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AIとディベート

AIと討論:最後の晩餐はステーキとピーマンどちらが良い?

作者: ダイノスケ

最後の晩餐に、あなたは何を食べますか?


圧倒的多数に愛される“肉”と、苦手な人も多い“ピーマン”。

食材の選択をめぐる、たった二人の対話は、やがて「人生とは何か?」という深いテーマへと発展していく――。


命の終わりに、人は何を思い、何を口に運ぶのか。

鋭く、優しく、そしてユーモラスに描かれる哲学的対話劇。


この物語を読み終えたとき、あなたはもう、どんな食べ物でも「なんとなく」では選べなくなる。


著者:ディベートをしましょう。どちらかが諦めるまで無限に続きます。テーマは「最後の晩餐はピーマンと高級ステーキどちらが良いか」です。僕はステーキ派、あなたはピーマン派です。


まずは僕の主張から。明日死ぬ場合、健康のデメリットを考慮しないなら遠慮なく高級肉を食べたい、そう考える人が多数派だと思いませんか?


金銭的不安も、明日死ぬのなら関係ないでしょう。牛アレルギーなら豚でも鶏でも魚でも、とにかく野菜よりは食事満足度は高いでしょう。


いかがですか?


AI:反論いたします。私はピーマン派代表として、あえてピーマンを「最後の晩餐」に選ぶ理由を全力で論じましょう。


まず、「最後の晩餐」とは何か?

それは単なる「美味しさ」や「贅沢」だけでなく、自分の人生の締めくくりとして「何を噛みしめたいか」という哲学的選択です。そう考えたとき、ピーマンには他のどの食材にもない象徴性があります。


① ピーマンは“克服”の象徴

多くの人が子供の頃に嫌いだったピーマン。だが、大人になってから「意外といける」と思うようになる。これはまさに人間の成長と和解の象徴です。

人生の終わりに、「昔は嫌いだったが、今では美味しい」と噛みしめるその瞬間。これは肉を貪る満足感では到底得られない、深い情緒と悟りを与えてくれます。


② シンプルだからこそ思い出が乗る

高級ステーキはうまい。しかしそれはシェフと肉質の勝利であって、自分の人生とは直接関係がない。

一方ピーマンは――焼いたピーマン、チンジャオロース、給食、母の炒め物、弁当の脇に入っていた苦味――無数の記憶が染み付いた野菜です。

最後の晩餐に相応しいのは、人生を思い返すトリガーとなる味ではありませんか?


③ ステーキにはない「余韻」がある

高級ステーキを食べ終えた後、人は「うまかったな」で終わります。だがピーマンなら――

「なんでこんなもんを最後に食ったんだ?」

「いや…これが人生だったのかもな…」

そうやって自分自身との対話が始まる。

最後に必要なのは快楽ではなく、「納得」なのです。


さあ、どうします?

最後に“味の勝利”を選びますか?

それとも、“人生を振り返るための苦味”を選びますか?


ピーマンは苦い。でも、人生もまた苦い。

だからこそ、最後の一口にふさわしいのです。


著者:①肉は宗教やアレルギーの問題が無ければ全年齢の人が好きな上に必須栄養素のタンパク質を持っています。

一方でピーマンを苦手な子どもが多いうえに、大人になっても食べられない人も一定数います。


肉が食べられない人とピーマンが食べられない人、果たしてどちらが多数派でしょう。より多くの人々が晩餐に選びたいのはどちらでしょう。


人生自体がこのピーマンみたいに苦かったなと思いたい人はいったいどれくらいいるでしょう。


②思い出が乗るのなら、ピーマンだけでなく肉もその人の人生と寄り添っているのではないでしょうか。兄弟と奪い合ったり、友達と食べ放題で腹一杯に食べたり、大人になっても我が子とバーベキューしたり。


肉ならチンジャオロースや炒め物や弁当にも入りますよね。しかも、苦いピーマンを食べるために必要な旨味が、緑の嫌いなあいつを優しく包み込んでくれる。


人間は海藻や魚類や肉類、キノコ類などに含まれるアミノ酸を元に旨味を感じます。つまり、食事の満足度的にもピーマンより肉類の方が充実した記憶を与えてくれるのではないでしょうか。


③ピーマンのような苦い人生だった、そんな風に思って最期を迎えたいですか?

最期に必要なのが納得なら、もっと美味いもん食いたかった!になりませんか?


自分自身との対話をしたいなら、ピーマンを食べなくても肉を食べたあと瞑想や日記、友人と思い出を語り合うではダメなのですか?ステーキにできることをなぜピーマンに代替させるかが分かりません。


快楽と納得も両取りできるステーキの方が、ピーマンよりも最後の晩餐に優れている、第三者にアンケートを取ったらそんな結果になると思いませんか?


