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桜魔ヶ刻  作者: きちょう
第1章 天を望む鳥は夜明けに飛び立つ
1/12

1.花発いて風雨多し

..001


 夕暮れの時間を、黄昏という。

 すれ違う相手の顔もわからぬ「誰そ彼」が変化したもので、これに対し明け方は「彼は誰」時と呼ぶ。その一方、夕暮れはこうも呼ばれることがある。

 逢魔が時。

 赤い太陽が西の空に沈みかかり世界は足元から暗い闇が忍び寄ってくる。そこに住まう物の怪たちの本領が発揮される時間。影の中にある顔の見えない隣人はすでに見知った相手ではなく、闇の夜が近づくにつれていよいよ人の世に繰り出してきたあやかしの類やもしれぬと、誰もが皆、心をざわめかせる時間だ。

 しかし現在、この緋色の大陸において薄闇の帳降りる黄昏時は、こう呼ばれる。


 桜魔が刻、と。


 ◆◆◆◆◆


 血に濡れて緋色に染まった大地に夜がゆっくりと降りてくる。

「た、頼む。許してくれ」

 男は呻き、哀願した。一つしかない目からはぼろぼろととめどなく涙が溢れている。周囲の桜の樹から花びらが散って、泥と血に汚れた頬や額に貼りついた。

 目が一つしかないというのは、隻眼だという意味ではない。正真正銘一つ目なのだ。涙を流す男は、桜の樹の魔力と地上の瘴気が結びついて生まれるとされる妖、桜魔おうまだった。

 それを冷徹な眼差しで一瞥し、すぐに興味を失くしたように視線をそらして自らの足元の物体に向けた青年は人間だ。年齢は二十代の半ばで、服の上からでもわかる隙なく鍛え上げられた体つき。

 宵闇に染まりかける世界の中で、その白銀の髪だけが儚く輝くさまはまるで彼自身が幽鬼めいて見える。青年は夜の闇にも似た紫がかった藍色の瞳を足元のそれに向けると、握っていた剣の柄にぐい、と僅かな力をかけた。

「ッ、ァアアアアアア!!」

 度重なる暴力に掠れた声が、また耳障りな悲鳴を上げる。青年は頬を歪めた。また力を込めて、小さな指を斬りおとす。

「ギャアアア!!」

 泣き叫ぶのは小さな少女だ。まだ十になったかどうかもわからない。しかしそれはあくまでも外見上のことで、少女の実年齢など青年の知ったことではなかった。

 少女の頭部には、二本の小さな角が生えている。

 彼女もまた、桜魔なのだ。

 一つ目の男と違ってこちらにはきちんと二つの目がある。顔だけ見れば少女姿の桜魔は人間の子どもそのものだ。しかしもつれた黒髪に見え隠れする角が確かな異形の証を訴え、青年はそれ故に、彼女に加える暴虐の手を緩めはしない。

 少女桜魔の手の指は、すでに四本が斬りおとされている。

 一つ目の男と角を持つ少女は、この桜並木で通りがかる人間に親子の振りをして近づいては襲っていた桜魔だった。青年はその退治を依頼され、無力な旅人の振りをしてあえて彼らに近づいた。

 いつものように獲物にありつけるとほくそ笑んで青年に近づいた桜魔たちは、しかし次の瞬間まず一つ目の男が腹部を斬り裂かれ、次に少女が長剣で地面へと縫いとめられていた。わけもわからないままに勝敗がつき、それ以来彼らはずっと、この青年に嬲られ続けている。

 ずっととはいうものの、それは彼らの主観であって太陽の傾きで換算すればそう長い時間ではない。いくら人間に比べ生命力の強さが尋常でない桜魔と言えど、人であれば致命傷と言える深手を負って、そう長く生き延びられるはずもないのだから。

「何故だ。何故一息に殺してくれない!」

「お前たちはどうだったんだ? 助けてくれと泣き叫んだ人々の命乞いに耳を貸したか? 化け物共」

 一つ目の男は言葉を失った。

 人と同じ数、十本の指が全て手から斬りおとされた少女の命が潰えていく。それを見て、次は自分の番だと恐怖する。

 青年の言葉の通り、男たちも獲物である人間の命乞いにも、早く殺してくれという哀願にも耳を貸さなかった。気の済むまで甚振って弄んでから殺した。だが同じことを自分がされると知った時、桜魔は初めて恐怖というものを知った。

「頼……ガッ!」

 しかしその恐怖は杞憂に終わる。少女のように自分も手の指を一本一本切り離されて苦痛に呻きながら死ぬのかと怯える桜魔の頭部を、放たれた矢が射抜き一瞬で絶命させたからだ。

 桜魔の命が潰えると同時に、逢魔が時が終わる。太陽は西の空に沈み切り、完全なる夜が周囲に訪れた。

 青年は矢の放たれた方向を見遣る。

 そこには、予想違わず一人の少年が立っていた。

「酷いことをするのですね」

 青年とは対照的に夜の闇に埋もれてしまいそうな濃い紫色の髪をした少年が、弓を手にしてこちらに歩み寄ってくる。成長しきらない体つきは青年に比べずともまだ華奢なところが多く、どこか儚げな面差しは少女めいて見える。

 しかし少年の顔つきは戦いの空気に研ぎ澄まされており、身に着けた衣装は、退魔師独特のそれだった。印を結ぶのに必要な上半身の動きを妨げず、足元も庶民のような下駄や草履ではなくしっかりと脚部を固定するものを使用している。この広い東の大陸でも、そんな格好をするのは退魔師くらいのものだろう。

「人とよく似た生き物の命を奪うことに対し、あなたは何の感情も湧かないというのですか」

 少年は水のように静かな表情で青年にそれを問うた。だが返す青年の言葉は、皮肉と棘に満ちている。

「命を奪うだけなら、お前だってそうだろう。お偉い退魔師の神刃しんは様。人々から英雄と崇められるまでに、どれだけの桜魔の命を奪ってきたんだ?」

くぐいさん」

 少年は眉根を寄せて青年の名を呼んだ。

 彼の名は天望鵠あもうくぐい。少年の名は御剣みつるぎ神刃。二人は初対面ではない。このところ神刃というこの少年が、とある目的のために鵠につきまとっているのである。四六時中後をつけまわしているわけではないが、時折ふらりと現れては、鵠と話をして去っていく。

 何度も顔を合わせるのは、鵠が決して少年の頼みに頷かないからでもあった。

「人と似た生き物だからこそ、殺された人間側の憎悪だって相当なものだろうよ。これが完全に人外の化け物だったら天災みたいなもんだと諦められる。だが奴らは中途半端に人に似ていて、人の考えを理解し、そして人に牙を剥く。だから殺すんだ。俺は自分が受けた依頼通りやっただけだぜ」

 少女桜魔の指を切り離したのは、彼女の力の核がそこにあったからだが、そんなことまで御親切に説明してやる気はない。それがこの少年にどう思われたとしても。

 後ろめたさの一つも感じさせず自分の言いたいことを一息に言ってしまえば、鵠としてはもう話はない。だが神刃の話はまだこれからだ。本題に入る前にくるりと踵を返した鵠の背に、少年はいつもと同じ言葉を投げた。

「俺と一緒に、桜魔王を倒してください!」

 鵠はそれにやはり頷くことなく、いつも通りにたくましい背だけを少年に見せて去っていく。

 後には先程の桜魔たちの亡骸である桜の花びらだけが、風に乗って吹雪のように鮮やかに舞っていた。


 ◆◆◆◆◆


 桜の樹の魔力と、地上に溢れる瘴気、そして人間の憎悪や邪悪な思念。そのようなものが結びついて凝り、地中から生まれた妖魔、その名を桜魔という。

 彼らの存在が確認されたのは数十年前。彼らは桜の樹の季節に現れ、人間を襲い、桜が散ると同時に何処ともなく消えていく。

 ――と、されていた。

 しかし現在、桜魔の被害は年々広がり、桜魔王と呼ばれる存在が出現したことから、ついに人類は存亡の危機に瀕することとなった。この大陸に出現した当初はさほど力を持たぬ春の妖の一種に過ぎなかった桜魔は今、爆発的に増え続けて人類を滅ぼそうとしている。

 桜魔の勢力がまだそれほどではなかった頃、緋色の大陸では大きな戦乱があった。それまで中程度の国力だったはずの一つの国が当時の国王の強引な政策により周辺国家を次々に侵略併合したことにより、多くの血が流れ、怨嗟の念が地上に溢れた。

