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婚約破棄の夜、氷の公爵が扉を閉ざした——「真実が出るまで誰も出さぬ」

作者: 夢見叶
掲載日:2026/01/12

「リーゼル・ヴァルント嬢。貴女は、イルメラ・カッセル伯爵令嬢の婚約指輪を盗みましたね」


 秋夜祭の夜。シャンデリアが煌めく大広間で、王太子殿下の声が響いた。

 冷たい。氷より冷たい断罪の声だった。


「……殿下、私はそのようなこと」

「証拠はあります」


 遮ったのは、王太子の隣に立つイルメラ・カッセル伯爵令嬢。

 彼女は優雅に扇を広げ、勝ち誇った笑みを浮かべている。


「リーゼル嬢。貴女、先週の茶会で私の控え室に入りましたわね。指輪はその日から消えていますの」

「控え室には入りましたが、指輪になど触れていません」

「触れていない? では、なぜ私の指輪が貴女の荷物から見つかったのかしら」


 息が止まった。

 荷物から?

 そんな馬鹿な。私は何も盗んでいない。

 周囲がざわめく。令嬢たちは扇で口元を隠し、囁き合っている。


「婚約者が泥棒だなんて」

「ヴァルント子爵家も終わりね」

「あの殿下も災難だこと」


 ——悔しい。

 胸の奥が、ぎりぎりと軋む。

 私は泥棒ではない。指輪など盗んでいない。

 なのに、誰も聞いてくれない。誰も、信じてくれない。


「リーゼル・ヴァルント嬢」


 王太子殿下が、冷たい目で私を見下ろす。


「貴女との婚約は、本日をもって破棄します。今後、王宮への出入りは禁じます」


 ——終わった。

 そう思った瞬間、私の手が胸元に触れた。

 押し花栞。母の形見。

 この栞には、日付が記されている。

 母が亡くなる前日。私は母と一緒に、領地の教会で花を摘んだ。その押し花を、栞にした。

 茶会の日。私は母の墓参りをしていた。

 領地の教会には、参拝記録が残っている。この栞の日付と合わせれば、私がイルメラ嬢の控え室にいた時間はごくわずかだと証明できる。

 ——証す。

 私は、自分の潔白を証す。


「殿下」

「まだ何か?」

「私は盗んでいません。証拠があります」

「……証拠?」


 王太子殿下が眉をひそめる。

 イルメラ嬢が嘲笑った。


「まだ往生際の悪い。さあ、衛兵を呼んでこの泥棒令嬢を——」

「——その女を連れ出すな」


 低い声が、大広間に響いた。

 空気が変わる。

 凍りつく、と言ったほうが正しい。

 振り向くと、長身の男が歩いてくるところだった。

 黒髪。氷のような灰青の瞳。北領を統べる——


「オルヴェン・シュトラーセ公爵……」


 誰かが、震える声で呟いた。

 氷の公爵。

 そう呼ばれる男だった。


「公爵。何の御用でしょう」


 王太子殿下が、わずかに声を硬くする。

 オルヴェン公爵は答えない。

 彼の視線は、私の胸元で止まっていた。

 いや——正確には、私の胸元にある栞で。


「……その栞」

「え?」

「それは、何だ」


 低い問いに、私は咄嗟に答えた。


「母の形見です。押し花栞で……日付が、記されています」


 公爵の瞳が、かすかに揺れた。

 何かを確かめるような。

 何かを見定めるような。

 そして、彼は大広間を見渡し——


「この扉を閉じろ」


 唐突に、そう命じた。

 騒然となる広間。


「こ、公爵。何をなさるおつもりですか」

「真実が明らかになるまで、誰も出さぬ」


 公爵の言葉は、静かで、絶対だった。


「——公爵」


 イルメラ嬢が顔色を変える。


「何をなさるおつもりです? この女は泥棒ですのよ。私の指輪を——」

「黙れ」


 一言だった。

 たった一言で、イルメラ嬢の声が止まる。

 公爵は、私の前に立った。

 彼は長身で、私を見下ろす形になる。


「名前は」

「リーゼル・ヴァルントです」

「リーゼル」


 名を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「お前が泥棒でないと言うなら、その栞で証明しろ。俺が場を整える」


