すことはない。彼らは所詮妖だから、死ねばそのまま瘴気が散ってこの世界に還るだけ。

 何も、何も伝えられなかった。

 確かに忌み嫌って憎んで敵視して、それでも心のどこかで感謝をしていたこと。彼が仲間として神刃たちのもとにいてくれたことに対して。何も……!

 そしてもう会えない。二度と会うことはない。

 こんなにもあっさりと死は人を別つ。今こそ桃浪に言ってやりたい。

「だから、嫌いなんだ。桜魔なんて……!」

 人の心にずかずかと入り込んでいつの間にか居場所を作ったくせに、消える時はこんなにあっさりと消えるなんて。

 死んでしまえば全て終わりなのに、彼は殺す。自分自身でさえも。

 だから、嫌いだ。これからも。

 たぶん、神刃にとって、永遠に忘れられない存在になる。

「馬鹿野郎……!」

 平気な顔をしながらも向こうもやはりきついのか、夬の攻撃はどこか精彩を欠いて来ている。

 彼にとっても夢見の死は予想外だったのだろう。これまで桃浪と夢見の力は拮抗していて、そう簡単に決着がつくと思っていなかったのはどうやら桜魔側も同じらしい。

 相討ちだなんて、そんな最期の最期まで拮抗しなくてもいいのに。

「寂しがる必要はありません。あなたもすぐにお仲間の下に送って差し上げますので」

「それはこっちの台詞です」

 神刃は再び刃を振るった。


 ◆◆◆◆◆


「桃浪……そんな!」

 朱莉もその光景を目にした。夢見と相討ちになった桃浪が桜の花へ変じゆく様を。

 それは桜魔にとって絶対的な死。

 野放しにできない夢見という敵を確実に倒すために、彼は自らの命を懸けてその戦力を削ったのだ。

 おかげで少なくとも朱莉たちは、以前鵠さえも苦い顔をさせた夢見の横槍をもう警戒する必要はない。

 彼の覚悟はよく伝わってきた。それと同時に、まったく最期まで勝手だと思う。

「……なら、私も覚悟を決めましょうか」

 敵と刺し違えた桃浪の覚悟に触発されて、朱莉は腹を括る。

 ただし彼女の覚悟は、桃浪のそれとは重ならない。

「桜人となっても、私は退魔師。だからあなたとは違う道を行きます。殺して、死んで、それで全てを終わりにするなんて道は選べない」

 それは人であることを捨てた朱莉に残された、最後の矜持だった。退魔師としてこれまで何百という桜魔を屠っては来たけれど、決して殺すことが望みだったわけではない。

 目の前の桜魔はまだ若い少年。その手がまさか真っ白とも思わないが、桃浪と比べればまだやり直せるはずだ――生きているのだから。

 このまま死なせはしない。

「祓!」

 朱莉はこれまで手にしていた武器を捨て、新しい霊符を取り出す。

 それは相手を攻撃するのではなく、身体を拘束するものだ。突然動きの拍子を変えた朱莉についていけず、祓はあっさりとその拘束に引っかかった。

 今の祓は洗脳状態で敵意や害意に敏感な分、それ以外の反応が時折遅れることがある。今だって夢見の死に無関心に攻撃を仕掛けて来ていた。朱莉はそこを衝いたのだ。

 ここからが勝負だ。

「自我を封じられた哀れなる桜魔よ! この私に――嶺朱莉に従いなさい!」

「なっ……ぁあああああ!!」

 朱莉の魅了者としての支配力に中てられて、祓が頭を抱えて苦しみだす。

 彼を中心に燃えて溶け落ちた霊符はそのまま光の輪となって、祓を朱莉の魅了の力の中に閉じ込める。

「くっ……」

 洗脳の影響も大きいが、元より祓程の高位桜魔を屈服させ支配下に置くのは朱莉自身にも負担がかかる技だ。

 桜魔は魅了者の支配力に、全力で抗ってくる。今の祓も同じ、呪符で張った結界を内側から破壊しようと足掻いている。

 下位や中位の弱い桜魔なら問題はない。相手の妖力を朱莉の霊力が上回れば、力の強さに比べて余程術者の隙を突くのが上手い手練れでもない限り、魅了者である朱莉が支配することができる。

 しかし高位桜魔ともなれば、妖力はもちろん肉体の頑強さや特殊な能力まで備えている。朱莉が無傷の祓を捕縛するのはほとんど不可能だ。

 抗う意志の強い桜魔は、通常ある程度戦って力を削いだところで屈服させるのだ。紅雅を手に入れたのがこのやり方で、いまだ朱莉の配下には中位桜魔である紅雅以上の力を持つ者はいない。

