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レイは窓の外をじっと眺めていた。
あの女、いったい何を考えているのか。ずっと感じている、この嫌な予感は何なのか。
とにかくデビィに降りる気がない以上は、俺が一緒に言ってみるしかない。願わくばこの予感がただの杞憂で終わりますように。ああ、俺は誰に願っているんだろう。神なんてヴァンパイアには何の意味もないのに。
「あの、お一人ですか?」
レイが気が付くと隣の席にいつの間にか男が座っていた。黒い髪を肩まで伸ばし、牛乳瓶の底みたいなメガネを掛けた男。その視線はレイの顔にじっと注がれている。男の赤いチェックのシャツの襟元から胸毛がはみ出している。
「違います。連れがいますし」
「ああ、そうですか。それは残念。ここに座っていても構わないですよね?」
「それは、まあ……」
男はレイににっこりと笑いかけた。レイは背中につめたい汗が流れるのを感じたが、逃げ出したい気持ちをどうにか押さえ込んだ。男はリュックから何やら四角い機会を取り出して使い始めた。レイにとっては初めて見る機械だった。画面が動いているところをみると小型のテレビだろうか。
「あの……それ、テレビですか? ずいぶん小さいんですね」
「え? ああ、これは普通のパソコンですよ。テレビは見られません」
パソコン……?
「あの、何ですか、パソコンって」
「え? パソコンを知らないんですか? あなたは何処から来たんですか?」
レイは急に恥ずかしくなった。三十年。ギャップはあまりにも大きすぎる。
「ああ。俺は長いこと、その……インドの山奥で暮らしていたんで何も知らなくって。教えていただけますか?」
「そうなんですか。いいですよ。じゃあ、説明しますよ。インターネットは知ってます?」
男はレイが自分に話しかけてくれたのが嬉しかったのか、一生懸命、説明してくれた。
「ありがとう。本当に何も知らなくて」
レイは男に極上の笑みを見せた。男は急に顔を赤くしてしどろもどろになってしまった。
「い……いや。別にそんな……」
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俺はレイが気になって、立ち上がって後ろを覗き込んだ。
何だかやらしい感じの男がレイに顔をくっつけるようにして、パソコンを見せている。レイの瞳は新しい玩具をもらった子供みたいに輝いている。男の手が彼の肩にさりげなく掛かったのを見て、俺は心配になった。あいつ、また爆発しないといいが。
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レイは男の手を掴んでそっと外した。
「すみません。連れが呼んでるみたいなんで」
「あ、あの……よかったら今晩ご一緒しませんか?」
男の誘いの言葉を無視してレイは立ち上がり、デビィのいる席の方へ歩き出した。
男はチッと小さく舌打ちした。
「助けてやろうと思ったのに……」
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どすん、と不機嫌そうに隣の席に座り込んだレイの顔は真っ赤だ。
「ったく、この世界はどうなってるんだ? ゲイばっかりじゃないか!」
「いや、そんなこともないさ。ただ、お前が奴らを惹きつけてるだけだよ」
レイは俺をちらりと睨みつけるとこう言った。
「おい、デビィ。席を替わってくれ。俺は景色が見える窓際じゃないと嫌なんだ」
ひえ、なんか、こいつガキんちょみたいな奴だな。
「分かったよ。好きにしろ」
「あと、ヘアブラシを持ってたら貸してくれ。ヘアが乱れた」
俺が貸したブラシに汚いとかなんとか文句をつけながら、長い髪を梳かすレイの仕草をぼんやりと眺めているうちに、俺は眠くなってきた。腕を組んで目を瞑る。このバスが向かっているのはいったいどんなホテルなんだろうか? レイは何が気になっているのか。明日になったら家に電話をしよう。ずいぶん連絡を取ってないから母さんは心配してるだろうな。妹の恋は上手くいってるんだろうか。それから……。
「おい、デビィ。起きろよ」
レイに肩を揺さぶられて俺は目を覚ました。
「窓の外を見てみろ。おかしいと思わないか?」
俺は窓の外を眺めてみた。あたりは既に暗くなりかけていて、行過ぎる町の通りには外灯の灯りもちらほらと点き始めている。
