Page 92
ゼロの鐘がなる前日まで書いたか。では翌日、ゼロの鐘がなる日の事を書こう。
その日は朝から大忙しだった。
何しろ鐘がなる時間までに、深淵の王朝へ移動しなければならなかったのだ。鐘がなる時間は正確に決まっているが、その時に混沌の使者が他国の領土にいるのは問題との話だ。
考えれば当然の事だ。それを許した場合、混沌の使者を相手の本拠地に移動させておけば、相手国に大きな痛手を与える事が出来る。
特にイェーガーのような戦闘タイプが生産拠点にいれば、それだけで戦力の低下は覚悟しなければならない。
「それじゃ、数時間後に落ち合おうや」
わたしを運び終えた後、信長を乗せた船はすぐさま出港した。近くの人に聞けば、鐘がなるまで後一時間程度との事だ。なるほど、彼らが慌てて出港したのも納得だ。
「お迎えに上がりました、一葉様」
出迎えてくれた人はジャスティンだった。そこでジャスティンは自分の専属メイドなのに、長い間ほったらかしにしていた事を思い出す。
原因はイェーガーなのだが、連絡を怠ったのは自分のミスだ。わたしはジャスティンに向き直ると、今まで放ったらかしにした事を謝罪した。
「い、いえ! お話はイェーガー様から伺っております。気になさらないで下さい」
なんて良い娘だと思わずにはいられなかった。しかしほのぼのした会話をする時間がない為、わたしは気を引き締め直すと、ジャスティンに現状を教えてくれと頼んだ。
「イェーガー様とJ様は攻め込む港街の前に布陣しております。パラケルスス様と焔様は少し後方の街にて待機中です。パラケルスス様だけイェーガー様の元へ移動する手はずになっております」
何故、一度布陣した後に移動するのか不思議に思ったが、イェーガーなりの思惑があるのだろうと思う事にした。
わたしはどうすれば良い、とジャスティンに尋ねると、その質問が来る事は織り込み済みなのか、彼女は淀みなく答えた。
「これから私と共に、イェーガー様の元へ向かいます。時間的に……途中でパラケルスス様と合流し、鐘が鳴ってから30分後にイェーガー様の布陣場所に到着する予定です」
忙しいスケジュールだと理解したわたしは、この場で話している余裕はないと思い移動しながら聞くことにした。わたしはジャスティンにそう伝え、すぐさま馬車へ乗り込んだ。
わたしを乗せた馬は全速力に近い速度で走り続けた。途中パラケルススを拾う時、小休憩を挟んだが、それ以外は馬にかなりの無茶をさせてしまった。
だがそれでも鐘の鳴る時間までに、わたしたちがイェーガーと合流する事はなかった。
「見て下さい! 鐘が姿を現しました!」
ジャスティンの言葉を聞いたわたしとパラケルススは、顔を出して空を見上げる。
物理法則を無視した巨大な鐘が浮かんでいた。漫画のような形をした鐘を良く見ようと凝視した瞬間、鐘は何かの力に引っ張られるように左右に揺れだした。
鐘の音が鳴り響く。どこにいようと、音が全ての生物に届くかの如く、鐘は大きな音を鳴らす。
一回、二回と続き五回鳴り終えた後、鐘は役目を終えたと言わんばかりに空気へ溶けるよう消えていった。
「始まったな」
若干、緊張の面持ちをしているパラケルススが呟いた。その言葉の意味を理解したわたしは、知らず知らずの内に乾いた口の中を潤すために唾を飲み込んだ。
「焦る必要はない。少年の出る幕は恐らくない」
どういう事だと尋ねると、パラケルススはいつもの眠そうな表情でわたしの問いにこう返した。
「世界に僅かしか現存しない吸血鬼は、恐ろしい存在だという事だよ」
最初は意味が分からなかったわたしだが、イェーガーが攻め込む港街に到着した瞬間、否応無く理解した。吸血鬼の恐るべき力と、それを自在に操るイェーガーの恐ろしさを。
港街は凄惨の一言では済まなかった。平時なら美しい街並みなのだろうが、今はその面影をどこにも残していなかった。
城壁はあちこちが崩れ落ち、巨大な正門は見るも無残な姿だった。あちらこちらから黒煙が上がっているが、その数が少ない事にわたしはほっと胸を撫で下ろす。
