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戦奇様に呼ばれて彼の部屋に入る。贅沢な調度品が並んだ部屋は分不相応過ぎて居心地が悪い。思わず顔を伏せてしまう。
「愛花。」
呼ばれてほんの少しだけ顔を上げた。主人の綺麗な口元がゆっくりと弧を描く。どうして笑っているのだろう。機嫌が悪いよりは良いほうが良いけれど。
「此処にいる間、気を緩めるなよ。滞在は一週間ほどになるだろうと思う。」
気を緩めてはいけないのはいつもの事なので何も考えずに頷いた。それにしても珍しい。普段は一つの街に長くて三日ほどしか滞在しないというのに。余り長く留まれば、序列を上げたい他の王位継承者に狙われてしまう可能性がある。負けることは無いだろうが面倒なので長期滞在はしない主義であった筈ではなかったか。
「久し振りにゆっくりしたくてな。」
「承知致しました。」
いつもと言うことの違う主人に少し戸惑いはあるものの、主人が残るというのだから残るだけだ。確かに彼との旅が始まってからというもの、碌に休めていないのは事実だった。駱駝に乗っている戦奇様はともかくとして、私は歩きなので足に傷や豆が出来てしまっている。本音を言えば休めるものならば少しでも長く休みたかったので有り難い。
「今夜は侯爵が歓迎の宴を開いてくれるそうだ。夜遅くなる。護衛はしなくていいからお前は自由にしていろ。」
自由にしていろ、そう言われたのは産まれて初めての事だった。貸りた部屋に戻ると、ふぅと息を吐く。…何をしていいのか分からない。私は今まで奴隷として生きてきたので、空いた時間があるということは滅多に無かった。その為、こういった時間に楽しみたいと思うような趣味も無ければお金も無いのでちょっと買い物をしに街に出るという選択肢も無い。もしもここが自然豊かな場所ならば森にでも散歩に行くところだが、残念なことに河の周辺以外は砂漠である。好んで行きたい場所ではなかった。
それに一人で街に出れば魔女に憎悪を持つ人間に襲われる可能性もある。いくら魔法が使えたところで力の大部分を制限されており、人間を傷つける事が出来ない私にとって成人男性数人に襲われれば軽い怪我どころでは済まないだろう。痛いのには慣れているがとはいえ避けれるものならば避けたい。しかし此処に閉じこもっているのも暇である。暇ならばゆっくり惰眠でも貪るのが正解かもしれないとゴロンと横になってみる。…普段から睡眠時間が長くない為眠くならない。それでもいつかは眠くなるかも知れないと目も瞑ってみる。
「………寝れませんね。」
暫く目を瞑ってみるが眠れそうな気配もない。仕方ないかと諦めて、ベッドに座ってぼーとする。そういえば子どもの頃は『任務』や『訓練』の合間にこうしてぼーっとしていたっけ。あの人は元気にしているのだろうか、と思い出に耽る。決して楽しい幼少期では無かったが、それでも悪いことばかりでも無かった。トントンと控えめなノックの音が聞こえる。
「愛花、いる?」
「はい。」
返事をするとシルヴィアが水桶と使い古したような少し黄ばんだ布を持って部屋に入ってきた。シルヴィアは水桶を床に置いて私を見た。
「ありがとうございます。」
身体にへばりついた汗を拭くことが出来るのは有り難い。思わず笑みを浮かべてその水桶を見た。澄んだ水はこの砂漠で手に入れるのに苦労するものだというのに、私のような奴隷にまで振る舞ってくれるとは大盤振る舞いだ。
「手伝うわ。背中は拭きにくいでしょう?」
普通はここで恥ずかしがるのかも知れないが、私は他人に裸を見られることに対して抵抗がない。特に断るような理由もなかったので礼を伝えてすぐに服を脱ぐ。その様子にシルヴィアは少し面食らったような顔をしていた。自分で身体の拭けるところを拭いてから彼女に背中を向けた。
「………傷が。」
すっとシルヴィアが私の背中を撫でる。私の背中は小さい頃に受けた折檻の跡で埋め尽くされていてとてもではないが、綺麗なものではない。
「古い傷です。」
「……どうして。子どものうちは学園に引き取られていた筈じゃ?」
シルヴィアが顔を歪めた。私達魔女は、人間よりも少しだけ傷の治りが早い。そんな魔女である私に残る程の傷はかなり深いものが多い。学園は私達を奴隷として仕立て上げる場所であるが、その反面酷行き過ぎた拷問や折檻から保護される目的もある。多くの魔女の子ども達は赤ん坊の頃から学園で育っていた。本来であれば私もそこで育っているはずだった。
「……少し訳ありでして。それに、我慢出来ない程ではありませんでしたから。」
三日三晩折檻を受けたこともあったが、私達魔女にとっては三日なんて一瞬の事だ。大したことではない。
「愛花。貴女は……。」
シルヴィアの上質なシェリー酒のような綺麗な瞳が揺れた。どうしてこの人が悲しそうな顔をするのだろう。この人が痛いわけではないだろうに。
「大丈夫です。全て終わった事ですから。」
本当に小さい頃は折檻を受ける度に酷く泣いたものであったが、繰り返されるそれに、私を酷く残酷に見つめる大人達に諦めを抱けるようになってからは泣くことも無くなった。私が泣かなければ折檻をする大人も早く飽きる。だからこそ、小さな頃の私は何も感じないように感情を抑え込むことを覚えたのだった。そんな私に親切にしてくれる人もいた、私に対する仕打ちに怒ってくれる人もいた。小さな頃の私にはその人達だけがいれば良かったのだ。
少なくともシルヴィアに非があるわけでは無いのだから悲しい顔をしないで欲しい。そう言えば彼女は痛々しいものを見る顔で私を見つめた。同情されていることは分かったが、私は彼女を見ていたくなくて目を逸らす。シルヴィアの白く綺麗な肌と今は制服で隠れているが自分の細かい傷の残る腕を見比べた。喉が痛くなって、それを誤魔化すようにして彼女に笑い掛ける。
「それよりもシルヴィア。時間を潰すものは何かありませんか。戦奇様が暫くこちらに滞在されるそうなのです。」
「…そうねえ。字は読める??」
「学園で習う程度のものならば。」
「それなら、今流行っている小説を貸してあげるわ。気晴らしになるでしょう?」
少し待っていてね、彼女はそう言って使い終わった水桶と共に部屋を出て行った。10分した頃だろうか、一冊の本を持って戻ってくる。
「これ、私はもう何回も読んだものだから貴女にあげる。」
そう言って彼女が渡してきた本のタイトルは『深淵の眠りの中で』というもので、中身は恋愛小説のようであった。
「ありがとう。」
礼を言って受け取れば、シルヴィアは本当に嬉しそうに微笑んだ。