 そのためにこの大陸に、桜魔が溢れたのだと言われている。

 元来美しい花や宝石には魔が憑きやすいとされる。かつてはただ美しいだけの春の風物詩であった桜の花は、しかし桜魔という存在と結びつくことにより変質した。

 桜魔が桜の樹の微力な魔力を核として生まれるように両者には相関関係があるのか、桜魔の勢力が増すたびに桜の季節は長くなり、今では緋色の大陸では、一年中桜の咲かぬ日はない。

 あるいは桜魔にとって桜の花が力の源になるのか、桜魔が桜を増やしているのだとも言われている。桜の樹と桜魔に本当に相関関係があるのであれば大陸中の桜の樹を全て斬り倒せばその被害がなくなるのではないかと考えた者もいたが、実行に移す前に桜魔に殺されたという。

 生身の戦いでは桜魔に対し勝ち目がないように思えた人類だが、一部にはその力に対抗できる存在がいた。

 桜魔を倒す力を持つ者を、退魔師と呼ぶ。

 人間の中に稀に生まれる退魔師は、絶対数が少なく、その持てる力にも各々個性や差異があって、一律的に軍隊などに編成できるものではない。そのため協会を作り登録することによって、各国政府は退魔師同士のやりとりができるようにした。

 しかし桜魔の数が増えすぎた現在ではその機構もほぼ意味をなさず、退魔師の能力を持つ持たないに関わらず、人々は独自に桜魔と戦うしかなくなっていた。完全に個人であることは少なく、若者などが徒党を組んで集団で自警団のような活動をする場所が多い。

 その一因に、二十数年前に世界に現れた桜魔王という存在が深く関わる。これまで統率する者もなく好き勝手に暴れていた桜魔たちは彼らを束ねる存在を得たことにより、ますますその勢力を拡大し、人類を滅ぼさんとまでしている。燃える夏も豊穣の秋も眠りの冬も来ない永遠の狂乱の春に、大陸は覆われてしまっている。


 失われた平穏な時代を取り戻すため、人類は桜魔王を倒す存在の登場を希求していた。


..002


 今では不吉と忌まわしさの代名詞である桜の花。しかし五十年ほど前を遡れば、人々はこの花を愛でながら酒宴を開くという習慣を持っていた。

 もともと春のひとときにのみ花開き空を満開の薄紅に染めて儚く散りゆくものであった桜の花。淡い紅の花弁がまるで小さな蝶がひらりと舞うように散りゆく様は、確かに人の心に訴えかける美しさを持っている。

 その日、鵠が休息を取った山の上の茶屋の目の前に、一本の見事な桜が咲いていた。街に行けば川沿いにいつでも満開の桜が咲いているが、この山桜の美しさはまた格別だった。

「昔は旅の者や用事でこの山に登った街人の誰もが、この桜を褒めたものですよ。だけど今は誰もそんなこと言いやしない」

 注文のわらび餅を運んできた茶屋の主人は、鵠の視線の先を追ってそう言った。

「この店は桜魔の被害はないのか?」

「街に行けば人並にその影を目にすることもありますが、この山桜は桜魔なんぞが生まれるよりずっと前からここにあるものです。今更ですよ」

「そうか」

 鵠もまた目の前の桜の美しさに小さな感銘は受けたが、次の瞬間ここには桜魔の害はないのかと考えてしまった者の一人だ。主人の愛でる桜を美しいと思っても、それを口にすることはしない。できない。

 かつて儚く散りゆくものであるはずだった桜の樹はいまや妖美を湛えて人々を誘う呪木となり、桜魔はあらゆる人々を傷つけすぎた。美しすぎるあまりに妖力を得たその花を、今では誰も誉めそやすことはない。

 そして、正式な資格を持つわけではないけれど退魔師の端くれとして、鵠は主人の言うことを鵜呑みにすることもできなかった。桜魔は桜の樹があればどこにでも出没するのだ。この山桜が樹齢五十年を超え、昔からこの場所にあるとしても、それが桜魔が発生しない理由にはならない。

 けれど、実際にこの茶屋は寂れてはいるが桜魔に襲われた様子はなく、ひとまずは安心してよいものと鵠の目にも見える。だから彼はそれ以上何も言わなかった。

 どうせこの場で一服したら、鵠はすぐに山を降りる。街人に受けた依頼は終わり、あとは報酬を貰って帰るだけだ。

 誰もいない家に。

 いつ桜魔が出るとも限らない往来にそれでも足を運んでしまうのは、鵠の場合はあの家に帰りたくないからなのかも知れない。もはや誰も自分を待ってはいない家は、なければならぬ物であると同時にどうしても彼の胸にある種の想いを去来させる。だから鵠は時折街を出て、遠方でも退魔師の仕事を引き受ける。

 ――もっとも、最近はそのことを少しばかり後悔してもいるのだが。

「良いお天気ですね」

 山道を気配もさせずに歩いてきた少年の姿に、鵠は舌打ちした。

「……出やがったな」

 山桜の淡い紅の花弁が舞う中、鵠が気づいた時少年はすでに目の前の道に立っていた。神刃と名乗り鵠に退魔師として戦うよう要請を続ける少年は、今日もどこからか鵠の居場所を聞きつけてきたらしい。

 そもそも鵠が神刃に見つかったのは、退魔師としての依頼を受けて赴いたここより遠方の町でのことだった。神刃には花栄国内に決まった拠点がないらしく、国中あちこちで仕事を引き受けているという。鵠の周辺は彼自身が退魔師であるために流れの退魔師である神刃を雇うような者もおらず、何事もなければ二人は決して出会うはずのない間柄であった。

「ご主人、俺にもこのわらび餅とやらをください」

「あいよ」

 隣に腰を下ろしながら茶屋の奥に引っ込んでいる主人へと声をかける神刃の横顔に、鵠は憎々しげな目線を向ける。よりにもよって人が貴重な安息を得ている時にやってくるとは無粋な少年だ。今日もまた鬱陶しいほどの勧誘をうけるのだろうか。そう思うと鵠は今すぐにでもこの場を去りたくなるが、皿の上にはまだ食べかけのわらび餅が残っている。

 やわらかな風が吹いて、また山桜の花弁を散らす。神刃が僅かに顔を仰向けてそれを見上げるのを、鵠はなんとなく見ていた。

 少年は先程の鵠のようには、目を細めて微笑んだりしない。忌まわしくも美しい花を見上げる眼差しは、どこまでも凍てついて鋭い。

 鵠は思わず目を瞠った。

「鵠さん?」

 視線に気づいた神刃が鵠の方を振り向く。きょとんとしたその顔には、先程の鋭さは影も見当たらない。

「どうかしましたか? 俺の顔に何かついてます?」

「……いや」

 鵠は再び視線を逸らし、飲みかけの茶に手をつけながら言った。

 神刃が桜の花を眺める時に見せた憎悪の一端が、鵠にとっては意外だった。先日、桜魔を嬲り殺した鵠を咎めるような声をあげた少年が、あんなにも桜を憎む目をするなど。

 怪訝な顔で鵠を見る神刃は、けれど人の気配に気づいて背後を振り返った。茶屋の店主が、黒蜜ときなこのかかったわらび餅と茶の入った湯のみを朱の盆に乗せて運んでくる。神刃の分の注文だ。

 それを受け取りながら抜け目なく代金を払ったのは、すぐにでもこの店を立ち去れるようにとの神刃の配慮だろう。鵠もすでに勘定を済ませている。彼を追うにはいつでもこの店を出れる方が都合がいいのだ。

 そして案の定、これまでと同じように神刃による鵠の勧誘が始まる。

「俺の言ったこと、少しは考えてくれる気になりましたか?」

「生憎と、全然、まったく、そんな気はない」

 俺と一緒に、桜魔王を倒してください。

 この少年は鵠の前に姿を現したはじめのその日から、ずっと鵠にそう言い続けてきた。

 彼が鵠に求めているのは、退魔師としての強大な力だ。神刃自身流れの退魔師として有名ではあるが、その彼の力も鵠には及ばない。

 鵠は退魔師協会から認定を受けた正式な退魔師ではない。だがその能力値は、この国の他の誰よりも高い。

 神刃はそんな鵠に、自分と一緒に桜魔王を倒してほしいと望んできた。

 昔、桜魔たちの間に王がいなかった頃は、彼らの脅威は一国を脅かすほどではなかったという。だから今も、無数の桜魔たちをまとめあげる存在である桜魔王を倒せば、再び人間側が優位を取り戻せると信じている人間はいる。

