魔の森(中編)
魔物を生み出す忌地、魔の森。過去、多くの王がこの地を完全に浄化できないか試してきた。
例えば、森の中心に封印されているという魔王を討つめ軍隊を派遣した王がいた。しかし討伐軍は誰一人帰らず、その王は無能の烙印を押されることになった。
ある時は聖女の結界で半島と大陸を分断し、魔物を封じ込めた王もいた。魔物は海を渡れないので完封できたかと思いきや、共食いを繰り返して異常に成長した個体が結界を破り、当時の辺境伯領に壊滅的な被害を与える惨事となった。
たった一匹の魔物に甚大な被害を与えられてからというものの、魔物の討伐はますます重要な辺境伯家の使命になったのだ。
「これが魔の森……禍々しいですね……」
砦を出て、二十名の討伐小隊とともに森の入口へやってきたアレクサンダーは息をのんだ。一見するとただの森に見えるが、虫の声も鳥の羽ばたきも聞こえない奇妙に静まり返った空間だ。
「怖気づいたか、腰抜け。ステラは俺に任せて城で待っていてもいいんだぜ?」
先頭のラルフがにやにや笑って煽ってくるのを、アレクサンダーは冷たく見返した。
「冗談でしょう?お嬢様のそばにあなたを近寄らせるなんて、魔物より危険だ。ステラお嬢様、僕から離れないで」
「あ、ありがとう、アレク君。君も無理はしないで」
ギスギスした雰囲気にいたたまれなくなり、ステラはアレクサンダーの傍らに立った。
ほかの討伐隊の兵士たちも、やりにくそうにしている。特に副隊長だという壮年の戦士はアレクサンダーの正体を知っているらしく、誰よりも顔色が悪い。ステラは助けを求めるような副隊長の視線を感じながらも、
(ごめんなさい、私にもどうしようもできません)
と思いながら会釈を返すにとどめていた。
「チッ、お前ら行くぞ」
ステラがアレクサンダーのそばを選んだことに苛立ったラルフが、すたすたと歩き始める。みんなもあわててその後を追い、軍行が始まった。
道中、何度か弱い魔物を倒し、予定のポイントにもう少しで到着するという頃だった。少し前から足元を漂っていた黒い霧がいよいよ濃くなり、悪意で押しつぶすような瘴気の圧迫感に軍行の足が止まった。
「くそ……そろそろ団体客のお出ましのようだな」
「迎撃の準備をしましょう、隊長」
「わかっている。おいお前ら、備えろ!」
副隊長の提案に頷いたラルフが号令をかけると、十八名の戦士が一斉に武器を構えた。ややあって、森の奥の茂みから首の無い獣の群れがあふれ出す。
獣の腹部には縦に割れた亀裂があり、無数の歯に覆われている。強靱な爪で獲物にしがみつき、腹部の亀裂で貪り食うのだ。
「弓兵、撃て!槍兵、打ち漏らしが来るぞ、備えろ!」
ラルフの掛け声とともに魔物の群れを矢の雨が襲い、矢をかいくぐって走ってきた獣を槍兵が突く。その動きはきちんと統率が取れており、ラルフの指揮もなかなかどうして堂に入ったものだ。
とはいえ魔物の数は多く、わずかだがステラたちの方にもやってきた。討伐に参加しなくてもいいとは言われているが、この程度なら結界に閉じこもってやり過ごす必要もないので応戦する。
ステラが手をかざすと神聖な光が獣を貫き、死角から襲ってくるものはアレクサンダーが斬り捨てる。
背中合わせでも互いの動きを読み切ったような動きは、最後に戦場を共にしてから五年経った今でも健在だった。
(このまま片が付きそうかな)
魔物の数も随分と減り、ステラがほっと胸をなでおろした時だ。
『お前みたいなじゃじゃ馬に王妃が務まるわけがない』
不意にラルフの声が脳裏をよぎった。
『言葉遣いもてんでおかしい』
『汚らわしい平民』
『無能の聖女』
