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桜魔ヶ刻  作者: きちょう
第3章 桜の花が散り逝く刻
11/12

11.君の夢が滅び望む刻

..061


 一体何が起こっているのか。まだ混乱を引きずったまま、鵠たちは一度朱櫻国に戻った。

 蚕が敵になった。一言で言えばそうなのだが、それでもどこか腑に落ちない。

 あの“桜魔王”は本当に蚕なのだろうか。蚕月としての意識の奥に、これまでの蚕の意識が存在していたりはしないのだろうか。

 詮無い考えが脳裏を過ぎる。諦めがつかない。溢れる想いが止まらない。

「正直、裏切り者ってのは俺みたいな奴の十八番だと思うんだけどね」

 茶化すように口にする、桃浪の表情も常より強張っている。

「そうだな。もしもお前がそんなことをした時には、何血迷ってんだとぶん殴って連れ戻すつもりだった。だが、蚕は……」

 桃浪に返す鵠の言葉も、やはり、戸惑いを多く含んでいた。

 彼らは退魔師だ。やることは変わらない。桜魔王を倒して、大陸に平和を取り戻す。

 それでも神刃の口から、こうした言葉が零れ落ちるのを鵠も、朱莉も、桃浪も、誰も止められなかった。

「俺たち、これからどうすればいいんでしょう……?」

 殺せるのか? 新たなる桜魔王を。

 かつて蚕であった存在を。


 ◆◆◆◆◆


 朱櫻国王蒼司は、報告を受けて難しい顔になった。

 それはそうだろう。鵠たちの一行は誰も死んでいないとはいえ、そのうちの一人が彼らを裏切り敵――それも倒すべき桜魔王になってしまったのだと言うのだから。

「……あなた方が桜魔王を倒しに行ったこと自体、まだ民衆には伝えていません。ですが、退魔師協会の方には……」

「伝えてくれ。あいつは桜魔王としての役目を果たすと言った。近いうちにきっと大きな襲撃がある」

「……そうですね。すでにいくつか小規模な襲撃が活発になっているという報告を受けています。退魔師協会に更に警戒するように依頼します」

 蒼司は鵠たちを一切責めはしなかった。だがそれが逆に辛い。

 国王への報告を終えて、また四人だけになる。

「鵠さん……」

「とにかく今は体を休めよう。そしてもう一度、“桜魔王”を倒しに行かなければならない」

 不安気な様子の神刃に、鵠がかけられる言葉もほとんどなかった。むしろこんな状況でなければ、鵠の方が誰か俺を落ち着かせてくれと叫びだしたいくらいだ。

 鵠は、桜魔王を倒すために戦ってきた。

 けれど今の桜魔王は、これまで想定した存在とは違う。

 相手は蚕だ。蚕なのに。

 殺さなければいけない。彼が桜魔王である限り。

「どちらにしろ俺たちは体勢を立て直さなきゃならん。蚕……蚕月と話をするにも、何があるかわからないからこそ、身を守れるだけの実力は必要だ」

「そうですね……」

 鵠たちは数日を、ほとんど放心状態で過ごした。

 体を休めるとは言っても自然と鍛錬に赴き、そのくせ戦いに集中しきれず結果につながらない。かと言って部屋で大人しくしていては全く気が休まらない。落ち着かない日が続いた。

 そして桜魔王――朔との決戦から三日もした頃だった。

「襲撃です! 桜魔が王都だけでなく、周辺地域にも破壊活動を広げたと!」

 朱櫻国に、再び襲撃の報が入ってきた。

「すぐに救援に――」

「すでに現地の退魔師たちが向かっています。あなた方はここにいてください」

 報告こそ受けたものの、今回は鵠たちに何とかしてほしいという依頼ではない。

 場所が場所だけに鵠たちが向かっても間に合う距離でなく、その近くに待機していた退魔師たちが向かっているという。

 この件で鵠たち一行に出来ることは何もない。それでも苦い思いは残った。

 蚕月は本当に、桜魔王としての役目を――人間を滅ぼすという目的を果たすつもりなのだ。

 青褪めた神刃の横で、鵠は白むほどに強く拳を握りしめる。


 ◆◆◆◆◆


 新たなる桜魔王蚕月に支配された世界で、夬は考える。

 あの時、朔と早花の無事を結局確認していない。だが自分たちは蚕月の存在に気を取られて、彼らが死んだという証拠もこの目にしてはいない。

 桜魔は死体を残さない。致命傷を受けた個体は、解けるように無数の桜の花弁となって消えていく。だから、その桜魔が死んだかどうかを正確に判断するには、死んだ場面を誰かが目撃しなければならないのだ。