 祓の強さは紅雅とも比べ物にならない。まだ年若いとはいえ、彼はれっきとした高位桜魔だ。

 それでも朱莉は一か八かの方法に賭けた。

 朱莉が祓に与えた傷はそれ程でなくとも、今の彼は洗脳によって精神を封じられている。能力的には強化されていても、外部から働きかける力に対し耐性は減っているはずだ。

 そして上手く行けば、朱莉自身を新たな支配者として蚕月の支配の上に置くことで、祓の自我を取り戻すことができるかもしれない。

 それは逆に戦況を不利にさせる可能性もあったが、やらねばならないと思った。

 師としての載陽を慕い、主君である朔に忠誠を誓い――それこそが祓の意志なのだから。

 心を喪って動かされる人形を殺すためにここに来たのではない。桜魔と同じ生き方はできない。

「ああああああぁッ!」

「我に……従えぇ!!」

 絶叫と共に力を収束させる。魅了の力が荊のように祓を取り囲み、先に彼の精神を縛っていた蚕月の針を朱莉の霊力が壊していく。

「う……」

 光の輪が消え、朱莉と祓の一つの戦いが終了した。

 鬼が出るか、蛇が出るか――。

「僕は……一体……?」

 正気を取り戻した祓の瞳が、存在として自分の主と刻まれた朱莉の前で、呆然と見開かれる。

 魅了者の支配は成功した。


..070


 鵠と桜魔王・蚕月の激戦は続く。夢見と桃浪を喪ってなお、二人の戦意は衰えていない。否、むしろ、彼らを喪ったからこそ、今度こそ確実に勝たねばならないのだと――。

 そしてまた、戦場に変化が訪れた。

「朱莉か!」

「まさか……あの術を解くとは!」

 祓の気配が小さくなる。だが彼は夢見や桃浪たちのように致命傷を負って力が弱まったわけではない。

 朱莉が魅了者として全霊をかけて、祓を支配下に置くことで蚕月による洗脳を解いたのだ。

「お前、あの餓鬼に何したんだ」

「妖力の針を脳に埋め込んだのだが、朱莉による新しい支配によって消し飛ばされてしまったようだな」

 だが、いくら支配下に置いたとは言っても納得させるのはそう簡単なことではない。

 洗脳されて戦っていた時の記憶が祓にはないらしく、いきなり朱莉の下僕とされたことに戸惑い取り乱している様子だ。

 朱莉の方に危険はないが、これではあの二人も迂闊に動くことはないだろう。

「援軍は来ないぞ」

「いいや、まだだ」

 相手を撃破して二対一となり、数の優位をとって桜魔王を倒す。それは以前から何度も話し合ってきた戦術で、以前は仲間だった蚕も勿論知っている。

 だが桃浪は夢見と相討ちになり、朱莉は祓を抑えるのに手一杯だ。鵠の援軍はいない。

「神刃では夬に勝てないだろう。大分成長はしたが、それまでだ。長年、朔の傍で側近をしていた男を舐めてはいけない」

「そうだな」

 朔や、あるいは夬に殺された者たちの意識もあるのかもしれない。桜魔王に対してあらゆることを知っている蚕月は事もなげに言う。

「だが――」

 神刃は勝つことを諦めてはいない。鵠も。

 別に神刃が無理に勝つ必要もないのだ。数の優位を獲りたいのは向こうも同じだろう。夬の足止めをしているだけで、もう十分神刃は役に立っている。

「俺が」

 鵠は呟く。まだ足りないと言うのか、届かないのか。

「俺が、桜魔王を倒しさえすれば……!」

 全てが終わる。わかっているのだ。他にどんな理由をつけたところで、結局は鵠自身の力不足がこの事態を招いたのだと。

 桃浪は夢見を命と引き換えに倒した。朱莉は祓の洗脳を解いた。神刃は夬の足止めを十分こなしている。

 あとは鵠が、蚕月を倒せばいい。

 二人の攻防は目まぐるしく続く。蚕月は糸針や布刃、無手の格闘技を駆使して絶え間なく攻撃を仕掛けてくる。

 鵠はそれを捌きながら時折隙を見て剣を振るう。だが、蚕月には難なく躱されてしまう。