破魔の力を優先して結界をおろそかにしたことが仇となった。魔王の瘴気がもたらす幻聴に囚われたとわかっているのに、ステラは動けなくなった。
(なんで……!?こんなのとっくに克服したはずじゃない、どうして今更、あのころ言われた言葉くらいで……)
『王はお前など愛してはいない』
『愛されるつもりはないと、言われたではないか』
そして美しく完璧な所作の、いかにも高貴な美女がアレクサンダーのそばに寄り添う幻覚が見えた。
「ぃ、ゃ……!」
「危ないステラ!!!」
こんなもの見たくない、と思わずきつく目をつぶった時だ。ぎゅっと誰かに抱きしめられ、すぐそばで刃物が肉を断つ音が響いた。恐る恐る目を開ければ、アレクサンダーに抱きしめられていた。彼の剣は今しがた魔物を屠ったようで、血の跡も生々しい。
「ごめんなさい、アレク君!怪我はない!?」
彼にかばわれたのだ、と気づいたステラは慌てて結界を構築し、傷の確認を始めた。
「僕は平気です。ステラこそ大丈夫ですか?顔色が悪いけれど……」
「少し瘴気にあてられたみたい。あはは、君に気をつけろって言っておいて自分が引っかかるなんて、格好悪いな」
無理をして笑うステラをアレクサンダーが痛ましそうに見つめる。
「おい、どうした?まだ予定地での討伐が残ってんぞ?」
魔物の殲滅が終わったらしく、ラルフたちがこちらへやってくる。
「お嬢様が瘴気にあてられたようです。少し休憩させていただけますか」
「あ?あの図太いステラが今更幻覚や幻聴に?おめーが足を引っ張ったんじゃねぇの?」
隙あらばアレクサンダーを小馬鹿にするラルフを、ステラはきつく睨んだ。
「ラルフ様。足を引っ張ったのは私の方です。まだお勤めが残っておられるなら、どうぞ果たしてきてください。私たちは休憩がてら、ここで採取していきます」
「おいおい、連れないこと言うなよステラ。不安なら俺がいてやるって」
「私の不徳に、辺境伯の方々を付き合わせるわけにはいきません。どうぞお勤めを果たしてください」
ステラの頑なな態度に、意見を翻す気がないと悟ったのだろう。寄り添うステラとアレクサンダーを忌々しそうに睨みつけたラルフは、
「可愛げのねぇ女だな」
と吐き捨て本来の目的地に向かって歩き始めた。
ラルフたちの小隊が見えなくなると、ステラは思わず安堵のため息をついた。粗野で身勝手なラルフのことは昔から苦手だったが、今では姿が見えなくなるとホッとするくらいだ。
「つき合わせちゃってごめんね、アレク君」
「いいえ。今の僕は、『ステラお嬢様』の護衛ですから」
ステラに仕える役柄が気に入っているのか、アレクサンダーはいつにもましてにこやかだ。
「あっ、採取だけはしておかなきゃ」
ステラは震える足で立ち上がると、結界を維持したまま周囲の木を確かめた。
ひときわ枝ぶりの立派な一本に狙いを定めると、鏨で軽く穴をあけ、金属の採取口がついた革袋をねじ込んでおく。あとは皮袋に樹液が溜まるのを待つばかりだ。
一仕事終えてアレクサンダーの隣に腰かけると、結界のおかげか、魔の森の風景もそう悪いものではないように感じた。
「……アレク君は大丈夫だった?瘴気」
沈黙は心地よかったけれど、アレクサンダーが無理をしていないか心配で尋ねてみる。彼はうーんと首をかしげて、頷いた。
「幻聴も幻覚もありました。父や兄や、父の臣下たちの怨嗟とか、足をつかんでくる感じとか……予想通り過ぎて拍子抜けというか、案外大丈夫でした」
「本当に!?かっこつけてない!?」
「本当ですよ。事前情報がなければ少しはびっくりしたかもしれませんが……死者の亡霊に恨みを向けられるなんて、今更なので」