 朔も早花もかなりの深手を負っていた。

 蚕月は朔を倒したと言っている。

 けれど、誰も二人の死を確認してはいない。

 その時目の前で目まぐるしく変化する状況に対応するだけで、夬もそれを確認できなかった。後に残された血だまりだけを見ても、二人の生死は確認できない。

 どうか生きていてくれと願う。

 もう自分には彼らのために何もできないけれど、それだけは。

 あの混乱に乗じて姿を消したと言うのなら、逆転の目はあるはずだ。

 ――眼下には地獄が広がっている。

 新たなる桜魔王となった蚕月がまず行ったことは、自分の命に従わない桜魔たちの粛清だった。

 元より桜魔王に従わず自由に生きていた者、朔を主人として蚕月を認めない者、それら全ての桜魔を圧倒的な力で屠り尽くす。

 先王の影響により、自ら率先して桜魔王として動くことはなかった朔に比べ、今度の桜魔王は随分とやる気があるらしい。

 だがそれは必ずしも良いことだとは言えない。蚕月は自らに従わない桜魔を全て殺し尽くすつもりのようだ。

 そして夬も、すでにそれに手を貸してしまっている。

「さて、次はどこだ?」

「ここから南にしばらく行くと小さな山があります。そこに下位桜魔の群れが棲んでいます」

「なるほど、わかった」

 自分の命惜しさに仲間を売り渡すのかと言われれば、答は応だ。自分より強い者に夬は逆らえない。

「何故だ! 何故今更桜魔王が我らの暮らしを脅かす!」

「王は朔陛下ではなかったのか」

「従えないな。お前にも、朔殿にも」


「そうか。ならば死ね」


 蚕月は躊躇いすら見せず、虫を叩き潰すかのようにあっさりと同胞たちを屠っていく。

「何故」

 しばらく地面から消えることのない血の海の中心に佇み、夬は思わず口を挟んだ。

「何故、ここまでするのですか……?」

 朔は桜魔王らしいことなどほとんどしなかったが、代わりに無用な虐殺も行わなかった。自分に近づく者はかなり制限したが、彼の与り知らぬところで勝手をする分には許した。

 朔と蚕月のどちらが桜魔王に相応しいのかなど、夬にはわからない。

 あるいはどちらも、自分の全力を以てまともな統治をする気がないという意味では、間違っているのかもしれない。

 けれどこの二十年弱、朔のおかげで桜魔たちの世界は確かに安定していたのだ。

 華節のように野心を持って近づいて来る者は別だが、そうでない者は桜魔として静かに暮らしていた。

 自身を構成する生前の怨嗟に耐え切れず人間を襲う桜魔は勿論多いが、そればかりでもない。

「何故? 何故も何もないだろう」

 蚕月は薄く微笑む。

「こうするのが、私の役目であり、私に従うのがお前たち配下の役目だ。違うか?」

「……いいえ」

 元より桜魔は人に危害を加える妖。

 穏やかな暮らしなど望む方が間違っている。それはわかっている。

 新しき王は自らに従わない全ての同胞を殺し、自らの命に従う兵だけを抱えて人間たちを襲わせる。

 もちろん向こうも退魔師たちを出して、雑魚の群れを掃討させるだろう。

 鵠たちは再びやってくる。新たなる桜魔王を倒しに。それが元仲間とはいえ、人界に悲劇をもたらす邪悪の根源を放置しておくとも思えない。

 桜魔王と勇者が命懸けで殺し合い、その配下たちも全力で潰し合い、戦いの先にあるものは。

 それはきっと、全てが死に絶えた世界でしかないのだろう。

「あなたは王です。桜魔王蚕月陛下」

 総てを滅ぼすために生まれた、桜魔の王よ。


..062


「それで? お前はまだ私に逆らうのか?」

「当たり前だ!」

 朱の森の屋敷に怒声が響く。祓は腹の底から叫んだ。

「誰が、誰が貴様などを王と認めるものか!」

 祓は頑なに蚕月の説得に抵抗を示し続けていた。

 彼にとって、蚕月は載陽と朔、二重の仇である。

 自分を拾って弟子として育ててくれた載陽は勿論、その仇を討ちたいと言った自分に理解を示してくれた前桜魔王・朔のことも祓はそれなりに慕っていた。

 その二人を殺したと言える蚕月を許すどころか、新しい主として認めるなど、彼には決してできぬことだ。

「ふむ。それならば仕方ないな」

 蚕月は祓のことを諦めたかに見えた。

 説得を諦めると言うのなら、もう彼にとって祓の存在は価値がないということだ。最悪殺される覚悟をして、それでも祓は蚕月を主君として仰ぎたくはなかった。

 だが、蚕月が次にとった行動は祓の予想を超えていた。

「ならば、強制的に聞かせてやろう」

 蚕月の指が祓の首を掴む。細い少年の首が赤い指の痕で染められていく。

「なっ……あ、くっ……!」

 窒息の苦しみを味わう祓の髪を、蚕月はそっと撫でた。

 次の瞬間、ふらりと少年の体が崩れ落ちる。

「祓!」

 夬は倒れた祓に駆け寄る。

「……蚕月様。彼に一体何を?」

「何、少し私の言うことを聞いてもらいやすくしたまでだ」

 夬の腕の中で、祓がそっと目を覚ます。

「祓?」

「……」

 だが、少年の様子はとても健常に意識を取り戻したとは見えない。

 瞳に光はなく虚ろで、人形のように表情が抜け落ちている。

「これは……」

「糸針を体の中に埋め込んだ。それを外さない限り、彼の洗脳は解けない」

「ここまでしなければならないのですか?」

「祓がもっと弱ければ殺していたのだろうが、例え未熟でもここまで才能を持ち育った高位桜魔はなかなかいないからな」

 似たようなことは朔も言っていた。祓の代わりを探すのは簡単ではないと。

 だが彼はここまでしなかった。

 攫ってきた人質の男にさえ洗脳術を使うのを嫌がった朔だ。自分の部下にそんなことをするはずがない。

 それが良いとも悪いとも夬には言えないが、事あるごとに朔と蚕月を比べてしまうのは確かだ。

「……そうですか」

 祓はすっかり操り人形と化してしまっている。

「何。鵠たちとの戦いが終わったら、その時は私から解放してやるさ」

 蚕月がここまでして備えているのは、鵠たち退魔師との戦いなのだ。

 では彼が言う「戦いが終わった時」とは一体どういう状況を指すのだろう。

「それは洗脳を解くことと、祓を殺してしまうこと、どちらの意味なのです?」

「どちらだと思う?」

「……私には、わかりません」

 夬は諦観と共に呟く。

 だが次に返ってきた言葉は、ある意味彼の予想外の内容だった。

「もしかしたら、その結末はどちらでもないかも知れないぞ」

「え?」

 更に詳細を尋ねようとする夬だったが、蚕月は意味深に笑うばかりだった。


 ◆◆◆◆◆


 新しい桜魔王があちこちで彼に従わない桜魔たちを殺しているというのは、彼女たちの耳にも入ってくる噂だった。

 山奥にひっそりと隠れ住む親子はいつもより更に息を潜め、戦々恐々としながら日々を送る。

 息子を罠に使われ、獲物本人である退魔師の少年に助けられ、更にその割を食った人質の青年に救われたことを切欠に、無力な桜魔の親子は桜魔王から離反して静かな暮らしを選んだ。

