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歪んだ微熱

掲載日:2026/07/16

 サークルの部屋に伊藤さんの後ろ姿があると安心する、うれしくなる。そして、少し身構えてしまう。おかしなことしないように、言わないように、って。


「伊藤さん、おはよう」


「ああ、おはよう」


 今日も伊藤さんは輝いてる。顔を見れてよかった。


「伊藤さんあの、西洋史なんちゃら」


「概論?」


「あ、そう、それ」


「どうかした?」


「ノート、もしよかったら貸してほしいかなって」


 伊藤さんはあきらかに困惑の表情で下を向いてしまった。


「ごめん、そんな顔させるつもりなかったんだ。ノートのことは気にしないで。ごめんね」


 ああ、やっちゃったなあ。ここのところ、わりかしいい関係かなって思いはじめてたとこだった。調子のっちゃったなあ。僕が言わないでおいたら伊藤さんとの関係もいままで通りにやれたのに。同じサークルだし、そのあたりうまくやんないとってここまできたけど、まずったなあ。あああああ。


「あ、江波くん。おはよう」


「うん、おはよう。何かあった?」


「ううん。あ、あのさ…… あ、そっか、江波くんは西洋史とってないんだっけ」


「ごめん、僕、南米のほうが専門だから」


「そうだった、そうだった」


「すまない。ほかのことで手伝えることあったら言ってよ」


「うん、そうさせてもらうよ」


 お昼は、伊藤さんとも江波くんともタイミングが合わなくて、ひとりで学食。中華のBセットが僕のお気に入り。チャーハン、餃子、ミニサラダ、スープ。ひとりだとちょっとばかり味気ないからスマホで動画を見ながら食べた。白い服の女性がミートソースのパスタを食べている動画、白い服に赤いものが飛んでいかないかとハラハラでまったく食べるとこをみていない。髪の長い人だ。顔はちゃんと映ってないけど、想像ではおっとりな和風美人。白い服に意識が向かないように違うところに思考をもっていこうとするのには無理がある。ミートソースはおいしそうだ。女性が銀のフォークでパスタを軽く巻いてもち上げる、白い服の胸元で。あああ、あああ。顔のみえない女性がただミートソースのパスタを食べるだけの動画が、ホラーやサスペンスのようにスリル満点。狙ってるの? それならあなたの狙いは達成されている。どうもこの女性、白い服が好きなよう。ほかの動画でも白っぽい服が多い。それ自体はいいんだけどね、黒くて長い髪によく映えてるし、でもね、だけどね。うーん、やっぱり狙いなんだよね。まんまとハマってるなあ、ピザトーストもいい感じ、そして白い服。きれい。素直にそう思う。

 白が似合うってうらやましいことだ。結婚式のドレス、何着てもお似合いなんだろうなあ。真っ白のドレスが動脈から噴き出す血で真っ赤になったらきれいなのかなあ、なんて考えてしまった。まったく不謹慎不謹慎。


 アパートの部屋に帰ってぬいぐるみと会話するのが最近の日課。伊藤さんがくれたぬいぐるみ。やっぱり僕に気があるってことかな。


「なあ、どう思うよ?」


 嫌われたって?


 それはないと思う。ないと思いたい。そこのところは気を遣ってるし、注意して行動してるつもり。確かに今日のは、ちょっと迂闊ではあったかもな。それに、気がつかないところで何かしらやってるかもしれないか。いままで以上に気をつけるようにするよ。


「忠告ありがとう」


 いや、でもさ、実際どうなんだろ。


「どう思う? ノート貸してくれなかったしさ」


 やっぱ違う? 脈なし? んん、わからないなあ。わからないよねえ。


「え、何? 恥ずかしかった?」


 ああ、それはあるのかなあ、それで顔見らんなかった、ってセンもあるかあ。まだ知り合って数ヶ月だしね、それもあるかもね。もう少し接点、増やしたほうがいいかな。ね。あ、でもさ、あんまりやりすぎて引かれてもね、それはそれでだよね。いまのとこはノート貸してくれない程度でいいかなって思ってるけど。そうだよね、いまはそれくらいでもね。ま、ノートのほうは貸してくれなくてもさ、すでにあてあるわけだし、そこまで困ってないしさ。え、着信。誰だろ? え、伊藤さん。


「もしもし…… え、ぜんぜん大丈夫だから。あのときも言ったけど気にしないで。人には譲れないものってやっぱりあるからさ。僕のほうこそごめんね。ああ、うん、いいって。ほんとごめん。うん、じゃあ。また明日」


 ふうん。少しは気にしててくれたみたいだね。それが関心に変わってくれるといいんだけどさ。なかなか手強いな、あのコ。


「あせるなって?」


 あせってはないよ、あせっては。江波くんは、伊藤さんに興味ない感じかな? 表面上、そう装ってて実のところ…… そういう可能性は十分あるか。自分の気持ちを打ち明けて、江波くんにも真意を語ってもらう? 江波くんがそれにのってこなかったら? ただこっちが気持ちを暴露しただけになる。馬鹿みたいだ、そんなの。自分の気持ちを晒すのは勇気がいるもの。その相手がライバルになるかもしれないのなら用心してかからないと。自分から先手を取るのは得策じゃあないのかも、いまはまだ。