 それは、命令だった。

 でも——


「……ありがとう、ございます」


 公爵は何も答えなかった。

 ただ、私の隣に立ったまま、大広間を見渡している。

 扉が閉ざされる重い音。

 逃げ道が、封じられる。

 イルメラ嬢の顔から、血の気が引いていくのが見えた。


「ヘルマン」


 公爵が呼ぶと、初老の男が進み出た。


「はい、公爵」

「お前は宮廷監査官だな。証拠の精査は職務の範囲か」

「左様です」

「ならば、この栞を鑑定しろ。紙とインクの年代。そして、日付の真正性を」


 ヘルマンと呼ばれた監査官は、公爵に一礼し、私のもとへ歩み寄った。


「失礼、リーゼル嬢。栞をお預かりしてもよろしいですかな」

「……はい」


 私は、震える手で栞を差し出した。

 母の形見。私の潔白を証す、唯一の証拠。

 ヘルマン監査官は丁寧に栞を受け取り、窓際の明かりの下で検分を始めた。

 大広間は静まり返っている。

 イルメラ嬢は王太子殿下に縋りつき、何かを囁いていた。


「——偽造よ」


 イルメラ嬢の声が、沈黙を破る。


「栞なんて、いくらでも偽造できますわ。日付を後から書き足すことだって」

「偽造かどうかは、監査官が判断する」


 公爵の声は、静かだった。

 けれど、有無を言わせぬ圧がある。


「それに——」


 公爵は、私の隣から一歩も動かない。


「この女が偽造に手を染めるような器用さを持っているなら、そもそも指輪など盗む必要がない」

「なっ……」


 イルメラ嬢が絶句する。

 公爵は、冷たい目で彼女を見据えた。


「カッセル伯爵令嬢。お前の指輪が消えた日、お前自身はどこにいた」

「わ、私は……自室に……」

「証人は」

「侍女がおりました」

「侍女の名は」

「……マ、マルタです」

「では、その侍女を呼べ」


 公爵の命令は容赦がなかった。

 イルメラ嬢の顔が、さらに青ざめる。


「い、今すぐは……」

「なぜだ。お前の潔白を証明するなら、侍女の証言は必須だろう」

「……」


 沈黙。

 重い沈黙が、大広間を支配する。

 私は、公爵の横顔を見上げた。

 彼は何を考えているのだろう。

 なぜ、私を守ってくれているのだろう。


「公爵」


 ヘルマン監査官が、静かに声を上げた。


「鑑定が終わりました」

「結果は」

「この栞は、少なくとも三年前に作られたものです。紙の劣化、インクの褪せ具合、押し花の状態——すべてが一致します。偽造ではありません」


 大広間がざわめく。


「また、日付の記載は栞作成時のものと見て間違いないでしょう。後から書き足した形跡はありません」

「つまり」


 公爵が、イルメラ嬢を見る。


「リーゼル・ヴァルントは、三年前のこの日付に、領地の教会にいたことになる。茶会の日だ。カッセル伯爵令嬢、お前の控え室で指輪が消えたという、その日だ」

「それは……」

「教会の参拝記録を取り寄せれば、リーゼルのアリバイは完全に証明される。違うか」


 イルメラ嬢は、何も言えなかった。

 彼女の顔は蒼白で、唇が震えている。


「公爵、しかし——」


 王太子殿下が口を開く。


「指輪が彼女の荷物から見つかったのは事実です」

「見つかった? 誰が見つけた」

「イルメラの侍女が」

「その侍女は、カッセル伯爵令嬢の侍女だな」

「……はい」

「主人に有利な証言をする侍女と、物理的に偽造不可能な栞。どちらを信じる」


 王太子殿下は、沈黙した。

 公爵の論理は、容赦がなかった。


 秋夜祭の鐘が、遠くで鳴る準備をしている。

 あと少しで、今夜の式典が始まる。

 王太子殿下の新たな婚約発表——それが、秋夜祭の目玉だと聞いていた。

 けれど今、大広間の空気は凍りついている。


「陛下」


 公爵が、ゆっくりと広間の奥へ視線を向けた。

 そこには、玉座に腰かけた国王陛下がいらっしゃった。

 最初から見ていたのだ。この騒動を。


「裁定を」


 公爵の声は、静かだった。


「リーゼル・ヴァルントの潔白は、監査官の鑑定で証明されました。カッセル伯爵令嬢の証言には、侍女という利害関係者しか証人がいません。どちらの言い分が正しいか——陛下の裁定を仰ぎます」


