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くそっ!くそっ!どうしてこうなった!!
男は頭を抱えたくなった。目の前ではこの国の第四王子が微笑んでいる。しかし、よく見ればその目元は笑っていない。この王子らしくない軽薄な表情に男の脇や背中から汗が伝った。
「殿下…。外の者達は貴方と関係が?」
平静を装っているのもバレていそうだが、それでも男には高位貴族としての矜持があった。慌てふためきたい気分だが王族を目の前にしてそういう訳にもいかない。
「おや、此処に来て数日しか経ってないのに俺を疑うのか?どう見てもあれは…いやはや、侯爵はどうやら相当に目が悪いらしい…いや、どちらかと言うと頭か?」
この若造が…!勝手な事ばかり言ってくれる!!カッと顔が熱くなるが拳を握って堪えた。ここで王族と揉めた所で良いことはない。冷静にならなければ…。男は…オルディアス侯爵は一呼吸吐いて窓の外を見た。
そこには民衆が集まっている。全員で大声で何かを叫ぶ姿は一見してこの領地の主を称えているようにも見えるが、しかし口々に叫ばれてるのは罵詈雑言で、彼らの手には農具やら箒やらが握られている。中には武器を持っている者さえいた。
「あれ程の民衆の怒りを買うとは…一体、何をしたんだ?」
ほくそ笑む王子はオルディアス侯爵の…横領の証拠である書類をひらひらとさせている。性悪王子が!と怒鳴りたくなるが堪える。部屋にはオルディアス侯爵の荒い息遣いが響いていた。
「それにしてもよりによって今日とは、ロマンがあるな。そうだろう?今日が何の日かは、お前が一番知っているだろうからな。」
今日が何の日かって?オルディアス侯爵は考えた。今日はラヴェニス歴1562年6月3日…。
「……ラヴェニス歴1356年6月3日…ルクサティア王朝首都マリクハルが墜ちた日…。」
掠れた声で出た答えは今日がオルディアス家の先祖同士が争いそして旧王朝が敗れた日だということだった。ルクサティア王朝の国王とそれまでの戦争で生き残った最後の王子の散り様と共に伝えられるそれは、オルディアス家では長く語り継がれていた。オルディアス侯爵は力なく項垂れる。しかし、此処で終わるわけにはいかない。折角戦える奴隷を手に入れて序列を15位まで上げたのだ。王の気紛れで始まったことだがそれでも諦めきれなかった。この王子も油断してさえくれればとっくに亡き者にしていたものを…。若造のくせにどれだけ酒を飲ませても部屋に美女を送り込んでもなかなか隙を見せなかった。
「愚かな…。」
体当たりをして王子の手の中の書類を奪い取り、走って部屋を出る。使用人達が戸惑っているが構うまい。今1番頼りになりそうな彼の奴隷を探す。
「おい!あいつは?あいつは見なかったか?」
オルディアス侯爵は目ぼしい使用人を捕まえてはそう訊いた。使用人達は首を振って居場所を知らない旨を答える。
全く、いつも用事の無いときには周りをうろちょろしている癖に大事な時にいないとは!憤りを感じつつ壁を殴った。この怒りは後であの奴隷にぶつけるとして…本当にあいつはどこにいるんだ。オルディアス侯爵は怒りと焦りで顔を真っ赤にさせた。そもそも、あいつが王子の奴隷をとっとと始末していれば良かったんだ。そうすれば今頃、自分の序列は2位だったのに!
オルディアス侯爵にとって王位を継承することは先祖代々の夢だった。それに近付いていたというのにこのままでいられる訳が無い。しかし、いかに王位を目指していようと現状はただの貴族だ。国王から4区を任されている貴族としては現在の騒動は余りにも宜しくない。もしかしたら領地没収になる可能性すらあった。そうしたら王位どころの話ではなくなってしまう。
この状況は余りにも良くなかった。しかし奴隷に命令してあの民衆を攻撃させて全員を投獄し何事も無かった事にすれば…少なくとも領地没収はされないだろう。王子に横領の証拠を見られたのは痛かったが…証拠は取り返した。これさえ手元にあれば、いくらでも言い逃れが出来るだろう。
「おい、奴隷!!」
青い髪の女が中庭に立っているのが見えて声を荒げた。
「今すぐにあいつらを黙らせろ!!」
命令をすると、いつも通り枷に付いたトリスメラ鉱が淡く光った。この石の効果が発揮されれば奴隷は主人に逆らうことが出来ない。オルディアス侯爵は内心でほくそ笑んだ。これで全てが解決するだろう。淡くい光りが徐々に強くなっていく…しかしいつものように彼女の全身をその光が覆う前に弾けて消えてしまった。オルディアス侯爵は酷く動揺した。しかし、目の前の女はそれが分かっていたとでもいうようにほくそ笑んでいる。
「マスター、私の名前、結局覚えていないのね。」
「お前…一体、何をした?」
微笑みながら歌うように近付いてくる女は…いつもの怯えているだけの奴隷では無かった。今、絶対にあり得ないことが目の前で起きている…トリスメラ鉱の効果を目の前の女が打ち破ったのだ。これはあるまじき事だった。魔法を使う人間が戦争に勝てたのは、この人工石のお陰だというのに、もしそれの効果が失われるというのならば…それは今生き残り奴隷となった魔女たちが人間に対して逆襲してくる可能性さえあるのだ。
「私は何もしていないわ。…貴方が名前を呼ばなかっただけよ。貴方が普段から私の名前を呼んでいればこんなことにはならなかったわ。」
女が…いや魔女がゆっくりと近づいてくる。
「ひぃっ…!く、来るなっ!」
「この枷を作った人もまさか、奴隷になった魔女を一度も名前で呼ばない主人がいるなんて考えてもいなかったでしょうね。」
「う、うるさい!お前らのようなゴミの名前を覚える訳が無いだろう!!!お前は私を王にする為の道具でしかないんだから!!」
女は足を止めない。名前が一体何だというのだ。しかしこの魔女が言うには名前を呼ばないと何故か鉱石の効力が薄まるらしい…。オルディアス侯爵は必死に考えた。この女の名前を使用人達は普段何と呼んでいたか。
「し、シルヴィア!そうだ。お前の名前はシルヴィアだ!シルヴィア、命令だ。今すぐ止まれ。」
トリスメラ鉱がまた淡く光り、女が驚愕したように足を止める。オルディアス侯爵は安心して、思わず膝から崩れ落ちた。助かった…そう思ったのも束の間、シルヴィアは長い青い髪を靡かせながら笑った。
「はははっ!!マスター貴方って本当に…!」
そして歩き出した。先程の命令は、止まれ、だ。名前まで呼んでやったというのに、何故動けるんだ!
「マスター、それは私の名前じゃなくて通称よ。本当に馬鹿な人。」
シルヴィアの手が青く光る。魔法を使おうとしているのか。人間には分からぬ言葉で詠唱を始めた。オルディアス侯爵は逃げようとした…が、先程地面に膝を付いてしまっている。贅沢をして太った身体では素早く動くことは出来なかった。ズリズリとお尻だけで動く様は無様だ。
幾つもの水の塊がどこらからともなく現れ、彼女の周りに浮かんだかと思うとくっついて一つの大きな球になり…オルディアス侯爵を包み込んだ。
息が出来ず藻掻いていると、またシルヴィアの詠唱が聞こえそれが止んだと思った頃にはオルディアス侯爵は意識を手放していた。