 先代王である朔は彼の目に入らぬ者までは追って来なかった。望まぬ玉座についた彼は、他者を自分に従わせることに関し、そう熱心な王ではなかった。

 けれど今度の王は違う。蚕月と名乗る新しい王は、部下たちからわざわざ配下以外の桜魔がいる場所までも聞き出して、全てに襲撃をかけているらしい。

 そして桜魔王に従わぬ意志を見せた者は、圧倒的な力で捻じ伏せて虐殺する。

 それは退魔師にあっさり狩られるような力ない下位桜魔も、桜魔王の側近に匹敵するような高位桜魔でも変わりないと言う。

 戦う力を持たぬ彼女たち親子にとってはひとたまりもない。

 そしてついに、死の翅は彼女たちの前にも降りてきた。

「む。お前たちは……」

 子どもを抱いてがくがくと震える彼女の姿に、蚕月は何事か考え込む様子を見せた。

「うむ、やはり……あの時葦切が見逃した親子か。ふむ、どうしたものかな……」

 親子は驚く。これまで話に聞いた印象では、新王は理由や事情に関わらず彼に従わない桜魔を容赦なく屠る死の使いとしか知らなかったからだ。

 だが目の前にいる、どこかで見たような面影を宿す青年姿の桜魔は彼女たちを見て何かを躊躇っている。

「……まぁ、いいか」

 びくりと震えて息子を抱える母親に対し、蚕月は気のない風情で言った。

「せっかく神刃と葦切に助けられた命だ。このまま大人しく暮らすと良い」

 驚く親子の前で、結局桜魔王は、何もせずに翅を広げて飛び去っていく。

「……!」

 山奥には、再び静寂の平和が戻った。


 ◆◆◆◆◆


 桜魔王の根拠地は、以前に比べて格段に静かになってしまった。

 長閑に昼寝をする朔の姿も、困ったように呼びかける早花の姿もない。

 そして生真面目ながら彼らには持ちえない若々しさでどこか周囲を盛り立てていた祓も、今は自我を喪って蚕月の命令だけを聞く人形状態になっている。

 夬も勿論口数が減った。こんな現場で、一体何を朗らかに話せというのだろう。

 ただ一人、以前からまったく態度を変えない者もいる。

 夢見だ。

 彼女だけは載陽が死んだ時も、朔を喪った今も、変わらぬ調子っぱずれの鼻歌を歌いながら他者にはよくわからぬやり方で戦闘訓練に励んでいる。

「……夢見」

「なぁにぃ、夬ぃ」

「……お前は何とも思わないのか? 今のこの状況を」

「えー、別にぃ?」

 載陽にも、朔にも、早花にも、祓にも。

 夢見は情など持たない。彼女はただ楽しく戦いを続けられればそれでいいと言う。

「だってぇ、載陽様がここに来た時ぃ、あたしに“桜魔王に従え”って言ったの! 今はぁ、蚕月様がぁ、王なんでしょお?」

「それはそうだが」

 割り切れない夬とはまったく対照的に、夢見はすでに新しい王を受け入れている。

 彼女が従うのはあくまで王と名のつく存在であって、その肩書きを持つのが朔であろうと蚕月であろうと変わらぬと言うのだ。

「王であるなら別にぃ……あたしは誰だって構わないの!」

 きゃははははと突然笑い出す。今の祓は洗脳により感情のない人形のようだが、夢見の方は顔を合わせた最初からこんな風に壊れた笑い人形のようだったと思い出した。

「夬、何を言っているの? あたしたち、桜魔なんだよ? 人間を憎み、恨み、殺すために生まれたの。ただそれだけじゃない」

 普段のとろけるような喋り方をやめ、不意に明瞭になった語尾で告げる。

「……!」

 尤もな言い様だが夬は動揺した。

「変なの。主君がー、仲間がーって、そんなのまるで人間みたい。あたしは人間になりたくないの。だから桜魔になったの」

「桜魔に“なった”? まさかお前……」

「きゃはっ、蚕月様ぁ、おかえりぃ」

 夬が夢見の発言を追及する前に、屋敷を空けていた桜魔王が帰還した。

「ただいま」

 夢見はもうそれ以上夬のことなど気にも留めず、蚕月にどうでもいいことを話し出す。蚕月の方も、夢見の意味不明な話を平然と聞いて相槌など打っている。

 その光景にやはり自分がとるべき態度や向かうべき未来が見えず、夬はひたすら、一人途方に暮れていた。


..063


 王宮の鍛錬場で一人、神刃は物思いに耽る。先程から剣を振るい続けていても、結局どうにも気が乗らないので諦めてしまった。

 これまで桜魔に憎しみを抱いて生きてきた神刃にとって、桜魔らしくない、人を襲わない桜魔・蚕の存在は大きかった。

 桃浪に関しても悔しいことに今は仲間だと思っているが、彼は元は何人もの人間を殺した辻斬りだ。全てを赦せるわけではない。

 けれど蚕は出会った当初から穏やかで落ち着いていて、時には悩む神刃を静かに諭してきた。

「蚕……」

 ――私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる。

「そう、言ったくせに……」

 彼は桜魔王となってしまった。目を疑う程に大きく変質してしまった。

 蚕や桃浪を受け入れて段々と価値観が揺らいできた神刃の心は、この大きな変化を受け入れがたく、また揺れる。

 桜魔であってもそれが人に害をなす存在でないならば、受け入れられる。最近の神刃はそう考え直すようになってきていた。

 もともと、桜魔自体の存在は桜魔ヶ刻が始まる前から細々と確認されていたのだ。彼らの数が爆発的に増えたのは、緋閃王が大陸中に争乱を広げ、瘴気と怨嗟で諸国を満たしたため。

 神刃はだからこそ、これまで桜魔の殲滅を願ってきた。桜魔さえ滅びれば、大陸は平和になると。

 けれど必ずしもそうではないのだと、ゆっくりと諭して来たのが蚕の存在だった。

 そしてようやく、神刃は気付いたのだ。自分が桜魔に向ける憎しみは、実の父・緋閃王に向ける憎しみの裏返しなのだと。

 桜魔が蔓延り人類が滅びかけているこの大陸の危機は、戦火を広げた緋閃王の暴虐によるもの。だから彼の「後始末」の一環として、桜魔を滅ぼせば全ては良くなると、神刃はそう単純に信じていたのだ。

 だが実際は、緋閃王はあらゆる物事のただの切欠にすぎない。彼自身の暴虐は憎悪を向けられて然るべき蛮行だが、桜魔の存在全てが彼によって生み出されたわけでもない。

 人間の姿も心も持たない下位桜魔から、人と見分けのつかない高位桜魔たちまで。桜魔にだって人間と同じ、あるいはそれ以上に豊かな個性がある。

 華節を喪って桜魔王への復讐を決意した桃浪は、載陽を殺されて神刃たち退魔師一行を仇と憎む祓の姿は、感情によって行動する人間たちと、一体どんな違いがあると言うのだろう。

