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桜魔ヶ刻  作者: きちょう
第3章 桜の花が散り逝く刻
10/12

10.血の花が降り注ぐ刻

..055


 先日は半ば桜魔側の自主撤退だったとはいえ、退魔師たちが桜魔王の襲撃を防いだという話は人間たちに大きく希望を与えた。

 朱櫻国の王都には今までにない活気が戻り、魔王を倒すために赴く勇者たちと、その間街を守る退魔師たちを支えようと言う意識が生まれている。

 鵠たちは鍛錬を欠かさず積みながらも、具体的にいつ、桜魔王の根拠地がある「朱の森」に向かうかの計画を立てる段階に入っていた。

 朱莉が配下の下位桜魔を使い、桜魔側の噂まで集めてくる。

「向こうは士気がガタ落ちですわね」

「やはり、桜魔王の撤退の影響か」

「もちろん。これまでもほとんど王らしいことを何もしない王でしたが、ここで人間に負けるとは……みたいな感じだそうです」

「まぁ、そうなるよな」

「王の存在感と言う話ならば、数年前から大陸を救うために退魔師協会に援助して国を立て直し始めた蒼司の勝ちだな」

 蚕が冷静に評価する。それを聞いて、神刃も表情を緩めた。

「……あいつの頑張りが、報われて良かった」

「そうだな。だが、本当に報われて終わるかどうかはこれからだ。肝心の俺たちがこれから桜魔王に負けたら意味ない」

 ここでもしも自分たちが桜魔王に負ければ、蒼司の評価も共に地に落ちることになる。そうなれば元も子もない。

「悪いが劇的な大逆転は、あいつらには与えない。勝つんだ。俺たちが――」

「はい!」

 鵠の言葉に、神刃も強く同意する。

「鵠さんなら、必ず桜魔王に勝てます。俺も、あの早花という側近に勝って見せます!」

「期待してるぜ、神刃」

 鵠が珍しく神刃の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。それに対し、ここ最近は神刃も笑顔で返せるようになった。

 鵠たち一行の絆も、これまでの戦いで十分に深まっている。

 なんだかんだで共に強敵を相手に死線を乗り越えてきた仲間との連帯感は強い。

 ――それから更に半月程、鵠たちは鍛錬を積んだ。

 一応自分たちが相手をする面子を決めているものの、実戦ではどんな不測の事態が起こるかもわからない。蚕や朱莉の攻撃方法の豊富さを活かして、桜魔との戦いそのものに慣れていく。

 日々はあっという間に過ぎ、桜魔王の根拠地へ乗り込む日が近づいていく。


 ◆◆◆◆◆


 鍛錬予定も大詰めになってきたある日、神刃は朱莉と話していた。

「それにしても、神刃様はここ数か月で随分強くなりましたわね」

「ええ。ここ最近、みんなにとにかく鍛えられましたから」

 かつてはどこか自信がなさそうにしていた神刃も、今はそうして力を褒められて素直に返せるようになっている。

「以前は祓と言う名の桜魔に負けましたが、最近は蚕のおかげで中距離戦の機動も安定してきました」

「……そうですか」

 自分の弱さで、鵠に傷を負わせてしまった苦い敗北の記憶。けれどそれさえも、強さに変えてみせる。その意気込みで神刃はここまで戦闘訓練を積んできた。

「……神刃様も随分、桜魔であるあの二人に慣れましたわね」

 朱莉の静かな言葉に、神刃がぴたりと動きを止める。

「朱莉様……?」

「咎めるつもりはまったくありません。むしろ、良い事だと思っていますよ。でも、大丈夫ですか? あの二人にそこまで心を許して、これから先の世界の変化についていけますか?」

「変化?」

 桜魔王を倒すという目の前の目的に対し精一杯な神刃は、朱莉にそう言われて自分がこれまでまったく「その先」のことを考えていなかったことに思い至る。

 先。桜魔王を倒したその先。

 勝てるか勝てないかもわからない今言うべきことではないかもしれない。けれど朱莉は言わざるを得なかった。

 例え桜魔王に勝てなくても、この大陸が滅びても、彼女はこれからもこの世界で桜人として生きていくのだから。

 それが朱莉と神刃の意識を分けた違いだ。

「あの二人を受け入れた当初は、もっと警戒なさっていたでしょう? 神刃様だけではない。私も、多分鵠様も。でも今はもう……仲間として信頼し始めている」

 咎めるつもりはないと言われたが、神刃には朱莉がそれをまるで悪い事として語っているかのように聞こえた。

「朱莉様は……何が言いたいのです?」

「あの方たちは、いつまでも私たちの傍にいるとは限りません。そして彼らが我々から離れた後、どういう行動をとるのかも」

 元々人間だった時代から面識のある朱莉と違い、蚕と桃浪とは、桜魔王を倒すという目的のために手を組んでいるだけだ。逆に言えば。

「桜魔王を倒して利害の一致が無くなったのなら、あの二人はどう出るかわかりません」

「そ、それは……」

 確かに朱莉の言うとおり、いつまでも彼らが桃浪たちを見張れる訳ではない。

「でも、蚕も桃浪も、これから先無闇に人を襲ったりすることは、ないんじゃ……」

「けれどここまで重ねた罪は消えない。蚕の方はまだしも、桃浪は私たちも知る辻斬り事件の犯人ですのよ。本当に、最後まで信じられますか?」

「朱莉様は疑っているんですか?」

「私のことはいいのです。問題はあなたの――神刃様の気持ちです。桜魔を憎んでいたはずのあなたの」

 そこまで聞いてようやく、神刃は朱莉の目に宿る感情に気づいた。

 彼女が神刃の感情に拘るのは、神刃自身を案じているからだと。

「俺は……」

 養父にまつわる悲惨な過去故に、桜魔を憎みその殲滅のためだけに人生を捧げてきた。神刃は実父と養父、両方の存在にこれまで魂を囚われてきた。

 その鎖から、解放してくれたのが先日の鵠の言葉だった。

「俺は……桜魔王を倒し、この大陸に平和を取り戻したい」

 鵠の存在によって救われはしたが、神刃の望みは変わらない。緋閃王の乱行の後始末として、桜魔王を倒し桜魔ヶ刻を終わらせるのはもはや神刃の使命だ。

「蚕と桃浪と手を組んだのもそのためです。だから……この戦いの結末に伴う事象もまた、受け入れます。俺自身に出来る限りの、正しいことを選びたい」

「相変わらずクソ真面目ですわね」

 脳裏をこれまで二人の桜魔と共に過ごした時間が次々に過ぎる。自分の弱さに悩んでいた頃、わざわざ鍛錬の相手を買ってくれた桃浪。いつもさりげなく神刃を庇ったり慰めたりしてくれる蚕。

