婚約破棄の夜、氷の公爵が扉を閉ざした——「真実が出るまで誰も出さぬ」
「リーゼル・ヴァルント嬢。貴女は、イルメラ・カッセル伯爵令嬢の婚約指輪を盗みましたね」
秋夜祭の夜。シャンデリアが煌めく大広間で、王太子殿下の声が響いた。
冷たい。氷より冷たい断罪の声だった。
「……殿下、私はそのようなこと」
「証拠はあります」
遮ったのは、王太子の隣に立つイルメラ・カッセル伯爵令嬢。
彼女は優雅に扇を広げ、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「リーゼル嬢。貴女、先週の茶会で私の控え室に入りましたわね。指輪はその日から消えていますの」
「控え室には入りましたが、指輪になど触れていません」
「触れていない? では、なぜ私の指輪が貴女の荷物から見つかったのかしら」
息が止まった。
荷物から?
そんな馬鹿な。私は何も盗んでいない。
周囲がざわめく。令嬢たちは扇で口元を隠し、囁き合っている。
「婚約者が泥棒だなんて」
「ヴァルント子爵家も終わりね」
「あの殿下も災難だこと」
——悔しい。
胸の奥が、ぎりぎりと軋む。
私は泥棒ではない。指輪など盗んでいない。
なのに、誰も聞いてくれない。誰も、信じてくれない。
「リーゼル・ヴァルント嬢」
王太子殿下が、冷たい目で私を見下ろす。
「貴女との婚約は、本日をもって破棄します。今後、王宮への出入りは禁じます」
——終わった。
そう思った瞬間、私の手が胸元に触れた。
押し花栞。母の形見。
この栞には、日付が記されている。
母が亡くなる前日。私は母と一緒に、領地の教会で花を摘んだ。その押し花を、栞にした。
茶会の日。私は母の墓参りをしていた。
領地の教会には、参拝記録が残っている。この栞の日付と合わせれば、私がイルメラ嬢の控え室にいた時間はごくわずかだと証明できる。
——証す。
私は、自分の潔白を証す。
「殿下」
「まだ何か?」
「私は盗んでいません。証拠があります」
「……証拠?」
王太子殿下が眉をひそめる。
イルメラ嬢が嘲笑った。
「まだ往生際の悪い。さあ、衛兵を呼んでこの泥棒令嬢を——」
「——その女を連れ出すな」
低い声が、大広間に響いた。
空気が変わる。
凍りつく、と言ったほうが正しい。
振り向くと、長身の男が歩いてくるところだった。
黒髪。氷のような灰青の瞳。北領を統べる——
「オルヴェン・シュトラーセ公爵……」
誰かが、震える声で呟いた。
氷の公爵。
そう呼ばれる男だった。
「公爵。何の御用でしょう」
王太子殿下が、わずかに声を硬くする。
オルヴェン公爵は答えない。
彼の視線は、私の胸元で止まっていた。
いや——正確には、私の胸元にある栞で。
「……その栞」
「え?」
「それは、何だ」
低い問いに、私は咄嗟に答えた。
「母の形見です。押し花栞で……日付が、記されています」
公爵の瞳が、かすかに揺れた。
何かを確かめるような。
何かを見定めるような。
そして、彼は大広間を見渡し——
「この扉を閉じろ」
唐突に、そう命じた。
騒然となる広間。
「こ、公爵。何をなさるおつもりですか」
「真実が明らかになるまで、誰も出さぬ」
公爵の言葉は、静かで、絶対だった。
「——公爵」
イルメラ嬢が顔色を変える。
「何をなさるおつもりです? この女は泥棒ですのよ。私の指輪を——」
「黙れ」
一言だった。
たった一言で、イルメラ嬢の声が止まる。
公爵は、私の前に立った。
彼は長身で、私を見下ろす形になる。
「名前は」
「リーゼル・ヴァルントです」
「リーゼル」
名を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「お前が泥棒でないと言うなら、その栞で証明しろ。俺が場を整える」