「何が? 何も変じゃないぜ?」
「灯りだよ。これだけ暗くなってるのに、家の中に灯りの点いている家が一軒もない。それに」
「それに、なんだ」
「さっきから一度も他の車と擦れ違わないんだ。それだけじゃない。前にも後ろにも車は一台も見えない。走っているのはこのバスだけだ」
「それは変だな。だけどたまたま、そうだってだけじゃ……」
「誰も人が歩いていないこともか?」
そういえば、歩道にはひとっこ一人見えない。
「きっと何処かで集会でもあって、みんな出かけてるんだろう」
「……そうだったらいいけどね」
レイはじっと窓の外を見つけたまま黙り込んだ。
俺はバスの中を見回したが、みんなお喋りに夢中で外のことに気付いたものは誰もいないようだ。
何となく不安を感じないでもない。いや、これはきっと思い過ごしだ。それより、タダで飯が食えて泊まれることの方が重要だった。
バスはやがて道を逸れ、丘を登り始めた。丘の頂上にあるホテルは高い塀に囲まれてひっそりと佇んでいた。
ホテルは六階建てで、郊外のオフィスビルと言ったほうがいいような簡素で無個性な外観の建物だった。庭の左端には小さなプレハブの建物が見える。後から作られたような感じだが、何の施設だろうか。玄関前には既に二台のバスが停まっていた。
「さあ、皆さん。到着しました。『ホテル・ダンウィッチ』へようこそ! どうぞ中にお入りください。今後の予定をご説明させていただきます」
女の言葉に従って俺達はぞろぞろとホテルの玄関からロビーへと入っていった。ここもまた、実にあっさりとしたロビーだった。ベージュの絨毯の上にあるのはカウンターといくつかのソファとテーブル。豪華な花や絵画といったものは何一つ飾られていない。俺達も含めてパッカーの数は百数十人くらいか。男だけのグループ。女だけの華やかなグループ。中年の夫婦。外国人らしきグループ。そして一人旅の様々なスタイルのパッカー達。
「ようこそいらっしゃいました。これから皆さんにはお部屋を割り当てます。グループごとに人数をおっしゃってください。それから、午後七時からこのロビーの奥にあります大広間でパーティを開きます。今から一時間後ですので遅れないようにいらしてください」
何処かのグループから、歓声と拍手が聞えてきた。
「それから、これだけはご承知おきください。このホテルからは、明日の朝まで出ることはできません。ドアには全て鍵が掛かっています」
ざわざわと不安げな声がそこここから上がりだした。
「どうして出られないんですか?」
「実をいいますと、以前から私たちの活動を快く思わない団体がありまして、この企画を妨害してくるかもしれないのです。それで安全確保のためにもこの建物を出ないでいただきたいのです」
女の説明には説得力があった。いや、説明よりもその自信に満ちた喋り方に説得力があったのかもしれない。それで、皆、納得したのだ。レイ以外は。
「それじゃ、俺達は明日の朝まで監禁状態ってわけですか? この中で何があっても?」
レイの声に皆が一斉に振り向いた。女は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに笑顔を取り戻してこう返した。
「ええ。でも、そういう状況っていうのも何となくスリリングで素敵でしょう? 映画みたいで。それから大丈夫ですよ。ホテルの周りは警備員が大勢見回っていますし、中は安全ですから」
回りから安堵したような笑い声が上がった。
レイは女からすっと目を逸らすと、ひとりで窓の方へ歩いていってしまった。
部屋割りが終わり、俺はむすっとしたままのレイを連れてエレベーターに乗り、六階の部屋に行った。
これもまた簡素な部屋で、ベッドとソファと小さなテーブル以外には何もない。リュックを床に置いてソファに沈み込んで、俺はようやく落ち着くことができた。
レイはさっさとバス・ルームに消えてしまった。シャワーの音を聞きながら、俺は昨晩のことを思い返していた。今考えると恐ろしい出来事ばかりだったが、結構楽しめた。ヴァンパイアとしてこの世界を生き抜くことは大変だろうけど、また何処かで彼に会うことが出来たらいいなあと心から思った。
レイがバスタオルで髪を拭きながら出てきた。陶器のような白い肌に輝くストレートの金髪。羽根をつけたらそのまま天使じゃないかと思う中性的な美しさ。ああ、どうしてこいつは女じゃないんだ!
