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「兄さん、見て。チェリーパイを作ったの。美味しそうでしょう」

 そこに見えるのは俺の妹、カレンの輝くような笑顔。庭のテーブルには暖かい日の光が降り注ぐ。赤いチェックのテーブルクロス。母さんのお気に入りのウエッジウッドのティーセット。幸せそうな両親の微笑み。俺はチェリーパイを切り分ける。

 一口齧ると、甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がっていく。ああ、俺はなんて幸せなんだろう。このまま、そう、このまま、いつまでも……。


「デビィ……デビィ!」

 うるさい。誰だ。俺はゆっくりと目を明けてみた。そこには見覚えのあるペールブルーの瞳。

 俺は……俺には意識がある?

「レイ……か?」

「デビィ、俺が分かるのか!」

 レイは本当に嬉しそうな顔をして俺を見ている。

「気分はどうだ?」

「ああ、まだ頭がぼうっとしてるけれど、どうにか大丈夫みたいだ。俺はひょっとして助かったのか?」

「意識が戻っているから、たぶん大丈夫だろう。よかった。身体に回る前にウィルスを吸い出せたみたいだな」

 ウィルス……ウィルスって吸い出したくらいで除去できるものなんだろうか。まあ、いい。とにかく俺はゾンビにはならなかったようだ。

「厨房のドアから外に出られる。すぐに逃げよう」

 俺はリュックを担ぎ、ベルトを嵌めてレイと共にそっと廊下へ出た。だが、そこにはまだゾンビ達がうろうろしている。鉈を持った長身のゾンビが俺達の行く手に立ちふさがった。レイが剣を構える。だが、男は俺達を無視して歩いていってしまった。これはどういうことだ?

「何だ、あいつ。腹いっぱいなのかな?」

 俺が呟くとレイも不安そうにしばらく俺の顔を見ていたが、何も言わずに歩き出した。階段の近くまで行ったとき、俺は猛烈に腹が減っていることに気が付いた。喰いたい。どうしようもなく喰いたい。あれは……あれは何処だ?

 廊下にある死体のひとつに目をやった瞬間、その衝動はいきなり襲い掛かってきたのだ。

 頭をもがれ、転がった男の死体の白い腹。ああ、なんて美味そうなんだ。俺はレイから剣を奪い取ると男の腹を切り裂いた。吹き出る血。傷口から手を突っ込んで、まだ暖かい肝臓を取り出し、夢中で齧りついた。美味い! なんて美味いんだ!

「デビィ!」

 その悲壮な叫び声に俺は我に返った。

「うわ……あああああ!」

 人を……人の肉を喰ってしまった。畜生! やっぱり俺はゾンビになったんだ。いったいどうして……。レイ……口の回りの血……そうか、畜生、こいつが!

「てめえ……余計なことしやがって!」

 俺はレイを殴りつけた。何度も何度も。

 レイはまったく抵抗しなかった。気が付くと彼は廊下の壁に寄りかかり、呆然とした顔で俺を見ていた。

「余計なことって……どういう意味だ?」

「お前が俺の血を吸い出したせいだ。お前は歯が折れて口の中に出血していた。たぶん、その血がゾンビ・ウィルスを変化させてしまったんだ。冗談じゃねえぞ! てめえのせいで俺は意志を持ったままゾンビとして蘇ってしまったんだ。放っておいてくれればそのまま死ねたのに!」