 個人としての彼らを知ってしまえば、もうこれまでと同じように桜魔だからという理由で憎むことはできなかった。

「もしも蚕がこれからも人を傷つけない桜魔として変わらなければ、桃浪が過去の罪を悔いてこれからは人を傷つけないと誓うならば、俺は――」

 これもまた一つの罪だと思いながら、それでも神刃は口にする。

「彼らを許し、受け入れたいと思います」

「ぬけぬけと言いますわね」

 表情を変えない朱莉の言葉がだんだんと辛辣になっていく。

 その理由がわかっているからこそ、神刃は彼女の審判を待つ。

 自分が桜魔を赦さない理由があるように、彼女にも自分を赦さない理由がある。

 今の神刃は蚕や桃浪の在り様を知って、桜魔でも人と手を取り合い共に生きるつもりであれば受け入れ、許したいと思う。

 でも今まではそうではなかった。過去は消えない。桜魔を憎んだ過去は。

 ――総ての桜魔を憎むあまり、桜魔であった朱莉の恋人を殺した過去は。

 自分はこの戦いが終わった後で、朱莉に殺されても仕方ないとすら思う。

「まぁ、私にとっても蚕や桃浪は大事な仲間です。桜人である私としても、桜魔の殲滅を目論まれるよりは、人に害を与えない最下層の桜魔などなら野放しにされている状況の方が都合がいいのです」

「朱莉様……」

「あなたはあなたでお好きになさったらいいわ。どうせこの対桜魔王戦が終わったら、私は“彼”を探してこの大陸を出ます」

「そう……でしたね」

「その後はあなた方がどうなろうと、私の知ったことではありません。……だから、あなたはあなたの望むように生きればいい」

「朱莉様、俺は、あなたに――」

「湿っぽいことは言いっこなしですわよ。まだ戦いが終わってもいないのに」

 朱莉は神刃を置いて踵を返す。神刃は口を開きかけ、結局は何も言えずにその背を見送った。

 そのまましばらくぼんやりしていると、背後から小さな声で呼ばれた。

「……神刃」

「蚕。もしかして、聞いてたのか?」

 子ども姿の桜魔が気遣うような表情で話しかけてきたことに驚き、神刃は思わず問い質す。

「途中からな。何やらお前と朱莉には因縁があるようだな」

「うん……」

 謝らねばならないことがある。

 でもきっと彼女はその謝罪を受け取らないだろう。

 赦されたいのは自分の勝手な望みだ。赦さないのは彼女の自由。

「神刃」

 過去を振り返り一人懊悩する神刃に、蚕は穏やかに、しかししっかりと言い聞かせる。

「私たちの手で桜魔王を倒そう。それが、この大陸総ての者を、過去の因縁から解き放つことになる」

「うん……。そうだね」

 蚕の温かい言葉を信じたいと神刃は思った。

 最初は桜魔の言葉など疑っていた。でも今はもう、それが蚕の言葉だからという理由だけで信じられる。

 後のことも色々考えねばならないだろうが、まずは桜魔王を倒すことに注力しなければ。

 ――けれど、もしも無事に桜魔王を、彼らの力で倒すことができたなら。

 その時、ようやく神刃の人生も始まるのかもしれない。


..056


 解き放とう、と彼は言った。

 過去はないのに、過去から総てを解き放とうと。


 ◆◆◆◆◆


 そしてついに、勇者は魔王を倒す決意をした。つまり、鵠が桜魔王との最終決戦のために戦う日取りを決めたということだ。

 人間である以上、常に万全の状態とは言えない。体調を整え天候を考慮し、彼らは周囲の協力を得ながら慎重に出立の日を決定した。

「必ず、生きて帰ってきてくださいね。私からかけられる言葉はそれだけです」

「いいのか? 国王様。王として魔王に勝って来いと言うべきなんじゃないか?」

「本当はそうなのでしょう。でも私は、あなた方が生きていることの方が大事です。死んでも勝って来いなどとは言いません。負けてもなんとかして、生きて帰ってきてください」