「ジロジロ見るなよ。いやらしい」
「お、お前が裸で出てくるからじゃないか!」
女……か。そうだ。パーティでいい女と出会えるかもしれないな。
その後、すぐに俺もシャワーを浴びた。汗臭いし、着替えたいがレイに貸してしまったので脱いだ服をまた着込む。
部屋に戻ると、レイはソファに座って新聞を読んでいた。
「ずいぶん人間の世界は変わったんだな。なんだか分からないことが多すぎるよ」
「まあな。今じゃドイツだって一つになってるし。ソビエト連邦も崩壊したし」
「本当か? じゃあ、もう火星にも行ってるのか?」
「いや、まだだ。月には行ったみたいだけどな」
部屋の時計はそろそろ七時になろうとしていた。
「おい、レイ。パーティーに行こうぜ」
「行かない方がいい、デビィ。これが最後の晩餐になったら洒落にならないからな」
とんでもなく不吉なことを言うレイに俺はちょっとイラついた。
「もう止せよ。お前は心配しすぎだ。とにかく俺は行くからな。腹が減ってるんだ!」
俺が部屋を出て行こうとすると、レイはしぶしぶ追いかけてきた。
「皆さん、『パッカーズ』主催のパーティへようこそ。全て無料ですので、どうぞごゆっくりお楽しみください」
大広間に入っていくと、壁のスピーカーからさっきの女の声が流れた。
そこには既にたくさんのテーブルが並べられていた。フライドチキンやサラダ、様々な食材が大きな皿に盛られている。立食パーティか。俺はさっそく皿を取ってテリーヌとかトリュフとか高そうな食べ物を選んで皿に入れた。レイはサラダを少し取っただけで窓の傍へ行ってしまった。たくさんのグループがビールやワインを飲みながら談笑している。ポップ・ミュージックが賑やかに流れ、パーティは穏やかに続いていた。だが、俺は何となく妙な感じがした。従業員らしき人間がまったくいないのだ。いくらセルフ・サービスとはいえ、会場に誰もいないというのはおかしい。大広間の右奥にある厨房との境の両開きのドアのところに行ってみたが、鍵が掛けてあるのか開かない。いったいなぜ?
「ねえ、あなた、確かさっきレストランにいたわよね。いま、ひとり?」
先ほどのレストランで一緒だったピンクのTシャツの女の子が声を掛けてきた。赤毛のロングヘアにそばかすの活発そうな彼女はなかなかチャーミングだ。
「いや、連れはいるけど構わないよ」
「そう。あたしは一人旅なの。さっき一緒だった人達は途中で一緒になったんだけど、恋人どうしでいちゃついてるから嫌になっちゃって。あの、連れってさっきレストランで誰か殴ってた人でしょ? あなたの恋人なの?」
「違うよ。たまたま知り合っただけさ。俺も彼もゲイじゃないし」
「ふうん。ねえ、あなたってなかなかハンサムね。今夜あたしの部屋に来ない?」
やった! やっぱり俺ってモテるじゃねえか。
「君も魅力的だね。喜んで行かせてもらうよ」
「あたしはサンディ。ロスから来たのよ」
「俺はデビィ。偶然だね。俺もロスからなんだ。大学はどこ?」
俺達は話に夢中で、先ほどの疑問はいつの間にか吹き飛んでしまった。ましてやホテルの外で何が起きつつあるのかは知る由もなかった。