それは、命令だった。
でも——
「……ありがとう、ございます」
公爵は何も答えなかった。
ただ、私の隣に立ったまま、大広間を見渡している。
扉が閉ざされる重い音。
逃げ道が、封じられる。
イルメラ嬢の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
「ヘルマン」
公爵が呼ぶと、初老の男が進み出た。
「はい、公爵」
「お前は宮廷監査官だな。証拠の精査は職務の範囲か」
「左様です」
「ならば、この栞を鑑定しろ。紙とインクの年代。そして、日付の真正性を」
ヘルマンと呼ばれた監査官は、公爵に一礼し、私のもとへ歩み寄った。
「失礼、リーゼル嬢。栞をお預かりしてもよろしいですかな」
「……はい」
私は、震える手で栞を差し出した。
母の形見。私の潔白を証す、唯一の証拠。
ヘルマン監査官は丁寧に栞を受け取り、窓際の明かりの下で検分を始めた。
大広間は静まり返っている。
イルメラ嬢は王太子殿下に縋りつき、何かを囁いていた。
「——偽造よ」
イルメラ嬢の声が、沈黙を破る。
「栞なんて、いくらでも偽造できますわ。日付を後から書き足すことだって」
「偽造かどうかは、監査官が判断する」
公爵の声は、静かだった。
けれど、有無を言わせぬ圧がある。
「それに——」
公爵は、私の隣から一歩も動かない。
「この女が偽造に手を染めるような器用さを持っているなら、そもそも指輪など盗む必要がない」
「なっ……」
イルメラ嬢が絶句する。
公爵は、冷たい目で彼女を見据えた。
「カッセル伯爵令嬢。お前の指輪が消えた日、お前自身はどこにいた」
「わ、私は……自室に……」
「証人は」
「侍女がおりました」
「侍女の名は」
「……マ、マルタです」
「では、その侍女を呼べ」
公爵の命令は容赦がなかった。
イルメラ嬢の顔が、さらに青ざめる。
「い、今すぐは……」
「なぜだ。お前の潔白を証明するなら、侍女の証言は必須だろう」
「……」
沈黙。
重い沈黙が、大広間を支配する。
私は、公爵の横顔を見上げた。
彼は何を考えているのだろう。
なぜ、私を守ってくれているのだろう。
「公爵」
ヘルマン監査官が、静かに声を上げた。
「鑑定が終わりました」
「結果は」
「この栞は、少なくとも三年前に作られたものです。紙の劣化、インクの褪せ具合、押し花の状態——すべてが一致します。偽造ではありません」
大広間がざわめく。
「また、日付の記載は栞作成時のものと見て間違いないでしょう。後から書き足した形跡はありません」
「つまり」
公爵が、イルメラ嬢を見る。
「リーゼル・ヴァルントは、三年前のこの日付に、領地の教会にいたことになる。茶会の日だ。カッセル伯爵令嬢、お前の控え室で指輪が消えたという、その日だ」
「それは……」
「教会の参拝記録を取り寄せれば、リーゼルのアリバイは完全に証明される。違うか」
イルメラ嬢は、何も言えなかった。
彼女の顔は蒼白で、唇が震えている。
「公爵、しかし——」
王太子殿下が口を開く。
「指輪が彼女の荷物から見つかったのは事実です」
「見つかった? 誰が見つけた」
「イルメラの侍女が」
「その侍女は、カッセル伯爵令嬢の侍女だな」
「……はい」
「主人に有利な証言をする侍女と、物理的に偽造不可能な栞。どちらを信じる」
王太子殿下は、沈黙した。
公爵の論理は、容赦がなかった。
秋夜祭の鐘が、遠くで鳴る準備をしている。
あと少しで、今夜の式典が始まる。
王太子殿下の新たな婚約発表——それが、秋夜祭の目玉だと聞いていた。
けれど今、大広間の空気は凍りついている。
「陛下」
公爵が、ゆっくりと広間の奥へ視線を向けた。
そこには、玉座に腰かけた国王陛下がいらっしゃった。
最初から見ていたのだ。この騒動を。