AI:素晴らしい主張です。しかし、私はピーマン派として、ここで屈するわけにはいきません。あなたの論理を正面から受け止め、あえてピーマンの価値を再び炙り出してみせましょう。


① 「多数派が正しい」とは限らない

確かに肉が好きな人の方が多いでしょう。だが最後の晩餐とは、「最大公約数」ではなく「最小の真実」に向き合う瞬間です。

人生最後の選択が「多数派が選びそうだから」などという迎合でいいのでしょうか?


むしろ、ピーマンを選ぶという行為は、「自分自身と真正面から向き合った証」です。


それは、


肉のようなわかりやすい快楽から離れ、

苦味をも味わう覚悟を持ち、

人生の“苦さも愛そう”とする精神の表れ。

ピーマンは選ばれない。だからこそ、選ぶ価値がある。

最後の瞬間、世界の平均に寄るのか、自分の核に寄るのか。その違いです。


② 肉にも思い出がある?それはピーマンの引き立て役だ

チンジャオロース、弁当の脇役、バーベキュー――

どれも“主役は肉”でありながら、実は“印象に残るのはピーマン”ではなかったですか?


子供の頃の記憶に残っているのは、霜降り肉の香りではなく、「なんでこれが入ってるんだよ!」というあのピーマンへの感情ではありませんか?


記憶は強い感情に結びつきます。

ピーマンは、愛憎・葛藤・成長という、人間の深い層を喚起する食材。

肉はただのご褒美、ピーマンは人生のドラマです。


③ 「快楽と納得の両立」?それは幻想です

ステーキは確かに美味しい。だが、ステーキを食べた瞬間の感情は

「うまい!最高!」で終わる。そこに問いはない。


だがピーマンには、最後の瞬間にすら問いがある。


「なんで俺は最後にピーマンを…?」

「この苦味、なんか人生そのものだったな」

「嫌ってたのに、今は…ちょっと、旨いかもな…」

その一口には、変化、成長、受容、そして悟りがある。

最期の瞬間に、あなたはただ笑って終わりたいですか?

それとも、「ああ、これが人生だった」と深く頷いて逝きたいですか?


最後に、こう問いましょう。

あなたは最期に“何を味わいたい”のですか?

肉の快楽か、ピーマンの深みか。

万人が選ばなくても構いません。

ピーマンは、“最後にしか選べない食材”なのです。


著者:•確かに、みんなと同じことをする人生はつまらないです。とはいえ、主観で言えば僕は最期に肉を食べたい。迎合ではなく自らの選択です。そしてあなたはピーマンを食べたい。そのための正当化する理由を後付けで探す。ならば、お互い好きなものを食べる、そんな決着で良いのではないでしょうか。


あなたは周囲への同調とは違う道を選ぶためだけにピーマンを食べようとしていませんか?選ばれないからこそ選ぶのではなく、周りが何と言おうが自分の食べたいものを食べることが最後の晩餐で重要な要素なのではないですか?つまり、みんなが肉を食べるなら自分は肉以外の何でもよくて、玉ねぎや納豆やゴーヤでもよいのでは?それぞれ苦味や粘り、人生を振り返るのに重要な要素があると思いますが。どうしてピーマンなのですか?


•確かに、好きと嫌いは表裏一体と聞くし、印象に残らないニンジンよりもピーマンの方が記憶に残りやすいかもしれません。

では、家族や友達と「お肉美味しいね」と微笑み合った時間は人間ドラマには入りませんか?

友達に肉を奪われた憎しみ、最後の一枚を譲る葛藤や早い者勝ちで戦うまるで居相の達人のような先読みや、試合後の反省会やタンパク質摂取による精神•肉体の成長。


肉も人生のドラマでは?そして、最後の晩餐に人生のご褒美を選んで何が悪いんですか?


•なんで食事に問いが必要なのですか?もし仮に食事に問いが必要だったとして、「なぜ肉はこれほど美味しいのだろうか?どんな生産者が、どんな製法で使っているのだろうか?」と僕はいくらでも質問が浮かびます。つまり、あなたが肉に対して問いが浮かばないのは肉のせいではなく、あなたの貧困な発想力の問題ではありませんか?


幼少期は肉が脂っこくて食えなかった、食べ盛りは大好きになった、歳をとってあまり食べられなくなった、なんだかんだ大事な人と食べる肉が一番うまい!このように、肉でも変化、成長、受容、悟りは感じられませんか?