「俺たちは……俺は……どうしたら」

「どうもこうもねーだろうよ」

 背後から声をかけられて、神刃は思わずびくりと飛び退く。

「桃浪!」

「油断しすぎだぜ? 坊や。まだ戦いは終わっちゃいない」

「お前、どうしてここに?」

「組手の相手を探しにな。なんか鵠の奴とお嬢ちゃんは向こうで二人難しい話しててな。割って入れそうにないんでお前さんを探しに来たんだ」

「組手? それなら――」

 ここにいないもう一人の名を思わず出そうとして、神刃は思わず口を噤む。

「まだ蚕のことを気にしてんのかい? 坊や」

「……当たり前だろ。お前は気にならないって言うのか?」

「そうは言わないが、まぁやることは変わんないからな」

 倒すだけだと。

 それが桜魔王を名乗るだけなら、倒すだけだと桃浪は言う。

「でも」

「なんだい、鵠だって同じことを言ってただろうが。あいつの言は受け入れられて、俺の話は聞けないって言うならそりゃ贔屓だぜ」

「当たり前だ。お前の話なんか信用できるか!」

「酷えなぁ、坊や。蚕の言うことはよく聞いてたくせに」

「……!」

 言い返されて神刃は押し黙り、桃浪はふーと長い息を吐く。そして改まった様子で口を開いた。

「……気にしても、しょうがないだろ。あいつは自らの意志で、俺たちの敵に回ったんだから」

「そんな言い方……!」

「事実だ。そして俺たちがあいつにしてやれるのは一つだけ。桜魔王として、倒しに行くこと」

「……ッ!」

 神刃は目を瞠り息を呑む。

「鵠の奴に、自分を殺しに来いって言ってただろ。あいつは勇者が魔王を倒しに来るっていう展開を律儀に守っている。そうしなければいけない何かが、あいつの中にあるんだろ」

「そうしなければいけない理由……」

「本当にあいつが最初からお前たちを、俺を、裏切っていたならあんな場面でわざとらしく本性を現さずとも、いつだって俺たちを殺せた」

 そうだ。蚕にそんな不審な素振りはなかった。いつだって。

 けれど、それは――。

「もう蚕はどこにもいないのか? 取り戻すことはできないのか?」

 あの頃、蚕が浮かべていた笑顔が真実ならば、今の彼は――蚕月は一体何なのだろう?

 神刃たちの仲間であった蚕はやはり真なる桜魔王の中で消えてしまったのだろうか。

「……俺にもわからないさ。一度は仲間と呼んだ奴らがまだいるのに、それを裏切って倒されるべき王になっちまう奴の気持ちなんて」

 桃浪は華節を、仲間を、全てを喪って鵠たち退魔師の側についた。共に過ごした記憶があると言いながら彼らを裏切った蚕月の真意は、桃浪には理解しがたいものだ。

 そして不意に神刃は気づく。蚕だけでなく、目の前のこの桜魔にも、もう彼らと共に戦う理由はないことに。

「お前は? 桜魔王であった朔が死んだなら、お前の復讐はもう果たされているだろう? まだ戦うのか?」

「俺にまで裏切って欲しいのかい? 坊や。そんなことになったら、誰が夢見の奴を抑えるんだ?」

「桃浪……!」

 神刃は再びの驚愕に目を瞠る。

「ま、そういうこと」

 桃浪はぽんぽんと、子どもを宥めるように神刃の頭を軽く叩く。

「決着をつけようぜ。俺たちの望み通り、あいつの望み通り」

 大陸の命運の鍵を握るのは、“勇者”と“桜魔王”。


 ◆◆◆◆◆


 鵠と朱莉は、二人庭園を望む回廊に並んでなんとはなしに話を始めた。

「何を考えていらっしゃいますの?」

「……蚕のことだ。あいつは本当に、俺たちを裏切ったんだろうか」

「……彼が、桜魔王として配下を焚きつけ、諸国各地を襲撃させているのは事実です」

「それはわかっている。だが……」

 だが、まだ何かが納得いかない。腑に落ちない。

「……辰から聞いた話なのですが」

 朱莉と神刃、両方に縁の深い情報屋の名を出して、朱莉は桜魔の生態について説明する。

「桜魔というのは、ほとんどが偶発的に発生するそうです。血縁関係のある者も例外的におりますが、あくまでも稀な存在だと。大抵の桜魔は、桜の樹の魔力や瘴気に、死者の遺した怨念や悪心が結びついて生まれます」

「……」

 あまりにも基本的な桜魔に関する講釈。だがこれは前置きだと鵠にもわかっている。肝心なのはここからだ。

「蚕は桜魔王を倒し、自らが桜魔王になるという目的を抱いていた。辰にそれを説明したところ、彼はこういう推測をしていました。――蚕、蚕月と言う名の桜魔は、“桜魔王に殺された者たち”の怨嗟の念の集合体だったのではないかと」

「集合体?」

「はい。私のしもべの一部がそうであるように、核となる生前の人格を有さない発生の桜魔です」

 大抵の桜魔は核となる死者の記憶を持つ。自分がどのような恨みを抱いて生まれ落ちたかを、彼らの多くは覚えているのだという。

 しかし蚕にはそういった核となる人格が存在せず、幾人もの桜魔王の被害者の怨念の寄せ集めだったのではないかと辰は考察したらしい。

 朱莉が使役する配下のように、偶然瘴気と死者の念が結びついて生まれたような下位桜魔にはたまにあることだと言う。

 けれど、高位桜魔の中にそういった者は珍しい。桜魔の発生には、恨みを抱いて死んだ者の念が瘴気や桜の樹の魔力を引き寄せることが強く関係するからだ。

「桜魔王は、必要なら自分の部下も殺すことがあるな」

 華節にトドメを刺した朔の姿を思い返しながら鵠は言う。あのような出来事が、日常的にあったとしたら?

 ほとんど朱の森から出なかった朔の周囲に、そうした穢れが溜まっていたのだとしたら?