「ありがたい言葉だが、俺たちは負けないさ」

「ええ……信じております」

 蒼司はいつもの格好ながら少しばかり緊張した面持ちで鵠にそう言葉をかける。この戦いの意味を、鵠たちと同じくらいに理解しているからだ。

 退魔師協会の面々も、自分たちが参加できない頂上決戦を行う勇者たちに、各々が各々らしい激励の言葉をかける。

「留守はあたしたちに任せておくんな」

「頼みます、蝶々」

「悔しいが、桜魔王に勝てるのはお前らだけだからな」

 蝶々や兵破からの激励を朱莉たちが受け取っている間、葦切が鵠の方へとやってきた。

「鵠殿」

「おう、なんだ」

「ついに行くのですね」

「ああ」

「いいのですか? 彼は、あなたの――」

「葦切」

 鵠の眼差しに言葉を封じられて、葦切は口を閉じる。

 鵠は懐の冊子に手を当てる。どうしてもこれだけはと肌身離さず持ち続けているものだ。

 鵠の母こと天望花鶏の手記。先日、葦切の手によって、二十年以上の時を経て鵠に渡されたものだ。

 そもそもこれがどういう状況で書かれ、どんな経緯を辿って天望家に死蔵されていたのかも鵠にはわからない。

 思い返してみれば、鵠は両親のことをほとんど知らなかった。けれどこの世には、鵠以上に自分の両親を知らない者がいる。

「俺が俺であることを選んだように、あいつも選んだのかもしれない。桜魔王であることを」

 鵠は桜魔王と、ほとんど話をしたことはない。お互い何度か顔を合わせてはいるが、その時は常に激しい戦闘か凄惨な結末が付き物だった。

 顔立ちは確かに自分と似ているかもしれない。けれど、親しみはまるで感じない。

 気づかなければ一生気づかないままであっただろう、あるかなしかのその縁。

「そうでなかった場合は」

「揺さぶりをかけてみる。一応。どっちにしろ戻れまい。それでも何か心を動かされる様子があるなら――少しは救われるかもしれない」

「それを勝算に加えているのだとしたら、あなたの実力は――」

「あぁん? ふざけたことを抜かすな。そんなものがなくても勝てると思う程度にこちらも鍛錬を積んでいる。負けっこねーよ」

「……なら、良いのですが」

 真実を確かめるために、鵠はこれからの戦いであることを行う。卑怯だと言われてもいい。ただ知りたくて、同時に一生知りたくなかった。

 だが、それによって真実が明らかになれば、救われるものがあるかもしれないのだ。

 すでに常世の住人となった者と、未だ現世で彷徨い続けている魂が。

「なんだよ、何かあるのか? 今更勇者の名が惜しくなったとか?」

「貴方こそふざけないでください。そんな訳ないでしょう。ただ……」

 葦切は珍しく眉を潜めて告げた。険しい顔ではなく、湧き上がる不安を抑えこむかのような表情だ。

「嫌な予感がするのです。この戦いは、きっと平穏には終わらない。そんな予感が」

「それこそ出がけになんて嫌なことを……」

 不吉な発言を茶化そうとした鵠だったが、葦切の表情はあくまでも真剣だった。とてもふざけている様子や、鵠をからかう顔ではない。

「用心は勿論する。だが俺たちは、この日のために準備してきたその成果をぶつけるだけだ」

「わかっております……御武運を」

 決意を込めた鵠の言葉に、葦切は丁寧に頭を下げる。

 そこここで別れの挨拶、そして激励が終わり、いよいよ鵠たちは出発した。


 ◆◆◆◆◆


 侵入者の気配に下位の桜魔たちがざわつき始め、朱の森は俄かに騒がしくなった。

「陛下! 退魔師たちの気配が近づいてきます」

「そうか」

 見張りをしていた祓の報告に、朔は腰を上げた。同じ部屋で待機していた早花と夬も、武器を手にとり立ち上がる。

「夢見、祓。先鋒はお前たちに任せた」

「御意!」

「はぁ~い」

 生真面目な少年と狂気の淵にいる女が揃って飛び出していく。

「陛下」

「最後だけはそれらしくしてやるか」

 朔はいつも適当な格好をしているが、一応それらしい衣装も持ってはいるのだ。如何にも桜魔王らしい装束を。

 埃避けを退けてそれに着替え、武器や防具もしっかりと身に着けていく。朔だけでなく、早花と夬も同様に身形を整えた。

 戦いに際し、これだけ気合いを入れたのも初めてかもしれない。

 そしてきっとこれが最後になる。

 朔たちが先行した二人の気配を追うと、朱の森の中ではなく、森に入る前の何もない平野にあった。

 夢見たちはどうやらそこを戦場と決めたようである。すでに各々自分の相手を見つけて戦闘に入ろうとしていた。

 祓は、前回苦戦させられた朱莉と再戦。夢見はいつも通り桃浪の相手だ。

 あとの三人が朔たちに気づいて向かってくる。

 桜魔側の三人も、彼らへと向かって行った。

「よぉ、来たぜ」

 覚悟ができたら来いという朔の台詞を覚えていたらしく、向こうも向こうで装備を整えたらしき鵠が言う。

 白銀髪の偉丈夫がそれらしい衣装を身に纏えば、ほら立派な「勇者様」の出来上がりと言う訳だ。

「へぇ、準備はできたってわけか。これで人間共も終わりだな」

「こっちの台詞だ。桜魔ヶ刻は――俺が終わらせてやる!」

 威勢の良さをそのまま叩き付けるように、鵠が吼える。だが朔も簡単にやられはしない。

 鵠が何年勇者として鍛錬を積んだかは知らないが、朔は生まれてこの方ずっと桜魔王として生きて来たのだ。それこそ桜魔ヶ刻が始まる前、緋閃王が戦火を広げる前からこの世界に存在していたのだ。

 大陸を自分たち人間のものだと思い、他の存在を虐げているのは人間の方だ。

 桜魔王らしく部下を率いたことなどなかった朔だが、だからこそ簡単に勇者に倒されてやるわけにはいかない。

 全ての血と死を踏みにじり、傲慢なまでに上に立つから桜魔王と呼ばれるのだ。

 最悪の結果でも、相討ちくらいには持っていく。

 否、もしくは――。

 朔は視線をちらりと、正面の鵠ではなく、彼の傍にいつもつき従う若い少年の方へとやった。

 勇者も知ればいいのだ。立ち上がれなくなるほどの絶望を。

 載陽の仇とは違うが、鵠にも仲間を喪う痛みを味わわせれば、師を殺されて嘆く憐れな祓の溜飲も下がることだろう。


 こうして、退魔師・天望鵠と桜魔王・朔の最終決戦が始まった。


..057


「お前と顔を合わせるのも、そろそろ終わりにしようか」

 朔が言えば、鵠はにやりと笑って返す。

「そうだな。野郎の顔なんて何度も何度も見たいもんじゃない。お前にはこの戦いで消えてもらう」

「これが文字通りの最終決戦だ。決めようぜ。どちらが終わり、どちらが始まるのかを……」

 幾度かの戦いで相手の癖を多少は掴んだが、今日はそれでも少し勝手が違う。

 桜魔王側は鵠を、退魔師側は朔を狙って攻撃を仕掛け、それを部下や仲間二人がそれぞれ躱したり防いだりするという構図だった。

 何かの拍子に距離が離れれば一対一になりそうだが、今のところはまだ鵠、神刃、蚕と朔、早花、夬の三対三となっている。

 退魔師側は少し離れた場所で戦う桃浪と夢見、朱莉と祓も含めて、誰かが目の前の敵を倒せばすぐさま他の相手と合流して数の優位を取るために動いている。

 桃浪たちの戦いは相手の能力の特殊性が高いために、迂闊に連携に組み込ませたくはない。それよりは桜魔王の側近のうち一人を落としてから一気に桜魔王に仕掛けるべきだと鵠は考えた。

