君のためのレンズ
その人は、とても綺麗な人だった。
彼は女性の目を覗き込み、ふわりと笑って、彼女の耳に手を添えた。
柔らかい手つき。
繊細な長い指先。
優しく細められた瞳。
彼は、彼女のイヤリングを直してやっていた。
触れられた彼女は、頬を僅かに染めている。
甘やかで、美しい光景。
だけど、問題はその男が、
――自分の婚約者であること。
そして、触れられているのが、
――自分ではないということ。
私は、視線を逸らした。
アークライト商会の向かいにある、白いテラス席のカフェ。
「今日も麗しいわね。あの方」
「あぁ、あのアークライト商会の跡継ぎね。本当に彼、女性慣れしてそうだわ」
「でも彼に目の前で微笑まれたら最後よ。みんな、心を持っていかれるわ」
「まぁ、あれほどの見目なら……。でも……」
「そう……でも、彼はね……」
華やかな女性たちが、彼の噂話をしている。
私は、ため息を吐いた。
ガラス越しに見える、カフェの店内。
彼は、今も女性と一緒にいる。
見目の良い大商会の跡継ぎ。
洗練された紳士的な振る舞い。
女慣れした柔らかい仕草。
彼が微笑めば、みんな、彼に恋をする。
……でも、彼は……
そう――軽薄だわ。
---
カフェのテラス席。
いつものアイスティー。
「やぁ、ミレイユ。何の本読んでるの?」
呼ばれて顔を上げると、幼馴染のアルバートが立っていた。彼は当たり前のように、目の前の席に腰掛ける。
店員を呼んで珈琲を注文した。
「新しい魔導工学の本」
私が彼に本の表紙を見せると、彼の眉が下がる。
「またそんな難しいものを……」
「家に求められているのは、私の知識だけだもの」
「……まったく君は」
私の婚約者であるレオナードは、大商会、アークライト商会の跡継ぎだ。
一方で私は、魔導学に強い学者家系の娘。
急速に進む魔導文明に対応するため、商会側からの申し出による婚約が、私とレオナードの間で整えられた。
まさしく、“政略結婚”。
私は、ずり落ちてきた眼鏡を直した。
分厚い眼鏡の地味な私と、華やかな彼。
――どう考えても、釣り合うわけがない。
だからせめて、知識だけは蓄えておかなくては。
珈琲が運ばれてきた。
ゆらりと揺れる黒い水面。
香りが舞う。
「そういうアルバートは、何を読んでいるの?」
珈琲を一口飲んだ彼は、カップを置き、にやりと笑った。
「……よくぞ聞いてくれた、ミレイユ君」
ワインレッドの本の表紙をそっと撫で、持ち上げる。
「僕の尊敬する大先生による、古典哲学の新解釈本なんだ。
僕がこれを手に入れるのにどれほど苦労したか、聞いてくれるかい?」
「……あまり興味ないけど」
「ミレイユ。冷たいな君は」
「勝手に話してていいわよ。
私は私で本を読んでいるから」
「ミレイユ! 君ってやつは幼馴染だろう?」
「関係ある?」
「ないけどさ」
二人で声を合わせて笑う。
---
一方、店内では――
食器の擦れる小さな音。
ひそめられた客の話し声。
一席に座ったレオナードの向かいに、一人の女性が腰を下ろす。
「ねぇ、レオナード様。ご相談がありますの」
テラス席を眺めていたレオナードは、声をかけられてようやく視線を女性へと向けた。
にこやかに微笑む。
「いいよ。どの商品の話?」
女性と視線が絡む。
「あ、ねぇ、君。
少し、瞳を見てもいい?」
「え? えぇ……。レオ様ならいくらでも」
「俺の名前は“レオナード”だよ」
彼は手を伸ばし、女性の頬に触れ、目元をそっと撫でた。
そして、柔らかく微笑む。
「……綺麗なブルーアイだね」
「まぁ……」
女性が頬を染める。
「こんにちは。“御曹司”さん」
彼のもとに、また別の女性が現れる。
「あぁ、ヴィオラ。こんにちは」
レオナードはヴィオラに微笑む。ヴィオラが先ほどの女性に視線を向けると、女性は目をそらし「急用を思い出しましたわ」と言って席を離れていった。