アレクサンダーは何でもないことのように言うけれど、そう言い切れるようになるまでに、この人はどれだけの夜を一人で悪夢にうなされてきたのだろう。ステラは小さなころのアレクサンダーを抱きしめたくてたまらなかった。
代わりにそばにあった手を握ると、ためらいがちに握り返される。
「……まだ父が存命だった幼いころ、城での生活が苦しくて、魔物退治でも何でもするから領地へ連れて行ってほしいと、師匠に頼んだことがあるんです」
つないだ手を確かめるように握りなおして、アレクサンダーがポツリと話し始めた。
「僕がどんなに頼んでも、師匠は頷いてくれなくて。いたいけな子供が保護を求めているというのに、ひどい大人ですよね。……でも、今なら師匠が断った理由が、わかる気がします。愛情に飢えていたあの頃の僕が魔王の瘴気を食らっていたら、きっと吞まれてしまっていた」
はっとしてステラが見上げた先では、アレクサンダーが余裕そうに笑っていた。
「けど、不思議と今は落ち着いていられます。ステラがそばにいてくれるから、あんなものは雑音でしかなくなりました」
「……君は、強いね」
ステラの声には少しばかりの嫉妬が混じっていたかもしれない。確かに我ながら可愛げがないな、と自嘲するも、アレクサンダーは変わらずにこにこしている。
「あなたにそう思ってもらえるなら嬉しいです。父を殺した後、僕の人生の希望がステラだったように、僕もステラの支えになれるなら、とてもうれしい」
「どうしてそこまで思ってくれるの。私、君がそんなに大切にしてくれる価値があるような人間じゃないよ。気を抜いたらお嬢様言葉なんて出てこないし、所作もがさつだし、とても王妃様なんて務まらない……」
アレクサンダーにこんな愚痴をこぼしてしまったのは、先ほどの瘴気の影響だろうか。こんなことを言ってしまって、今度こそ嫌われたのではないかと戦々恐々していると、アレクサンダーは困惑顔だった。
「ステラは常々僕に自己肯定感が低い、もっと自信を持っていいって言いますけど、あなたも大概じゃないでしょうか」
「?」
「いつだって人のために国中を駆け回って、治癒を施し、豊穣の祝福を与え、こんな恐ろしい森で魔物まで倒してしまう。ステラに一体どれだけの人が救われてきたと思っているのです?」
「それは……ただ、私は、与えられた力を揮っていただけで」
「それでも、人のために力を使うと決めたのはステラです。王侯貴族らしい作法なんて、これからいくらでも身に着けられる、些細なこと。
だいたい、先代や先々代の王の配偶者なんてひどいものですよ?父の正室はわがまま放題の方だったそうですし、お爺様は引きこもりだし。先代たちに比べれば十分、ステラは立派です」
いつでも真っ向からステラを肯定してくれるアレクサンダーの言葉は心地がいい。だからこそ溺れてしまわないように気を付ける必要はあるけれど、今は彼の声に浸っていたかった。
「……アレク君、好き。くっついてもいい?」
「!?ど、どどど、どうぞ!?」
「ありがと」
好意を示すことにはためらいがないくせに、こちらが好意を示すと途端にどもりまくるアレクサンダーが愛おしくて可愛くて、ステラは彼の片腕に抱き着くようにしてくっついた。
そうしてどれほど寄り添っていただろうか。ステラたちの正面で、遠くの茂みががさがさと揺れた。誰か戻ってきたのだとしたら男爵家の兵士ということになっているアレクサンダーとくっついているところを見られるのはまずいし、魔物が出るならなお悪い。二人は慌てて離れ、身構えた。
「聖女様!どうかお助けください!」