 桜魔は人間の何倍も体力がある。長引けば鵠たち退魔師側が不利になる。

 膠着状態を打破するには、何らかの切欠が必要だ。

 そして――その機会は訪れたのだった。

「なにっ……!」

 矢のように放たれた妖力の刃が蚕月の背を貫く。傷を受けた瞬間咄嗟に防御はしたものの、背中からの不意打ちを蚕月はまともに受けた。

「誰が……朔っ?!」

 振り返った蚕月の背後、遠くから攻撃を放ったその影を目にして彼らは顔色を変えた。

 早花に肩を貸された朔が、蚕月に攻撃を仕掛けたのだ。

 ――その瞬間、全てが同時に動いた。

 後から振り返ってみればほんの数瞬、だがこの時はもはや無我夢中で、永遠にも等しく感じられる時間。

 蚕月の背後をとった朔だが、深追いはせずに標的を変えた。蚕月に対しては今正面で戦っている鵠がトドメを刺すと思ったのだろう。彼は、次の標的として夬と対峙している神刃を狙う様子だった。

 だがその攻撃が炸裂する前に、蚕月の放った無数の糸針が朔を襲う。何の躊躇も容赦もない攻撃は、今度こそ朔の命を奪った。

「すまない、早花――」

「朔様!」

 早花の悲鳴が終わりもしない間に、戦場は絶えず動き続けている。

「貴様!」

 今度こそ本当に主を奪われた夬が、遂に反逆の意志を見せる。だがそれは、神刃に隙を晒すことへと繋がった。

 夬の意識が蚕月へ向いた瞬間、彼を倒す機会がここしかないと悟った神刃は彼の撃破を優先し、死に物狂いでその懐に飛び込んだ。気付いた夬が迎え撃とうと動き出す前に小太刀で斬りかかる。

「……っ!」

 己の激情を制御できなかったことが敗因とばかり、悔しげな表情のままで夬の体もまた、主の後を追うように散り続ける桜の花弁へと変わっていく。

 そして鵠もまた、蚕月が朔を狙った一瞬の隙に、攻撃を仕掛けた。しかし。

「!」

 鵠の剣は、蚕月が一瞬で生み出した絹の盾に防がれる。柔らかな布はどんなに硬い鋼よりも柔軟に刃を包み込み蚕月本体への攻撃を吸収してしまう。

 片手を塞がれて残るはもう片手だけ。これは先程の桃浪と夢見と似た状況だ。だが一つだけ違うことがある。

 咄嗟に出した絹の盾は、蚕月自身の行動も僅かながら制限していたのだ。彼は二刀流の夢見と違って武器を使わない。拳に妖力を纏わせても、それで攻撃をするには拳を繰り出すだけの大きな動作が必要だ。

 一方の鵠は、初めから剣を止められること前提で、もう片腕に霊力を纏わせていた。

「――」

 蚕月の唇が震える。

 全てが決したその一瞬。

 どこかあどけなさを残した金の瞳が見開かれる前に、すでに鵠の腕が、蚕月の心臓を貫いていた。

 朔を狙って早花に防がれた時のように急所を逸れてはいない。鵠の腕は確実に、肉を貫き骨を砕いた。

「は……」

 蚕月が激しくせき込みながら血と共に言葉を吐き出す。

「見事だ……大陸の勇者、鵠――」

 最強の退魔師は、ついに桜魔王を倒したのだ。


 ◆◆◆◆◆


 なのにどうして気分がまったく晴れない。力を喪った体が腕にかける重みが胸を押し潰しそうだ。

「蚕……」

「私の名は――」

「いいや、お前は“蚕”だ。そうだろう?」

「ふふ……気付いて、いたのか……?」

「ああ……さっきまでは半信半疑だったがな」

 一言ごとに苦しげに言葉は途切れる。けれど蚕月は話すことを止めない。

 こんな時ばかりは、人間よりも頑丈に過ぎる桜魔の肉体が恨めしくなるだろうに、それでも蚕月は――蚕は、笑っている。

 彼は何も後悔していなかった。

「お前は蚕としての記憶を喪ってもいないし、蚕月になっていきなり俺たちと過ごした日々の感情を無くして桜魔王としての使命に目覚めたわけでもない。最初からずっと、変わらない蚕のままだ」