「ええ。ですから蚕は人間だけではなく、殺された桜魔の念も取り込んだ存在だったのでしょう。だから桜魔たちの事情に詳しかった」

「……成程な」

 記憶を持たず、桜魔王を倒すという目的だけははっきりして、幼い子どもの見た目にそぐわぬ知識を見せていた蚕。

「彼の目的の半分は達せられた。桜魔王・朔を討ち取ることによって」

「……」

 考えを自分の中に落とし込むように淡々と語る朱莉の声を聴きながら、鵠は己の中でも蚕と蚕月の存在について考えをまとめる。

「けれど……もう一つの目的が、彼自身が桜魔王になることだったというのは」

「本当に……そうなのか?」

 そして鵠の心は、またしてもその疑問に戻った。

「本当にそれが、あいつの『本当の目的』なのか?」

「鵠さん?」

 怪訝な顔をする朱莉の声をもう半ば聞き流しながら、鵠は蚕月の最後の言葉について思いを馳せた。

 ――さようなら、勇者様。次に会う時が我々の本当の最終決戦。お互いの肩に大陸の命運を背負って、劇的な決着をつけようじゃないか。

「蚕の奴は、もしかして……」

 しかし尋ねたい人物は遠い朱の森の向こう。問いかける言葉に、返る答があるはずもなかった。


..064


 大規模な襲撃の報せを受けて、鵠たちは急いで王都から現場に向かった。

「蚕のやつ……!」

 桜魔王が朔から蚕月へ変わり、桜魔側では王による粛清が行われているという。

 新たな桜魔王は、自らに従わない部下を片っ端から殺しているというのだ。

 朱莉が配下の桜魔に収集させて聞き出したその情報に、鵠たちは戦慄した。

 桜魔を滅ぼすのは、退魔師たちの悲願だ。しかしそれを、彼らを統べる王が行うというのは予想外だった。

「いや……桜魔なんて、そんなものなのかもしれないな」

「鵠さん」

 朔が華節を粛清した時もそうだった。桜魔には人のような柵はない。強い力を持つ者は、弱い者を気紛れに殺すことができる。

 ここ数十年、忘れていただけなのだ。朔は王としてやる気がなかった。だから目立った行動はほとんど起こさなかっただけ。

 殺し合うのは何も人間と桜魔の間だけではない。人が人を殺すこともあるように、桜魔だって桜魔を殺す。同族同士で殺し合う。

 襲撃の現場に辿り着いた鵠たちは、人間を襲っている桜魔たちの処理を開始する。

「お嬢、あんたはしもべ共の姿を見られないよう気をつけながら、住民の救援に行ってくれ。ここは俺たちが始末をつける」

「……わかりましたわ!」

 火を使う桜魔がいたのか、襲われた人々が消す余裕がなかったのか、街の一角が紅い炎に包まれていた。

 これでは桜魔を倒すどころではない。まずは、逃げ惑う生きている人々を助けねば。

 朱莉は鵠の指示に頷き、すぐに被害の大きい方へと駆けて行った。

 鵠たちはあえて、炎が強い場所へと赴く。人が減ったそこでも、桜魔は多い。桜魔が多いからこそ、人が逃げて減ったのだ。

 逃げ遅れた人々の救助をここでも必要とするかと思えば、杞憂に終わった。

 朱い炎の中で、腕を突き出したような黒い塊が幾つも燃えている。それを囲むように、人の姿をしていない下位桜魔がうじゃうじゃ群がっている。

「くそっ!」

 鵠たちは、群がる下位桜魔たちを次々に倒して行った。

 退魔師からしてみれば知性があるかも怪しい雑魚だが、こんな雑魚でも強い霊力を持たない普通の人間を殺すには十分だ。

 ぱちぱちと何かが燃える音に、肉の焼ける不快な臭いが混じり合う。ここ最近、大規模な襲撃は防いでいたが、頻度も規模も次第に大きくなって、ついに協会の退魔師たちの手が回らなくなったのだ。

 あの時。

「俺たちが」

 あの場で。

「あいつを」

 蚕を。元の仲間を。今は桜魔王・蚕月と名乗っている男を。

「あいつを……!」

 倒せていれば。

 こんな被害を出すこともなかったのに。

 今までどれだけ桜魔が人に危害を加えようと、鵠は気にせずに生きてきた。けれど、一度振り返ってしまえばもう、見て見ぬ振りはできなかった。

「畜生!」

 雑魚を倒すのは簡単だが、手が回らない。救助を朱莉一人に任せているが、彼女の方も大変そうだ。

 炎の爆ぜる音に交じり聞こえてくる悲鳴は、鵠たち自身の集中力も削ぐ。

 だが戦いをやめるわけにはいかない。他のことなら誰かが救助できるかもしれないが、桜魔に対抗できるのは退魔師だけなのだ。

 しかし、このままでは――!

「濡れますよ。突然の雨にご注意を」

 雨と言うにはあまりに局所的に、ざばりと水が降ってきた。炎が一番大きかった場所に降り注いで消火する。

「葦切!」

「すみません、遅くなりました。消火作業と住民たちの救助は私と退魔師協会に任せて、あなた方は戦いに集中してください!」

 朱莉の方にも蝶々や兵破たちが合流したようだ。

 炎の檻に閉じ込められて逃げ出せなかった人々が次々に助け出されていく。

「さぁ、頑張って! あともう少しだから!」

 蝶々が発破をかける声と共に、鵠たちの戦闘と退魔師たちの救出作業は再開された。


 ◆◆◆◆◆


 退魔師たちの助力により、無事に全ての桜魔を倒し終え、人々の救助も終わった。

「蝶々……」

「何さ、朱莉。まさかあんたまで、この前の戦いで桜魔王を倒しきれなかったことを気にしてるのかい? らしくないね!」

 兵破や葦切も、蝶々の言葉にうんうんと頷いている。

「退魔師協会に感謝する、だが俺たちは――」

「別に、ちゃんと無事に生きて帰ってきたんだからいいじゃないか」

 鵠に最後まで言わせず、兵破が割り込んだ。

「蒼司王から簡単に聞いただけだが、なんだか大変なことになってるらしいな」

 姿の見えない蚕について、蒼司は退魔師協会の面々に一体どこまで話したのか。鵠は危惧するが、今の所蝶々や兵破たちに、彼らが裏切り者の桜魔と組んでいた人類の敵とみなされるような気配はない。

 葦切がそっと鵠の方へ歩み寄ってくる。

「我々の意見は変わりません。例えそれがどんな相手でも、桜魔王を倒せるのは、貴方方しかいない」

 この様子だと、葦切は全ての事情を聞いているようだ。

「一度桜魔王を倒したはずなのにまた新たな王が登場し再び脅威を刈り取らねばならない。貴方方にとっても辛い結果でしょうが、ここは堪えて、戦っていただくしかないのです」

