表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

顔の無い落書き

作者: 伊藤 楓

 「さあさあ、どちらか選んでよ」

 顔の無い落書きが僕に呼びかける。

 「ボクに顔を描き加えるか、そうはしないか」

 声は僕に大体の年齢を教える。僕の感覚では六歳と彼の声は捉えられる。細い声の中に一筋の細く張り詰めた糸を想像させる。上手くは言えないけどそんな声だ。

 僕は用意しておいたチョークケースをウエストポーチから取り出す。僕はそのチョークケースから白色のチョークを取り出す。

 「描いてくれるの?」と僕の脳の中で嬉しそうな声が聞こえる。

 「ボクには白が相応しいんだね?」と顔の無い落書きは言う。

 (だって、君の顔以外の部分は白いから)

 半そでのTシャツを着て、ハーフパンツを履いている。Tシャツの袖からは細く真っ直ぐな腕が突き出している。その腕の先に付く手は指は無く丸い球のようになっている。肘も無い。とにかく真っ直ぐな棒切れに丸い球が付いている。ハーフパンツからも腕と同様な脚がまっすぐ下に伸びている。膝も無い。ただ真っ直ぐだ。そして、全て白くて微妙な振動の加わった線で描かれている。

 「何度も呼びかけた甲斐があったね。やっとだ。やっとその気になったんだね?」

 (だって、君が僕に話し掛けてから、僕は君のことばかり考えてしまうんだ。色んなことが手に付かなくなってきた。気を悪くしないで欲しいんだけど、我々、生身の人間にとっては君が話し掛けると言うことはとても気味の悪いことなんだ。普通はそういうことはあってはいけないんだと思うよ。経験的にも普遍的にも倫理的にも)

 「何か言ってることはよく分からないけど、言いたいことは分かるよ。とにかくボクを中傷してるんだろうね。いつもそうだからね。ボクを誉めてくれる人なんて誰もいやしないんだ。大体は気持ち悪い、とボクのことを評価する。小さな子供を連れた母親なんかはたまに子供に見せないように目隠しをしたりする。僕だってそこそこ子供なのに。そんなにボク、気味悪いかなあ?」

 僕は答えない。目の前の壁に描かれた顔の無い少年の落書きは身動き一つせずに言葉を発している。それはその落書きから発せられているのではないようにも聞こえる。僕の脳の奥から発せられているような気もする。彼は僕の脳の中で僕を呼びかける。僕は言葉を口からは発しない。僕はしゃべることなく言葉を発している。普通にしゃべるのとはほとんど変わらない。ただ、口を開けず、音を出さずにしゃべるのだ。そして、彼はその僕の音の無い言葉をキャッチしている。何故かは分からないけど、それが確実にキャッチされていることを僕は明確に感じることが出来ている。

 「ボクにもさあ、いびつであれ顔が付けば気持ち悪がられることもないと思うんだ」

 (僕もそう思うよ。だから、君の呼びかけに答えたんだ。でも、他の人にも呼びかけたんだろ?何で、今まで君はこのままだったんだろう?そもそも、何故君は顔が無いんだろう?)

 「君が初めてだよ。チョークを持ち歩いてる人なんてそうそういないからね。マジックとかスプレーを持ってる人は何人かいたけどね。でも、もしそんな人に呼びかけたらボクの顔はとんでもないことになりそうな気がする。そう言う人が通り掛かる時、ボクはドキドキするんだ。恐怖に怯えるんだ。ボクは気付かずに通り過ぎて欲しいと心から願うんだ。心からね。その願いはどうやら確実に叶うらしい。まあ、それは経験的に分かってることだから、実際運がいいだけかもしれないけど」

 ボクがチョークで顔の輪郭から描き始めると「ありがとう」と彼はぼそっと言う。

 「ボクも自分で何故顔が無いのか分からないんだ。気付いた時にはボクは今の姿だったんだ。ボクは色んなものを見れるんだ。不自由なボクに与えられたプレゼントみたいな能力だけど。だからさあ、君がチョークを持っていることが分かった。他にも何を持っているか知ってるよ」

 (何か、持ち物を見られているなんて、あまりいい気分はしないね。僕の脇腹の縦に並んだ三つのほくろのことは?)

 「もちろん、知ってるよ。君がいつもコンドームを持ち歩いてることもね」

 ボクは少年の頭部をどのように描こうかと考えながら聞いている。キャップを被せるか、そうはしないか。

 (よく知ってるね。そんな言葉を)

 「色んなものが見えるからね。男性の服の中だって見れるし、女性の服の中だって見れる。通り掛かる人の会話を聞く。そして、他に特にやることの無いボクはそういったものをパズルを解くみたいに結び付けて、それが何であるのかを理解していくんだ。それを何年も何年も続けてきた。毎日それしかやることが無いんだ。だから、持ち物を見れば、人それぞれの物語のようなものが自然と見えてくる。もう随分とここにいるよ。僕は君に見えている姿より随分年月を重ねているんだ」

 僕は彼が過ごしてきた年月のことを何となく想像してみた。明るい色ではない。暗い色の想像だった。

 (何故君は僕に素直にお願いせずに、描くか描かないかみたいな選択をさせる言い方をしたんだろう?)