 会話が聞こえる距離まで神刃と朱莉が近寄ってきた。早花はすでに姿を消していて、祓は呆然と経緯を見守っている。

「ああ、そうだ……私の、望みは……」


 桜魔王を倒すこと。


 蚕はずっとそう言い続けていた。

「――ッ!」

 神刃の顔が何か言いたげに悲痛に歪んだ。だが、唇は戦慄くばかりで言葉が出てこない。

 鵠に、神刃に、朱莉に、これまで蚕と交わした数々の言葉が脳裏を過ぎる。

 ――もしも私が桜魔として、人類にとって有害な存在だと判断したなら。

 ――その時はお前たちの手で、私を殺せばいい。

 ――私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる。

「我ら桜魔は、散り逝くための、存在……」

 すでに蚕の体は鵠に縋る形になっていて、鵠も血に濡れることも構わずその身を抱き留めている。

「これでようやく、目的を、果たせる……」

「蚕!」

 たまらず神刃が叫んだ。

 彼に一緒に過ごした日々の感情を忘れられたのだと思うことは、もうどうだっていいと思われていると考えるのは、神刃にとって辛かった。

 でもその辛さは、本来この辛さより何倍もマシだったのだと今更気づく。

「死なないで」

 詮無い言葉が口をついて出る。

 もうどうにもならないのに、それでも涙はぽろぽろと、炎色の瞳に洪水を起こすかのように溢れ出る。

「やだ、やだよ……蚕……!」

 こんな結末を望んでいたわけではない。

 こんな勝利を望んでいたわけではない。

 あの時までは、朔と戦っていたあの時までは、戦いが終われば、一緒に生きられると思っていたのだ。蚕とも。桃浪とも。

 蚕はふいに祓の方を一瞥すると、そのまま視線を動かして朱莉に微笑みかけた。

「朱莉……祓を頼む……。桜魔王の襲撃命令以外は、退魔師たちと戦うばかりで……実は、人一人殺したこともない子だ……」

「……わかりましたわ」

 朱莉は色々と言いたいことをぐっと堪えて、ただ頷くに留めた。

「……っ」

 憎んでいた桜魔王から思いがけず自らの身の上を案じる言葉を聞いた祓は、ますます混乱したように顔色を失っている。

 お互いを理解するような間柄ではなかった。だがもう、祓が蚕の本心を確認するだけの時間は残されていない。

 鵠の胸に縋る蚕の腕にほんの一瞬だけ、最期の輝きとばかりに強く力が宿る。

「鵠、神刃……お前たちに会えて」

 良かった、と。

 その声は、聞こえたのかどうかもわからなかった。

 もしかしたら言葉の続きを自らの願望で埋めたのかもしれないと。

 それぐらい呆気なく、蚕の姿は無数の桜の花弁へと変じて鵠の腕から零れ落ちていく。

「蚕……!」

 わかっていたのに。この手でトドメを刺したのに。

 それでもまるで諦め悪く、鵠はその名を呼んだ。

 神刃が遂に泣き崩れる。これまでずっと、実父のことや養父のことがあっても悲しみを堪えて戦おうとしていた少年が。

 そう、もう涙を堪えて戦いに望む必要はないのだ。何故なら――。

「桜が……っ!」

 朱莉の叫びにふと顔を上げれば、朱の森のあちこちに咲いていた桜の樹が一斉にその花を散らしている。

 空の色が少し変わり、気温も僅かに上がっている気がする。同じことはきっと、この大陸のあちこちで起こっているはずだ。

「止まっていた時間が、動き出すのね……」

 朱莉が薄らと涙を浮かべた瞳で、舞い散る桜の花びらを受け止めるかのように両手を差し出した。

「そうか」

 そして勇者は――鵠は静かに目を閉じた。

「“桜魔ヶ刻”が、終わったんだな」

..071


 大陸全土で咲き誇り狂った春を謳い続けていた桜の花が枯れた日。

 人々は桜魔王がこの世からいなくなったことを知った。

 勇者の勝利、人類の勝利だ。

 平和を取り戻した大陸は、朱櫻国を中心に諸国が一丸となり各地の復興を始める。

 妖に大陸を支配されつつあった悲惨な桜魔ヶ刻を生み出したのは、元は人間同士の争いがあってのこと。当時戦争を行った関係の国同士の遺恨が完全に消えたわけではないが、もう無益な争いはやめようと――。