「ヴィオラは今日も美人さんだね」
「知ってるわ。
あなたこそ、今日もとんでもない美男子だわ」
「それはありがとう」
ヴィオラは立ったまま、ちらと視線を投げる。
「ねぇ、大丈夫なの?」
「……何が?」
「いろいろよ」
レオナードは閃いたように頷いた。
「あぁ……開発がさ、ちょっと行き詰まっててさ……」
「その話じゃないわよ」
「……じゃあ何の話?」
「私、忙しいの。もう行くわね。
ちゃんとするのよ。“御曹司”の坊っちゃん」
「あ、もう行っちゃうんだ。
ばいばい、ヴィオラ」
ヴィオラは艶っぽい笑みを残して、さっさと踵を返して去っていった。
一人になったレオナードは、テーブルに置いていたノートを広げる。
彼は、小さくため息を吐いた。
---
今日は、定期的に行われる婚約者との茶会。
馬車の扉が開く。
石畳に佇む、レオナード。
彼は、今日も一点の狂いもなく美しかった。
ステップが用意され、御者が私に向かって手を差し出した。
その手に指先を乗せる。
レオナードの視線が、御者の手へ落ち、そこから私の指先へと移った。だけど、彼自身が私に手を差し出すことはない。
ステップを降りきる。
「レオ様、ごきげんよう」
「うん。ミ……、君も、ごきげんよう」
軽くカーテシーをして顔を上げると、レオナードはもう向こうを向いて歩き出していた。
――視線も、合わないのね。
レオナードの大きな邸宅。
その庭園に用意されたティーテーブル。
先にたどり着いたレオナードが椅子を下げて待っている。
慌てて近づくと、彼がそっと椅子を押した。
レオナードも席につくと、蒸気で走る小型の配膳車がすいと滑ってきた。
運ばれてきたのは、菓子ののった皿。
彼がふわりと笑ってそれを手に取ると、私の前に静かに置いた。
「この子。かわいいでしょ。
でも、揺れるからお茶は運べないんだ。
まだまだ改良が必要」
レオナードが配膳車の魔導陣に手をかざすと、青光がゆらりと揺れ、それはもと来た道を戻って行った。
彼の、一つひとつの柔和な仕草に、つい目が惹かれてしまう。
レオナードが視線を上げる。
彼は驚いたように一瞬目を見開くと、すぐに視線を逸らした。
私も、視線を下げる。
レオナードは、綺麗。
日頃から彼の周りにいる女性たちは、みんな垢抜けていて、綺麗な人ばかりだ。
私の分厚い眼鏡は、彼にしてみたら、きっと醜いわよね。
「さぁ……、お菓子と紅茶。召し上がれ」
彼は声まで麗しくて、優しい。
「……はい」
「王都の、今人気店の焼き菓子だよ。
わがまま言って、使用人に用意してもらったんだ。
きっと美味しいよ」
「……はい」
「……ミ……君は、あんまり、興味なかったかな……?」
ハッとして顔を上げる。
「いえ。いただきます」
「……うん」
彼が目を細めて見ているのは、私の指先。
(あれ?)
皿は、私の分だけ。
「……レオ様は、召し上がらないのですか?」
「俺は……いいんだ」
「半分召し上がりますか?」
二つ並んでいた菓子の一つを差し出す。
「いや! いいんだ!
……君のために用意したんだから。
使用人だって、君に食べてもらった方が喜ぶ」
「……そんなことあるかしら?」
「あるよ……」
紅茶を一口飲む。
琥珀の水面が揺れる。
その音に重なるように、彼のため息が聞こえた。
――私といても、レオ様は楽しくないんだろうな。
---
帰り。
「またね」
「はい。レオ様、ごきげんよう」
彼に背を向け、御者の手を借りて、馬車に乗り込む。
今日、レオナードは、一度も私に手を差し出さなかった。
そんなことは、気づかないふりをする。
扉が閉まる。
馬車が動き出す。
窓から、美しい彼を見た。
馬車が道を曲がって見えなくなるまで、彼は、ずっとそこにいた。
――レオ様は、何を思っているのかしら?