 神刃もその一人なのだろう。彼は再三、退魔師の中でも誰よりも高い能力を有する鵠に桜魔王を倒すよう訴えかけてきた。

 だが鵠がそれに首を縦に振ることはこれまでなかった。否……

「これまでも、これからも。俺がお前に協力することはない」

 これまでだけではない。これからも、鵠は神刃の誘いに頷く気は毛頭ない。

 桜魔に関わるな。退魔師に関わるな。それは普段はまるで異なる意見を持っていた両親から一人息子である鵠に対して、唯一共通した願いだった。

「どうしても、考え直してはいただけませんか」

「ああ」

 にべもない返答にもめげることなく、神刃は朱金の瞳で鵠を見上げた。しかし鵠はその瞳を真っ向から見返すことはせず、ふいと視線を背けてしまう。

「それ、早く食えよ。硬くなるぞ」

「あ、はい」

 神刃の手元で忘れ去られそうになっているわらび餅の皿の存在を指摘してやると、少年は思わずと言った様子で頷いた。この時代、人々は桜魔の仕業による生活機構の壊滅状態、物資不足に喘いでいる。そんな中、食べられるものを食べないなど、死に急ぐ愚か者のすることだ。

 神刃はどこかぎこちない様子でわらび餅に手を付け、黒蜜ときなこのかかった半透明の餅を口に運ぶ。

 次の瞬間、そのつぶらな朱金の瞳がぱっちりと見開かれた。神刃は睫毛を震わせて皿の上を凝視している。

「お」

「どうした?」

 その大袈裟な反応に鵠までもが驚き、思わず少年の顔を覗き込んだ。あの茶屋の主人、怪しさはまったく見えなかったがまさか神刃に何らかの遺恨あって毒でも盛ったと言うのか……!

 しかしその杞憂は一瞬で消え去った。

「おいしい……」

 鵠はがっくりと肩を落とした。べしっと少年の紫色の頭をはたく。

「痛! 何するんですか?!」

「それはこっちの台詞だ。紛らわしい真似するんじゃねぇ」

 一瞬でも本気で心配した自分が気恥ずかしく、鵠は殊更冷たい声を出した。そんな彼の心情も知らず、神刃はもぐもぐと、二つ目のわらび餅に手を付けている。

「お客さん? 何かありましたか?」

「いや、なんでもない」

 表の騒々しさを聞きつけて出てきた主人に鵠は手を振り、紛らわしい真似をした神刃を睨み付ける。

 神刃は鵠の様子など露とも気に留めず、花が綻ぶような調子で笑った。

「知らなかった。わらび餅って、こんなにおいしいものだったんですね」

「知らなかったって、じゃあなんで注文したんだよ」

 この菓子を初めて食べたと言う神刃のいつにないやわらかな表情に、鵠は呆れの眼差しを向ける。すると少年は少し照れたような、困ったような、怯えるような、そんな複雑な感情が入り混じった微苦笑を浮かべた。

「あなたが注文していたものだから。少しでも、あなたが何を見ているのかを理解したくて。普段菓子なんて口にしませんから」

 言い方と場所と状況と相手が違えば恐ろしく気持ち悪くなるだろう台詞を、神刃は大真面目に吐いてくれた。鵠はその中の一言が気にかかって、またも問いを重ねる。

「普段は菓子も食わない? まったく?」

 ではこの少年は、甘いものを食べる時に思わず頬の緩む幸せな気持ちを、まったく知らずに育ったというのか? 

 桜魔の被害に常に怯え、嗜好品である菓子どころか一歩間違えばその日の食事にも事欠く人々が多い中でそれは珍しいことではない。けれど密かに甘いもの好きで中でもわらび餅が一番の好物である鵠にとって、それはなかなか考えにくいことだった。

「義父はこういったものを好む人ではありませんでしたから」

「義父? お前、親がいないのか?」

 またしても気にかかった一語に、鵠は反射的に問いを発していた。けれどそれを聞いた瞬間、神刃の顔色が変わる。鵠自身も踏み込み過ぎたと自覚して、前言をあっさりと翻す。

「悪い。今のは忘れろ」

「いえ。――仰る通りです。俺には両親がいません。俺を育ててくれたのは、母の知人でした」

 孤児など珍しくもない。天涯孤独。鵠自身だって両親共にすでに亡くなっている。けれど神刃が口にした「義父」と言う言葉はそれとは微妙に違う響きを伴った。この少年は実の両親ではない者の手によって育てられたのだ。それが彼が流れ者の退魔師をしている理由なのかもしれない。

 そこまで連想的に考えて、鵠はハッとして思考を無理矢理中断した。

 駄目だ。このままでは神刃の事情に踏み込み過ぎてしまう。

 人に聞かれたくない脛に傷もつ身としては、「あなたは」と話題を振られるような話の流れは避けるべきだ。人の事情を聞いてしまえば、自分の話もせざるを得なくなる。鵠はそれを嫌っていたし、これ以上この少年と関わり合いになる気はない。

 それと同時に、もう何度か顔を合わせているこの少年のことを、自分は何も知らないのだと鵠は思い知った。

 桜魔王を一緒に倒すなどと大層な言葉を口にしていても、神刃が自らの素性を口にしたり逆に鵠のそれを盾に取るようなことはなかった。仲間として一緒に戦っていくように求めながら、しかし彼らの間には長屋の隣人程度の絆もない。

 だが、それでいいのだ。鵠は決して神刃の誘いに頷く気はないのだから。

「俺はもう行く。お前は最後まで食えよな。じゃあな」

「鵠さん」

 引き留めようにも、神刃にしても間と会話の流れが悪すぎたのだろう。結局少年が鵠を追いかけてくることはなかった。

 それに何故か後ろ髪を引かれるような気持ちを残しながら、鵠は風に流れる山桜の花弁に追い立てられるようにして山を降りて行った。


..003


 天望鵠あもうくぐい。それが鵠の正式な氏名だ。平民は普段苗字を名乗る習慣はないが、あえて姓と名を繋げるとそうなる。

 一部の貴族は名乗る際に家名までもつけるのが習慣らしい。鵠がそれを知ったのは、随分と後のことだった。両親が健在だった頃は、家名のことなど存在自体知っていたかどうか危うい。

 茶屋から家に帰りついた鵠は、まだ日も高いうちから腕を組んで寝台に寝転がった。そうして、普段はあえて思い出さないようにしている両親のことを考えた。

 そんな風に色々と思い出してしまうのは、今日茶屋で会った少年のせいだろう。神刃は義父に育てられたと言っていた。彼は恐らく自分自身の実の両親を知らないのだ。

 鵠はその話をして、自身があの少年のことを何も知らないことに気づいたのだった。そして同時に、自分が彼に興味を抱いていることにも気づいてしまった。

 それが嫌で、いつにも増してろくに言葉も交わさず、逃げるように帰ってきてしまった。あの後、神刃はどうしたのだろう――。

「……いかん。これじゃ堂々巡りだ」

 気が付くと紫の髪に朱金の瞳の少年に意識がいってしまいそうな自分を鵠は叱咤する。脳裏に浮かぶ幼い面影を消すように目を開けて、古ぼけた天井を睨んだ。

 神刃の噂は街中や遠出をした際にたびたび聞く。大人も子どももなく自衛できる者は例外なく武器を手に取り桜魔の襲来に備える昨今、それでもあれだけ幼い退魔師は珍しい。十代では例え退魔の力を持っていても自分の身を守るのが精いっぱいで、他人を守る余裕まである退魔師など極わずかだ。それだけでも神刃はただの粋がった子どもではなく、退魔の天才を持つ人間と呼んでいいだろう。

 けれど鵠が同じ年頃だった時、彼は今の神刃よりも余程強かった。本気で桜魔王を倒そうと考えている神刃が、鵠の噂を聞きつけて、頼ろうとする気持ちはわからないでもないのだ。自惚れるわけではないが、鵠にはそれだけの圧倒的な強さがあるのだから。