 とはいえ、早花も夬も相当の使い手だ。簡単に崩すことはできない。

 ならば一時的に鵠が桜魔王ではなく他の相手を倒すために手助けし、二対一の構図に持ち込んで一気に勝負を決めてしまうか。

 それをするならば、狙うは早花と夬、どちらにするか。

 桜魔王と側近二人の関係は、鵠たちの目からは見えない。だが朔の傍に常にこの二人がつき従い、載陽たちが現れるまで他に部下らしき部下の姿が見えなかったことを考えれば、桜魔王にとって最も親しいのは早花と夬に間違いない。

 どちらを先に叩けば、桜魔王の動揺を誘えるだろうか。女性型である早花か、外見では成人男性というだけであの一行の中では一番強そうに見える夬か……否、外見など当てにはならない。

 思考を巡らせることができたのはそこまでだった。

 小さな爆発により、鵠と神刃、蚕の三人は分断されてしまう。

「何を考えているかなどお見通しですよ。二人がかりでまず私を倒してから、そのまま二対一の構図に持ち込んで陛下を狙うつもりでしょう」

「おや、ばれていたのか?」

 朱莉が使うのと似た呪符で爆発を引き起こした夬の前で、彼の相手として選ばれた蚕がぺろりと舌を出す。

 鵠と同じことを、蚕も以前から考えていた。大体この二人で練った作戦を、全員が実行できるよう頭に叩き込んでいたのだ。

 早花と夬のどちらを狙うかは、どちらが強いかが問題だったのが。

「勇者である鵠を除けば、お前が一番戦闘力が高い。糸の針や布の刃を使った攻撃も厄介だ。だが――」

 夬はちらりと、同じように分断から一対一の構図に持ち込んだ早花と神刃に目を走らせる。

「あの坊やでは、早花の剣技に勝てはしない。残念だったな。一人ずつ落とされて死んでいくのはお前たちだ」

「さぁ。それはどうかな?」

 ここ数週間の神刃の成長を知らない夬の神刃評に、蚕は不敵な笑みでもって返した。


 ◆◆◆◆◆


 神刃は早花と刀を合わせる。彼女とこうして斬り合うのももう何度目か。

 桃浪がまだ辻斬りとして彼らの敵であった頃から顔を合わせているのだから、なかなか長い付き合いだ。

 それも今日、この日で終わる。終わらせる。

 鍔迫り合いを凌ぎ、一度距離をとって得物を構えなおす。早花が思わずと言うように、ぽつりと呟いた。

「随分強くなったものだ。――こんな短期間で」

「……仲間に恵まれましたから」

「だが、私には敵わないぞ。桜魔王陛下の側近が一、早花だ。そう簡単に仕留められると思うなよ」

 ついに神刃を自分と同格の剣士と認めたか、早花が自ら名を名乗る。

 今までも周囲の桜魔や桃浪の情報から彼女の名を知ってはいた神刃だが、その行動には目を丸くして驚いた。

「退魔師、御剣神刃、またの名を朱櫻神刃。我が父の負の遺産たる貴様ら桜魔を、この大陸から殲滅する!」

 そして神刃も名乗る。

 封じられた忌まわしい名を。

 この情報を持ったまま早花に逃げられては、人間たちの間に悪い噂を流されるだけで神刃は通りもまともに歩けないような危機に陥る。

 だが、もういいのだ。ここで勝てなければどうせ次はない。全てを捨ててでも勝つために、あえて名乗りを上げる。

「朱櫻……なるほど、道理で桜魔王討伐に拘る訳だ」

 苗字一つで神刃の事情を理解して、早花は苦い笑みを浮かべる。

 彼女は桜魔。桜魔にも両親がいる者といない者がいるが、早花は後者だ。彼女は親を持たずそのまま個として発生した。自分一人だけで生きるのは、高位桜魔や退魔師が溢れるこの時代には随分苦労した。

 だからこそ、その境遇から拾い上げてくれた朔に感謝している。

 早花は朔に拾われた。自分を拾った朔が桜魔王だったからその側近となったのだ。桜魔王という存在そのものに拘りがあるわけではない。

 もしも朔が桜魔たちを統べる王の座を降りたいというのであれば、早花はいくらでも協力しただろう。彼女が仕えるのはあくまで朔であって、桜魔王なら誰でも良い訳ではないからだ。

 けれど朔はこれまで桜魔王として積極的に破壊行為に勤しむことを拒んでいたにも関わらず、最後は王として戦い散ることを決めた。

 だから早花も、朔の選んだ道に付き従う。

「来い、小僧。いや……神刃! 貴様の希望など、この早花がその刃ごと叩き折ってやる」

「負けない。俺は鵠さんと一緒に、この大陸に平和を取り戻すんだ。神の刃の名に懸けて――」

 お互いの信じるものをかけて、その意地と意地がぶつかりあう戦いが始まった。


 ◆◆◆◆◆


 祓は苦々しい思いのまま対戦に突入した。

 彼の前にいるのは、先日も戦った少女である。見た目の年齢は彼と然程変わらないと言うのに、どこか食えない印象を与える美しい娘。

 朱莉は魅了者という大変貴重な能力を持っている。彼女が配下の桜魔を操ることで繰り出す技は、それこそ無限の手札だった。

 魅了者は己より弱い桜魔しか配下にできない。だが下位桜魔は高位桜魔のように高い妖力はない分特殊な技を持っている者が多く、その手札を退魔師としての朱莉が活かすことで、恐ろしい程の引き出しを持つ優れた戦士となっていた。