 特に朱櫻国の若き王は、父王の贖罪のためにより一層自国、他国を問わず人々のために働き、誠意を尽くした。

 少年王のその姿に心を打たれた者も多く、隣国である花栄国は朱櫻国によく協力した。

 どうやら花栄国でも名門の退魔師一家・天望家当主から花栄国王への口添えがあったらしい。

 凄惨な過去を忘れたいとばかりに、人々は復興に力を入れ、襲撃の恐怖に怯えていた分の時間を早く取り戻そうと動き出す。

 そうして残った少ない桜魔たちも、いずれ自然と消滅していくのだろう。


 ◆◆◆◆◆


「よ、蒼司陛下。調子はどう?」

「蝶々殿」

 朱櫻国の王宮で、蒼司は久方ぶりに退魔師協会の協力者として蝶々と顔を合わせていた。

 他に兵破と、葦切がいる。彼らは桜魔ヶ刻の終焉を各地に宣伝し、桜魔の残党を狩る任務を朱櫻国王蒼司に与えられ、今もまだ退魔師協会の人間として働いていた。

「協会長が愚痴ってたよ。桜魔がいなくなったらうちは商売あがったりだって」

「ま、あの親父の言うことはどうせいつも照れ隠しの憎まれ口なんだけどな。なんだかんだで平和な時代が来て、退魔師協会もみんな喜んでるよ」

「そうですね」

 葦切が静かに口を挟む。

「鵠殿に、感謝を――」

 蝶々、兵破、蒼司の三人が、その名を耳にして途端に真面目な顔になる。

「あいつら、結局どうすんだい? 朱莉はもうこの大陸を出ちまったようだけど」

「兄……神刃も、鵠殿も、そのつもりだそうです」

「朱莉殿とは別行動ですよね」

「はい、神刃と朱莉殿には過去の因縁がありますので」

 勇者の活躍によって、世界は平和を取り戻した。

 だが戻らなかったものも多い。襲撃の死者や、桜魔を倒すために立ち上がり二度と帰って来なかった者たち。

 そして最後の戦いで喪われた鵠の「仲間」たち――。

 戦いの最前線にいた鵠たちにしかわからないことも多い。蚕が敵に回り、桃浪が敵と相討ちになって死んだと。蒼司たちが帰ってきた彼らから聞かされたのはそれだけだ。

 桜魔でありながら退魔師の仲間になった二人と鵠たちの絆について、誰も外から見て本当のことなどわからないのだろう。

 蒼司も蝶々たちも追求を止め、彼らの今後の身の振り方は彼ら自身の意志に任せた。

 本当なら、蒼司は兄に、大陸救世の英雄にこれからも傍に、せめてこの国近隣にいて欲しい。

 けれどそれは、蒼司の我儘だ。彼らは桜魔王を倒すという役目を立派に果たした。これからのこと――疲弊した人々の暮らしの復興は、王である蒼司の役目だった。

「蒼司、あんたも大丈夫かい? なんか物凄く頑張ってるらしいけど」

「……大丈夫です。疲れる時もありますけれど、今は皆の瞳に、未来への希望がありますから」

 緋閃王が大きな罪を重ねた分、それを償うために、蒼司はこれから長い長い時間を費やさねばならない。

 蒼司は自らその道を選んだのだ。子として父親の死を喜び、王として先代を断罪し、一人の人間として、朱櫻を始めとした大陸の国々の救済と復興に尽くすことを。

 それは父親とは正反対の道で、兄であり桜魔ヶ刻の終息に一役買った神刃ともまた違う道だ。

「僕はずっと、桜魔王を倒すことを誓う神刃の姿に希望を与えられてきました。彼には苦しい戦いでも、彼がいたからこそ僕の目には未来が映っていた。その分のお仕事はしませんと」

「……そうかい」

「ま、王様も俺たち退魔師協会に依頼があったら気軽に言ってくれや」

「ええ。頼りにさせてもらいますよ」

 蒼司は蝶々と兵破に向けて笑い、次いで葦切を振り返る。

「葦切殿も、天望家から花栄国王への口添えをありがとうございます」

「私はただ、繋ぎをつけただけです。我が国の王を説得した手腕は、蒼司陛下ご自身のものですよ」

 桜魔王は倒されたが、まだ大陸各地に散って今も人間に危害を加えている桜魔の全てが滅ぼされたわけではない。むしろここでどれだけの働きを見せられるかが退魔師の名家の本領であると、葦切は天望家の力を総動員して名を売り始めている。

 それはこの大陸に広まった、もう一人の「天望の退魔師」の名を隠すかのような勢いだ。

 本物の勇者は、己が名を語り継がれることを望んではいない。彼が一時最強の退魔師と謳われながらその後長いこと世間から忘れ去られていたように、魔王を倒し大陸を救った勇者の名もいずれ呆気なく忘れ去られるのかもしれない。