私は少しだけ下がった眼鏡を直した。
---
いつものカフェテラス。
「大きなため息だね」
私が顔を上げると、分厚い本を抱えたアルバートが立っていた。いつものように私の前の席に座る。
「私の婚約者は、綺麗よね」
「え? あぁ、うん。すごく整った顔をしてるよね。男の僕でも、目が合うとドキッとする」
店員に珈琲を注文すると、彼は本をテーブルに置いてさっそく読み始める。口角が上がり、見るからに嬉しそうだ。
「また新しい本?」
「お、よく分かったね。そうだよ。ミレイユは観察力がある。素晴らしい」
「アルバートが分かりやすいだけでしょ」
「僕ほど複雑な人間を、僕は他に見たことがないね」
「友人がいないだけでしょうよ」
「ミレイユはやはり観察力がある」
「よく言うわよ」
二人して笑う。
「それにしても、あれ程のため息は久々だね。どうした」
「私の婚約者は、綺麗よね」
「それはさっき聞いた」
「……私は見劣りするし、彼に釣り合ってないわ」
「へ? そうかい?」
珈琲が届く。
「彼は、私といても、つまらないのよ」
「そうかな。そう言われた?」
「そんなこと言う人じゃないわ」
アルバートは本を閉じると、珈琲を一口飲んだ。
芳ばしい香りがふわりと舞う。
「この際だから、はっきり言おう」
アルバートがまっすぐに私を見た。
「君は綺麗だよ。
努力家で、人を見下したりしない。
心まで綺麗な人じゃないか。
自信を持ちなよ」
言い終わると、彼は、にっと笑う。
つい、頬が熱くなる。
「あぁ、僕は君に恋をしてるわけじゃないからな。安心してくれたまえ」
アルバートはちらとガラス窓の方を見た。
視線はすぐに珈琲に戻される。
「……分かってるわよ」
私も、別にアルバートに恋をしているわけじゃない。
だけど、アルバートみたいな人が私の婚約者だったら……。
きっと、私の心は穏やかで居られたのに。
ガラス越しに、彼の横顔が見えた。
私は、見ないふりをした。
---
幼い頃。
「分厚い! なんだこのレンズ」
「返して!」
「うわ! まさに“瓶底”」
少年たちに眼鏡を取り上げられ、私は困っていた。
眼鏡がないと、ほとんど見えないもの。
ただでさえ見えないのに、ついには視界が滲んで涙がこぼれてしまった。
我ながら情けないけど、その場に座り込んで、泣き出してしまう。
「うわ! 泣いてる!」
「泣き虫だなぁ! この程度で」
少年たちは笑っている。
「君たち! 何してるんだ!」
突然の大きな声。
「それを返しなさい!」
「やべっ……。アークライトの息子だ」
「ほら! 早く渡して!」
いじめっ子の少年たちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。
助けてくれた少年は、私の前にしゃがみ込んだ。
「……眼鏡。取り返したよ」
「……ありがとう」
小さな笑い声。
彼はハンカチで私の顔を強引に拭った。
「あーぁ、こんなに泣いちゃって。ふふ。
せっかくのかわいい顔が台無しだよ。ミレイユ」
レオナードが、私に眼鏡をかけさせる。
レンズ越しに見た少年のレオナードは、その頃から綺麗な顔をしていた。
「……レオナード様」
「ミレイユは、僕を“レオ”って呼んで。
……ほら、ミレイユ。笑えるかな?」
優しい声につられるようにして笑うと、彼も、まるで花が綻ぶように笑った。
「良かった」
幼い頃の思い出。
あの頃のレオナードは、真っ直ぐに私を見てくれた。
だから、彼と婚約が整ったとき、私は嬉しかった。
だけど、そんなのは、甘い夢だった。
彼は私を見ない。
名を呼ぶたび、視線を逸らす。
私は彼には、釣り合わない。
---
本を抱えて歩いていると、風が吹いた。
帽子が攫われそうになって手を上げたら、持っていた本が眼鏡に当たってしまった。
軽い音。
石畳に眼鏡が落ちた。
慌ててかがむも、石の灰色と黒がぼんやりと見えるだけで、眼鏡が見つからない。
「あーあーあー! 動かないで!」
聞き覚えのある声。
「……アルバート?」
すぐ近くで衣擦れの音。
肘を支えられ、立ち上がる。
「そう。僕がヒーロー、アルバート。
それはさておき、……ミレイユ、君の眼鏡にヒビが入ってしまった」
「……そんな」
「とりあえず、僕が手を引いてあげるから、いつものカフェまで行こうか。
そこで使いを出してもらって、家の人に迎えに来てもらおう」
「……そうね」
指先が掴まれ、手を引かれる。
「真っ直ぐ歩いて。すぐだから」
「アルバート、助かったわ」
「君の幼馴染が役に立つ男で良かったな」
「本当にね」
二人で笑い合う。