 祓は小刀を使う中距離での戦いを得意としていたが、それは朱莉にとっても望むところだった。彼女の霊符と配下の桜魔たちの能力が組み合わさることで、一度の攻撃で無数の効果を付与することができる。

 では華奢な少女相手と侮って接近戦に持ち込もうとすれば、朱莉の配下の中では最強の剣士・紅雅が斬りかかってくる。

 紅雅は中位桜魔だが、かつて人斬りを繰り返していたという経歴を持つだけあって、その剣の腕は達人級である。

 恐らく早花なら、夬なら、夢見なら簡単に捌ける相手。だが祓には、紅雅の剣と真正面からやりあえるだけの実力はなかった。

 そのぐらいなら、読み合いの勝負になるが朱莉と中距離戦を続ける方がまだマシだ。

「くっ……」

「惜しかったですわ」

 朱莉の仕掛けた霊符の罠を躱しきれず、祓は頬に一筋の傷を作る。

 己の攻撃を外された朱莉だが、さして悔しそうな様子でもない。それがまた余裕綽々に見えて祓の苛立ちを煽る。

 目の前の敵を倒せればすぐに有利に持ち込めるのに。

 載陽を殺された復讐心で戦う祓は、その感情が冷静さを奪うと知っていながらも、しっかりと自制出来るほどには成熟していないのだった。


..058


「正直な所、私はお師様をあなたに殺されたことに関してはあまり気にしていないのですよ。嘆き悲しんでいる祓には悪いのですが」

「ふむ」

 蚕と夬は真剣に戦いながらも、どこか呑気な様子で会話をしていた。

 口振りは呑気だが、会話の内容はこの状況と同じくらい殺伐としている。

「私はお師様と気が合いませんでしたからね。何年も前に一人立ちしてそれっきりです。陛下のお傍にいなければ二度と会うこともなかったでしょう」

「そうか」

 載陽の方も夬に旧知の弟子故の気安さはあったが、それ程の親しみがあった訳ではないのだろう。

 師の命を奪った布刃の攻撃を、夬は飄々と躱した。続く糸の針も、呪符でくるむようにして受け止め無効化する。

 師の死によって、夬はこの手強い敵の手札をいくつか理解して戦えるようになった。それだけは感謝して良いかもしれない。

「夢見はともかく祓の方は随分懐いていたようですが、正直意外ですよ。あの男にそれほど誰かから心酔される要素があっただなんて」

「むしろお前がそんなだから、弟子への接し方を改めたのではないか? その成果が今の祓少年の態度なのでは?」

 蚕が適当に思い付いたことを口にすると、夬は一瞬面食らったように呆けた顔を見せた。

「……なるほど。一理ありますね」

 一体こんな緊迫した戦闘中に何故こんな話をしているのか。しかし蚕も夬も口を止める素振りはない。

 そして同時に、相手に対し手加減や遠慮をする素振りも見せない。確実に殺すための動きを積み重ねている。

「あなたは何故お師様のことを知っていたのです? お師様はあなたのことを知らないようでしたのに」

「……さぁ、私にもよくわからん」

「その間はなんです?」

 攻撃を捌くのに集中しながら、会話にも集中するという器用な夬は、蚕の発言の一瞬の間を読み取って問いかけてきた。

 お互い相手に精神的な攻撃を仕掛けているつもりなのかこれが素なのか。――恐らく後者だろう。

「正確には、つまりそういうことなのだろうという私の記憶構造が先日ついに判明した。これまではわからなかった。でも今は思い当たる節がある」

「へぇ……」

「だがこれは確かに私という存在に内包された情報の一つであると同時に、私個人の記憶とは言い難い。知識の整理にまだ不具合があるのだ」

「なんか複雑そうですね」

 何故載陽が知らない蚕と言う相手が、載陽のことを詳しく知っていたのか尋ねただけだったのに、こんな答を返されるとは夬自身も思ってはいなかった。

「嘘を吐こうと思った訳ではない。気を悪くするな」

「別に嘘だろうが作り話だろうが本当はどうでもいいんですけどね。死ねば全て同じですし」

 そもそも夬が気を悪くしようとどうだろうと、蚕には関係ないのではないだろうか。

 書物に残したわけでもあるまいし、素晴らしい記憶情報など、死んでしまえば何もならない。

 蚕と夬の真面目に不真面目な殺伐としたやりとりは続く。

 夬は片手に剣を持ち、もう片方の手に呪符を何枚も仕込んでいた。近づけば剣で斬り、離れれば呪符で追い打ちをかける隙のない戦闘型だ。呪符は便利なもので、攻撃もできれば防御も兼ねる。