 国王陛下は、しばらく沈黙していた。

 そして——


「イルメラ・カッセル伯爵令嬢」


 厳かな声が、大広間に響く。


「そなたの証言は、虚偽と判断する」

「へ、陛下——」

「リーゼル・ヴァルント嬢の名誉を傷つけた罪、看過できぬ」


 イルメラ嬢が、がくりと膝をついた。


「違います、私は……」

「今後、そなたの社交界への出入りを禁ずる。カッセル伯爵家には、相応の処分を下す」

「そんな……」


 イルメラ嬢の悲鳴のような声が響いたが、誰も同情しなかった。

 周囲の令嬢たちは扇で顔を隠し、伯爵令嬢から距離を取っている。

 先ほどまで私を泥棒呼ばわりしていた人々が、今度はイルメラ嬢を白い目で見ている。

 ——ざまぁ、とは思わなかった。

 ただ、悔しかった。

 なぜこんな嘘をつかれなければならなかったのか。

 なぜ、私の言葉は誰にも届かなかったのか。


「リーゼル」


 公爵の声に、私は顔を上げた。

 彼は、私の目の前に立っていた。


「終わったぞ」

「……はい」

「お前の潔白は証明された。誰も、もうお前を泥棒とは呼べない」

「ありがとうございます、公爵」


 私は深く頭を下げた。

 この人がいなければ、私は——


「顔を上げろ」


 公爵の声は、低かった。

 顔を上げると、彼の氷のような瞳が、私を見つめていた。


「ひとつ、言っておくことがある」

「……はい」

「お前は、王太子との婚約を破棄された。そうだな」

「……はい」


 痛みが走る。

 婚約破棄。それは、令嬢にとって社会的な死を意味する。

 いくら冤罪が晴れたとしても、一度破棄された事実は消えない。


「なら——」


 公爵が、私の手を取った。

 大広間の全員が息を呑む。


「この女は、俺の婚約者だ」


 ——は?