この港街は信長たちが拠点とする街と聞いている。もし炎が全てを焼き尽くしたら、信長たちとの間に亀裂が出来たかもしれないからだ。
「イェーガーの元へ行くぞ」
パラケルススはわたしに言葉を投げると、返事を待たず歩いて行く。流石に占領直後は危険と思い、わたしはジャスティンに布陣している所で待つよう頼んだ。
「分かりました。お気をつけて」
彼女は嫌な顔一つせず頷くと、深々と頭を下げた。彼女に笑顔で返事を返すと、わたしはパラケルススの後を追いかけた。
追いつくと城壁や城門の酷さに対し、街は殆ど無傷と言っても良かった。多少家が破壊されていたが、それも見る限り酷い損害とは言い難い感じだ。
「遅かったな」
街の広場に到着すると、豪奢な椅子に座ったイェーガーがいた。彼女はわたしたちに声を投げた後、肉塊を噛み千切る。
何の肉塊か気になったが、その時のわたしは聞かない方が良いと思い肉塊について尋ねなかった。周囲の状況から余り良い想像が出来なかったとも言える。
「ここは制圧済だ。今、Jが手足を連れて色々と調べている。まぁ事前に話を聞いていたが……とんだ下種野郎だぜ、こいつは」
言うと同時、彼女は足元の何かを踏み潰す。肉が潰れる音と共に、中年の男の悲鳴が広場に響き渡った。そこでようやく気付いたが、彼女の足元には男が数人倒れていた。
その内の一人、一番偉い雰囲気を漂わす人物の右手は、指がなかった。嫌な予感をしつつも、わたしはイェーガーの足元へ視線を移す。
男の左手は小指を残してなくなっていた。イェーガーの足元に血溜まりが出来ている所を見るに、彼女が男たちの指を一本一本踏み潰していったのだろう。
嘔吐感が込み上げてきたが、すんでの所で飲み込んだわたしは、イェーガーに何故こんな事をしたか問いただした。
「そ、そうだ。その男の言う通りだ。あ、貴女は少々誤解しているようだ。お互い、冷静に話し合おうじゃないか」
脂汗を浮かべた男が、媚びた笑みを浮かべながら言う。何か理由があるのか、わたしがそう思った瞬間、イェーガーは嫌悪感を出しながら男の小指を踏み潰した。
絶叫が広場に響き渡る。だがイェーガーは気にせず、男の左手の甲を踏み潰した。
「誤解? 冷静に話し合おう? 雑魚のくせに随分と上から目線じゃないか」
言いながらイェーガーは資料の束を広げる。その資料は人に知られたくない事が書かれているのか、中年男たちが大きく目を見開いて驚愕していた。
「この資料を見る限り、日之出国出身の人間は十五になりゃー男は収容所暮らし、女は貴様らの慰み者。誤解というのなら、何が誤解か言ってもらおうか」
「イェーガー、それは事実なのか?」
今まで黙っていたパラケルススが突然口を挟む。イェーガーは彼女に顔を向けず、男の右手の甲を踏み潰しながら頷いた。
「変われイェーガー。そいつらは許せん、子どもを穢すなど言語道断だ。ああ、丁度良い、新薬の実験体として使うか。成功率は天文学的数字だが、失敗してもデータは取れる」
それは成功しないと同義なのでは、と心の中で突っ込んだ後、懐から怪しげな色をした瓶を取り出したパラケルススを羽交締めして止める。
「邪魔するでない小僧! そいつらには地獄より辛い苦しみを与えねばならん。少女が私にささやく、報復せよと!」
それは貴女の妄想だ、と叫びつつ何とか落ち着かせる。少しして落ち着いたパラケルススだが、未だ怪しい色の瓶は手放していない。
「……仕方ない、健診でもしてくる」
わたしが警戒し続けている事を理解したパラケルススは、瓶を懐に仕舞うとその場を去った。
健診というが、対象は間違いなく少女限定であろう。
何しろパラケルススは医者として優秀だが、一つだけ重大な欠点がある。
彼女は子どもが好きだ。正確には十八歳以下の女の子が好きだ。つまり、彼女は女性同性愛の性癖があるのだ。
わたしやJは例外らしいが、それ以外の人間で男性患者を見たところは一度もないほど徹底している。医者になったのも合法的に少女に触れるからと豪語していた。