「お師様のことはどうでもいいんですが――」

 最初からこれが言いたかったのだろう、夬がもったいぶって口を開く。

「桜魔王陛下は殺させません。あなたにも、あの男にも」

「鵠は強いぞ、私もな」

 そして二人はまたそれぞれの攻撃を用意するとともに、それを最も効果的にぶつける隙を探すのだった。


 ◆◆◆◆◆


 鵠と朔の戦いは続いていた。

 両者ともこれで最後だという思いで、ひたすら拳を交えている。

 距離をとって小細工してもどうせ技の重ね合いになるのならば、一撃必殺を狙って懐に潜り込む方がまだ早い。

 他の退魔師が見たらこれを退魔師と桜魔の戦いだとは思わないだろう。そのぐらいただ単純に、素手で殴りあっている。

 鵠の足払いを朔が躱し、振り下ろされた拳を鵠が横に飛んで避けた。

 そこで二人は一旦距離をとって息を整える。

 力は互角だ。悔しい程に。

 鵠もこれまで鍛錬を重ねてきた。桜魔王に勝てる見込みがあったからこそ今回戦いに赴いたわけだが、それでも足りないと言うのか。

 ならば、卑怯だと言われても奥の手を使わせてもらうまで。

「さすがの強さだな」

「伊達に桜魔王と呼ばれてはいない」

「いや、そうじゃない」

 桜魔王がこちらの発言を十分聞きとめられるよう、鵠はもったいぶってそう告げる。


「さすがは俺の“兄”だと言っている」


 桜魔王の――朔の動きがぴたりと止まった。

「……どういう意味だ」

「どうもこうもない。言葉通りだ」

 鵠は葦切から渡された、母・花鶏の手記を懐から取り出し、朔へと投げ付ける。

「先代の桜魔王は、二十八年前に退魔師の名家、天望家から一人の娘を攫った。当時退魔師として最も有望とされていた後継ぎ娘だ」

 攫うとは言うが、何も無抵抗にお姫様のように攫われた訳ではない。花鶏は当時から天望家の退魔師として戦っていた。段々と戦乱が激化し始めた世界で増えた桜魔被害に対応するため、依頼を受けて出向いた先で襲われたのだろう。

 先代の桜魔王と彼女の間に何があったのかは、鵠も知らない。知りたくもない。

 だが、彼女がその男との間に一人の子を遺したことは、その手記から知ることができた。

 名前は朔。否――。

「お前は自分の名を“朔”だと思っているのだろう?」

「何……まさか、違うとでも――」

「そうだ。お前の本当の名は“朔”じゃない」

 鵠が目にした花鶏の手記からは、最後まで我が子に名前を教えられぬ嘆きが伝わってきた。

 取り乱して震える筆跡に、断片的で理性的とは程遠い言葉たち。けれどそれ故に、本当はどれだけその言葉を彼女が「もう一人の息子」に伝えたかったが伝わってくる。

 結局彼女は兄・交喙に先代桜魔王の下から救出されるまで、その子に自分の名を教えてはやれなかった。響きの似た愛称で呼び続け、最後まで一度も呼ばなかった。

 その名は。


「“桜”」


 朔……“さく”ではなく。

 “さくら”。この忌まわしい桜魔ヶ刻の中で、それでも同族たちを統べる王として生まれた子の名前。

 彼の全てを象徴する真の名。

「お前の名は桜だ。桜魔王、いや――兄さん」

 鵠は一瞬、本当に一瞬だけ、その瞳に憐れみの色を浮かべた。

 だから朔にもわかってしまった。これは嘘でも作り話でもない。本当のことだと。

 何度も繰り返し見た夢の中で、顔の見えない女性の面影が僅かに鵠と重なる。

 朔の夢の中に出てきた女性も鵠も、そして朔自身も、遠く見える嶺に積もる雪のような白銀の髪の輝きは同じだった。

「あ、ああ。うぁああああああ!」

 耐え切れず叫びながら、朔がその場に崩れ落ちる。

「陛下?!」

「朔様!」

 突然の主の変貌に、側近である早花と夬も思わず朔の様子を気にかけて目の前の敵から目を離した。否、二人とも敵を振り切り、すぐさま桜魔王の下へ駆けつけようとしている。

「行かせるか!」

 神刃と蚕はその動きを、鵠の意志を読み取って足止めに徹することにした。

 蚕はある程度夬の邪魔をすることに成功している。だがやはり、このような特殊な状況下では神刃よりも実力が上の早花の方が行動が早い。

 飛び出していく早花の視線の先では、最悪に繋がる光景が今にも実現しようとしている。

「悪いな、桜魔王」

 鵠は最後の一撃を放とうと、その手にありったけの霊力を込めている。

「これで終わりだ!」


..059


「させるか!」

 トドメの一撃を入れようとした鵠の前に、早花が飛び込んでくる。

「!」

 ぎりぎりにも程がある、朔に攻撃が届く直前だ。この時点では鵠が攻撃を逸らすのも間に合わず、桜魔王の消滅を狙った渾身の一撃は、二人の男の間に割って入った早花の身体を貫いた。

「がっ……!」

 肉を骨を砕く音と共に、流れ出た血がその瞬間から桜の花弁へと変わっていく。

「早花……!」

 その光景に取り乱していた桜魔王こと、朔の意識もようやく我に帰った。

「貴様、よくも!」

 瞬間的に爆発させた妖力で、最大の一撃を放った直後の隙があった鵠はその場から吹き飛ばされてしまう。

「くっ……!」

「早花! しっかりしろ早花!」

 宙に投げ出されようとしていた早花の体を朔が両腕で抱き留める。何度もその名を口にして呼びかけるが、応答はない。

 だが、まだ早花は死んではいなかった。そのまま手当てをせずに放置しておけば命を喪う重傷であることに変わりはないが、この場ですぐに彼女が絶命するような状態ではないこともわかった。

 桜魔の肉体は、人間よりも頑丈にできている。人に近い姿の高位桜魔は急所も人間と大体同じ場所にあるが、鵠は最初から早花を狙ったわけではない。

 滑り込んだその時に鵠の攻撃は早花の胸の下辺りを貫いたことが手ごたえでわかった。心臓を潰したわけではない。

 蒼い顔をした朔が妖力を集中し、少しでも傷を塞ぐための処置に入る。

「鵠さん!」

 だが、こちらもそれを黙って見ている訳ではなかった。

 吹き飛ばされた鵠の代わりに、元は早花を追っていたはずの神刃が朔へと迫る。その手に剣を握り、追撃を仕掛けるつもりだ。

「よせ! 神刃!」

 だが鵠は、遠くから制止の声をかけた。

 一見今の桜魔王は傷ついた早花を抱えて隙だらけに見える。だがそうではない。配下を傷つけられた怒りを抱えながらも恐ろしい程に冷静で、普段は無意識に制御をかけている分の強大な破壊の力まで解放している状態だ。