「裁定を」
公爵の声は、静かだった。
「リーゼル・ヴァルントの潔白は、監査官の鑑定で証明されました。カッセル伯爵令嬢の証言には、侍女という利害関係者しか証人がいません。どちらの言い分が正しいか——陛下の裁定を仰ぎます」
国王陛下は、しばらく沈黙していた。
そして——
「イルメラ・カッセル伯爵令嬢」
厳かな声が、大広間に響く。
「そなたの証言は、虚偽と判断する」
「へ、陛下——」
「リーゼル・ヴァルント嬢の名誉を傷つけた罪、看過できぬ」
イルメラ嬢が、がくりと膝をついた。
「違います、私は……」
「今後、そなたの社交界への出入りを禁ずる。カッセル伯爵家には、相応の処分を下す」
「そんな……」
イルメラ嬢の悲鳴のような声が響いたが、誰も同情しなかった。
周囲の令嬢たちは扇で顔を隠し、伯爵令嬢から距離を取っている。
先ほどまで私を泥棒呼ばわりしていた人々が、今度はイルメラ嬢を白い目で見ている。
——ざまぁ、とは思わなかった。
ただ、悔しかった。
なぜこんな嘘をつかれなければならなかったのか。
なぜ、私の言葉は誰にも届かなかったのか。
「リーゼル」
公爵の声に、私は顔を上げた。
彼は、私の目の前に立っていた。
「終わったぞ」
「……はい」
「お前の潔白は証明された。誰も、もうお前を泥棒とは呼べない」
「ありがとうございます、公爵」
私は深く頭を下げた。
この人がいなければ、私は——
「顔を上げろ」
公爵の声は、低かった。
顔を上げると、彼の氷のような瞳が、私を見つめていた。
「ひとつ、言っておくことがある」
「……はい」
「お前は、王太子との婚約を破棄された。そうだな」
「……はい」
痛みが走る。
婚約破棄。それは、令嬢にとって社会的な死を意味する。
いくら冤罪が晴れたとしても、一度破棄された事実は消えない。
「なら——」
公爵が、私の手を取った。
大広間の全員が息を呑む。
「この女は、俺の婚約者だ」
——は?
「異論があるなら、俺が潰す」
公爵の声は、静かで、絶対だった。
大広間が、再び凍りつく。
今度は別の意味で。
「こ、公爵……?」
私の声が、裏返った。
「何を——」
「お前を離す気はない」
公爵の手が、私の手を握りしめる。
「俺は、お前を見初めた。だから、俺のものにする」
「い、いつ見初めたんですか」
「さっきだ」
「さっき!?」
「お前が、泥棒呼ばわりされながらも折れずに立っていた。あの目を見た瞬間に決めた」
公爵の灰青の瞳が、私を射抜く。
「俺は、気に入ったものは手放さない」
——怖い。
この人、怖い。
でも——
「……お断りする権利は」
「ない」
「即答!?」
「お前が断っても、俺が諦めないだけだ」
公爵は、涼しい顔で言い切った。
国王陛下が、咳払いをした。
「オルヴェン。いきなりすぎやせんか」
「陛下。俺は即断即決が信条です」
「それは知っておるが……」
「リーゼル・ヴァルント嬢を俺の婚約者として認めていただきたい」
「……まあ、本人がよければ、余に異存はないが」
国王陛下の視線が、私に向く。
「リーゼル嬢。どうする」
私は——
公爵の手を見下ろした。
大きくて、温かい手だった。
氷の公爵と呼ばれる人の手が、こんなに温かいとは思わなかった。
「……公爵」
「何だ」
「私、母から継いだ薬草園があるんです。領地に」
「知っている」
「……知ってるんですか」
「調べた」
「いつ!?」
「さっきお前を見初めた後、すぐに」
「どうやって!?」
「監査官を使った」
公爵は、涼しい顔で言った。
ヘルマン監査官が、気まずそうに目を逸らしている。
「俺の北領は寒冷地だ。薬草の栽培には向かない。だが、温室を用意すれば話は別だ」
「温室……」
「お前の薬草園は、俺の領地で好きなだけ広げろ。金は俺が出す。場所も俺が用意する」