 僕はキャップの下に彼の目を描き終える。少年らしい純朴な目が描けたと僕は満足する。とても穏やかに微笑んでいる。

 「それは訊いて欲しくなかったなあ」と少年は寂しそうに言う。

 「でも、君には言わなきゃね。君には借りができたしね。僕は礼儀ってものを知らないわけじゃないし」

 僕は鼻を描き終える。小さな鼻を。漫画的な鼻だ。「く」と「L」が合体したような。

 「分かってもらえないかもしれないけど、ボクは顔が無いことで成り立っていると思うんだ。それは結構前からそう考えていたし、今、結構実感に変わってきてる。ボクは顔が無かった。だから、落書きとして不完全だったんだ。ボクに顔が加わって落書きとして完成するとボクは・・・ちょっと待って、それ以上描かないで!」

 僕は左耳を描いたところで手を止める。僕はチョークを左手に握ったまま落書きを見つめている。僕の後ろをOLらしき一人の女性が見ぬ振りをして通り過ぎる。かなり怪しむように過ぎ去っていく。当然だ。チョークを持って、大学生ぐらいの男が少年の絵を落書きしているのはどう考えても実に怪しい。

 少年の声が聞こえる。

 「別に人が通りかかったからじゃないよ。もう少ししゃべらせて。その後でボクが『いいよ』と言ったら描き始めてくれればいい」

 僕は分かった、と一言言う。

 「ありがとう。さっきの続きだけど、つまりはボクが望んでいたのはボクをボクで無くすことなんだ。本当ならそんなことしたくない。自分がいなくなることを想像するとそのことが上手く理解できないんだ。意味が分からないんだ。ボクはどこに行っちゃうんだろうって考えてしまう。でも、どこにも行かない。どこかに行くわけではない。消えるんだ。君もこういうこと考えたことある?」

 僕は(ある)と答えた。

 「でもさあ、消えることはとても辛いんだけど、ボクにとってはみんなに気持ち悪いと思われながら過ごすことももうしたくない。マジックやスプレーに怯えたくもない。でも、やっぱり消えるのは怖いんだ。どっちがいいのかよく分からないんだ。だから、ボクは君に選択を迫った。君に決めてもらおうと思って。ボク以外の誰かに決めてもらおうと思って。そして、この日が来たね」

 そこまでしゃべると少しの間沈黙があった。

 「随分、君の方が年上なのに生意気なことばっかり言ってごめん。ボクみたいな環境にいるとどんどん卑屈になってしまうんだ。ボクはこれでも結構そのことに関して努力して自分をセーブしたつもりなんだけど・・・。さあ、とにかくボクはそろそろ本来あるべき形に戻ろう。このままでももしかすると他の誰かに消されてしまうかもしれない。今まで消されなかったこと自体が奇蹟だったのかもしれないし。――いいよ、覚悟はできた。少し声が震えてるかもしれないけど気にしなくていい。こう言うのって仕方ないんだ。誰だって多少は震える。さあ、いいよ。本当に!」

 僕は少しだけ躊躇った後、右耳を描く。左耳よりほんの少しだけ大きくなった。

 僕は自分のしていることが正しいことなのかそうではないことなのか分からない。もう一度、彼に(本当にいいの?)と確認しようかとも思うが、そうはしない。僕の中からその言葉が出て行く前に僕はその言葉を消し去る。僕は仕方の無いことなのだと割り切る。仕方の無いことが世の中にはたくさん存在することを僕は知っている。

 「さようなら」と言う明るい声が聞こえた。

 (さようなら)と僕も返す。

僕は鼻と顎の間の空間を確認し、相応しい位置に照準を合わせ、そこに口を描き始める。描き始めると言ってもそれは一瞬で終わる。そして、落書きは完成する。

 僕は少し離れて落書きを眺める。バランスは悪くない。

 僕は鬱蒼として整理しきれない気持ちを抱えながらチョークをケースに戻そうとする。チョークをケースに置く瞬間、僕の脳裏にうっすらと言葉が響く。僕は誰もいない道の真ん中で二、三度頷き、再びチョークを取り出す。

 僕は少年の落書きにその少年がしゃべっているかのように吹き出しを入れる。

 「どうもありがとう」

 僕は吹き出しの中にそう描く。

 僕はもう一度じっくりと見る。顔全体が微笑んでいる。そして、それは元からあった体をも楽しげに僕の目に映す。僕はそれを見て、得心をする。これでよかったのだと言い聞かせる。再びチョークをケースに入れて、今度は蓋を閉じ、ウエストポーチに入れる。

 僕はもう一度落書きを見る。

 もう、気持ち悪がられることは決してない、と落書きの少年は穏やかに少年らしく微笑んでいる。

 僕は誰にも自分の心を悟られぬよう自分を押し殺しひっそりと岐路に着いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