「うるさい」

 ぎらりと、獲物を狙う獣のように爛々とその瞳を滾らせた朔が向かってくる神刃を睨む。

 鵠の制止の声が聞こえていても、もうこの距離では神刃は反撃を躱せまい。

 鵠は体勢を立て直して駆けるが間に合わない。

 朔がすっと手を伸ばす。永遠にも思えるその時間は、実際にはまばたきをする暇もない瞬間的な出来事だった。

 これでは先程の逆転だ。鵠の朔への攻撃が、今度は朔から神刃への致死の一撃へと状況を変えて。

「神刃!」

 そして、状況は本当に逆転したのだ。

「……蚕?!」

 先程早花がそうしたように、今度は蚕が、神刃を庇うために朔の攻撃の前に身を晒したのだった。


 ◆◆◆◆◆


 再び時間が凍りつく。その中で散る紅い紅い花の色ばかりが鮮やかに。

「蚕! 神刃!」

 鵠はまず少しでも二人への追撃を逸らすために、朔へと仕掛けた。

 鵠自身も先程の攻撃で多少の手傷を負ってはいるが、瀕死の早花を抱える朔の方が当然動きが鈍い。

 だがそこに、今度は蚕の相手を免れた夬の攻撃も加えられた。

 夬の方は朔を狙わせないよう、全力で鵠に仕掛けてくる。呪符による様々な攻撃手段を持っている夬のやり方は、目晦ましには最適だ。

 他の戦場でも動揺が広がっていた。朱莉と祓は双方が手傷を負った仲間を心配して戦闘への集中力を欠いた状態だ。だが彼らの場合は相手も同時に油断しているのだからまだいい。

 夢見を相手にした桃浪の動きが僅かに鈍る。しかし夢見の方は、桜魔王が窮地に陥ろうが、側近の早花がそれを庇って重傷を負おうが、まったく動じた様子を見せずに攻撃を仕掛けているのだ。

「あーもう、畜生! あっちがどうなってるか知りてーってのに!」

「だったらぁ、あたしを倒していけばぁ、桃浪ぉ」

「そうしてやる、ぜ!」

 桃浪はひとまず戦いに集中することにした。ここで夢見を自由にしてしまえば、もっと酷い状況になる。できれば勝ちたいが、それが無理なら今は足止めだけでも確実にこなさねばならない。

 だが、不安と焦りが広がる中、その混乱は、更なる混乱によって覆されることとなった。

 鵠と夬が拮抗した勝負を続ける戦場を抜けて、何かが放たれたからだ。

 一筋の光が――光を反射する糸の針が、朔の胸に刺さる。

「がはっ!」

「桜魔王様!」

「呼んだか?」

 それは、この場にいたはずの誰でもない声だった。


 ◆◆◆◆◆


 ――数瞬前。

「蚕! 蚕! しっかりして、蚕!」

 神刃を庇った蚕は、深い傷を負っていた。

 傷の大きさ自体は先程の早花と似たようなものだ。だが、元となる体がまるで違う。

 成人女性の体格を持つ早花と違い、蚕は神刃でさえ軽く抱えられるような小さな子どもなのだ。その分、傷も大きい。

「死なないで!」

 神刃は祈る。火陵を喪って以来、初めて心からそう祈った。

 底の見えない桜魔。でも神刃のことも鵠のこともいつも気にかけてくれていた。小さな子どもの外見に、老成した大人のような中身。

 蚕。

 いつの間にか、もう仲間以外の何者としても見れなくなっていた。この戦いが終わった後の別れを想像するだけで辛かったのに、喪うことなんて考えられない。

「蚕! 死なないで! 蚕!」

 けれど祈りは――届かない。

「え?」

 周囲からざっと桜の花弁交じりの風が吹いて来て、蚕の身体の中に吸い込まれていく。

「一体、何が……?!」

 その風を吸いこみそうになった神刃は慌てて手で口を塞いだ。これは……瘴気?

「蚕!」

 風が子どもの体を包み、無数の花弁で覆い隠す。その塊が、目の前で動き出した。

「ふん……」

「さ、蚕……?」

 それは――その姿は、すでに見慣れた白金髪の子どものものではなかった。

「やれやれ。予想外に早かったな」

 低くなった声。高くなった背、神刃よりも。

 小さな蚕の面影を残しながらも、それは十にも満たない子どもではなく、二十歳を過ぎた青年の姿だ。

「な、なんで……」

 神刃の驚きを意に介さないまま、青年はふいに手を挙げると、妖力を通した糸の針をある方向に向けて放つ。

「がはっ……!」

 その攻撃は、早花を抱えた朔の胸を、一撃で貫いていた。

..060


「桜魔王様!