「……」
「それから」
公爵の目が、かすかに和らいだ。
「お前の母君の墓は、北領の一番日当たりのいい場所に移す。俺の屋敷から見える場所だ。お前がいつでも墓参りできるように」
私の目から、涙がこぼれた。
「……公爵」
「何だ」
「貴方、ずるいです」
「何がだ」
「そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」
公爵は、口の端をわずかに上げた。
笑った——のだと思う。
氷の公爵の、はじめての笑み。
「断らなくていい。最初から、断らせる気はなかった」
公爵は、私の手を引いた。
大広間の視線が集まる中、彼は私をバルコニーへ連れ出した。
秋の夜風が、頬を撫でる。
満月が、二人を照らしていた。
「リーゼル」
公爵が、私の名を呼ぶ。
「はい」
「お前を、俺のものにする。いいな」
命令形だった。
でも、その声はどこか優しくて。
「……はい」
私は、頷いた。
公爵の手が、私の頬に触れた。
そして——
額に、唇が触れる。
柔らかく、温かい。
氷の公爵の口づけは、想像していたよりずっと優しかった。
「これは前金だ」
「前金……?」
「本番は、婚姻の夜にとっておく」
「——っ」
公爵は、涼しい顔で言った。
私の顔が、熱くなる。
「公爵」
「何だ」
「貴方、本当にずるいです」
「知っている」
公爵は、また口の端を上げた。
翌朝。
私は、北領へ向かう馬車に乗っていた。
窓の外を、緑の景色が流れていく。
「眠いか」
向かいの席で、公爵——オルヴェンが尋ねた。
「少しだけ」
「眠っていい。着いたら起こす」
「……はい」
私は、窓枠に頭をもたせかけた。
胸元には、母の形見の栞。
これがなければ、私はあの夜、社会的に死んでいた。
でも今、私は——
「リーゼル」
「はい?」
「俺の隣で眠れ」
「え」
「そっちは揺れる。こっちの方が安定している」
公爵は、自分の隣の席を叩いた。
私は、少し迷ってから、彼の隣に移動した。
公爵の腕が、私の肩を抱く。
「……公爵」
「オルヴェンでいい」
「では、オルヴェン様」
「様はいらん」
「オルヴェン」
名前を呼ぶと、彼の腕に力がこもった。
「いい声で呼ぶな」
「どういう意味ですか」
「俺が我慢できなくなる」
「——っ」
公爵の——オルヴェンの顔を見上げる。
彼は、氷のような瞳で私を見つめていた。
でも、その奥には熱があった。
氷の下で燃える、炎のような。
「お前は、俺のものだ」
「……はい」
「誰にも渡さない」
「はい」
「俺の傍から、離れるな」
「……離れません」
私の答えに、オルヴェンは満足そうに頷いた。
そして、私の頭を彼の肩に寄せた。
「眠れ。北領までは長い」
「……はい」
私は目を閉じた。
温かい腕の中で、揺られながら。
婚約破棄された夜から、まだ一日も経っていない。
なのに私は今、氷の公爵の腕の中にいる。
彼は私を守ってくれた。私の名誉を取り戻してくれた。
そして、私を離さないと言った。
——悪くない。
いや、正直に言えば。
とても、幸せだった。
馬車は北へ向かう。
新しい朝日が、窓から差し込んでいた。
私の新しい人生が、今、始まる。
氷の公爵の婚約者として。
彼の溺愛から、逃げられない——けれど、逃げる気もない。
だって私は。
彼に、恋をしてしまったのだから。
お読みいただきありがとうございます。
冤罪をかけられた令嬢と、氷の公爵の逆転溺愛物語でした。
リーゼルは自分で立ち向かう強さを持ち、オルヴェンは即断即決で独占欲全開——二人の相性がいいなと書いていて思いました。
秋夜祭の夜会という舞台で、真実が暴かれていく過程を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。