「そうだよね」


 様子見、様子見。でも後手後手じゃダメになる。ああ、加減が難しい。


  ・


 影葉めっちゃ好きだなあ、俺のすべてをかけられるなあ、命だってさあ、軽々しくそんなこと言っちゃう男ってバカなの? アイドルのために死ねるとかアホなの? 正面から切り込んじゃってさ、私もアホみたい。命かけられるくらいって、それは比喩でしょ。自分のこと、自分の命、アイドルがそれより上になるわけないじゃない。そこんとこわかってあげないとよね、一生かかっても理解はできないけど、そういうこと口走っちゃうのがいるってことだけはわかっといてあげようかな。でも、ならなんで命って持ち出してきちゃった? そうも思うわけだけど、言っても詮無いことよね。きっと違う言語体系の上に立つ人たちなんだ、わかり合う必要なんてない。それでいい。簡単に、話せばわかる、だなんて言っちゃうほうがどうかしてる。話したってわかり合えないことはたくさんある、そんな人はたくさんいる。幻想を、正しい行いであるように言って諭してくるのにはうんざりなのよね。うへっ、ってなっちゃう。

 結局、ノート貸さなかった。だって、すんなり貸しちゃったらチョロい女って思われて、あとあといいようにされちゃうかなって。それもアレだしさ、あくまで主導権はこっちにね、って。だから、少しゆさぶってみたんだあ。わかりやすくて簡単だなあ、あの人。名前、なんていうんだっけ? えっと、平…… いいかげん覚えてあげないとかな。スマホの登録にしても「同じ学年の冴えない子」じゃあさすがにアレだし、でも不便はないんだけどね、いまのところ。

 毎晩のように私があげたぬいぐるみに話しかけるの、ほんと笑っちゃう。さっきも電話で吹き出しそうになっちゃった。がまんするのたいへんだった。あのぬいぐるみ、盗聴器埋め込んであるんだあ。あの人にはそれほど関心ないけど、勝手にしゃべってくれて、情報いろいろ助かってる。聞きたくもない音も多いけどね、そこは我慢てことでね。江波くんのことがわかればそれでいいんだあ。私からの申し出を断れなくなっちゃうような何かとんでもないネタ、ないものかなあ。平なんとかくんには、ぜえんぜえん興味なくてさあ。利用できるものは利用しないとねえ、それくらいの価値しかないんだからさ、あの人には。


  ・


 暑い一日になりそうです、外見だけはかわいらしい女性キャスターの言葉に反し気温はそれほど上がっていない。僕の気持ちも上がらず外に出るのはやめにして本でも、と、そうしたかったけど、一限目の語学は出ておかないと。しかたないなあ。


 どうして学校に行かないといけないの?


 僕はバカですってふれてまわってるようなことを深く考えもせず安易に口にしちゃう子どもがいるもんだ。それに対してきちんと答えてやれない親も親だけど。行かなくてもいい人は行かなくていいんじゃない。でも、ちょっとだけ要注意。自分もそういう「行かなくてもいい人」なんだと思ってる? そんな人、多くいるもんじゃあないんだよね。勘違い、かもしれないよね、ないアタマ、フル回転させて考えてみたほうがいいと思うよ。あとあと、ああ学校行っとけばよかった、って年寄りになってから行くくらいならいまのうち行っておいてさっさと終わらせてもいいんじゃない。子どもの親だと名乗るんならそれくらい言ってくれないとね。

 今朝、サークルの部屋でちょっとだけ平野と話をしたときの、伊藤の視線が嫌だった。相変わらずなんだよな、あの女。だいたいぬいぐるみに盗聴器仕込むような女、興味ないって。あのぬいぐるみどうしたんだろ、知ったことじゃないけどさ。アンテナ張りめぐらせておいて正解だった。入学早々、危険人物が近くにいるなんてね、まったくだよ。しかし、そんなに気になる奴いるのか。それとも気に喰わない女のネタ握って、とか…… いずれにしても距離置きたい人種。あんな女に興味示しちゃう平野にしてもちょっとね。ほいほい捕食されにいっちゃう奴には近よらないほうがいい、こっちまで食われちゃたまんない。俺が二人にわからないように裏で動いて、平野と伊藤がくっつくのが今後の展開としては簡単なんだよな、伊藤も行動が制限されるだろうし。でもアイツは、俺に矢印向けてんだよな、平野は勘違いして、自分に向いてるって思ってるみたいだけど。ほんとオメデタイ奴だよ、まったく。

 でも、冷静に考えて、伊藤が平野を受け入れるってセンはないか。平野だしな。冴えないし、甲斐性なさそうだし。こっちで引き取る? いや、それはない。部屋に来て、盗聴器仕掛けるの目に見えてる。やっぱ誰かとくっつけて身動きさせないようにしたほうがいいな。まあ、そこらへん、慣れてるのいるから、いつでも声かければ難なく傷物にだってできちゃうし。心配するだけ無駄か。

 あああ、早いとこ卒業して二人とはすっぱり手を切りたいもんだけど、ま、大学にいるあいだはいろいろ利用させてもらおうかな。利用できるような人材なら、だけどさ。







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