「異論があるなら、俺が潰す」


 公爵の声は、静かで、絶対だった。

 大広間が、再び凍りつく。

 今度は別の意味で。


「こ、公爵……?」


 私の声が、裏返った。


「何を——」

「お前を離す気はない」


 公爵の手が、私の手を握りしめる。


「俺は、お前を見初めた。だから、俺のものにする」

「い、いつ見初めたんですか」

「さっきだ」

「さっき!?」

「お前が、泥棒呼ばわりされながらも折れずに立っていた。あの目を見た瞬間に決めた」


 公爵の灰青の瞳が、私を射抜く。


「俺は、気に入ったものは手放さない」


 ——怖い。

 この人、怖い。

 でも——


「……お断りする権利は」

「ない」

「即答!?」

「お前が断っても、俺が諦めないだけだ」


 公爵は、涼しい顔で言い切った。

 国王陛下が、咳払いをした。


「オルヴェン。いきなりすぎやせんか」

「陛下。俺は即断即決が信条です」

「それは知っておるが……」

「リーゼル・ヴァルント嬢を俺の婚約者として認めていただきたい」

「……まあ、本人がよければ、余に異存はないが」


 国王陛下の視線が、私に向く。


「リーゼル嬢。どうする」


 私は——

 公爵の手を見下ろした。

 大きくて、温かい手だった。

 氷の公爵と呼ばれる人の手が、こんなに温かいとは思わなかった。


「……公爵」

「何だ」

「私、母から継いだ薬草園があるんです。領地に」

「知っている」

「……知ってるんですか」

「調べた」

「いつ!?」

「さっきお前を見初めた後、すぐに」

「どうやって!?」

「監査官を使った」


 公爵は、涼しい顔で言った。

 ヘルマン監査官が、気まずそうに目を逸らしている。


「俺の北領は寒冷地だ。薬草の栽培には向かない。だが、温室を用意すれば話は別だ」

「温室……」

「お前の薬草園は、俺の領地で好きなだけ広げろ。金は俺が出す。場所も俺が用意する」

「……」

「それから」


 公爵の目が、かすかに和らいだ。


「お前の母君の墓は、北領の一番日当たりのいい場所に移す。俺の屋敷から見える場所だ。お前がいつでも墓参りできるように」


 私の目から、涙がこぼれた。


「……公爵」

「何だ」

「貴方、ずるいです」

「何がだ」

「そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」


 公爵は、口の端をわずかに上げた。

 笑った——のだと思う。

 氷の公爵の、はじめての笑み。


「断らなくていい。最初から、断らせる気はなかった」


 公爵は、私の手を引いた。

 大広間の視線が集まる中、彼は私をバルコニーへ連れ出した。

 秋の夜風が、頬を撫でる。

 満月が、二人を照らしていた。


「リーゼル」


 公爵が、私の名を呼ぶ。


「はい」

「お前を、俺のものにする。いいな」


 命令形だった。

 でも、その声はどこか優しくて。


「……はい」


 私は、頷いた。

 公爵の手が、私の頬に触れた。

 そして——

 額に、唇が触れる。

 柔らかく、温かい。

 氷の公爵の口づけは、想像していたよりずっと優しかった。


「これは前金だ」

「前金……?」

「本番は、婚姻の夜にとっておく」

「——っ」


 公爵は、涼しい顔で言った。

 私の顔が、熱くなる。


「公爵」

「何だ」

「貴方、本当にずるいです」

「知っている」


 公爵は、また口の端を上げた。


 翌朝。

 私は、北領へ向かう馬車に乗っていた。

 窓の外を、緑の景色が流れていく。


「眠いか」


 向かいの席で、公爵——オルヴェンが尋ねた。


「少しだけ」

「眠っていい。着いたら起こす」

「……はい」


 私は、窓枠に頭をもたせかけた。

 胸元には、母の形見の栞。

 これがなければ、私はあの夜、社会的に死んでいた。

 でも今、私は——


「リーゼル」

「はい?」

「俺の隣で眠れ」

「え」

「そっちは揺れる。こっちの方が安定している」


 公爵は、自分の隣の席を叩いた。

 私は、少し迷ってから、彼の隣に移動した。

 公爵の腕が、私の肩を抱く。


「……公爵」

「オルヴェンでいい」

「では、オルヴェン様」

「様はいらん」

「オルヴェン」


 名前を呼ぶと、彼の腕に力がこもった。


「いい声で呼ぶな」

「どういう意味ですか」

「俺が我慢できなくなる」

「——っ」


 公爵の——オルヴェンの顔を見上げる。

 彼は、氷のような瞳で私を見つめていた。

 でも、その奥には熱があった。

 氷の下で燃える、炎のような。


「お前は、俺のものだ」

「……はい」

「誰にも渡さない」

「はい」

「俺の傍から、離れるな」

「……離れません」


 私の答えに、オルヴェンは満足そうに頷いた。

 そして、私の頭を彼の肩に寄せた。


「眠れ。北領までは長い」

「……はい」


 私は目を閉じた。

 温かい腕の中で、揺られながら。

 婚約破棄された夜から、まだ一日も経っていない。

 なのに私は今、氷の公爵の腕の中にいる。

 彼は私を守ってくれた。私の名誉を取り戻してくれた。

 そして、私を離さないと言った。

 ——悪くない。

 いや、正直に言えば。

 とても、幸せだった。

 馬車は北へ向かう。

 新しい朝日が、窓から差し込んでいた。

 私の新しい人生が、今、始まる。

 氷の公爵の婚約者として。

 彼の溺愛から、逃げられない——けれど、逃げる気もない。

 だって私は。

 彼に、恋をしてしまったのだから。


お読みいただきありがとうございます。


冤罪をかけられた令嬢と、氷の公爵の逆転溺愛物語でした。


リーゼルは自分で立ち向かう強さを持ち、オルヴェンは即断即決で独占欲全開——二人の相性がいいなと書いていて思いました。


秋夜祭の夜会という舞台で、真実が暴かれていく過程を楽しんでいただけたなら嬉しいです。


もし面白かったら、評価・ブックマーク・感想など応援いただけると励みになります。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


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― 新着の感想 ―
あげられている証拠をどう駆使しても「指輪を盗むのは不可能だった」という証明にならない気がする。 摘んだ花を押し花にして栞にするのに1週間弱掛かると思うけど、そこに制作した日付の記録が有ったから何が証明…
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