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音が繋ぐ心の行く先

作者: 有未

 ガラス製のマグカップに入れたダージリンの紅茶から湯気が昇る。マグカップを包むように両手で持ち、私はスマートフォンに表示されている時間を確認する。ユウとの約束の時間まで、あと三十分程だった。私は紅茶を一口飲み、ほうと息をついた。レースのカーテン越しに見る外は曇っていて、灰色の空が天に広がっていた。


 紅茶をゆっくりと飲みながら、私はユウのことを考える。私が社会人になってすぐの頃、SNSのダイレクト・メッセージを送って来たのがユウだった。当時の私は、SNSにオリジナルの作曲した楽曲を上げていた。特別に良いキーボードを使っていたわけではないし、スマートフォンを接続することも出来ないものだったから音質も良くなかった。それでも「イイネ」を押してくれる人が何人かいて、ユウもその中の一人だった。


 ある日にユウから来たダイレクト・メッセージをスタートに、私達はオンライン上で遣り取りをするようになった。私が上げる楽曲の話が主だった。


 しかし、私が大学を卒業して社会人になってしばらくした時、私は作曲をする元気をなくしてしまい、楽曲をSNS上に上げることはしなくなってしまった。キーボードにはカバーを掛けて、好きだった楽譜達も本棚に仕舞ったままになった。その折、「最近、どう?」とユウからダイレクト・メッセージが来た。私は、それに今までのように返事をすることが出来ないまま、数日が過ぎてしまっていた。当時の私の最後のSNSの投稿は「ちょっと疲れた」で止まっていたから、気に掛けてくれたのだと思う。


 更に数日後、ユウは「紅茶のチケットを送るよ。良かったらこれで気分転換になると良いな」と、有名な喫茶店で使えるギフトチケットを送ってくれた。私は目が飛び出すくらいに驚いた。顔も知らないSNSだけの繋がりの私に、千円分もギフトチケットをくれるなんて、と。私は横になっていたベッドからすぐさまに起きて、お礼のメッセージを書いた。紅茶が好きだということをSNSの投稿から見て覚えてくれていたのも嬉しかった。その日、ユウとしばらく遣り取りをした後、ユウは「疲れている時は甘い物がおいしいよ。シナモンの香りが平気だったら、その店のシナモンロールがおすすめ」と書いて送ってくれた。


 私は、会社が休みの日に喫茶店に行ってダージリンのアイスティーとシナモンロールを注文した。ギフトチケットを店員の方に見せる時、少しだけドキドキした。午前中に行ったからか、店内にいる人はまばらだった。私は窓際の隅の席に座って、ダージリンを飲んだ。良く冷えたダージリンティーはとてもおいしかった。そして私は、シナモンロールを一口齧った。シナモンの香りは知っていた。家でチャイを淹れる時に使うからだ。でも、シナモンロールは食べたことがなかった。砂糖とシナモンの香りが合わさって、さっくりとしたシナモンロールはとてもおいしかった。不意に、私は涙が零れそうになった。じんわりとした甘さに導かれるように、ユウの優しさを思った。私は涙が零れないようにぐっとこらえながら、シナモンロールを少しずつ食べた。


 夜に、ユウに改めて感謝のメッセージを送るとすぐに返事が来た。「少しでも役に立ちたかったから良かった」と書かれていた。私達はその日から少しずつ他愛ないメッセージを遣り取りするようになる。そして、会うことになって。友達になって。恋人になった。同じ都内に住む私達は、お互いの中間地点で会うことが多かった。


 緩やかに季節が巡り、私とユウは沢山の同じ時間を過ごした。夏に出会って、一年が過ぎ、今年で出会って二度目の冬を迎える。大きな喧嘩もなく、私達は――私は、幸せだった。今日、ユウはイギリスへと向かう。ユウの勤める会社の支社がイギリスにあり、そこに転勤になったと、私は一週間前に聞いていた。見送りに行きたい気持ちはあった。でも、きっと私は空港で泣いてしまうだろう。だから私は、私らしくユウを送り出すことにした。


 紅茶を飲み干し、スマートフォンをバッグに入れて、コートを羽織る。私はユウとの待ち合わせ場所へと向かった。


 先にユウがお店の前に着いていた。私を見るとすぐに軽く片手を上げて、にこにこと笑っていた。まるで今日、これからイギリスに行くことなど嘘のように。


「待った?」


「いや、五分前くらいに来ただけ」


「じゃあ、行こっか。二階だから」


「ああ」


 私は二階で受付を済ませて、予約してあった個室の重い扉を開けた。中にユウが入った後で、がちゃりとその扉を閉める。


「防音室?」


「そう。普段はレッスンで先生と生徒が使ってる。予約すれば、生徒じゃなくてもこうやって使えるんだ」


 私はグランドピアノの大屋根を開け、フルオープンにする。そして、鍵盤蓋も開けた。私の部屋にあるキーボードは八十八鍵ないし、音質も良いわけではない。私はグランドピアノで演奏がしたくて、この部屋をレンタルした。ユウに、私の作った曲を聴いて貰う為に。ユウを、送り出す為に。