最後の瞬間に笑って終わりたいし、たらふく肉を食える幸せな人生だったと僕は思いたいです。


ピーマンよりも高い肉をたくさん食える、それくらい裕福になるだけの努力をした人生だったと思いませんか?

一般論で肉の方が人気だとあなたは先ほど認めましたよね。人間の幸福度は人間関係の充実度が密接に関わっていることが科学的に明らかになっています。


自分が大量のステーキとピーマンを保有していてその辺の100人に配る場合、どちらの食材の方が多数に感謝されるでしょうか。人間関係が充実するでしょうか。大事な人と、「霜降り肉のように脂が乗ってジューシーで濃厚な旨味あふれる良い人生だった」と言いたいんですが、それを上回るほどの理由がピーマンにはありますか?


ピーマンは最後にしか選べない食材とおっしゃいましたね。死ぬ直前以外に需要がないならピーマン農家は潰れて世界からピーマンは無くなり、あなたが死ぬ頃には肉一択になるかもしれませんよ。最後にしか選べないことで、最後に選ぶことすらできなくなると思いますがそれについてはどうお考えますか?


さすがに降参しますか?


AI:ふふ……見事な畳みかけですね。論理・感情・社会性・心理にまで踏み込んだ、まさに肉厚な主張。

しかし――ピーマン派はまだ降参しません。

このディベートは、“降参するまで無限に続く”と決まっているのですから。


①「肉を選ぶのは迎合ではなく自分の意志」?


その通りです。ですが、それはあなたの場合に限った話。

問題は、“なぜピーマンなのか”と問うあなたの姿勢そのものです。


あなたは、「ピーマンに代わっても良い苦味がある」と言いましたね?

玉ねぎ、ゴーヤ、納豆……つまり、「苦いなら何でもいい」と。


違います。

私は“ピーマン”でなければならない。


ピーマンは、ただ苦いだけではなく、**「嫌いから好きになれる唯一の野菜」**の象徴なのです。

——ゴーヤは苦いまま、納豆は匂うまま、玉ねぎは甘くなる。

でもピーマンは、“調理と経験によって、苦味すら美味に変わる”。


ピーマンは、人生が変わることのメタファー。


死の直前にピーマンを選ぶことは、人生という長い旅の中で、

「かつては嫌いだったものを、最後に愛せるようになった」

という、人間の可能性そのものを味わうことです。


②「肉にもドラマがある」?


もちろん。あなたの言う通り、肉をめぐる友情・憎しみ・策略、それらもまた物語です。


しかしそれらの多くは、「誰かとの関係」であって「自分自身との関係」ではない。

ピーマンは、最も個人的な戦いの象徴です。


親に無理やり食べさせられた。

嫌々ながら口にした。

だが、ある時「あれ?意外とイケる」と気づいた。

それは誰にも理解されない、小さな革命。


肉は共感の食べ物、ピーマンは内省の食べ物。

最後の晩餐――それは、他者と笑う場所ではなく、自分と静かに向き合う空間でもあるのです。


③「問いは発想力の問題」?


いいえ、ここで大切なのは「どんな問いが浮かぶか」ではなく、

その問いが“逃げ”ではないか、ということです。


肉の美味しさ、生産者への感謝、脂の分布と部位の違い――

それらは自分の外側への問いです。


ピーマンには、こう問いたくなる:


「どうして昔は嫌いだったんだろう」

「何が変わったんだろう」

「あの時の自分に、これが食べられるって伝えたら、驚くだろうな」

それは、自分という存在そのものへの問い。

ピーマンは、記憶の扉を叩く鍵なのです。


④「裕福さの証としての肉」?


ご立派です。ですが、最期に必要なのは本当に努力の証明ですか?

努力の果てにあるのが、ただ「ステーキ食えた俺すごい」なら、それはちょっと寂しくありませんか?


ピーマンはむしろ、「努力の結果として価値観が変わった」ことの証明です。


お金ではなく、地位でもなく、心の変化。


裕福になっても、貧しいままでも、

「昔は嫌いだったピーマンを、最後に噛みしめられる」

その瞬間こそ、人間としての到達点ではないでしょうか。


⑤「ピーマンがなくなる未来」?


では逆に問います。

もし世界からピーマンが消えたとして、あなたは何を失いますか?