 桜魔王に……蚕月に勝てるのは、鵠たちだけだと。

 蒼司の、葦切の、退魔師協会の面々の言葉は、鵠たちにとっても重い。

 だがその重みこそが、彼らが鵠たちに向けてくる信頼なのだ。

「あたしたちは街を守るよ。協会の登録面子を全員整理して、これからはあんたたちに頼らずとも、なんとか襲撃に対抗できるよう見張り番を組んでもらう」

 今回は前情報のない大規模な襲撃だったため被害が広がったが、次からはこんなことにはさせないと蝶々は言う。

「私たちは、私たちにできることをします。だから、貴方方も――」

「葦切」

 本当なら彼らも桜魔王の下に乗り込んで、これまで殺された人々や仲間の仇を討ちたいかもしれない。

 しかし烏合の衆が向かったところで、絶大な力を持つ桜魔王には勝てない。

 だからこそこれまで朱櫻国は、少数精鋭の勇者を、桜魔王を倒す者として向かわせることを選んできた。

 大陸の命運は鵠たちの肩にかかっている。

 だが、戦っているのは鵠たちだけではない。

 鵠たちを支えるためにここにいる面々を始め、多くの人々がすでに動いているのだ。

 そして勇者の存在に、もうすぐ戦いは終わるはずだと信じて苦難に耐えている民がいる。

「……そうだな」

 後戻りはできない。歩み始めた道を止めることはできない。

 すでに勇者の存在は、多くの民衆に影響を与えているのだ。

 ここで鵠たちが退けば、今度こそ大陸の希望が潰えてしまう。そうなればいくら朱櫻国王や退魔師協会が鼓舞したところで、人心が安らかになることなく人類は滅びてしまうだろう。

 それを防ぐためには、鵠が蚕月と戦い――。

 今度こそ、勇者と桜魔王の戦いを終わらせるしかない。

「……神刃」

 その日の戦闘と救助作業が終わって王宮に戻ってきた後。

 鵠はこの状況においてまだ彼を見放さずにいてくれる仲間たちの名を呼んだ。

 いや、見放すも何もない。桜魔王を倒す勇者はここにいる全員だ。鵠一人で戦っていたわけではない。

「朱莉、桃浪」

 そして蚕。かつて共に戦った彼自身の存在も、鵠たちにとっては間違いなくこの日のための支えだった。

「まだやれるな」

「はい!」

「当然」

「やれます。少し回復すれば、すぐに戦えるようになります」

 力強い返事に笑みを浮かべる。

「出立は明後日だ。一日体を休めて、決戦に備えるぞ」

 もう迷わない。迷っている隙なんてない。

 今度こそ倒すのだ。桜魔王を。

 勇者である自分を待つ、蚕月と言う名の桜魔王を。


..065


 脳裏をいくつもの映像が過ぎり、彼の心を無限にかき乱していく。

「陛下……」

 遠く近く、寄せては返す波のように、誰かが呼ぶ声がする。

 だがそれは、今の朔には届かなかった。

 頭が割れるように痛み、反乱した記憶が洪水のように彼の意志を、意識を押し流す。

 夢に見た女の顔と、見たことはないはずの男の顔が繰り返し繰り返し、朔を苛んだ。

 ――さく、さく。

 屋敷で二人暮らしていた数年間。

 桜魔には赤子の時代がない、どんなに小さくてもその発生は幼児からだ。だが自分の場合は人間の女の胎から生まれた。だから、もしかして違ったのだろうか。

 ――さく。

 女は彼をそう呼んだ。やわらかな春の陽だまりのような、優しい声で。

 あの頃、世界にはまだ四季があって、彼はわずかながらその違いを知っていた。

 春はやわらかで夏は燃え上がり、秋は舞い散り冬は静かに眠ることを知っていた。

 森の奥の屋敷に彼は女と二人。

 女はいつも寂しそうで、誰かを待っていて、けれど朔の前では無理をしたように笑っていた。

 何故泣くの? 問う彼に彼女は答える。答にはならない答を。

 ――あなたのせいじゃないわ。

 あの頃は意味がわからなかった。今は嫌でもわかってしまう。

 先代桜魔王の名が『朔』と言った。

 自分は彼の生まれ変わりだ。

 まだ桜魔の勢力が然程でもなかったその頃、桜魔王にとって最も厄介な敵は花栄国の退魔師の名家、天羽家の後継ぎ娘だった。

 先に生まれた兄よりも優秀な力を持って生まれてきてしまった娘は、いつも兄に対する引け目を感じながら生きてきた。

 彼女が兄より上回るのは退魔師としての霊力だけ。それ以外全ては兄の方が優れている。それなのに霊力ただ一つを理由に家を継ぐことに、娘は不安と罪悪感を抱いた。

 娘は、兄に恋をしていたからだ。禁断の恋を。

 だが結局彼女が天望の家を継ぐ未来はなかった。彼女は桜魔王に攫われた。

 桜魔王は、一目見た退魔師の娘に惹かれ、本来王の使命をもって倒すべき彼女を自らの屋敷へと閉じ込めた。

 兄に恋する娘は、決して桜魔王を振り返らないと知っているのに。

 二人が心から結ばれることは決してない。

 なのにあてつけがましく自分で自分を彼女の子として転生させるなんて。

 なんて憐れな母。

 なんて憐れな父よ。

 そうして生まれたのが、今の桜魔王・朔だった。

 否、違う。朔ではない。父そのものの名ではない。それが彼の意識を揺らがせる。

『“桜”』

 朔……“さく”ではなく。

『お前の名は桜だ。桜魔王、いや――兄さん』

 自分にどこか似た白銀髪の男は告げた。

 それが彼の全てを象徴する真の名だと。

 ……鵠がそれを認めることなどないと考えていたのだ。

 母を攫った先代桜魔王のことなど知りたくもないと、現在桜魔を束ねている王が、自分の兄だなどと考えたくもないだろうと。

 だから記憶に蓋をした。向こうも自分も、こんな記憶を抱いては生きてはいけない。そんなものは忘れてしまえと。

 それは半ば以上成功したはずだったのに、結局は鵠の言葉一つでこんなにも揺さぶられている。

 そして。

『“蚕月”。我が名は、桜魔王・蚕月だ』

 ついに彼は、自分自身の役割さえ見失った。


 ◆◆◆◆◆


「朔様!」

 早花の必死の呼びかけに、ついに朔は反応を見せた。

「ごふっ……ぐっ……」

「どうか、安静になさってください。まだ完全に傷は塞がっておりません」

「お、前は」

「私も完治はしていませんが、朔様のおかげでこうして逃げて来られました」

 ここは朱の森の片隅。

 森の中央に存在する桜魔王の屋敷は、今は蚕月が主に取って代わり、利用していると言う。

「無茶をしたな、早花」

「申し訳ありません、私のせいで……」

「いや、そうじゃない。そうじゃなくて……」

 遮ってはみたものの、朔はそれ以上の言葉が思いつかなかった。それよりもと、話題を変えてみる。

「あいつは、どうなっている……?」

 早花の表情が曇る。

「あの子どもは、鵠の仲間じゃ、なかったのか……?」

「……配下を使って少しだけ話を集めました。あの男は……」

 蚕月自身が言った言葉と、鵠が朱櫻国で朱莉から聞いたような話とを合わせた内容を早花は朔に告げる。

 蚕月の存在は、桜魔王がこれまで手にかけた者たちの怨嗟の集合体だと。

「なるほどな……因果応報というわけか……」

「陛下……」

 もう自分は、早花にそう呼ばれる資格すらない。

 無理矢理に押し付けられた桜魔王の座を、朔は半ば以上放棄して生きてきた。部下を率いて人間たちに襲撃を仕掛けることもなく、自らが気に入らない部下は早々と粛清、この森でただただ、怠惰な沈黙を守っていた。