 そしてその強さは、鵠自身の努力あって開花したものではあるが、それ以前に両親が与えてくれた才能によるところが大きい。

 だからこそ鵠は神刃の、共に桜魔王を倒してほしいと言う願いには頷けない。

 たとえあの華奢な子どもが、鵠に会いに来る時折その身に激しい戦闘の痕を思わせる血の臭いを漂わせていると知っていても。

「母さん……」

 鵠、あなたは退魔師になんてならないで。

 桜魔に関わらないで。

 両手を紅い血に濡らして懇願する、それが母の最期の願い。

 胸の中に沸き立つ黒いものと一緒に母の死に顔を封じ込めたくて、鵠は再び目を閉じる。けれど瞼の裏側の闇にまで、懐かしい両親の面影と今日会った少年の白い面が交互に浮かんできた。そのどちらがより罪悪感を刺激して、鵠を苦しめているのだろう。

 もう、彼自身にもわからなかった。


 ◆◆◆◆◆


 鵠は父の名を交喙いすか、母の名を花鶏あとりという。天望交喙に天望花鶏。

 女は――別に女だけでなく男が婿に入る場合もそうだが、結婚すれば姓を夫のそれに変える。だから夫婦の名がそうだと聞いて、即座におかしいと気づける者は少ないだろう。他の大陸の事情は知らないが、少なくともこの大陸の常識はそうである。

 そして平民であればそもそも、普段から家名を名乗る習慣もない。

 父、交喙は黒髪に紫がかった青い瞳。母、花鶏は白銀の髪に薄紅の瞳をしていた。鵠は父から瞳の色を、母から髪の色を譲りうけた。

 夫婦は深い山の入り口にまるで隠れ住むように暮らしていた。一人息子の鵠もまた、近隣の村の人間から引き離されて育った。

 幼心に自分の家が何かおかしいとは気づいていたが、その話を持ち出すたびに怖い顔をする父と哀しそうな様子の母に囲まれて、ついにそれを両親の口から直接聞きだす機会を逸してしまった。

 少しばかりおかしくても、全てがうまくいっている間はそんなことを気にしなかった。

 料理に洗濯にと常に体を動かしていた働き者の母と、それを特に手伝いもせず傲岸不遜に振る舞っていた父。けれどひとたび家を出ればおっとりしすぎていて世間知らずなところのある危なっかしい母の手を引くしっかり者の父と、二人は良い夫婦に見えていた。村の人々もそんな両親のことを理解していたのか、多少不思議なところのある一家に対し、他の村人と同じように扱った。

 全てが失われるきっかけの歯車となった事件は、父の死。

 両親は共に退魔師だった。二人とも小さな村にはもったいないほど腕の良い退魔師だったが、ある時少し強い桜魔が徒党を組んで村を襲った。それまで多くても二、三匹程度でつるむだけだった桜魔が徒党を組むようになったその頃。世間では桜魔王と言う存在が周知されはじめていた。

 父はその、徒党を組んだ桜魔の集団の退治に駆り出され――還らぬ人となったのだ。

 母自身もちょうどその時別件で家を空けていた。彼女はほとんど傷すら負うことなく無事に帰ってきたが、村人の手で清められ返された父の遺体を見て――狂乱した。

『いやぁあああああ! お兄様!!』

 魂切れるような悲鳴を上げて母は父をそう呼んだ。遺体に取りすがって泣く彼女を引きはがす村の男たちの苦しげな表情を、鵠はどこか遠いところにいるような気持ちで眺めていた。

 そして彼女は、狂った。

 話しかけても虚ろな目をして何も答えない。交喙の埋葬を行ったのは鵠と村の男たちだった。彼女は我に帰るとまた泣き出した。そんなに泣いて瞳が溶けだしてしまわないのかと心配になるくらい。

 父が死んで七日目だった。

 それまで呆然と、それこそ死人のように虚ろだった母の表情に、久方ぶりに生気が戻っていた。彼女はいつも通り手際よく家のことを片づけると、数年ぶりに息子と一緒の寝台に入った。

 鵠はそれが幸せで、母がこれで元通り元気になってくれるのだと信じて、その紅い瞳に病み疲れ覚悟を決めた者の光があることを見過ごしてしまった。

 明け方目覚めた時にはもう母の姿はなく――。

 散々村中を探し回って、人気のない森の中でその姿を見つけた時には、もはや全てが手遅れだった。

 彼は誰時と呼ばれる、誰そ彼時と対になるもう一つの逢魔が時に、見つけたその人は優しい母ではなく、羅刹よりも苛烈な退魔師の顔をしていた。

 淡い紫の空に白い桜の花びらが舞い、真紅の血の池に降り積もる。母が殺した桜魔たちの体が積み重なり、瞬く間に桜の花びらとなり、その花びらさえ血だまりに溶けていく。

 鵠の退魔師としての強い力は、両親譲りのもの。特に、母譲りの強大な力。

 父である交喙と母である花鶏。どちらが退魔師として優れていたかと問われれば、迷わず花鶏だと答える。彼女は誰よりも優れた退魔師としての力を持っていた。けれど鵠が実際にその戦いを目にすることはこれが初めてだった。

 薄紅の瞳が白み始める空の輝きを受けて、緋色に燃え上がる。

 母は父の――自分の夫の復讐のために、近隣中の桜魔を集めて皆殺しにしたのだ。そのために彼女自身の、命さえも退魔の力と変えて。

 誰よりも誰よりも、交喙を愛していた花鶏。その感情はもはや愛というよりも狂気に近いほど。

 倒すべき敵の消え去った空間に、彼は誰時の藍紫の光が差し込む。最後の敵を打倒すと共に全ての力を使い果たし、自らが生み出した血だまりに倒れ込む母に鵠は駆け寄った。

 今際の際に息子の顔を認めた母は、震える声で懇願した。


 鵠、あなたは退魔師になんてならないで。

 桜魔に関わらないで。


 彼女は最後に、紫がかった藍色の空を眺めて「お兄様」と小さく呟いた。

 桜の白い花弁を血で紅く染め、これで最愛の夫のもとへ逝けると彼女は微笑む。

 残された一人息子は、腕の中で冷たくなった母にかける言葉もない。最期まで彼女が見ていたのは、自分ではなく父なのだから。彼を追って、息子の自分を放って一人死んでしまうような人なのだから。

 父も母も腕の良い退魔師だった。けれど二人とも、望んでそうなったわけではなかった。

 それを鵠が知ったのは、二人がこの世の者ではなくなってからだ。

 村の中ではどうやら駆け落ち者扱いされていた両親の実家はどこなのか、誰も知らなかった。村人たちは好意で鵠の両親のことを探らずにいたのだが、そのために両親亡き後の鵠は天涯孤独と呼ばれる身の上だ。まだ十を過ぎたばかりだった鵠のためにもと少しばかり調べてくれた者もあったが、それでもわからない。

 家をいくら片づけても父や母の実家や親族がわかるような物は何も見つけられない。嫁入り前の母の姓でもわからぬかと持ち物をひっくり返してみても、出てくるのは天望の文字だけ。

 両親から退魔師の才能を継いだ鵠は母の言いつけに逆らってその後退魔師になった。他に特技もない子どもに、それしかこの時代食っていけるような職は見つけられなかったのだ。初めこそ幼すぎると侮られるばかりだったが、近隣にたむろする桜魔たちの幾匹かを倒した頃から評価が変わり始めた。協会に正式な登録はなくとも、貧しい者たちから雀の涙ほどの依頼料を受け取る民間の退魔師として戦うようになった。

 そしてある日一人の退魔師仲間が教えてくれた。

 たまたま数人で組んで桜魔の大集団を殲滅する仕事の後だった。鵠の戦い方が、かつて共に戦った退魔師と似ているという。

 その退魔師の名は、天望花鶏。

 首都にある退魔師の名家、天望家の娘だという。

 鵠はそれを聞いてすぐに首都に行った。

 天望はずっと父方の苗字だと考えていたのだが、どうやら母の家名らしい。鵠の家がある田舎村でこそ知る者はいないが、首都で天望の名を出せば誰もがその名を知っている。

 遥か昔から桜魔に限らずあらゆる妖を退治する役目を担ってきた退魔師の名家。しかし今では直系の血は途絶え、分家の青年が後を継いでいるのだと言う。人々は鵠の事情など知るはずもないから、さりげなく尋ねた鵠にあっさりと教えてくれた。

 退魔師の名家天望の、行方を眩ませた最後の直系当主となるべきだった少女の名は花鶏。天望花鶏。そして彼女には兄がいた。

 妹ほど出来が良くないと言われ続けた不世出の退魔師、交喙。

 答は最初から出ていたのだ。天望交喙と天望花鶏。それは父と母の本名。父の遺体に取りすがって泣いた母は、彼を一体何と呼んでいただろう。噂に聞く二人の特徴的な容姿は、両親のものとぴたりと一致する。

