寝て、起きて、ここはどこ?
周囲の騒がしさに引っ張られるように意識が浮上していく。個室の病室だというのにいったい誰が騒いでいるのやら。眠りに落ちてしばらくは、いつもの眠りと覚醒を行ったり来たりするつらい感覚に悩まされていたが途中から嘘のように身体が楽になったのを覚えている。ここ一年の間で一番といえる睡眠を得られたのに。後もう少しだけ惰眠をむさぼりたいというのに、この喧しさはそれを許してくれそうもない。
誰が騒いでいるのかは解らないが、恐らく看護婦か両親だと思い、眠いから静かにしてくれと言おうとした瞬間、身体を何かに持ち上げられる独特の浮遊感を感じた。何事っ!?と周囲を確認しようと目を開けて、
「あうあ!」
網膜が灼けて失明するのではないかと思える光量が目に入ってきた。と、同時に無意識に出た言葉が意味をなさない、ただの音として口から出てきた。
え?は?え?えぇ?
人間、パニックになってさらにその先があることを俺は初めて身をもって体験した。そうか、思考停止もしくは放棄するんだ。
目を開ければ殺人光線と言わんばかりの光量が目を襲い、言葉は意味をなさずただの音にしかならない。情報が少しでも欲しいので周囲の音を聞こうとするがひどいエコーがかかったようになって耳に入っても理解ができない。
視覚も聴覚もダメとなると残りは触覚と味覚か。味覚は論外なので触覚だ。とにかく何でもいいから触って情報得ようと体を動かす。触ったところで何が解るわけではないのだが藁をもつかむ思いだ。腕を振り回してみようとするが思うように動かない。いや、動きはするがまるで俺の腕じゃないみたいだ。同時に一つの予感が頭の中を過ぎった。
(あ、俺死ぬのか。)
そう思うと部屋の中の騒ぎにも納得できる。繋いであった心電図モニターの異常で医者が駆けつけてみれば死にそうな俺がいる。何とか延命しようと必死になっていると。言葉が紡げないのが口惜しい。もう十分だからこのまま寝かせてくれと、ただ一言も言えない。
そんな悔しさを感じていると、さっき浮上したばかりの意識がまた沈み始めた。成人は越えられないと言われた身体だったが二十数年保ってくれた。ぼろぼろの身体に感謝をしながら、できれば走馬燈は楽しいものでと願い俺は意識を手放した。
◆◆◆◆◆
で、死んだはずの俺は何故かまだベッドの上にいる。別に臨死体験だというわけじゃない。ついでに言えば死体安置所で目を覚ましたわけでもない。病院のベッドの上ではなく、ベビーベッドの上だ。さらに言えばいわゆる変態的な何かでもない。そのような趣味は持ち合わせていない。
結論を言ってしまえば、俺は赤ん坊になっていた。ここ数日でようやく見えるようになった目で自分の身体を見て、この先これ以上の驚きは無いのでは?と言えるくらいには驚いた。ぼやけながらも見える視界の先に自分の物とは思えないほど小さな、簡単につぶれてしまいそうな手が見える。いまもその手は俺の視界の先で俺の意志とシンクロして動いている。聴覚も目と同じようにだんだんとクリアに聞こえるようになってきた。
視覚と聴覚をフル活用して理解したことは、どうやら俺は転生して、ここがどこだかさっぱり解らないということだ。解っていることは、今いる部屋がだいたい20畳を超える広さであること、部屋の調度はどこか中世の様な時代がかったもので統一されており豪華ではなく品よくきれいにまとまった感じであること、両親とおぼしき人は二人とも健在で顔を見せに来てくれること、そしてメイドがいる。もう一度言う、メイドが居るのだ。それも、なんちゃってメイドではなく動きの洗練されたザ・侍女というべき存在が居るのだ。
これだけなら金持ちの道楽で趣味でこういう家にしているところではないかと思うのだが、問題はこの家の連中がしゃべっている内容が1ミリも理解できないのだ。地球上のすべての言語を習得したわけではないが俺が知っているどの言語にも共通した部分を見いだせない。英語でもなければロシア語でもなく欧州の言葉にも聞こえない。全く未知の言語だ。・・・もしかして異世界なのだろうか?
そんな堂々巡りに近い思考に耽っていると空腹感がこみ上げてくる。またあれをしなければならないのか。ここ数日繰り返しているとは言え未だにあれだけは慣れない。とは言えこのままでは餓えてしまうので、
「あーーー!あーーー!」
と、恐らくこの部屋の扉の向こうに行るであろうメイドに向けて叫ぶ。最初は赤ん坊よろしく泣こうと思ったのだが人間、何もなくいきなり泣くことは難しいようだ。結果、今みたいに取りあえず叫ぶことにしている。
叫び声をあげると3秒もたたない内に部屋のドアが開いてメイドが一人、入ってきた。視界が相変わらずボヤケているので詳しい容姿などは解らないがスタイルはいいのではないだろうか?そのメイドは俺に近づいてきて俺の下半身を覆っていた布、おしめを問答無用ではぎ取った。いや、そっちじゃないからと思うが伝わらないのでされるがままに任せる。はぎ取られたおしめは交換され、次いで背中に汗疹ができたのかと確認され、ようやく俺が空腹であることに気づいたようだ。
そのまま、俺を抱き抱えると部屋を出るとしばらく歩いて外にでる。その先にストレートの黒髪を背中まで流した女性が座っているのが見える。俺の母親とおぼしき人物だ。
「ーーーーーーー。」
「ーーーーーー。」
メイドと母親が何かを話すが相変わらず何を言っているのかさっぱり解らない。短いやりとりの後、メイドは俺を母親に渡して一歩下がった位置から俺達のことを眺める。
「ーーーーーーー。」
母親が俺に何か語りかけるが解らない。ただ、響きから俺の名前を言ったようだ。俺に向かって話しかけるときに毎回似た感じになるのだ。で、問題はここからだ。
母親はおもむろに片方の胸をはだけさせ俺の前に差し出す。いや、まあ、赤ん坊の食事だからこれが当たり前だと割り切ってしまえばいいのだがこれに慣れない理由がもう一つ。
(胸がでかいんだよ。)
生前、胸のサイズにこだわりは持っていなかったが、それにしてもでかい。思わず見入ってしますのだ。サイズの基準を詳しく知らないが推定FからGはあるのではと思える。
幸いに俺の身体が未発達なためか本能的なものかは解らないがこれを見て欲情するということにならないのは素直に嬉しい。この人物が母親だと理解はしても納得はしていない身には特にだ。実の母に劣情を抱くなんて、そんなタブーを俺は犯したくない。
犯したくはないんだが、精神が二十歳を過ぎているので母親のおっぱいを吸うという行為に抵抗を感じずにはいられない。下に関しては長い入院生活での中で体が動かせなくなることもあったので、垂れ流すことに申し訳なさはあっても抵抗は比較的薄いのだが・・・これだけは慣れる気がしない。
そんな思考を跳ね退けて乳を飲み終われば後はもう寝るだけだ。母親の腕に抱かれて意識が沈むのに任せながら周囲に視線を回す。視界にボヤケた緑の物体が大量に視界に入ってくる。どこだか解らないがどうやら自然が多いらしい。どうせ身体がまともに動くようになるまでに1年近くはかかるはずだ。それまでにはこの視力も、もう少し使えるようになるはずだ。そうなればまた、様々な情報が入ってきていろいろと考えることができる。後は言語だが、これは時間が解決するしかないだろう。幸い暇な時間は大量にある。まずは家にいる人の名前から始めればいい。そして生前出来なかったことをやろう。
当面の目標はたった。