 ここ最近少しだけ活動していたのは、華節の横槍や載陽の叱責、祓の嘆願があったからだ。

 そうでなければ朔は何もしなかった。

 人が桜魔に滅ぼされても――桜魔が人に滅ぼされても。

 元より彼の存在などに大した意味などないのだ。

 先代桜魔王のただの意地。彼自身は朔より余程まともな魔王だったろうに、朔を遺してわざと死んだのだからある意味朔以下の存在だ。

 そしてそのどちらも、蚕月を生み出した桜魔王の被害者たちの怨念からすれば似たようなものだと。

「早花、お前は逃げろ。いや……お前が、新たな桜魔王に従いたければ、そうするがいい」

 もう、朔の役目は終わった。

 作られた桜魔王。母の胎から生まれた、父そのもの。

 呪われた桜魔王であり続けることが、これまで朔の役目だった。だが彼は、蚕月に負けた。全ての桜魔の頂点に立つ桜魔王ではなくなった。

 もう生きている意味などない。

「いやです、私は、桜魔王朔の部下です。桜魔王の配下ではなく、あなたの、朔様のしもべなのです」

「早花……」

「どこまでもついていきます。最期まで、最期までお傍に……」

 横たわる朔の上に体重をかけずに顔を伏せた早花がくぐもった声を上げ、朔の服には暖かいものが染みていく。

「……」

 先程の夢とはまた別の意味で、胸がかき乱される。

 自分の命に意味など見出していなかったから、ここで死んでもいいと思っていた。

 けれどそのせいで彼女まで巻き込みたくない。

 遺してきた者たちも気になる。夢見はともかく、夬は、祓は、一体どうなったのか……?

「命令をください、陛下。私にあの男を殺せと。簒奪者を殺し、玉座を取り戻せと」

「お前の腕では無理だ」

「でも、このまま引き下がれません。あなたは王です。我が王」

 脳裏に誰かの面影が過ぎり囁き尋ねる。

 “どうしたいの?”

 “君は、本当は、どうしたいの?”

 望みはなんだと声は問う。

 望まぬ玉座を与えられた王としてではなく、朔であり桜である一人の男としての望みはなんだと――。

「俺は……」

 朔は腕に力を入れ上体を起こした。

 ハッとした顔の早花の頬を撫でると、決意と共に口を開く。

「ならば、共に行こう」

「陛下!」

「一人で突っ込んでも死ぬだけだ。それは俺も同じだ。だから、二人で」

 どうせ新たなる桜魔王の下には、いずれ必ず鵠たちが現れることだろう。

 勇者は魔王を倒すためにやってくる。

 そこを利用すればいい。

 生きている。生きる意味はもうない。でも生きている。

 ならばこの命を、真実朽ち果てるその時までまだ使っていてもいいだろう。

 脳裏で顔が見えなかった人影。母親がようやくその表情を見せる。

 望まぬ方法で得た子とはいえ、彼女は息子の――自分の前ではいつも儚くも優しく微笑んでいた。ようやく思い出した。

 だからどうか、もう少しだけこの命を使わせて。

 ――この戦いに、本当の決着がつくその日まで。


..066


 鵠たち一行は、再び“朱の森”へ向かった。

 今度こそ桜魔王と決着をつけるために。

 近づく彼らの気配を、桜魔たちの方も察知していたようだ。

 蚕月は部下三人と共に、わざわざ森の中の開けた場所で待ち構えていた。

 元より不意打ちが通じる相手でもない。鵠たちも、正面から彼らの前に姿を現した。

「来たか」

 にっこりと微笑む。その笑顔は穏やかだ。

 だが彼の手はもはや人や同族の血に濡れすぎている。

 子どもの姿だった頃の蚕の面影と、桜魔王としての蚕月の行動を思い比べて鵠は唇を噛む。

「ああ、来たぜ」

 勇者は魔王と相対する。

「……?」

 しかし桜魔王一行の様子を見た鵠は、祓の様子がおかしいことに気づいて声を上げた。

「おい……そっちの餓鬼はどうした」

 載陽の弟子の一人、祓。彼は見た目で言うなら神刃とあまり年頃の変わらない少年だ。

 中身も見た目通りの年齢らしく、気性も桜魔にしては真っ直ぐで真面目だ。

 師の載陽を慕っており、彼が蚕に殺された後は師の仇である蚕を憎む様子を見せていたのだが……。

「ああ。祓か」

 鵠の問いを受けた蚕――桜魔王蚕月は、事もなげに言う。

「私の言うことをあまり聞いてくれる様子がなくてな。ちょっと大人しくしてもらうようにした」

「なっ……」

 神刃が思わず声を上げる。

 蚕月の言い方はこうだが、実際にはもっとえげつない行為だろう。

 蚕を憎んでいた祓が、載陽を殺し、朔まで手にかけた新たな桜魔王に大人しく従うとは思えない。きっと、相当抵抗したはずだ。

 今の彼の様子は「大人しい」などと言うものではなく、生気も自我も失った、虚ろな人形のようである。蚕月は祓を自分に従順にさせるために、何らかの術で洗脳しているのだ。

 これには鵠や神刃だけでなく、朱莉や桃浪も顔を顰めている。

「まぁ、お前が気にすることではあるまい? 鵠。お前たちは私を殺しに来たのだから」

「……そうだな」

 頷く鵠だが、それで気分の悪さが消えるわけでもない。

 桃浪が静かに問う。

「蚕……お前さん、本当にそこまで変わっちまったのか?」

「さてな……その真実は、お前の目で見極めるべきことではないか?」

「……」

 蚕月は桃浪に向けて微笑む。桃浪はそのまま沈黙した。

「それでもどうしても私の口から聞きたいと言うなら、一つだけ答えよう。――私は、何も変わってなどいない。あの“蚕”も、今の“蚕月”も、多少の記憶や目的のあるなしで行動が変化しただけで、まったく同じ存在だ」

