狐につままれた話02
世界がぼんやりとした灰色雲に囲まれているのに。
目の前の情景に、ビニール傘が手からすり抜けていった。私はこの安っぽい傘を愛している。何故なら、上を向けば無数の雨粒が透けて見えるから。それに、今日みたいなぼんやりとした灰色世界も。私は雨が好きだ。一度大雨の中、失恋に溺れて大泣きしてみたいものだ。
しかし、今の私には涙を出せるかどうか。喉元から声を発しようとするだけで、彼に気づかれ惨殺されてしまいそうだ。
横たわる白い狐。死体と思われるそれから流れる血が、コンクリートを打つ雨と入り混じり、彼女の死体を核とするようにじんわり広がっている。でもその華奢な足元を持つ死体からは、一切生臭さなんて感じさせられないのだ。むしろ美しいとすら思う。彼女はこころを失ったことで、ようやく美しさを手に入れられたのだ。この世界にありふれる物欲だとか性欲だとか七つの大罪に分類されそうな煩悩全てが消え失せ、ようやく、ようやく彼女は。
「シャチくん」
美しい死体を見下していた、ある男の名前を呼んだ。彼は決してありふれてなどいなかった。彼はこころの奥底から私を愛しんでくれていた。それは決してありふれてなどいなかった。付き合ってからほにゃららヶ月目などとハートマークでソーシャルネットワークに投稿するような輩などとは違った。彼らは何度も過ちを繰り返すのだ。
「……ン」
微かに返事のようなものが聞こえた、気がする。それはもしかすると、落ちたビニール傘の金属部分に雨粒があたった音だったかもしれない。
私はばしゃばしゃと雨を踏んで走った。彼はじっと私を見ていてくれた。
そして辿り着いた。私とシャチくん。それを隔てる狐さえいなければ。
「なんで殺したの」
「俺を誘惑したから」
なんで、誘惑したから……って、そんだけの理由で。なんて訊くのは野暮だ。彼はありふれてなどいなかった。一度でも癪に障られることをすると殺す、一度でも自分を惑わそうとした面倒なものは殺す、一度でも美味そうだと思ったものだと狩り殺す。一度でも返事のミスをするとバッドエンドになるゲームのようなものなのだ。ただ、結局死ぬだけだ。
だから、彼のことを分かってあげられなかった白狐さんがいけなかったんだ。そう思ってしまう自分もかなり狂っている。わかっている。でも治す気などさらさらない。
「腕、白狐さん」
「昨日の帰りぶつかってきたから、折った」
理不尽だ。他人だったら雨の寒さと恐怖で震え上がって腰が抜けているレベルだ。理不尽とはそれほどまでに恐ろしい。というか、狂気だからね。でも彼は私にはそんなことをしないって、お願いしたってしてくれないって分かってる。
死体の毛が薄汚れ始めた。シャチくんが屈み、死体裏から何かを拾った。傘だ。しかもビニール傘。私が大好きな。
「濡れるぞ」
私に差し出すシャチくん。でもおかしい。
「シャチくん濡れるよ」
「俺図体でかいし、濡れても平気」
まぁ、平気だね。そうだね。そうだけれども。私は平気じゃない。
たったったっと走り、私が呆然と死体とシャチくんを見ていたところまで戻る。雨水が錘になったビニール傘が残っていた。
「私はこっちあるから、平気」
水を落とそうとして自分の足元にかけてしまった。びちゃぁ。あーあ、不愉快。
「一緒に帰ろうぜ」
「えー、死体処理はどうするの?」
「いいよ。見えなくなるだろうから」
「はぁ?」
「あいつ、皆から“水のように透き通っている美しい存在”って言われてたから」
「そっか。じゃあそうなんだろうね」