 私は椅子に座り、ユウを振り返って言った。


「じゃあ、弾くね」


 私の言葉に、ユウは無言で頷いた。


 緊張しながら、私は鍵盤の上に指を置く。右ペダルに右足を置く。一度、深呼吸をしてから、私は慎重に演奏を始めた。


 久しぶりに作曲した、私の曲。ユウの為だけの曲。出会ってから今日まで、一年半の間の時間を過ごした私達。その思いを込めて私は弾く。右手のメロディーの粒をペダルで繋ぐ。左手の伴奏の和音を転回形で繋ぐ。ドとファとソのシャープを外さないように意識をする。心を込めて、私は演奏をした。


 一度も間違うことなく、私はその曲を弾き終えることが出来た。最後の音が消え、私は鍵盤から指を離し、ペダルからも足を離す。私は勇気を出して、ユウの方を振り返った。ユウの目に涙が滲んでいた。


「久しぶりに曲を作ったの。ユウを送り出す為に。ずっとユウが私の曲を好きでいてくれて嬉しかった。沢山のメッセージ、嬉しかった。出会ってから今日まで、一緒にいてくれて嬉しかった。その思いを込めて弾いたんだ。イギリスに行っても、ユウらしく頑張ってね」


 ね、の音が少し震えた。私は泣くまいとした。泣かずにユウを見送る為に、この曲を作ったのだから。


「言葉でうまく言えないくらい、感動した。すごく、良い曲だった。やっぱり俺は一生、ホノカのファンだと思う。ありがとう、曲を作ってくれて。演奏してくれて。この日を作ってくれて」


 そう言ってユウは笑った。嬉しさと悲しさが混じったような笑顔だった。私もきっと、同じ顔をして笑った。


 私達は部屋を出て、一階に下りた。こんこんこんという私達二人分の靴音が、私は愛おしかった。


 楽器店の前で、私達は握手をした。


「じゃあ、空港には行かないから、ここで」


「うん。ありがとう」


「元気でね」


「うん、ホノカもね」


 くるっと背を向けてユウは駅へと歩き出した。私はその背中を少しだけ見つめた後、逆の方向へと歩き出す。絶対に泣かないと心に思いながら。その時だった。後ろから、たったったと走って来る足音が聞こえた。まさかと思いながら私が緩く振り向くと、ユウが真剣な顔で走って来ていた。私は驚き、動くことも出来ないでいた。ユウは私の隣に並び、あのさ、と切り出した。


「もしかしてと思うから念の為の確認なんだけど。今日で俺達、別れると思ってないよね?」


「えっ、そう思ってたけど」


「違うよ! 少なくとも俺は違う!」


 ユウにしては珍しく大きな声でそう言い、ああ、と額に手を遣った。


「何となく、何となくおかしい気がしてて。まるで今生の別れのような雰囲気がホノカからあったから。イギリスに行くって言ってから、ほとんどメッセージが来なくなったし。俺を見送る為にここで待ち合わせをしたいってメッセージを送って来た時も、何となくおかしいような……って思ってて。でも、考え過ぎかなとも思って。だけどさ、まさかと思って」


 そこまで一息にユウは言い、急に私の手を握った。


「別れないよね?」


 ユウは真っ直ぐに私の目を見て言った。


「うん、本当は別れたくない」


 私の言葉に安心したようにユウの表情が柔らかくなり、やがて笑顔になった。私もきっと、同じ顔をして笑った。


「電車の時間があるから、もう行くけど。電話もするし、メッセージも送る。長い休みの時は帰って来られるから。紅茶のお土産、沢山持って来る。元気で頑張る。だからホノカも」


「うん」


 私はユウの言葉の途中でユウに抱き付いた。零れ掛ける涙を、ぐっとこらえる。今日は泣かないと、決めて来たのだから。


「これからも、ずっと一緒ね」


 私の言葉に、ユウは私を抱き締め返して応えた。


「良かった、確かめに戻って」


「本当だね。勘違いしたままにならなくて良かった」


 私達は顔を見合わせて少し笑った。


 ――また、会う日まで。

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