 鵠は何故あれほどの才能ある退魔師であった両親が、小さな田舎村で隠れ住むようにしていたのかその理由をようやく知った。

 顔も性格も才能すらも似ていない。けれど二人は、確かに実の兄妹だったのだ。

 そして自分は実の兄妹であった両親の、赦されざる恋の果てに生まれた禁忌の子。


 ――決して、表舞台に上がることなどない。


..004


 実の兄妹であった両親の、赦されざる恋の果てに生まれた禁忌の子。

 その真実を知ってから、鵠は人と距離を置くようになった。

 村人たちは幼かった彼を責めるようなことはなかった。桜魔との悲惨な戦いの中で両親を失った子どもの性格が変わるのは当たり前だ。それに鵠自身が退魔師として生きていくようになったことで、自然と生活も変わったために村人と顔を合わせる機会や時間帯がこれまでと変わったことも大きかった。

 気が付けば、一人で生きていくようになっていた。

 完全に独りきりというわけではない。道端で知り合いに会えば挨拶もするし、たまに家に戻れば隣人に差し入れをもらうこともある。けれどそれも、鵠が優秀な退魔師だからという理由に負うところが大きい。

 生半な桜魔などでは太刀打ちできない程に凄腕の退魔師。父と、母の血の為せる業。

 一応の拠点はあるものの鵠は依頼に応じて国内のどこにでも赴いた。正式に協会に登録した退魔師ではないから、それだけ多くの依頼を受けなければ食っていけない時期があったということもある。けれどそれ以上に、一つどころに引きこもって毎日同じ景色を見るのに耐えられなかったのだ。

 今でこそ多少落ち着いているものの、一時期はそれこそ狂ったように何でもかんでも依頼を受けて、桜魔を狩り続けていた。あらゆる衝動を殺意に変換し、目についた敵は片っ端から殺していった。そのせいで一度危ない目に遭い、命を落としかけたこともある。

 桜魔は両親の仇だ。でも本当は、理由などいらなかったのかもしれない。ただ、目についたものの中で一番破壊しやすい、破壊することに抵抗のないものがそれだっただけで。

 いつの間にか、花栄国内で「最強の退魔師」と呼ばれるようになっていた。

 だがそれは血塗られた称号である。

 そのように呼ばれるようになったのは、ここ数年の話。子どもの頃、退魔師になりたての時期に一度無茶をして死にかけて、一人の男に助けられてからのことだ。鵠はこれまでのがむしゃらなやり方を反省し、注意深く、真剣に、自分自身の才能を活かすようにして戦うようになった。それからの鵠の退魔師としての実力は劇的に進化した。

 これまでは力押しで自身も幾度となく傷を負いながら倒した相手にも、かすり傷一つ作らせることなく勝てるようになった。父や母の戦いの様子を思いだしその無駄のない動きを思い浮かべ、自身の技をそれに近づけていく。

 鵠と言う人間の中には父母から受け継いだ退魔師としての素養があり、かつて味わった命の危機がそれを刺激し開花させた。母の死の場面にも似た、凄絶な一人の男の戦い。

 かつて少年だった鵠は、なまじ優れた素養を持っている分驕り高ぶるのも早かった。まだまだひよっこと呼ばれる分際で大きな仕事に手を出し、そのせいで死にかけた。

 その頃の鵠は、徒党を組んだ桜魔の手強さなど知らなかったのだ。両手で足りる程度の数の桜魔ならば相手にしたことがある。有象無象の雑魚に勝つのは容易い。そう考え、こちらも名を上げてきた退魔師を相手取るのに数を集め策を練り連携して襲い掛かってくる桜魔の集団を殲滅する仕事を、軽い気持ちで引き受けた。

 結果は惨敗。半分程度を何とか殺したところで、じわじわと蓄積した負担が足枷となり動けなくなったところを狙い打ちされた。

 このまま死ぬのかと初めて味わう恐怖に慄いたところに、その人は現れた。

 血を失いすぎてくらくらとする視界を塞ぐ背中。歴戦の戦士というには若干頼りなく、けれど子どもだった鵠自身とは比べ物にならないくらい頼もしく見える。

 水晶色の、靡くと言うほどの長さもないすっきりと短い髪。敵を射抜く黄金の瞳。

 最期の日の母と同じくまるで舞うように桜魔たちを斬り伏せ、しかし母と違ってその人は堂々と生還した。

 一部の隙も迷いも焦りも見せることなく敵を倒し、落ち着いた表情で鵠の傷の具合を診る。

 助け、られた。

 庇われて、守られた。

 命を救われた。

 それが酷く悔しくて――ほんの少しだけ嬉しくて。

 その男は流れ者の退魔師だった。当時は現在と桜魔の被害については変わりないが、今よりその状況に人々が慣れていないため情報網は整備されていなかった。人々の口に噂として昇りながら、けれど誰も正体を知らないという謎の退魔師。

 すでに生ける伝説であったその青年が、幼かった鵠の命を助けてくれた。

 あまりにも鮮烈で、そして夢のような記憶だ。青年は言葉少なで、鵠を助けたことに関して謝礼を要求するようなこともなければ、若輩とはいえ退魔師として軽率な行動をした鵠を責めることもしなかった。

 彼はただ、金色の瞳で悲しげに鵠を見つめただけだった。彼にはきっとすべてわかっていたのだ。

 あの頃の鵠は、心のどこかで死に場所を探していた。

 父のように母のように、桜魔と戦いその中で死ねるのであればそれで構わないと考えていたのだ。

 どうせ自分は禁忌の子だ。血族が生きていると知っても、決して名乗り出ることは許されない。正式な戸籍がないから退魔師協会に登録すらできないし、もはや無人の家に帰りを待つ人は誰もいない。

 その投げ遣りな気持ちを、鵠の命の恩人はきっと見抜いていたのだろう。鵠はそう考えている。

 言葉もなく傷の手当をしてくれた白い手。数々の桜魔を斬り伏せた修羅の手は、けれど手当のために鵠に触れる時は酷く優しい。伏せた水晶色の睫毛の下から覗く金の眼差し。

 あの人もどこか悲しそうだった。

 さして言葉を交わしたわけでもないけれど、鵠は何故かそう思った。荒事に従事する者とは思えないほど線の細い美しい青年は、恐らく望んで退魔師になったのではないのだろう。恐らく鵠と同じように、それしか生きる術を知らなかったから退魔師になったのだろう青年。

 そして労わるように鵠の頭を最後に一撫でしたその人の衣の裾を握りしめた、彼の子どもらしき小さな少年が――。

「!」

 そこまで記憶が思い至った時、鵠は気だるげに横たわっていた寝台から飛び起きた。

 どうして忘れていたのか。今まで思い出しもしなかったのか。

「あいつ……」

 呆然と床の木目に目を落としながら、鵠は我知らず震える口元を片手で覆った。

 水晶色の髪に金目の退魔師の「息子」だと勝手に思い込んでいたから、今更その造作をわざわざ思い返すこともしなかったのだ。普通、子は親に似るものだから。けれどあの時の二人は違ったのだ。

 宵闇の濃紫の色した髪に、燃える朱金の瞳。

 かつて鵠の命を救ってくれた退魔師、彼が連れていた子どもこそが――神刃。鵠に桜魔王と戦うよう要請を続ける、あの少年だったのだ。


 ◆◆◆◆◆


 悪いが、その話には乗れない。

 そう言って何度、協力を断られただろう。

 今日もまた、話をした退魔師の一人に振られて、神刃は一人山道を歩きながら溜息をついた。

 神刃がこれまでに桜魔王を倒す協力を求めて話をした退魔師は鵠一人ではない。各地で名うての退魔師と噂される人物には全て斡旋所や情報屋を通して目通りを願い、自分と一緒に桜魔王を倒してくれるよう協力を請うた。

 しかし今のところ結果は惨敗だ。神刃の言葉をある者は夢物語だと斬り捨て、ある者は身の程知らずと笑い飛ばした。ある者は英雄願望のある子どもの戯言だと嫌悪を示し、ある者はいずれ痛い目を見ると忠告した。