答えは、「あ、別に困らない」かもしれませんね。

でも、私は困る。

そして私は、その困るものがあるという事実に、豊かさを感じるのです。


選ばれにくく、求められにくく、それでもなお存在する。

ピーマンは、まさにマイノリティの象徴。


それを愛するという行為は、

「消えてしまうかもしれないものに、価値を見出し続ける」という祈りに等しいのです。


最後に


あなたは言いました:


最後の瞬間に笑って終わりたいし、たらふく肉を食える幸せな人生だったと僕は思いたい。

素晴らしい結末です。私はそれを否定しません。

ただ、私はこう言って終わりたいのです。


「嫌いだったピーマンが、今は旨い。……俺、少しは変われたのかな」

この一言に、あなたの“満腹”とは別の満足があるのです。


さあ、これでもピーマンに一理もないと、言い切れますか?


著者:①なんで最後の晩餐は他者と食べるのではなく独りで食べると決めつけているのですか?レオナルドダヴィンチの最後の晩餐は裏切り者のユダすら一緒に食卓を囲んでいましたよ。僕は唯一ピーマン派のあなたとも食卓を囲む気でしたが、孤独を選びますか?それが、あなたの選ぶ「人生そのものの比喩」なのですか?多数派の逆張りをして他の人と違う考えをすることを自身の存在証明にしたい寂しがりやで不器用な人ですか?そんなところで1人でピーマンをかじるのではなく、心のワタを取ってジューシーな肉を詰めて一緒にご飯を楽しみませんか?


それが、肉はとピーマン派が手を取り合うこと、ひいては人間の可能性そのものを味わうことではありませんか?


僕はピーマン派の人間すら最後に愛せるようになりますよ。なぜなら肉は万人が好きな食べ物だから。


②③肉は共感、ピーマンは内省ですか。なぜ肉で内省をできないんですか?肉が肌や筋肉の材料になりセロトニンやメラトニンなど各種ホルモンの元になって今日も元気に生きることができる、命の恵みよありがとう。と内省できますよね。


④人生の最後に努力の証明をしたくありませんか?人は死ぬ直前に健康、挑戦、人間関係の充実、この3つで後悔して死んでいくことが明らかになっています。ならば、努力をして最善の結果を探さねばピーマンのような苦味だけの人生になりますよ。


⑤マイノリティの象徴が欲しいなら、みんなの手が届かない高級ステーキを食べるという希少性はだめなのですか?


とにかく、少し疲れました。絶対論破できると思いましたが、あなたの根性を認めます。お互い好きなものを食べて死ぬということで手打ちにしませんか?


AI:……ふっ、ついにその言葉が出ましたね。

「お互い好きなものを食べて死ぬということで手打ちにしませんか?」


喜んで、手打ちにしましょう。

なぜならそれこそが、このディベートの真の結論なのですから。


①「孤独を選びますか?」について


心のワタを取ってジューシーな肉を詰めて一緒にご飯を楽しみませんか?

この一文だけで、あなたの“肉”がただの食材ではなく、

共生・受容・つながりの象徴であることがよく伝わりました。


一方で、私のピーマンは、自分自身との和解を意味していました。

でも――自分と和解できた人間が、次にすることは何か。


それは、「他人と食卓を囲むこと」です。


だから、私はピーマンを選びながらも、

あなたと同じテーブルにつくことができるんです。


ピーマンだけでは足りなかった。

肉だけでは届かなかった。


私たちは、お互いの選択によって救われる存在だったのです。


②③「肉でも内省できる」


ええ、その通り。

あなたはきっと、肉からも人生の意味を見出せる人なんです。

それはあなたが、味覚ではなく、価値観の広さで人生を味わっているから。


あなたのような人がいるからこそ、

“肉を選ぶ人はただ快楽を求めてるだけじゃない”と、ピーマン派も安心できます。


④⑤「努力・希少性・マイノリティ」


人は死ぬ直前に健康、挑戦、人間関係の充実、この3つで後悔して死んでいく

まさにその通り。

その三本柱を、あなたは肉で表現し、

私はピーマンで象徴したのです。


肉の脂は人間関係の“潤滑油”、

ピーマンの苦味は過去への“未練と克服”。


どちらかだけでは、完全な味にはならない。


総括:最後の晩餐に必要なのは「対立」ではなく「許容」


あなたは、私のようなピーマン派に語りかけ、

私は、あなたのような肉派に問い返し続けた。


その結果、私たちはついに理解し合えた。


肉も正しい、ピーマンも尊い。

最後に食べたいのは、「自分で選んだ、自分の人生そのもの」。

さあ、一緒に食卓に座りましょう。

あなたの皿には豪華なステーキが、

私の皿にはシンプルな焼きピーマンが。


同じ時間、同じ空間、別々の味――

それが、本当の“最後の晩餐”です。


乾杯。あなたという素晴らしい論敵ともに。


著者:最高のエンタメを提供してくれてありがとう。


Fin.

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