「あ」
アルバートの足が止まり、私もそれに合わせて立ち止まる。
「……君。
俺の婚約者に触らないで」
目の前に、影が落ちた。
今まで聞いたことがない、低い声。
「これはこれは……ミレイユの婚約者殿。
実は彼女、眼鏡を落として壊してしまって……。
エスコート役を貴方にお返ししても?」
アルバートがヒビが入った眼鏡をレオナードに渡す。
「……本当だ。壊れてしまってる。
……君、いつも彼女と一緒にいる青年だよね」
「……幼馴染です。あぁ、僕のことはお気遣いなく」
アルバートの手が離れる。
「ミレイユ、迎えを呼ぶ必要はなくなったな。
僕は帰るよ。グッドラック」
よく見えないが、アルバートが満面の笑みなのはなんとなく分かる。
彼の足音が遠ざかる。
「……ミ……君の手に触れるよ」
「はい」
手を握られ、引かれる。
ふわりと舞う、彼の柑橘系のコロンの香り。
「……商会の応接室を借りよう」
「……はい」
カフェの向かい、アークライト商会。
その一室に手を引かれて入り、ソファに座るように促される。
レオナードは隣に座った。
――こんなに近くに寄るのは、初めてかもしれない。
「あの……あのね……、渡したいものがあって」
彼はジャケットの内ポケットから、四角いケースを取り出した。
蓋を開け、中身を取り出す。
中に入っていたのは、美しいフレームの薄いレンズの眼鏡。
「これ……、君のために開発したんだ」
「え?」
「……俺が、掛けさせても、いいかな?」
「……はい」
眼鏡が掛けられる。
彼の指先は、とても震えていた。
レオナードの指が少しだけ頬に当たり、弾かれたように彼は手を引く。
「……え?」
新しいレンズ越しに見た彼の耳が、信じられないほど赤かった。
「あぁ……、やっぱり。
ミレイユによく似合う」
レオナードが、すごく嬉しそうに笑う。
久しぶりに、彼が“ミレイユ”って言った気がした。
「良かった。頑張って作った甲斐があった」
「作った……?」
彼が頷く。
「そう。前のレンズは厚くて重そうだったから、開発専任者と相談して作ったんだ。
極小の魔導石を組み込んでみたんだよ。
――これなら、軽いはずだ」
レオナードはもう一度手を伸ばして、私の耳の掛かりを確かめた。
ハッとしたようにまた手を引く。
「実は少し前にできていたんだけど……。
渡す勇気がなくて……」
「渡す勇気……? あなたが?」
彼は胸に手を当てて、苦く笑った。
その指先が、まだ震えている。
「他の人なら緊張しないのに、君だけは……どうしてだろう。
まっすぐ目が見られないんだ。
胸が、締め付けられるみたいで」
確かに彼の視線は、壁やソファ、眼鏡の縁ばかりにいく。
「そ……、そう……だったの………」
――それって、つまり?
レオナードの顔をのぞき込んだ。
彼の顔がみるみる赤くなる。
――なんだ。そっか……。
そうだったんだ。
「……カフェで、お茶でもどうかな」
「そこの?」
「うん。……ミ……ミレイユは、アイスティーだよね?」
つい笑ってしまう。
――なんで知ってるの? 私がアイスティーが好きって。
手を差し出されて、指先を乗せる。
商会を出て、いつものカフェのいつものテラス席へ。
隣を見上げる。
ガラス越しに見てたいつもの笑顔より、嬉しそうな気がする。
――気のせいじゃ、ないよね?
「あら! “御曹司”さん!」
レオナードが振り返ると、そこには、彼とよく一緒にいた美女。
「やぁ、ヴィオラ」
「やっと素直になれたのね!」
「俺はいつも素直だけど」
「嘘おっしゃい。
好きな娘にだけ素っ気ないくせに、何を言ってるの。あれだけ他の女の目ばかり覗き込んでおいて、本命からは逃げるんだから」
ヴィオラが、私の顔を見る。
彼女はぱっと表情を華やかせた。
「ねぇ、あなたのその眼鏡、アークライト商会の最新式のものね。
よく似合ってて素敵よ。愛が詰まってる」
つい、顔が熱くなってしまった。
でも、隣を見たら、彼はもっと顔を赤くしている。
「ふ……ふふ。あはは」
笑っちゃう。
あなた、そんな不器用な人だったのね。
「……かわいい」
「え? 何か言った?」
「なんにも……」
小さく首を振る、レオナード。
テラス席にいた女性たちが、囁きあっている。
「今日も麗しいわね。あの方」
「あぁ、アークライト商会の跡継ぎの彼ね」
「素敵ね。あんな笑顔を見せられたら、みんな彼に恋に落ちるわね」
「ふふ……でも彼は」
「そう……でも彼はね……
――婚約者しか見てないのよね」
新しいレンズ越しに見えたのは、誰よりも真っ赤で、誰よりも嬉しそうな彼の顔だった。