 誰も神刃の言葉を聞いて、桜魔王を倒すことを真剣に考えてくれる者はいなかった。

 その姿かたちですら定かではないが、各地の桜魔を取りまとめるという桜魔の王。彼を倒せば桜魔たちは少なくとも今のようには大陸中を跋扈できまい。

 しかし人々はもはやその脅威に立ち向かおうとすらせず、ただ緩慢な滅びへの一途を辿っている。人類はいまや滅亡の危機とやらに瀕し、それでも誰も、何もしようとはしない。

 桜魔王は大陸の西に居を構え、その勢力は近年じわじわと増していっている。二十五年前の桜魔王の登場、そして十五年前の、大陸全土を覆った戦乱。それらは緋色の大陸を徐々に闇色に食い潰し、かつて絢爛な栄華を誇った国々はもはや斜陽に翳るばかりだ。

 最初はその存在すら限られた者しか知らなかった桜魔王。彼は十五年前の戦乱時に諸国が混乱した隙をついて、配下の桜魔たちを取りまとめ人々を襲った。重要な街道や通信網が途絶し、生活機構が破壊されることによって、人々は初めて真剣に桜魔への脅威を覚えた。それまでは桜魔という存在は、恐ろしいが気を付けてさえいれば自分が被害に遭うこともない野犬の群れのようなものだったのだ。

 今では桜魔は、人類と対等――それ以上に強大な敵として存在している。

 人に似た姿、思考。けれど彼らはあくまでも人ではなく「魔」なのだ。情けも利潤絡みの駆け引きも存在せず、本能でもって人類を害しにかかる。そのような種と共存できるはずもない。人と桜魔は、どちらかがどちらかを滅ぼしつくすまで戦いを止めることはできない。

 けれどそこまでわかっているのに、誰も桜魔王を倒そうなどという者はいない。

 それぞれの国々の元首たちは軍隊を持っているが、桜魔という妖魔相手にその力は児戯にも等しかった。

 桜魔を倒せるのは、通称「退魔師」と呼ばれる、異能者だけ。

 しかし手を結ぶべき退魔師たちは、それを取りまとめる者がいないために個々でばらばらに活動している。こんな状態で桜魔王を倒せるはずもない。

 それならば国王が直々に退魔師に桜魔王を倒すよう命を下せばいいのではないかと考えるが、そううまくもいかなかった。何故ならばこれほどまでに桜魔が跋扈する時代でなければ退魔師などという異能者は、何の力もない普通の人々からの迫害を受ける立場にあったからだ。

 人は自分と異なる存在を本能的に恐れ、忌み嫌う。天望家のように昔から退魔師の名家として存在するような血統は稀な方で、大概の退魔師は普通の両親から生まれ、その力故に疎外され迫害される。

 だから退魔師の多くは捻くれ者だ。もともと武芸に秀でた者が後に退魔能力に覚醒した場合は別だが、異能の強さ故に早くから退魔師以外の生き物にはなれぬとして生きてきた生粋の退魔師などは、特にその傾向が強い。

 改めて考えてみれば、鵠もその気がある、と神刃は思った。

 鵠。この近辺の街で有名な、かつては最強の戦士の名を欲しいままにした退魔師。今神刃が最も熱心に協力を要請している退魔師が彼だ。

 けれど彼の詳しい素性を誰も知らない。

 もっとも、そんな人間はこのご時世には掃いて捨てるほどいる。退魔師の仕事は引き受けてもそれで有力な人間と繋がりを持とうとすることはなく、人との関わりを避けるように行動する鵠の生き方が、特に珍しいわけではない。

 それでも神刃は、あの鵠という青年に関心を向けずにはいられなかった。

 彼ならば、否、彼こそが、桜魔王を倒すべき存在だ。神刃はそう信じている。他の退魔師の時のように、一度断られたぐらいでは引き下がることはできない。

 桜魔王を倒し、この世界に平穏を取り戻すことは、彼にしかできない。

 その想いは、亡き人の面影を生者に求める自らの愚かしさから生まれるのだとわかっていても。

 神刃は決して、鵠を諦めることができない。

 再び彼と話をしようと思い、山道を辿った。

 前回の邂逅の際、鵠も多少は神刃に興味を持ってくれたようだった。いつも短い、決して友好的ではない言葉ばかり交わす間柄とはいえ、顔を合わせてからそれなりに経っている。もう少し彼と話をして、彼という人間を理解すれば、いつかは首を縦に振ってくれるかもしれない。

 先日、わらび餅を頼んだ茶屋で話をしたことを思い返し、神刃は山桜の傍に佇む一軒の店を目指す。あの店が鵠の気に入りならば、また彼が立ち寄ることがあるかもしれないと思ったのだ。

 だが――。

「あ……」

 そこには店と呼ばれるものなど、すでになくなっていた。

 焦げ臭いにおいはすでに風にまかれ、ただただ乾いた風に煤が運ばれていく。

 燃え尽きた峠の店。人の命の気配はなく、事故や山火事というには見事に人家だけが焼けている。

 崩れ落ちた木造の廃墟の傍で、山桜だけが今日も変わらずに静かに咲いていた。

 神刃は無言で唇を閉ざす。

 あの時食べたわらび餅はおいしかった。そう一言、あの時主人に伝えておけばよかった。もう今はそれを伝えることもできない。

 桜魔は妖術を使う。家を一軒燃やすのなんて簡単だ。街中であればすぐに火消したちが動くだろうが、このような山の中では助けを求める場所もない。人気のない家をあえて桜魔が襲う必要はないから、店主の老人はきっと――。

 身体の脇に下ろした拳を神刃は深く握りこむ。

 早く、早く桜魔王を倒さなければ。少年は、その決意を新たにした。


..005


 いらない時にはいくらでも顔を見せるくせに、いざ探すと見つからない。

 一度しっかり話をしようと神刃を探し回っていた鵠は、急に姿を消した少年の動向を追うのにうんざりとしていた。

 別に神刃が鵠から逃げているだとか、そういうわけではない。だが、上手い具合に歯車が噛み合わないと言うか、逆に噛み合っているというのか、どうにも捕まらないのだ。

 馴染みの退魔師が集まる酒場の一つに顔を出した鵠は、またも一足違いでいなくなったという少年の目撃情報を仲間の一人から得る。

「向こうで依頼書を千切ったのを見たぜ。仕事に出かけたんじゃねぇのか」

 どこに向かったとまでは断定できない少年を探し、鵠はまたも足を棒にして歩き回るのだ。


 ◆◆◆◆◆


 そろそろ生活費を稼がねばならない。神刃は途中立ち寄った非正規退魔師御用達の酒場で、退魔師への依頼書を一枚千切って持ってきた。

 正規の退魔師協会に依頼できないだけあって、その報酬は微々たるものだ。だが神刃一人が生きていくにはそれで十分だった。その仕事を果たせばまたしばらく放浪を続けることができる。

 明らかに人気がない様子で掲示板の隅に忘れ去られていたその依頼書は、報酬の少なさに比べて被る害は大きい。だからこそ神刃はその依頼を選んだ。

 このような神刃の生き方を偽善だと人は言う。だがそれで良い。本当の善など知りはしない。神刃の行動は所詮とある人の真似事で、模倣が本物に敵うはずもないのだから、それで構わなかった。

 あの人はもういない。

 だから自分は、可能な限り、彼の代わりにならねばならないのだ。だが自分では力不足で彼の代わりになれない。

 その想いから、神刃はこれまで自分と手を組んで桜魔王を倒すという目的を果たしてくれる仲間を求め続けていた。

 脳裏をちらりと、白い髪の青年の幻影が過ぎる。

 ここ数日会っていない彼は今頃どうしているのだろう。神刃としては彼こそが桜魔王を倒し、大陸を救う救世主になってくれるのではないかと期待をかけている。しかし当の本人である鵠が神刃の頼みを聞く素振りはいまだにこれっぽっちもない。

 頭を切り替えて、神刃は辿り着いた依頼人の住居の戸を叩く。

 こんな時代でなければ、それは空き家と見紛うばかりの寂れて半壊した建物だ。しかし現在はその寂れ具合も目隠しに、少しでも桜魔の目から逃げたい人々が細々と暮らしている。

 神刃が依頼されたのは、この地を襲う桜魔の集団の退治だった。


 ◆◆◆◆◆


 問題の桜魔は、森の中に棲みついているという話だ。

 大陸中どこもかしこも桜魔の襲撃に遭い、食料自給率はどこの国も今や壊滅的だ。都会では時折闇市が開かれるが、こうした田舎ではそういったこともない。村人たちは山菜や木の実を採集して食いつないでいる。