 俺はレイの腕を掴み、その手に剣を握らせた。

「殺せ。この場で俺を殺してくれ。俺はこれ以上生きていたくない」

 レイは固く剣を握り締めて、俺を見た。手が細かく震えている。

「駄目だ……俺には殺せない……」

 レイの憐れみを含んだ表情が憎い。俺はまたレイの顔を殴りつけた。悲しかった。どうしようもなく悲しかった。

「生きていたって……もう、家には帰れない……」

 俺は剣を奪い返して持ち替え、自分の首に当てて一気に切り裂いた。


 気が付くと俺は部屋のソファの上に寝かされていた。慌てて首に手を当ててみる。首の傷はいつの間にか塞がっていた。サンディに齧られた腕の傷もだいぶ治ってきている。

「気が付いたか? デビィ」

 レイが紙コップをふたつ持って俺を見下ろしていた。

「再生能力だ。どうやら俺の血はお前を不死身にしたらしい」

 俺は起き上がり、じっとレイを見詰めた。

「俺は不死身になんかなりたくなかった。殺して欲しい」

「すまなかった。結果的にこうなってしまったことは申し訳ないと思ってる。でも、死んでしまったらもう家族には会えないぞ、デビィ。俺が何とかする」

「何とかするって、どうするんだ」

 レイの差し出すコップを手に取った。中身はただの水だった。

「しばらくは一緒に暮らすよ。お前が食人衝動を理性で抑えられるようになるまで、俺は一緒にいてお前を守っていこうと思っている。これは全て俺の責任だから」

 レイが俺と暮らす? こいつと生活を共にするのか。冷たい水が喉を潤し、おぞましい血の味を洗い流していく。乾いた血で汚れた手を見て思った。もう、この現実を受け入れるしかないのか。

 よく考えてみれば、これはレイのせいではない。ここに無理やり来たのは俺だし、さっきの行為だって俺を助けようとしてのことだ。

「……すまなかった、レイ。殴ったりして」

「いや。気にしてないよ」

「俺、普通に暮らしていけるだろうか」

「大丈夫だ。お前は息もしてるし、脈もある。見た目は普通の人間と変わらない。他のゾンビのように次第に腐敗していくなんてこともないから安心しろ」

 レイは水を一気に飲み干した。

「とにかく早く外に出よう。このままでは終わらない気がするんだ」

 

 俺達は六階から一部屋ずつ声を掛けていったが、何処からも返事は返ってこなかった。四階に下りてみると、すでに蘇ってゾンビになった人々が新しい犠牲者を求めて歩き回っていた。こじ開けられた部屋の中は血に染まっている。もう生存者は残っていないようだ。いや、もし残っていても、そいつを襲わずに我慢することが出来たかどうかは分からないが。どの階にも数台のカメラがあって、ゾンビの群がる死体の回りをうろうろと動き回っている。壊してやりたかったが、そんなことをしても時間の無駄だろう。

 俺達は一階に降りると、ゾンビたちの間を擦り抜けて厨房に入った。

「デビィ、おそらく奴らは誰一人、生かして逃がす気はないはずだ。外へ出たら気を付けろ」

 厨房の中には斧を持って壁際に寄りかかって座っているゾンビが一人いるだけだった。

「レイ。俺は一応、大広間とロビーに生存者がいるかどうか確かめてくるよ」

「分かった。気をつけろよ」


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ 


 レイはドアをそっと開けて外を窺った。意識は全て外に集中させていた。

 だから背後から突然、ガタン、という微かな音が聞えたときも、てっきりデビィが戻ってきたものだと思ったのだ。

「デビィ、ずいぶん早……」

 レイは一瞬、何事が起こったのか分からなかった。咄嗟に右手で身を庇い、自分を襲ってきたものをよけたつもりだった。身体が床に投げ出される。噴出した大量の血液が床にCの字を描いたのが目に入ったときも、自分の身体に何が起きたのか認識できずにいた。刃が描く鋭い閃光をかろうじてかわし、剣を構えようとしたその時、レイは自分の右腕の肘から先がないのに気が付いた。

 強烈な痛みが一気に押し寄せてきて、レイは叫び声をあげて身を捩った。だが、斧はまだ自分を狙っている。素早く身体を転がして攻撃をかわし、左手で身体を支えて何とか立ち上がった。

「よお、兄ちゃん。さっきはよくもやってくれたな」

 レイの前で男は斧を構えながら白い歯をむき出してにやり、と笑った。ヘラクレスのような体格。ランニングから覗く色黒の腕の蛇の刺青。角刈りにした金髪。こいつ、昼間の酔っ払いだ。

「お前は連中の仲間か?」

「連中? いや、俺はここから生きて出てくる奴がいたら殺せと言われてるだけさ。お前の口から覗いた長い牙はこの目でしっかり見たぜ。ヴァンパイアめ、まさかこんなところで会えるとは。俺は運がいいぜ」

 男はレイの首を狙って力まかせに斧を振ってきた。断ち切られた空気が唸りを上げる。レイは咄嗟に腰を屈めて何とか斧から逃れ、落ちている剣に手を伸ばして拾い上げ、立ち上がった。だが、痛みで腕が震えてうまく剣が掴めない。男はレイの剣を斧で一閃して弾き飛ばした。と、同時に強烈な蹴りをくらい、レイは床に倒された。男は下卑た笑い声を上げながら呻いているレイの横に立ち、その腹を強く踏みつけた。