 朔と蚕月、それぞれ鵠と並々ならぬ因縁を持っていた二人の桜魔王の存在と共に。

「ま……残された我々は、自分にできることをやるだけですよ」

「そうだね」

「そうだな」

「ええ」

 四人は顔を見合わせて、これからの未来に想いを馳せた。


 ◆◆◆◆◆


 船に乗りましょう、と少女は言った。

「船?」

「あら? 知りませんの? 水の上に浮かべて人や貨物を渡す――」

「馬鹿にするな。船はもちろん知っている。だが何故、そんなものに乗らねばならない。まさか……」

「ええ。そのまさかです。私は緋色の大陸を出るつもりですわ」

「何故……」

「会いたい人がいるんです。いえ、次も人に生まれ変わるかはわからないのですけれど」

 朱莉の言葉に、その隣に立ち大陸西端の港で忙しなく動き回る人々を見つめていた少年――祓はそっと目を瞠った。

 あの時、全ての戦いに決着がついた時。

 祓にはもはや何もなかった。蚕月に洗脳されて戦わされていたことを聞かされた直後に、退魔師に倒された蚕月から朱莉相手に自分をよろしく頼むなどという言葉を聞かされて。

 もう何を信じればいいのか、何と戦えばいいのか、祓にはわからなくなってしまった。

 混乱する彼を更に混乱させるようなことを目の前の少女は言う。

「あなたは魅了者としての私の支配下になりました。以後、私を主人としてその力を私のために尽くしてくださいな」

 ふざけるな、と思ったが何故か逆らう気力が涌いてこない。これが魅了者の力なのか。そんなものに支配される自分は自分で思っていたよりも意志弱い存在だったのかと、ただひたすら落ち込んだ。

 朱莉は祓に対し特に気にした風もなく接してくる。彼女は「じゃあ行きますわよ」と突然朱櫻国を出て、大陸を横断する移動を始めた。

 祓は見た目だけなら人と変わらぬ高位桜魔だからと、こうしてたまに外に連れ出されて、一緒に街の景色を見せられる。

 その何にも、これまで祓の心は動かされなかった。だが今、大陸を渡ると聞かされて少し動揺している。

 桜魔として桜のある緋色の大陸に生まれた祓は、死ぬ時もこの大陸だとばかり思っていた。

 現在、緋色の大陸を除いても世界中に魔性が溢れ天変地異が多発している危機的な時代には変わりない。

 船に乗って大陸を渡る行為も、当然それ相応の危険を伴う。だが朱莉はいとも容易く、大陸を渡るなどと口にした。

 そこまでして求めたいものが、彼女にはあるのだ。

「ねぇ、祓。救いや希望は、簡単には手に入らないからこそ価値があるのです。運命の相手は、滅多なことでは出会えないから焦がれるのです」

「……だから?」

「ゆっくりでいい。状況に納得するのは、心の整理をつけるのは、今すぐでなくてもいい。……けれど、歩みを止めないで。私が私の愛する人の生まれ変わりを永遠をかけて探すように、あなたもあなたの大切なものを見つけましょうよ」

 朱莉と、その配下の同族たちと、こうしてゆっくり旅をしながら。

 その言葉に祓は眼前の広く青い海を見つめながら、朱莉へぽつりと問いかけた。

「……見つかるかな」

「ええ。きっと見つかります」

 だから行きましょう、この大陸を飛び出して、新しい時代、新しい世界へと。

 そして朱莉の言葉に、祓はまだぎこちないながらも、確かに小さく頷いたのだった。


..072


 しばらくの間を仲間たちと共に過ごした花栄国の家を去り、花の散った桜が並ぶ峠の頂上で、鵠と神刃は言葉を交わす。

「一つ、気になることがあって」

「なんだ?」

 戦いが終わり、人々は取り戻された平和の中で明日へ向かって進み始める。

 鵠もそのつもりでいた。これまで身の回りのものを置いていた「家」を片づけ、簡素な荷造りに精を出す。

 神刃はそんな鵠の様子を見ながら、何も言わずに自分もこの場所を去るべきかと、同じように身辺整理を始めていた。

 ――そしてそれらの片づけは、蚕や桃浪の分も行わねばならない。

 二人が残したものはそう多くはないが、逆に僅かなものは本当に気に入って使っていたものが多く、一つ一つにまつわる思い出を振り返る度に胸が痛んだ。

 朱莉はもうこの大陸を出たはずだ。

 神刃と因縁のある彼女は、これでさっぱりしたと言わんばかりに戦いが終わるとさっさと荷造りを済ませ実家に挨拶をし、自らの配下の桜魔たちだけを引きつれて単身この大陸を飛び出したのだ。

