一夫一妻制の危機
聞き覚えがあるような、ないような、やっぱり気のせいかもしれないような名前…………
とにかく――そのリュセルなんとかとやらが、茶を飲みに来たというわけでもないのは確かだった。
「あのなあ、俺がこの世界を救ったのは自分の意志だ。自前で魔力をまかない、自ら揮って勝手にアンナノ(こいつ)を倒した。俺が欲しかったのは大金でも肩書きでもなく、ただの平穏な日々だ。今までもこれからも一切の軍閥とつるまんし、王家の犬になるつもりもねえ。この家でこうして静かに人生をおくらせてもらう」
この女騎士に恨みはないし、むしろ素敵な子だと思うが、本音なのだからしょうがない。
あの日、俺は死んだ。
いや、そんな具体的に振り返れるようなはっきりとした記憶はない。
それが何月何日の何時ごろだったかは知らないが、オンラインゲームをやり続けた結果、栄養の不足が限界を超えた我が肉体は機能を停止し、覚めない眠りについた。
もうネトゲが続けられないのは残念だ。
しかし、いい具合にファンタジー風味で体質との相性も最高最強なこの世界にこうして転生できたのだし、美女と気ままに暮らせるのだから今も悪くない。
「……ッ!?」
意識を眼前に戻すと、フードを外した来訪者がひざまずいていた。
うつむいた彼女の髪が揺れる。
その亜麻色は、滑らかに輝く我が妻のブロンドヘアーのような豪奢さこそないものの、素朴さと力強さの共存した少女らしい魅力を放ってやまない。
こうして俺たちは、フードを取った彼女のあまりの美しさに見入ってしまった。
「それを承知の上で、なおもお頼みしたいのです!」
かわいらしい顔がしゅんと曇っている。
「えっと……その、誰だっけ。リュセなんとかさん?」
「最年少で騎士団長になった、迅雷の戦乙女ワルキューレリュセル・フォン・キルヒアイゼン――マスターのかつやくが圧倒的すぎて印象がうすれてしまったが、先の大戦で英雄と呼ばれる女。そして、わらわに初めて傷を負わせた者」
「で、リュセル・フォンなんとかさんは何しに来たの? あ、魔王との決着なら遠くでヨロ」
「ぼ、ぼく――この身を……弟子にしてください!」
「あ、ごめんそれ無理。でも自分のことぼくって呼ぶタイプは嫌いじゃないんで、そのままたくましく生きてってください」
「たしかに、今や脅威は去りました。しかし、押さえつけられていた力が消えたことでどうなるのか? また国が乱れるかもしれない!」
「ボクッ娘は好きとは言ったが、勝手に話を進めてくタイプは――」
「のう、キルヒアイゼンよ」
顔を赤らめて力説する旧敵に、魔王が口を開いた。
「時代は変わった。ふつうならおぬしのもうす通り、次なる魔王の座をめぐって新たなわざわいがめぶくだろう。しかし、その力わらわを制したのが、この世すべてを敵にまわせど苦でない力マスター。この男があらわれてから争う者はおらず、戦を起こすやからも出て来ない世で、なにがためおのが剣をふるうのじゃ?」
「……だからこそ、だ」
小ぶりな唇を噛み締め、リュセルは声を絞り出す。
「ヴィッテンブルグ卿。貴公に近づきたい! その強さのかけらを少しでも、どうかこの身に……! ぼくは、あなたみたいに強く――ぼくは…………」
「リュセル・フォン・キルヒなんとか……要件はそんだけか? 俺は楽に生きたいんだ。弟子は取らん。リーリアのことでもねー限り、今の生活を変えはしない」
「では、その方をかけて、ぼくと手合わせしていただけますか?」
「なんだ、ぼくってお前……そっちのタイプだったか。どちらにせよ、人質は通用しねーぞ。俺がリーリアを切り捨てるわけがないし、そんな苦境に陥るようなこともやらかさん」
「いえ、リーリア殿を奪うのでなく――――」
まっすぐなその瞳に、いっそうの力がこもった。
「この身が勝った暁には、貴公の妻にしていただく」