「じたばたしたって無駄だ。お前の首は俺のものだ!」

 男が大きく斧を振りかざす。レイは男の顔を睨みつけるのが精一杯だった。だが、突然、男は顔を歪め、呻きながら斧を落としてその場に崩れ落ちた。その背中には大きな鉈が突き刺さっていた。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「レイ……! ああ、酷いな。立てるか?」

 俺はレイに手を貸して立たせた。畜生、こいつを一人で行かせたりするんじゃなかった。まさかあの斧男がここにいたなんて。

「大丈夫だ。二日もたてば元に戻るよ」

 レイは残った二の腕をきつく握りながら少しだけ笑みを浮かべた。その身体は細かく震えている。

「デビィ。俺はさっきのレストランで、こいつが出した生首を見たとき、母さんのことを思い出したんだ。彼女は俺の目の前でハンターに殺された。そいつは母さんの首を持ってニヤニヤ笑っていたよ。……こいつみたいにね」

 レイは倒れている男を憎々しげに睨みつける。俺はかけるべき言葉を見つけることができなかった。

「それより、とんでもないものを見つけた。その流し台の下を見てみろよ」

 彼の言葉に促されて覗いてみると、妙なものが流し台に張り付いているのが見えた。

「これは……ひょっとして爆弾か?」

「ああ、外してみろよ」

「お、俺がか?」

「お前、まさか怪我人にそんなことをさせようなんて思ってないよな」

 仕方なく、腕を伸ばして爆弾を取り外した。聖書くらいの大きさの青いプラスティック爆弾。コードが巻かれ、信管と時限装置がついた簡単なものだが、破壊力は相当なものだろう。

「爆破時刻はいつになってる?」

「あと十五分だ」

「ちょっとその爆弾を見せて」

 俺はレイに爆弾を渡した。

「おい、デビィ。そのリュックも貸してくれ。大事なものは取り出しておけ」

「いいけど。何をするんだ?」

 財布や手帳を取り出したリュックを渡すと、レイはリュックを口に咥えて左手で爆弾を入れた。

「おい! お前……」

「これは俺が持っていく。必要になるはずだ」

 俺は剣を拾い上げて鞘に収め、レイはリュックを左肩に引っ掛けた。

「さあ、急ごう、デビィ。時間がない」

 レイは先だって歩き出した。


 ドアを出て、数歩も歩かないうちに銃声が鳴り響いた。銃弾は俺の腕を掠めて外壁に当たった。

「驚いたわ。まさか生き残ってる人がいたなんてね」

 そこには三人の人間が立っていた。俺の目の前には昼間のスーツ姿のまま、大きなショットガンを持っている女。その横で、同じくショットガンを持ってレイに狙いを定めている男。こちらは髭面にダンガリーのシャツとジーンズ。ふたりからちょっと離れて銃を構えている男、あれは昼間レイに言い寄っていた野郎だ。女はゆっくりと近付いてくると俺の胸に銃口を向けた。しまった。この距離では剣は届かない。

「正面玄関からは誰も出てこなかったし、こっちにはあの斧男がいるから安心していたんだけど。来てみてよかったわ。それにしても、タフね。あの乱暴者をやっつけたなんて」

 女は俺の顔を眺めながら、ちょっと笑みを浮かべて困ったような顔をしてみせた。

「あんた達には気の毒だけれど、これはお国のためなのよ。貴重な軍事実験なの。そうよね、ロイド」

「そのとおり。おい、そこの君、怪我をしてるのか? 俺の誘いに乗ってればこんな目には遭わせなかったのになあ」

 ロイドと呼ばれた男は下卑た笑いを口元に浮かべながらレイを見ている。

「おい、ジュディ、サム、さっさと殺せ。もう時間がないぞ」 

「分かってるわよ」

 女がトリガーを引き絞る。俺は昼間ポケットに捻じ込んだものを咄嗟に思い出した。

「撃つんならさっさと撃てよ、間抜け!」

 突然のレイの声。そして銃声。女が気を逸らした瞬間、俺はスプレーを取り出してストッパーを外し、女の顔目掛けてまっすぐに噴射した。行け! 『スーパー・ペッパーマン』!