もしかして薬学に詳しいのも、と嫌な考えが頭をよぎったが、わたしには彼女にその事を尋ねる勇気はなかった。
「紅葉ちゃんと遊べなくてフラストレーションが溜まっているのだろう。何人か犠牲になりそうだが、まぁそこは放っておくか」
イェーガーの言葉にわたしは頭が痛くなった。何が気に入ったか知らないし、知りたくもないがパラケルススは紅葉をとても気に入っていた。
良い意味でも悪い意味でも人を疑わない紅葉は、パラケルススが下心満載である事に気付かない。
確かに紅葉は可愛い。我が妹とは思えぬほど器量が良いしスタイルだって良い。艶やかな長い黒髪から和風美人な雰囲気を醸し出している。
いや、落ち着こう。紅葉が可愛いのは否定しようのない事実だが、その事は後で幾らでも書けば良い。
話を戻そう。イェーガーの前で指を潰された人は、この港街の市長や警察の偉いさんとの事だ。脂ぎった中年太りの男たちからは、偉い人という雰囲気が微塵も感じられなかったが。
「さて市長さんよ、選ばせてやるぜ。ここで私に殺されるか、後から来る日之出国連中に殺されるか、どっちが良いよ」
どちらにせよ殺されるのでは、とわたしは心の中で突っ込む。何だか戻ってきて人に突っ込んでばかりな気がしたが、考えると虚しくなるのであえて意識しないようにした。
「く、ひひひひ。ど、どうせお前たちは我らの使者に殺される。せ、精々、今の内に偉そうな事を言っているが良い!」
やけくそ気味に別の男が叫ぶ。警察官に似た帽子を被っている所から見るに、彼は警察機関の偉いさんなのだろう。
彼の言う事は事実だ。領土戦争が始まった以上、奪われた領土を第四帝国が奪い返しに来るのは必然だ。その事を知らないイェーガーではないだろう、と思いわたしは彼女の表情を見る。
「第四帝国に期待を寄せているお前らに朗報だ」
そう言いながらイェーガーが懐から録音再生機器を取り出す。どこかにあるスイッチを押すと、その機器を彼らの前に放り投げた。
「……って事だ。おたくらが助けに来るなら、私は楽しみに待っているぜ」
「我が第四帝国は誇り高き国! 貴様の言う話が事実なら、やつらには死が相応しい!」
イェーガーの声が再生される。しかし機器には彼女以外の声が入っていた。三十台前半と思わしき男の声は、若干苛立っているように聞こえた。
「興奮し過ぎるなよ。で、証拠だが……このカメラを通して見られるか?」
「見ておる……むぅ、確かに我が国の公文書で間違いない。映像を加工した形跡もなし……ぬぅぅぅぅぅぅ!!! やはりあの話は事実であったか!?」
男の叫び声と同時に何かの破壊音が炸裂した。音から思い切り机を叩いて破壊したのだろうと推測した。そこから怒号と、男を宥めている人たちの喧騒が流れる。
イェーガーの話し相手はやたらテンションの高い人だなぁ、とわたしは流れる音声から感じた。
「失礼、見苦しい所を見せた」
「あんた、軍人に向いてないぐらい熱血的な人間だな」
「九歳の少女が下衆の慰み者になったと聞いて、怒りを覚えない人間は第四帝国にはおらぬ」
「そうかい。で、あんたとしてはその下衆連中には、どういった処罰を下すのだ?」
「無論、国民を無闇に嬲った罪で銃殺刑だ!!」
そこでイェーガーは録音再生機器を拾い、停止ボタンを押した。恐らくまた相手がお怒りになり、会話にならなかったのだろう。
「で、第四帝国の使者が何だって?」
顔色が蒼白を通り越して土気色になっている市長たちに対し、酷く楽しげな笑みを浮かべたイェーガーは優しく死刑宣告をする。
「市長さんよ、もう一度尋ねるぞ。私に殺されるのが良いか、それとも日之出国の使者に殺されるのが良いか、好きな方を選ばせてやるぜ」
今日はここまでにしよう。この時のわたしは人間が憎悪や怨念に飲み込まれた時、どれ程恐ろしい存在に変貌するか理解していなかった。
問題ない、まだわたしの身体は保つ。故にしばし休憩の後、記録の続きを書くとしよう。