 まったく同じなどとはとても思えない。第一、姿からして彼は十にも満たない子どもから二十歳過ぎの青年へと変化しているではないか。

「本当に……?」

 本当に変わらないのかと、まだ諦めのつかない神刃が尋ねる。

「本当だ」

 その肯定を聞きながら、鵠はかつて蚕の言った言葉を思い出していた。

 ――もしも私が桜魔として、人類にとって有害な存在だと判断したなら。

 ――その時はお前たちの手で、私を殺せばいい。

 あの時、まだ蚕について信用も何もない時期ですら、きっとそうはなるまいと考えていた。実現することを望まなかった悲しい未来がここにある。

「前置きはこのくらいでいいだろう。わざわざこんな場所まで長話をしに来たわけではあるまい」

「ああ」

 どちらにしろ鵠たちはもう後戻りはできない。彼らは倒しに来たのだ。“桜魔王”を。

「今度こそ戦いを終わらせよう――二度目の最終決戦だな」

 何もかもが変わった世界で、この戦いだけが終わらないなんてあんまりじゃないか。

 だから、今度こそ全てを終わらせる。

「……ああ」

 決戦の火蓋は切って落とされた。


 ◆◆◆◆◆


 まず仕掛けたのは桃浪だった。

「よお! 夢見! やろうぜー!」

「やっほー桃浪! 待ってたよぉ!!」

 子ども同士が遊びに誘い誘われるかのような台詞だが、その内実は夢見の体を遠く吹っ飛ばす桃浪の強烈な蹴撃と、それを的確に防御してようやく両腕を広げる夢見の迎撃だ。

 変則的な戦闘をする者同士の戦いは、他の面子の戦いを邪魔しないようにと距離をとる。軽やかな掛け合いの前から、地面に夢見が足を引きずった茶色い土の痕が長く残された。

 他の者たちより更に考えていることが掴めない分、夢見は厄介だ。その狂気の淵に片足を突っ込んだどころか、両足を浅く浸けてはしゃいでいるような夢見の相手は、昔同じように辻斬りをしていた戦闘狂の桃浪にしかできない。

「私たちも行きましょう」

「はい」

 桃浪が夢見を大きく引き離した後、続けて朱莉と神刃が動き出す。

 朱莉は前回と同じく祓を、神刃は前回と敵も味方も大きく様変わりした陣営の影響を受けて夬を相手する。

「まったく……」

 祓を相手取る朱莉は、戦う前からすでに憂鬱な表情を見せていた。

 霊符の大盤振る舞いでじわじわと、彼女もまた他の面々からこの戦闘を遠ざけながら溜息をつく。

「正気を失っている相手を殺すなんて、さすがに気が咎めるのですが……」

 祓とは何度か顔を合わせたが、こんな幽鬼じみた動きをする少年ではなかった。

 朱莉が咄嗟の動きで躱した攻撃の余波が周囲の樹の幹を大きく抉る。

 精神の制御が僅かでも外れた分、行動に迷いがなくなってもしかしたら今の彼の方が以前の祓よりも強いかもしれない。だが、その分祓自身が、危険や後先を顧みない行動で傷ついていく。

 ――彼は、復讐者だった。

 朱莉は復讐を諦めたが、愛しい者を殺されて相手を憎み嘆く気持ちなら知っている。桜魔ながら、祓の憎悪と激情は、全く理解できぬものでもなかった。

 その彼が、今は操り人形として、自分の意志でなく動かされている。

 可哀想と、言ってはなんだが、そう想ってしまうこと自体は彼女にも止められない。

 桜魔など元より憐れな存在だ。わかっている。わかっているのだが……。

「でも、それを理由に手を抜くわけには行きませんものね……」

 一見ただの少年に思えようとも、祓だとて桜魔王の側近として生きていたのは事実。人々を殺す部下の桜魔たちを、何度も襲撃に差し向けた一味の一人だ。

 彼の生ごと、操り人形につけられた糸を断ち切る。それが、今、退魔師としての朱莉の役目。

 無感情に攻撃を仕掛けてくる祓にそっと、囁くように告げる。

「――今、楽にして差し上げますわ」


 ◆◆◆◆◆


 そして、祓と違いまだ正気を保っている夬には、神刃が問いかけていた。

「あなたは朔の部下なんでしょう?! 何故蚕月に従うのです?!」

 呪符の攻撃が途切れた合間に神刃が思わず口にした問いに、夬は誤魔化すでもなく諦観の滲む顔で言った。

「それが私の役目だからですよ」

「早花は朔と消えたのに?」

「……」

 神刃は前回の戦いまで、ずっと早花を抑えることを考え続けて訓練をしていた。だから彼女と常に一緒にいた夬のこともよく覚えている。

 桜魔王・朔の側近であった早花は朔を庇い、朔と共に消えた。

 もう一人の側近であるのに、夬はまだ、ここにいるのかと。

 師を殺し主を手にかけた蚕――蚕月に従うのかと。

「ええ。朔陛下のもとには早花がいる……だから、これでいいのです」

 本来の主を追いかける気力もなく、祓を完全に見捨てることもできず、夢見は何を考えているのかわからない。

 もう夬の本当の仲間も味方もいないのに、ただ機械的に新たな「桜魔王」の傍らでこれまでと同じ役目を果たし続ける。

「私にも“桜魔王の側近”としての矜持があるのですよ。今後の身の振り方はせめて、桜魔王に逆らう邪魔なあなた方退魔師を片づけてから決めることにします」

「……そうですか。ならば、俺はあなたを倒します」

 夬があくまでも鵠の障害となるようなら、それを止めるのは神刃の役目だ。

 そして決着をつけるためには、足を止めるだけでは駄目だ。夬を倒し自分の手を空け、“桜魔王”と戦っている鵠の援護に何としてでも向かうのだ。

「来なさい、退魔師の少年よ。我が名は桜魔王の側近が一人、夬」

 名乗りまでどこか早花と似た夬に、神刃は再び剣を向ける。


 ◆◆◆◆◆


 蚕月と鵠は不敵に笑みながら睨み合う。お互いの中にどうあっても懐かしい面影を見つめながら。

 勇者だけでは物語は始まらない、魔王だけでも物語は成り立たない。揃って初めてお話は動き出すのだ。どちらにせよどちらかの滅びへと向かって。

 どちらかしか存在しない世界は、決められた運命の輪を辿るだけの停滞だ。

 先へ進むためには何かを終わらせなければならない。

「では、我々も始めようか。終わりへと続く演武を」

「そうだな。神々よ御照覧あれ、だ」

 勇者の、そして桜魔王の物語の終わりへと続く、二度目の最終決戦を。


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