寝顔ってその人の本性が現れると思わない?
そろそろと扉を開いて、ベッドに近づいていく。扉を開いた時点で気づいていたのだが、サキはその女性を抱きしめていた。と言うよりも、サキが未来の自分自身を抱きしめているように見えると言ったほうが正確かもしれない。
そして私は女性の顔を見つめる。
この女性は目覚めた時にサキを見て、何も思わないのだろうか。私だったら間違いなく混乱する自信がある。
どう考えても、すべての鍵を握っているのはこの女性だった。
私は意を決してその女性の肩に手を伸ばす。サキの眠りを妨げない程度に、揺り起こしてみることにしたのだ。
同時に、何か声をかけるべきかとも考えたのだが、私が一方的に知っているだけの人間を起こそうとした経験など到底あるわけもなく、肝心の言葉が見つからなかった。
その体には温もりが一切感じられない。
肩に触れた瞬間から、少なくともこの女性が生きてはいないことを私は理解した。同時に、その体は死んでもいなさそうだった。
体が冷たいのは間違いない。けれど、死んでいなさそうだというのは、単に私はそう感じるというだけ。だからもしかすると死んでいるのかもしれない。
幽霊に実体はないと私は思っている。けれど、どういうわけかこの女性には実体が存在する。そして幽霊とは死者なのだと考えていた。けれど、どういうわけかこの女性からは生命の匂いがする。
恐怖感やそれに類する感覚は絶無だった。それどころか、どうしてだろう、この女性と状況に対して無性に腹が立ってくる。
この女は何の因果があってこの家に上がり込み、サキに抱きしめられているのか。今すぐにでもその説明を求めたかった。
けれど、乱暴に揺り起こすことはできない。サキまで目覚めさせては可哀想だ。そう考えるうちに、思いついた閃きを実行に移すことにした。
私はその女性の頬をくりっとつねってみた。けれど反応はない。今度はもう少し力を加え、ぐりっとつねる。やはり反応はなかった。
と言うより、そもそもこの女性に痛覚があると考えたこと自体がどうかしているのかもしれない。
今度は強引に女のまぶたに私の親指と人差し指を押し当てて、まぶたを開いた。
その時だった。女が私をきっと睨みつけてきたのだ。
私は後方に飛び退いたけれど、女は微動だにしない。どうやら私を襲う意志はないようだった。
決してお近づきなどなりたくないのだが、私は恐る恐るベッドに近づいていく。そこにサキがいるのだ。私に選択の余地などなかった。
その時だった。
怖がらないで大丈夫だから
と、女が言った。まるで豆腐が口を利いたみたいに曖昧な発音だった。
信用できるかよ
私は高ぶる感情をどうにか堪えながら、できるだけ静かにそう答える。
今日は駄目、明日にして
女はそう言った後、石になったみたいに動かなくなった。そして当然のことながら彼女の口元からはそれが開かれる兆しや、その気配さえも消え失せてしまう。
どうしてだろうと私は不思議に思う。
女の言葉は信用に値する気がするのだ。そして現に、サキはその女を抱きしめているし、それ自体が今日始まったことではない。私とサキが出会ったその日にだって、今と同じ状況が展開されていた。そして私はある考えに行き着く。
この女性はサキの母親ではないだろうか。そのような考えが頭に浮かぶ。
そして私は呆然と立ち尽くす。
もしその考えが間違いでなければ、私がこの女性に対して最初に抱いた直感が正しいことになる。そして私に対する母親の第一印象はこれ以上ないくらい最悪なものになったことにもなる。けれど、そんなことがあり得るのだろうか。そんなことを思いながら二人を見つめる。
仮にこの女性がサキの母親だったとする。
サキはこれからもどんどん成長し、その外見は母親に近づいていくだろう。そしてサキは、それがどんなものであれ、母親自身が永遠に手放してしまったものを次々に獲得していくはずだ。こんなにも近くにいるはずなのに、サキにその存在を知覚されないまま母親は抱きしめられ、そしてそれに答えるように寄り添い続ける。これほど虚しいことが他にあるだろうか。
もしかするとサキの母親も、彼女に対して何らかの負い目を感じているのかもしれない。果たしてこの女性は何を考えながら眠っているのだろう。
いたたまれなくなったのと同時に、それは私自身がいかに円満な家庭で育ってきたのかということを痛みとして知る瞬間でもあった。せめてその夢のなかで二人が邂逅できるように私は祈った。
ふと誰かに見つめられている気がして振り返る。
どうしたの?
未希子さんだ。彼女は扉の向こうに立っていた。
どうして泣いているの、とは言わなかった。未希子さんはそういう人なのだ。
やがて未希子さんは私に歩み寄り、ベッドのわきに腰を落とした。
私は不安に思いながらもその背中を見つめ続け、ほどなく安堵する。
どうやら彼女にはその女性が見えないらしい。
サキはね、自分から目覚めようとしない限り起きない子なの
私が背にする廊下の照明が目に刺さるのだろう、未希子さんはそう言って、眩しそうにしながらも私のために微笑む。
だったら朝とか大変ですね
それがね、そうでもないの
と、未希子さんは言った。
きっかり七時になると起きてくるから
私はそれを聞いてほっとした。時計の針が十一時を指すまでにはサキを寝かしつけるようにしているのだが、それで本当に睡眠時間は足りているのかと、ずっと気にしていたのだ。
そのように考えながらしばらく黙っていると、
本当よ、体の中に時計でもついてるのかと思うくらいなんだから
と、未希子さんは言った。
別に疑ってないですよ、サキの睡眠時間について考えていたんです
サキはいつも何時くらいに眠るの?
十一時くらい
それだったら十分よ。それより
と、未希子さんは言った。
寝顔ってその人の本性が現れると思わない?
寝顔ですか、あんまり気にしたことないな
有君、彼女はいるの?
いませんね
どうして?
未希子さんは真剣な目で見上げてくる。心の底から不思議そうにするその顔がなんだかおかしかった。
もてないし、必死に追いかけてまで誰かと付き合いたいと思ったこともないです
ふうん、そうなんだ。もてそうなのにね。ところで有君、今は一人暮らしだっけ?
はい。実家だけど、一人です
どういうことなの?
三人家族で、父親の転勤に母親がついていったから、今は一人暮らしなんです
なんだ、そういうことか
未希子さんはそう言うと廊下の方をちらりと見て、それから私を見上げた。
そろそろご飯にしない? 実は私、空腹で死にそうなの
私達はリビングに向かうことにした。
戸惑うほどに、未希子さんは私を知ろうと、近づこうとしてくれる。そのことが嬉しかった。
隣で未希子さんは相変わらず微笑んでいる。その笑顔は私に、もっと近づいてもいいんだよと言ってくれている気がした。
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