 最後に蚕に頼まれた祓ももちろん一緒である。若干不安がないでもないが、まぁ、朱莉なら大丈夫だろう。

 鵠と神刃は彼女の行動力に圧倒されてあっさりとしたその別れの後しばらくのんびりと……もしくは呆然として過ごし、蒼司や退魔師協会の面々の働きかけで民衆に活気が戻った辺りで、ようやく勝利の実感が涌いてきたぐらいだった。

 そう、彼らが勝ったのだ。多くの大きな犠牲と引き換えに。

 やることがなくなった鵠は家を片づけて荷物をまとめ始め、神刃もそれに倣ってなんとなく整理をし始めたのである。

 肩の荷が下りた。そんな気分だった。

 下ろさなくていい方の荷物まで下ろしてしまったくらいだ。神刃はなんとなく、自分がからっぽになったように感じていた。

 そんな折、ふと気になったのがいまだ行方不明の最後の桜魔王側近のことだった。

「早花は……彼女は一体どうしたんでしょう? 蚕月が殺したのは、朔の方だけですよね?」

 最後の戦いで――蚕月に攻撃を仕掛けた朔は、逆に蚕月の攻撃を受けて斃れた。激昂した夬は神刃に殺され、蚕月は鵠の手によって心臓を貫かれた。

 あの時、神刃は蚕月に助けられた気がする。

 朔にとっては蚕月も神刃も敵でしかない。彼は一度蚕月の隙を突いた後、標的を神刃に変えた。しかし実際にその攻撃が神刃に放たれる前に、蚕月が朔を絶命させたのだ。

 蚕月と名乗ってはいても、あれは蚕だ。蚕の心がそのままなら、神刃を庇ったのも……。

 とにかくそうした混戦の中で、いつの間にか早花が姿を消していた。

「……さぁな、お嬢と彩軌の調べによれば、もう一部を除いて各地の桜魔たちは徒党を組んで悪さをする様子はないってことらしい。あの女が生きていたとしても――」

「早花は高位桜魔です。一人でも充分大勢の人に危害を加える力を持つ……」

「やると思うか?」

「……いいえ」

 結局神刃は自らの言葉に、自らで首を横に振る形となった。

 以前の神刃だったら、見つけ出してしっかりトドメを刺すべきだと考えたかもしれない。けれど戦いを通して、彼もこれまでと大きく変化した。

 蚕や桃浪、そして敵ではあったが、朔や早花、夬、夢見に祓、載陽、華節……様々な桜魔たちとの出会いが、彼らにも個々の人格と意志があることを神刃に気付かせたのだ。

「これでお前との約束は果たしたな」

「はい……あの、鵠さん、ありがとうございました」

「なんだよ、“桜魔王を倒した”のはお前も一緒だろうが。今更礼を言われるようなことでもないぞ」

「いえ。それもありますけどそれだけじゃなくて……あの、本当に色々、ありがとうございました!」

 これで伝わるだろうかと神刃自身半信半疑になりながらも、精一杯の気持ちを込めて頭を下げる。

 鵠は理解してのことか単に流しただけか、ぽんぽんと宥めるように軽く神刃の頭を叩いた。

 そして、唐突に話題を変える。

「神刃、俺はこの大陸を出る」

「え……」

 荷造りを済ませ家を空けた様子から鵠が旅に出ようとしていることは察せられたが、まさかの大陸越えを聞いて、神刃は目を瞬かせた。

「それは、朱莉様のように……?」

「お嬢みたいにきっちり目的があるわけじゃないがな。まぁ、この目で別の世界を見てみるのもいいかと思って」

 鵠は大陸の外を知らない。鵠だけでなく、多くの人々がそうだ。

 現在他の大陸も情勢が不安定で、そもそも航海の途中で海賊や海の魔物に船を沈められることを考えれば、気軽な船旅などできない。

 大陸を渡る決断には、それだけの意志の強さが必要だ。

 桜魔に大陸を蹂躙されている間、人々は大陸の外に逃げるという選択すらできなかった。

 確かに大陸住民全員が移動するなどということを考えたら馬鹿げている。けれど、そんなに桜魔を恐れるのであれば、逃げてもいいのではないかと鵠は思うのだ。

 存在するかどうかもわからない勇者を待って死の恐怖に震えるよりも、自らの脚で逃げ出す。その方が余程前向きだと。

 それができない人間が多かったのは、結局彼らもこの大陸以外での生き方を知らなかったからで。

 囚われていた。血に、過去に、この大地に。

 その鎖を、鵠は解き放つことを望む。

 勇者は忘れ去られるべきだ。桜魔王も。

 鵠がこの大陸にいては、人々はいつまでもその栄光と共に苦渋の時代を忘れられない。そしてまた過去に囚われる。

 それは“彼”の望んだことではない。