「呼んだか?」

 くすくすと青年の笑い声が響く。この状況を、彼以外の誰も理解できなかった。

「な……何? なんで?」

「一体何が起こっていますの……?!」

 早花を抱えていた朔が、血を吐いて倒れる。一同の視線は彼らよりも、それを成した人物の方へと集中した。

 祓が愕然とした声を上げ、朱莉も動揺に眼差しを険しくする。

「なんだ……?」

「あれー」

 桃浪も思わず手を止め、先程まで一切精神的に揺らがなかった夢見までもが、追撃を忘れてこの状況を不思議がっている。

 鵠と神刃は、そして夬は、ただただ呆然とその光景を見ていた。

「蚕……?」

「蚕、なの?」

 彼らにとって、蚕は白に近い金髪に金色の瞳の、十にも満たない幼い少年姿の桜魔だった。

 だが、今そこにいる「男」は違う。

 短い手足がすらりと伸びて、二十歳前後の青年の姿にまで一気に成長した。髪や目の色は変わらないのに、その面差しは急激に大人びてしまった。

 鵠や神刃の名を呼んでいた、あの高く澄んだ声も低くなって、すっかり男の声になっている。

 纏う衣装は絢爛豪華、朔が桜魔王として彼らの前に現れた時と同じような、王であり戦士でもある者の格好だった。

 なんだ。これは。

 脳が目の前の現象の理解を拒否している。

 これは、この事態は、まるで――。

「貴様!」

 混乱する退魔師一行を置き去りに、蚕に攻撃を仕掛けたのは祓だった。

 真なる主君は師であった載陽。そして現在の主はその仇討ちを認めてくれた桜魔王・朔。

 蚕がどのような変化を遂げようと、祓にとっては載陽を殺し朔までも手にかけた敵であることに変わりはない。

 しかしその行動は軽率に過ぎた。祓の攻撃は呆気なく蚕に似た男に防がれ、逆に近づきすぎたその腕を捕らえられてしまう。

「祓!」

「ぐっ……」

 周囲が呆然と立ち尽くす中、男は祓に何か術をかけたらしく、次の瞬間その体がぐったりと弛緩する。

「お前は……いや、あなたは……」

 祓を取り返しに動きたい夬だったが、男の圧倒的な存在感にすでに押され気味だ。桜魔である彼には人間の鵠たち以上に、目の前の存在が力を持つことがわかっている。

「蚕……?」

 神刃が呆然と、その名を呼んだ。

 彼は確かに蚕のはずなのに、先程桜魔王の攻撃から神刃を庇って傷を負った存在と同じはずなのに、どうもそうは思えない。

 小さな子どもの体が大人のものへ変化すると同時に、まるで蚕自身の性格や魂まで変わってしまったようで。その肉体の変化を間近で見ていたにも関わらず、信じられない。

 あれほどの大怪我だったのに、今や影も形もないなんて。

「“蚕”ではない」

 そして、男は答える。神刃を、鵠を、その他の者たちを目の前にして。


「“蚕月”。我が名は、桜魔王・蚕月さんげつだ」


 ◆◆◆◆◆


「どういう意味だ」

 次第に冷静さを取り戻していった鵠が尋ねる。

「言葉通りだ。私は、朔の『次』の桜魔王。自らが桜魔王となるために、桜魔王を殺すために生まれた存在」

「!」

 桜魔として本来抱えているはずの、核となる死者の妄執の記憶がないと言っていた蚕。

 自分でもわからないが、生まれた時から“桜魔王を倒す”という目的だけが存在していたと。

 それが、こんな意味だなんて――。

「お前は俺たちの知る“蚕”なのか」

「お前たちと過ごした記憶はあるぞ。ありがとう、鵠。お前のおかげで、私は桜魔王・朔を倒すという目的を果たすことができた」

 にっこりと笑う顔には小さな子どもだった時の面影がきちんとあるのに、その笑顔の意味は今までの彼とは違う。

 蚕として、彼らの仲間として生きてきたあの子どもの意識はもはや完全に失われてしまったのだろうか。

 あの人格はこの覚醒を促し、目的を遂げるための手段として用意されたものに過ぎなかったのだろうか。

「桜魔王に……」

 いまだ幽鬼のように蒼い顔をしたままの神刃が問いかける。

「桜魔王になって、どうするつもりなの?」

「もちろん。桜魔王らしいことをするつもりだ。でなければ、こうして王になった意味がない」

 蚕――否、桜魔王・蚕月は立ち尽くす夬と状況を見守っている夢見へと声をかける。その腕には、先程気絶させた祓を抱きこんだまま。

「夬、夢見。お前たちも一緒に来い」

「あらぁん」

「朔に代わって、私が次の桜魔王になってやる。私の目的は朔と大して変わらない。お前たちはそのまま、私に仕えればいい」

「何を、ふざけたことを……!」

 夬が歯噛みする。

「おや、逆らうのか? お前も」

 蚕月は指を伸ばす。だがそれは逆らう意志を口にした夬の方にではない。

「う、ぐ……」

「祓!」

 いまだ意識の戻らない祓の首に、そっと指を当てる。仕草としてはそう見えるが、実際にはあれは頸動脈を圧迫しているのだ。

「待て! わかった! 従う!」

 高位桜魔は人間と近い姿をしているが故に、急所もまた人間と同じ。首を絞め続ければ死んでしまうし、今の祓には意識もないのだ。

「……従います。新たなる、王陛下よ」

「それでいい」

 夬が蚕月に歩み寄るのを、鵠たちはただ見守るしかできなかった。

「うふふふふふ。じゃあ、あたしも行こーっと」

 夢見の方は仕える王が誰であるのかなどどうでもいいらしく、気にした素振りも見せずに蚕月に駆け寄っていく。

「鵠さん……」

「……」

 神刃に呼びかけられるが、鵠は何も言えなかった。この状況に混乱しているのは神刃も鵠も同じである。

 目の前の相手は敵か? 敵にしか見えないし思えない。

 けれど、あれは同時に蚕でもあるのだ。神刃を命懸けで庇った、蚕であったのだ。

「……蚕月、お前は桜魔王として、人間に危害を加える気か?」

「知れた事よ。人間と桜魔はこれまでにも大陸の覇権を巡って争ってきた。私が王に代わっても、その戦いは終わらない」

「そうか」

 問いに込めた一縷の望みは、蚕月の返答にあっさりと引き裂かれる。

 鵠たちと過ごした記憶は残っているとは言うものの、あれはもはや彼らの知る蚕ではない。

「どうしても止めたいと言うのなら」

 新たなる桜魔王は、朔にはなかった自信に裏打ちされた威厳と態度で鵠に告げる。


「お前が再び勇者として立てばいい、天望鵠。殺しに来い、私を」


 桜魔王朔がいなくなった今、敵は桜魔王蚕月であると。

 戦う相手が別人であろうと、それが人間に危害を加える桜魔王という存在であるならば敵には変わりない。

「とはいえ、今回はこちらの陣営ももうがたがただ。決着はまた後日としよう」

「……そうだな。俺たちよりもそっちの連中の方が余程蒼い顔をしていることだしな」

 意識を失った祓と蒼白な顔の夬を示して言うが、それを指摘する鵠自身の顔にも精神的な疲労の色が濃い。

「ふふふ。だが次には、その憂いも払拭されている」

 蚕月には夬や祓の忠誠を完全なものにする手立てがあるのか、意味深な笑みを浮かべた。

「さようなら、勇者様。次に会う時が我々の本当の最終決戦。お互いの肩に大陸の命運を背負って、劇的な決着をつけようじゃないか」



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