 この村にとってその生命線である森に、桜魔が現れるようになった。いつからか森に入った村人たちが帰らないという噂になり、ある日命からがら逃げてきた若者の証言によって、桜魔の存在が知れるところとなったのだ。

 桜魔は森に入る者を手当たり次第に襲う。それが神刃が聞かされた話だった。

 しかし実際はもっと複雑な事情だったようだ。

「今回の生贄はお前か」

 問題の森に足を踏み入れ、標的たる桜魔と顔を合わせた開口一番にそう言われた。

 相手は爛れた肉の柱のような外見の桜魔で、体の中心にある大きな唇だけがやけに目立ち異様だった。その大きな唇がにやりと歪み、笑いながらこう言った。

「食いではなさそうだが、子どもの贄は久々だ」

「……つまり、これは全部お前の差し金ということか」

 依頼料も少ない人気のない仕事。それはこの依頼に凄腕の退魔師がやって来ないことを意味する。報酬の少ない依頼を受けるのは実力足らずの未熟な退魔師か、余程の正義感の持ち主か。そのどちらにしろ、数人で徒党を組んで確実に桜魔壊滅を狙うとは考えられない。

 肉柱の桜魔の言葉から、神刃は事態の裏を読み取った。

 退魔師と一般人の霊力、神力と呼ばれる力の差は大きい。そして霊力を吸い取ることができる種の桜魔にとっては、普通の人間を殺すよりも退魔師を殺して力を奪い取る方が効率がいいのだ。

 この桜魔は村人に取引を持ちかけたのだろう。退魔師をおびき寄せるように計らえば、村人は見逃してやるだのなんだのと言って、人間自身に罠を仕掛けさせた。

「道理で依頼人を名乗る村の人たちが挙動不審だったわけだ」

「可愛いだろう。あいつらはもはや皆、俺の手駒よ」

 依頼の詳細を聞きに行った際の、怯えた人々の眼差しを思い出す。あれは単純な桜魔への恐怖だけではなかったのか。

「奴らのおかげで俺はここまで強大な力を手に入れた。お前のような間抜けな退魔師を喰らい続ければ、いつか桜魔の王にさえ……!」

「ふざけたことを抜かすな」

 神刃は腰の小太刀を引き抜く。

「貴様ごとき卑劣な小者が、桜魔王になどなれるものか。ここで果てろ!」

 大陸中の人類を脅かす桜魔の王に、こんな小者がなれるものか。数多の退魔師たちはそれほど弱くはない。

 手元の刀に神力を伝わせ、神刃はまずは一撃を喰らわせるため地を蹴った。


 ◆◆◆◆◆


 小狡い策を弄しようと、所詮は小者。神刃はすぐに肉柱を追い詰めた。

 力の強い桜魔はこのような小細工をせずとも、堂々と昼日中の街中で辻斬りを行うくらいだ。自分の陣地たる森に人間を引きこまねば殺すこともできない桜魔など、大した強さではない。神刃はそう読んだ。

 実際、その読みは良い線まで行っていた。

 肉柱は神刃の敵ではなく、最初は余裕の態度だったその様子がだんだんと変わっていく。顔と言える顔がないので人間のように感情を読み取ることはできないが、大きな唇が口の端を吊り上げる笑みを徐々に引きつらせていくのがわかった。

 小太刀の一閃が、肉柱から伸びる触手を斬りおとす。

「この……餓鬼がぁ!」

 肉柱の怒りを表すようにどす黒く染まったその大きな唇が開いて、強酸らしき液体を吐きだす。

 神刃は後方に跳んでそれを避けた。しかし反撃に転じようとしたところで、地を蹴るはずの足が何かに絡め取られる。

「!」

 それに気を取られた瞬間、目前の肉柱が伸ばした触手が今度は両腕を縛り上げた。

「ようやく捕まえたぜ」

「あ、くっ……な……にッ?!」

 締め付けられる痛みに喘ぎながら、神刃は先程自分の足を捕らえたものの正体を確かめようと、何とか首を捻る。

 そこにいたのは、目の前の桜魔とまったく同じ姿かたちをしたもう一匹の肉柱だった。

 そして他にもずるずると、異様な肉の塊がそこかしこの茂みから蛞蝓のように這い出てきていた。

「二匹……?!」

 馬鹿な、と神刃は目を瞠る。桜魔の気配は常に目の前の一匹だけだった。自分が読み違えたのか? ……否。

「「そうそう。これが俺の奥の手さぁ」」

 形容しがたい軋むような音で笑った目前の肉柱と、神刃を背後から絡め取ったもう一匹の肉柱の唇から同じ言葉が零れ落ちる。

「「俺は肉の一部を千切って自在に操ることができるんだよ。どいつもこいつも、見事に騙されてくれてなぁ」」

 桜魔とは桜の樹の魔力と瘴気、それに人間の負の感情が結びついて生まれる妖。

 その定義は広く、その性質は個体ごとに大きく異なる。なまじその知能が人間に近ければ近い程、能力も多岐にわたる。

 単純な戦闘力で言えばさして強くないと思われていた肉柱は、意外な隠し玉を持っていたというわけだ。退魔師としての実力があればその不穏さを警戒することもできたかもしれないが、神刃には気づくことができなかった。

 才能以上に経験則が物を言う戦闘においてはまだ未熟、成長途中の退魔師でしかない。

 ぎりぎりと締め上げられた右腕からついに小太刀が落ちる。抵抗を封じられた神刃は、唯一残ったその鋭い眼差しで桜魔を睨み付けた。

「気にいらねぇな。その眼」

 命乞いの一つもすればまだ可愛げがあるものを、と肉柱が囁く。

「冗談……!」

 何があっても、桜魔に屈することはしない。神刃は己の心にそれを――それだけを誓っている。

「なら、命乞いをする気分にさせてやるよ」

「ぐっ……!」

 肉柱の触手が首にまで絡む。肌に触れてみるとそれはべとりと何か粘性の液体に濡れているようで気色が悪い。

 喉首をじわじわ圧迫され、神刃の面に苦痛の色が浮かぶ。視界が暗くかすみがかり、赤や青の光がちかちかと点滅する。

 いけない。このままでは――。

 しかし神刃とて伊達に独りきりでこの依頼を受けたわけではない。少し早いが奥の手を出すかと、途切れそうな意識を集中し始めたその瞬間。

「ぎゃぁあああ!!」


 悲鳴が響き渡った。


..006


 ぶちぶちと嫌な音を立てて、神刃の体に巻きついていた触手が千切られる。魂切れるような悲鳴を上げたのは、神刃ではなく彼を拘束した桜魔の方だった。

「げほっ、ごほっ」

 締め上げられた首が解放され、肺が脳が酸素を欲してむせ返る。

 一体何が起きたのか、神刃は生理的な涙が浮かんでかすむ目で正面を見つめた。そこに立つ背の高い人影。

「火陵……」

 思わず懐かしい名が――もうこの世にいない人のその名が口をついて出た。しかし次の瞬間にかけられた声ですぐに自分の間違いに気づく。

「下がってろ」

「く……ぐい……さん……」

 桜魔の触手から神刃を解放し助けてくれたのは、これまで何度協力を要請してもつれない返事しかくれなかった人物だ。

 花栄国最強の退魔師と名高いその青年は、見たところ何の武器も持たずに、神刃を桜魔から庇うようにその間に立っている。

 彼の立ち姿は堂々としており、精悍な面差しには不安も緊張もない。いつも通りの冷めた眼差しをただ目の前の桜魔に向けていた。

「貴様ぁあああ! 何者だ!?」

 手足となる触手を千切られた肉柱が、その憎悪を鵠に向ける。目はないが全身がどす黒く染まり、桜魔の怒りを如実に表していた。

「俺が何者かなんて、お前が知る必要はない」

 鵠はあっさりとそれを無視し、手足を滑らせて構えをとる。相変わらずその手に武器はない。だが同じ退魔師の神刃の目には、彼がその全身に霊力を漲らせるのがわかった。

「まさか……徒手空拳で?!」

 退魔師の多くは、己の霊力、神力を行きわたらせ強化した武器を使用する。

 神刃なら今のところ小太刀と短弓だ。他にも槍や斧、呪符。あるいは霊力を込めれば手近なものを武器として使用することはできる。

 歴戦の武闘家と言っても退魔能力がなければ桜魔に傷を負わせることはできず、退魔能力があっても格闘の心得のない者がいきなり素手で妖に殴りかかるのは難しい。

 だから、大抵の退魔師は武器を使う。

 刃物はそれ自体に殺傷能力があり、またそれらしい武器はこれから命がけの戦闘を行うという意識を高める。

 精神によって霊力の制御が必要な退魔師は、己に暗示をかける意味でも、最も相性の良い武器で桜魔と戦う。

 純粋な格闘家が退魔師になったり、退魔師が体術を本格的に覚えることは稀だ。霊力を一点集中して武器を強化する方が、己の肉体そのものを武器として戦うより遥かに楽だからだ。