 ――私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる。

 だから鵠は、勇者として、最後の仕上げに自らの名を葬り、この大陸を過去から、全ての因縁から解き放つ。

 後のことは、この日のために色々と準備してきた蒼司や葦切、退魔師協会の面々がやってくれるだろう。彼らを信じているから、後を任せることを心配もしていない。

 ……それに、こう言ってはなんだが、元々鵠に平和の中で人々と積極的に交わりながら安定した生活を作り上げるなど、そういった才能自体皆無であることだし。

 だが神刃は鵠の生活能力をそこまで酷いとは考えていないようだった。鵠の身内の話まで知っている彼は、顔を曇らせながら問いかける。

「いいんですか? 鵠さん。あの、天望の家とは……」

 総てを捨ててしまうのかと。蒼司との兄弟関係を表に出せない神刃と違って、鵠にはまだ望めば会える血縁がいる。

「家? 何のことだ? 俺は天望家なんて知らないね」

「でも、御家族が」

「……あのな、神刃。俺はあんなんでも、自分の両親が好きだったんだよ」

 真実の言葉でしか頑固な神刃を納得させられないと、鵠は普段、思いついても決して口にしないような、どこかむず痒い本音を語った。

「おっとりしすぎの母さんとか、その母さんより退魔師として弱い父さんとか、短所も弱点も色々あったけど、でも……好きだった」

 考えるまでもなく当たり前だと思っていたことを。

 それは、実父が緋閃王であるという神刃の苦しみを聞いたからでもある。親を憎む子供がいると知識では知っていても、鵠には実感がなかった。

 それ程に彼は、自らの両親を愛していた。

 だから今度は、鵠にそれを気づかせた神刃に伝えてやりたい言葉がある。

「俺の家族はあの二人だけだ。あの二人が家を捨てたって言うなら、俺も別にそんなものいらないね。俺と両親は血縁だけど、血縁だから愛さなくちゃいけないわけじゃない」

 神刃がハッとする。彼もまた暴虐の王を父に持ち、呪われた血に縛られる一人だからだ。

「ただ俺が、俺を愛してくれた親を子どもとして愛してただけだよ。そこに血は関係ない。血で人を、ましてや自分自身を縛るなんて愚かなことだ」

 もうわかっている。

 葦切から両親の様々な事情を聞いても、鵠の両親に対する愛情は変わらなかった。

「愛するに値しない血縁だってこの世にはいるだろう。俺にとって両親を捨て、両親が捨てた家なんてどうでもいい存在だ。……葦切の奴はまぁ別だが、それだって俺とあいつの問題で、血そのものが重要なんじゃない。少なくとも俺はそう思う。葦切の奴もまぁ多分……そう思っているだろう」

 天羽の家は花鶏を見捨て交喙も手放し、その代わりに現在葦切という当主を得ている。それでいいのではないかと、鵠は思う。

「桜魔ヶ刻は終わったんだ、神刃。もう生まれる前からの因縁などに、縛られるのはやめようぜ」

 それは人を桜魔にする。

 過去の、生前の、誰かの妄執のために生まれ生きるしかできない、憐れな妖――。

 だが彼らの知っている桜魔たちは、自らの運命に抗った。

 桜魔としての自分が築いた絆を選んだ桃浪も、桜魔王を倒すという自分自身の意志に殉じた蚕も――。

 自らの意志で戦い、誰かを守り、何かを成し遂げる。もはや彼らと人間の間に何の違いがあろう。

 桜魔はいなくなったのだ。最初から、そんなものはいなかったのだ。

「……」

 長い話の締めくくりを装って、鵠はようやく本題を口にした。

「一緒に来るか? 神刃」

 荷造りや身支度はちょうど済んでいる。家も引き払い、どこへ行こうとも決めていない。

 帰る場所は確かになかった。でもだからこそ、これからどこへでも行けるだろう。それが鵠の考えだ。

 神刃は驚きに目を見開き、次の瞬間、彼がかつて見せたことのない満面の笑顔で頷いた。

「はい!」


 大陸に、新しい時代がやってきた。

 子どもたちの顔に笑みが戻り、大人たちはそれを見て復興への気持ちを新たにする。

 亡くしたものへと今も時折想いを馳せながら、それでも過去に囚われることはないようにと。

 その祈りを、前に進む力へと変えて。


 そして、“桜魔ヶ刻”は終わりを告げる――。



 了.



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