飛び出してきたのは血相を変えた兵士だった。小隊の中で一番若い、まだ成人したばかりの新兵だ。
「どうしました?小隊の皆は!?」
擦り傷だらけの彼を治癒してやりながらステラが尋ねると、兵士は震える声で訴えた。
「と、討伐地点に、触手持ちの首無し狼が出て!副隊長は止めたのに、隊長が交戦命令を……!」
首なし狼とは先ほど交戦した獣で、大人数で連携すれば仕留めやすい魔物である。
しかし、首の断面から触手を生やした一回り以上大きな個体「触手持ち」は、生半可な練度では戦闘を避けるべきだ。無秩序に振り回される触手の攻撃に対応するなら、少数精鋭が望ましい。
まだ指揮経験が少ないラルフが率いる小隊では、とても相手にならないはずだ。
「おいらは副隊長に逃がしてもらったけど、みんなまだ戦っているんです!!」
話を聞いたステラは非常時のために持っていた聖水の小瓶を兵士に握らせた。
「わかりました。私は援護に向かいます。魔物除けの聖水を託すので、あなたは森を出て辺境伯閣下に報告を。できますね?」
「は、はいぃっ!!」
兵士は涙目でぺこぺこと頭を下げると、森の外に向かって走り始めた。彼を不安にさせないよう穏やかな表情を保っていたステラは、厳しい顔つきになって魔物がいる方向をにらむ。
「勝手に決めてごめん、アレク君。行ってくる」
「忘れないでください。二人で、ですよ」
駆け出したステラに、アレクサンダーが並走した。
「……ありがとう」
「いいえ。ラルフ氏はともかくほかの皆さんのことは放っておけませんからね」
けもの道を転がるように駆けるにつれ、前方からは悲鳴と怒号と、血の匂いが漂ってきた。
時間は少し巻き戻る。
討伐地点についたラルフは、むしゃくしゃした気分で首無し狼の群れを切り刻んでいた。
(なんだよ、なんだよ!ステラの奴、あんな優男のどこがいいってんだ!?)
思い出すのは、先ほどアレクサンダーに寄り添ってラルフを拒絶したステラの姿だ。
(会ったばかりのころは、あんなに可愛かったのに、生意気になりやがって!)
ラルフとステラの出会いはお互い十五歳のころだった。辺境伯の実子に課せられる苦しい鍛錬から逃れることばかり考えていたラルフは、魔物討伐に参加する聖女に出会って変わったのだ。
「ステラといいます!ご迷惑をおかけするかもしれませんが、精いっぱい頑張るのでよろしくお願いします」
明るく元気よく挨拶するステラに、ラルフの目はくぎ付けになった。
女といえば、肝っ玉母ちゃんの実母、男にしか見えない筋肉マッチョの次姉、妖艶な美女ではあるが次姉よりおっかない長姉、その三タイプしか知らなかったラルフが、初めて出会った可憐な女の子。
「魔物……!破魔の力で倒します!皆さん私の後ろに!」
見た目はか弱い美少女なのに、魔物と相対すれば凛として一歩も引かない度胸のある所も気に入った。
「お怪我はありませんか?ラルフ様」
母ちゃんですら「怪我した?軟弱だねぇ、これでも貼っときな!」と湿布をたたきつけてくるような有様なのに、ステラはどんな醜い傷でも嫌な顔一つせず、優しく癒してくれる。
(こいつ、絶対俺のこと好きだろ)
女性に免疫のないラルフが勘違いするのは、ある意味仕方のないことだった。
(優しくて可愛くて強い。辺境伯家の理想の嫁じゃねぇか)
ラルフは舞い上がった。
(長兄はすでに結婚して子供もいる。嫡男だから側室は持てるが、聖女様を側室扱いなんてとんでもないだろ。
次兄は独身だが母親が貴族でいけすかない。あんな奴の嫁になったら、平民出身のステラは苦労するに決まっている。
つまり結婚するなら俺しかいないってわけだ!)