 退魔師という過酷な職業に女性も多い理由でもある。力や素早さは、退魔能力さえ強ければ武器選択次第で補えるのだ。

 しかし鵠の強さは、それらの常識を打ちこわし、神刃の予想を遥かに超えるものだった。

 見る者が見れば今の鵠は全身を金色の炎に包まれているように見えるだろう。

 霊力、神力と呼ばれるその力が、触れる度に桜魔の瘴気で出来た肉体を削り取っていく。

 もちろん素手で仕掛けるからには体術もかなりの腕前で、舞うように繰り出される蹴りや拳には鍛え上げた成人男性が持つ力や鋭さの全てが乗っていた。

「ぎゃあああ!!」

 神刃に対しては善戦を繰り広げた桜魔も、鵠の前では文字通り手も足も出なかった。

 生き残った触手が死角から攻撃を仕掛けようとも、鵠はまるで背中にも目があるかのような勘の良さで相手の攻撃を避ける。真正面から仕掛ければ勿論どのような攻撃も通らない。一方、鵠の一打は確実に桜魔の力を削っていく。

「ぐぁ……!」

 終結は呆気ないものだった。特に気合いを入れたわけでもない鵠の拳の一撃で、桜魔はその核を撃ち砕かれ滅びていく。

 桜魔の肉体は無数の桜の花弁となって、糸が解けるように消えていった。


 ◆◆◆◆◆


 敵が完全に滅びたのを見送り、鵠はようやく神刃の方を振り返った。

「あ……」

「酷い格好だな」

 腕を組んでいつも通りの冷静な口調で言う。神刃はハッとして改めて自分の格好を見下ろした。鵠の言うとおり、確かに酷い。

 服は泥だらけだし、手甲に覆われていない上腕部は触手に絡め取られたせいで赤い痕が残ってしまっている。自分で見ることはできないが、この分では首にも酷い索状痕が残っていることだろう。

 鵠の視線が神刃を上から下までじっくりと眺めまわす。武闘家である鵠は神刃の何気ない動作から、触手の痕は派手でも怪我自体は大したことないのを見抜いたのだろう。

 そして眼差しの鋭さがやがて消えると、ただただ呆れた様子だけが残る。

「馬鹿か、お前」

「う……」

 窮地を救われた立場としてはまったくもって反論できず、神刃は常の彼らしくもなく頼りない目で鵠を見上げた。

 迷子の子どものように、不安と焦燥が瞳に宿る。普段鵠の前では大分気を張っていた神刃が、思いがけず年相応の子どもらしさを見せた瞬間だった。

「その程度の腕前で桜魔王を倒す? 大陸に平和を取り戻す? 笑わせるな。ガキが分不相応な大望抱いて、こんな小者一匹倒せずに一人で死んだところでどうなる。それこそ命の無駄遣いだろうが」

「……仰る通りです」

 耳に痛い言葉を受け止める。鵠の台詞は神刃自身もう何度も何度も繰り返し考えたことだった。

 それでも。

 桜の花が散る。桜魔が棲家としたような森の中だ。彼らは四方を忌々しいその花に囲まれている。

 その花が憎悪を思い起こさせる。

 大陸中からこの樹を消すまでは、神刃は走り続けることを止めることはできない。

「俺は、この大陸から全ての桜魔を消し去りたい。その目的を達するまで、諦めるつもりも戦いをやめるつもりもありません」

 今まさにみっともないところを見せたばかりだ。身の程知らずの子どもの戯言だと今度こそ見放されようとも、神刃は己の意志を偽ることはできなかった。

 燃えるような緋色の瞳で、自分より随分背の高い鵠を見上げる。

「……お前を見ていると腹が立つ」

 神刃の宣言を聞き、細い眉を器用に片方だけ吊り上げ鵠は本当に苛立たしそうに口を開いた。

「両親の命を奪った桜魔を赦せなくて、ただがむしゃらに退魔師として桜魔を殺しまくっていた昔の自分を見ているようで」

「鵠……さん……」

 完璧なまでの強さを誇ると思われた青年退魔師の意外な告白に、神刃は再び目を瞠った。

「お前みたいに未熟なくせに猪突猛進の馬鹿なガキが、一人で桜魔王を倒すなんてできっこない」

「――その通りです」

 背中に冷水を浴びせかけるような一言に神刃が頷く。間髪入れずに鵠が息を吐くように囁いた。

「だから」


「仕方がねぇから、俺様が手伝ってやるよ」


「え……?」

 思いがけない台詞に、神刃は返す言葉を失った。

 ただ呆然と、ぽかんと口を開けて鵠を見上げる。

「昔、どこかのお人好しな退魔師が未熟だった俺を助けたくらいにはな」

 神刃に言葉を向けるようでいて、その実、鵠の目に映っているのは彼の姿ではない。

 今の神刃ぐらいの年頃の自分が一人の青年に助けられた、十年前の光景だ。

「ようやく思い出したよ。あの時、火陵が連れていた子どもがお前だってことを」


 ◆◆◆◆◆


 その青年は、“火陵”と名乗った。

 鵠と違い、誰にでも姓を名乗れるような生まれではないのだろう。穏やかな顔つきだがいつもどこか寂しそうな様子の青年。

 彼が連れていた子どもが神刃だ。

「あ、ああ……! 鵠さんって、もしかして……!!」

「なんだよ。お前の方が覚えていなかったのか? 俺にばかりしつこく勧誘を続けていたのは、てっきりそういうことだと思ったんだがな」

 驚いた様子の神刃に、鵠は眉を顰める。当時の年齢を考えれば仕方のないことだが、なんとなく気に食わない。

「いえ、その、俺も、鵠さんに対しては何か懐かしいような不思議なものを感じていたんですが……」

「ま、俺が火陵にくっついてたお前のことを思い出したのもつい昨日のことだしな」

 どうやら最初から、お互いに響くものはあったらしい。しかしその正体を思い出すのに、鵠も神刃も随分かかってしまった。

 そして神刃があの時の子どもだとわかった以上、鵠はどうしても彼に聞きたいことがあった。

「火陵はどうした」

 彼がここにいない。

 それが答の全てだ。本当はわかっている。

 それでも聞かざるを得なかった。

「亡くなりました」

 彼が育てていた神刃が一人で行動している。その時点でわかりきっていたことだが、鵠はどうしても尋ねずにはいられなかったのだ。

 予期された答に僅かな痛みが胸に走る。脳裏を過ぎる幻影を振り払い、再び質問を続けた。

 神刃にとっても辛い問いかもしれないが、その答を避けて鵠の協力を得ることなどできぬと考えているようだ。声は固いが口調は淀みない。

「……桜魔か」

「いいえ」

 退魔師として戦っていた火陵なら、いくら彼が強いと言っても、過酷な戦闘の中で命を落としてもおかしくはない。そう考えていた鵠にとって、神刃の返答は意外なものだった。


「火陵は自殺です」


「自殺だと?!」

 予想外どころの話ではない。

 こんな時代だ。希望を失い未来を悲観して自らの命を絶つ者は決して少なくない。桜魔の手にかかるよりもいっそと考える者だとて。

 けれど、あの火陵が?

 鵠は今でこそ最強の退魔師と呼ばれているが、決して自身をそんな風に思ったことはない。鵠にとっての最強の退魔師は常にあの日の火陵だった。

「何故だ。教えろ。あいつに何が起きたんだ?!」

 神刃は覚悟を決めるようにそっと息を吐いた。ここから先の話を聞くことは、鵠自身ももはや戻れない道へ踏み込むことへの証だ。

「正確には、ただの自殺ではありません。火陵は――心中したんです。先代朱櫻国王、緋閃と共に」

 王を殺して自分も死んだのだと、そう言った。

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