「ぎゃっ!」

 女が真っ赤に染まった顔を手で覆う。レイを狙って撃っていた男の気が一瞬逸れた。すかさずレイが男に飛びかかった。倒れても必死で抵抗する男に覆いかぶさり、その首筋に鋭い牙を突きたてる。ひくひくと痙攣する男の手足はやがて動きを止めた。

 女がやたらに銃を振り回しながら、迫ってきた。俺は戸惑った。この女をどうしたらいいんだろう? そうこうしてるうちに銃口が俺の鼻の上にぴたりと止まった。女が真っ赤な目を見開いて歯をむき出す。身体が硬直してしまったように動けない。と、突然、レイが俺の剣を奪い取り、女の胸を背中から一突きにした。レイはふうっと溜息をついて吐き捨てるように言い放つ。

「デビィ、ためらうな。命取りになるぞ」


「う、うわー!」

 ロイドはがたがたと身体を震わせて、デタラメに銃を撃ってくる。そのうち弾が尽きたのか、カチカチという虚しい音だけが響いてきた。

 俺は奴に近寄って、首根っこを掴んでやった。

「おい、いったい、これはどういうことだ。説明しろ!」

「お、俺はよく分からない。ただ、人間がゾンビに食われるところを写せと言われただけだ」

「あの、庭にある建物でか?」

「そうだ。あそこのモニターでホテルの中を見ながら遠隔操作で撮影してたんだ。お前の仲間が右往左往してゾンビ共に食われるところは面白かったぜ」

「黒幕は誰だ? 軍か?」

「まあな。でもそれだけじゃねえ。こういうビデオは好事家共に高値で売れるんだぜ。ただのスナッフ・ビデオに飽きた奴らは金に糸目をつけないからな」

「くそ! 蛆虫野郎!」

 俺はロイドの首を絞めあげた。だが、突然、左腕に激痛が走り、思わず手を離してしまった。見ると小型のナイフが深々と突き刺さっている。ロイドは素早く踵を返し、門に向かって走り出した。レイがすかさず俺のリュックを掴んで後を追う。くそ! あんな奴に刺されるなんて。俺は歯を食いしばってナイフを引き抜いた。どろりと血が噴き出したが、そんなことはどうでもいい。剣を拾い、レイの後を追った。


 ロイドは門の近くに停めてあったバンに辿りつくと、慌ててドアを開けた。今にもドアを閉めようとしたとき、レイが追いついて運転席に上半身を捻じ込んだ。ロイドとレイはしばらく争っていたようだが、いきなりレイが突き飛ばされた。

 レイは地面に投げ出され、バンは急発進した。

 レイは素早く立ち上がると俺のほうに走ってきて、飛びついてきた。俺達はそのまま地面に倒れこんだ。。

 凄まじい爆発音。車はまるで火山のように盛大に火を噴き、吹き飛んだ。と、同時に地面を揺るがすような轟音と共にホテル全体が火を噴いた。地獄の炎だ。

 

「レイ、お前……」

「ああ、お前のリュックを投げ込んでやったんだ。車の中には黒い本みたいなものがダンボール箱にぎっしり積んであったよ」

「そいつはビデオテープだな。それにしても凄いな。爆発の時間、時計も見ずに分かるなんて凄い時間感覚だな。ヴァンパイアの能力なのか?」

「ああ、時間か。いや、能力なんてない。単なる勘だよ」

「勘って……ひょっとしていつ爆発するか分からなかったのか?」

「そう。よかったよ、先に爆発しなくて」

 そう言いながらけろっとして無邪気な笑みを見せる。こいつ……かなり危ない奴かもしれない。

 俺達はゆっくり立ち上がった。死体もゾンビ共も全て灰になる。おそらく、この後、残った証拠は差し替えられ、消し去られるのだろう。この爆発もテロリストのせいにされるに違いない。

「終わったな」

「ああ、そうみたいだな。酷いもんだ」

 俺はまた衝動が湧き上がってくるのを感じた。

「レイ……我慢できないんだ。いいだろうか?」

 レイは俺を見て悲しそうな顔をしたが、何も言わずに頷いた。俺は燃え盛るホテルの方へ戻ると、倒れている女の腕を剣で切り落とし、齧りついた。その肉は今まで食べたどんな肉よりも美味かった。涙が出てきた。ああ、俺はもうすっかり化け物になってしまった。もう、人間に戻ることは出来ないんだ。

 

 俺達は丘の先に広がる森に辿りついた。空には蒼い月の影。ホテルの業火はますます激しさを増し、遠くからヘリの爆音が微かに聞えてくる。

 中途半端なゾンビになった俺とヴァンパイアのレイ。

 ふたりの物語はこうして始まったのだ。

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