大変な暴論とお花畑思考で、うきうきルンルンと辺境伯に
「ステラを俺の嫁にしてくれ!キャロル家に婚約の命令、送っておいてくれよ!」
と頼んだラルフだったが、返ってきたのは頑固親父の拳骨だった。
「てめぇ、自分が聖女様と釣り合うと本気で考えてんのか、あぁ?お前の釣書きなんぞ、恥ずかしくて送れるか!!!」
「いてて、なんだよ。確かにステラの実の親は平民らしいけど、今は男爵家の養女なんだろ。俺だって母ちゃんが平民なんだから、ちょうどいいじゃねぇか」
「聖女様がお前に釣り合うかじゃない。お前が聖女様に釣り合うのかと聞いてんだ、馬鹿息子!それがわからねぇうちは相手が誰であろうと結婚なんて考えるな!!!」
わからず屋の親父に怒鳴り返されて頭に血が上ったラルフは、「じゃぁもういい!」と反射的に言い返してしまったが、一晩経って冷静に考えてみれば、父親の言うことも一理ある、と思い直すようになった。
(ステラの魔物討伐実績、えげつないもんな……)
ラルフが一匹魔物を相手取る間、ステラは何倍もの魔物を破魔の力で倒していくのだ。確かに、男が嫁に劣るというのは、格好がつくまい。
(よし、もっと鍛錬を積んで、討伐数を伸ばすぞ!待ってろステラ、大隊長くらいになったら迎えに行ってやるからな!)
そう思って、それからは真面目に鍛錬に取り組んだ。
時々辺境伯家にやってきて魔物討伐に参加するステラのことは、花嫁修業だと思っていた。討伐のことだけでなく家での振る舞いについてもいろいろ口に出すようにした。
ステラもラルフ好みの女になろうと頑張っているらしく、昔は平坦だった胸や尻が豊かになったのも非常に満足だ。
それなのに、ステラは裏切った。大聖女の地位を買われて、国王と婚約することになったというのだ。
(あいつは騙されているんだ!あんな平民丸出しの、頑張っても下位令嬢程度の作法しか身に着けてない女、王妃になんてなれっこねぇ!!!今に婚約破棄されて泣いて俺のところに戻ってくるさ!!)
怒りと焦燥で眠れない夜を、ラルフはそう自分に言い聞かせることで何とか乗り越えた。
こんなのおかしい、と考えているのは自分だけのようで、家族はみんな祝福ムードだ。それどころか兄弟の中で人の機微に敏い次兄や長姉からは、
「お前、まさかとは思うがまだ聖女様に懸想していないだろうな?聖女様はお優しいから態度に出さないだけで、むしろお前を嫌っていると思うぞ?」
「やぁね、気持ち悪い。聖女ちゃんがかわいそうだから迫るような真似はやめてあげなさいねぇ?」
などと窘められる始末である。
(うるせぇ!ステラは俺が好きなんだ!それなのに俺を裏切りやがった!いや、国王の権力に逆らえなくて、俺のところに来たくても来られないだけだ!!!)
そんなある日、ステラが素材採取のため辺境伯領に戻ってくることになった。
(ほらな、素材採取なんて名目で照れ隠ししてるけど、俺に会いに来たんだよ、あいつは)
久々に見たステラは、一層美しくなっていた。髪を結いあげ露になった色っぽいうなじも、緩やかなつくりのローブの上からでもわかるたわわな胸元も、むしゃぶりついてやりたかった。
手始めにステラの食べかけの肉を取り上げようとしたら、護衛の兵士に阻止された。銀髪に青い目の、顔立ちだけなら恐ろしいほどに整った優男だ。
(あいつらなんであんなに距離が近いんだ!?あんなの、ほとんど浮気だろ!!?そぉだ、ステラが実家の兵士と浮気してるって国王にチクって、婚約を破棄させてやればいいんだ……!)
怒りに任せて襲ってくる魔物を叩き切り続けていたラルフは、副隊長に「坊ちゃん!」と呼びかけられて我に返った。
「何だ!隊長と呼べ!」
「何度も呼びましたよ!それより触手持ちが出ました!撤退しましょう!」
副隊長が指さす先には、首無し狼よりさらにおぞましい化け物がいた。大型の馬ほどもある巨体、頭があるべき場所からは、無数のうねる触手が伸びてあたりを薙ぎ払っている。
距離がある今のうちに撤退して、辺境伯家の戦力トップスリーである父か長兄、次姉を呼んできたほうがいい。理性はそう告げるのに、ラルフはその考えを押しのけた。
(だって、あれを倒したらステラは俺を見直す。俺のところに戻ってくるはずだ)
そう考えた瞬間、彼は叫んでいた。
「触手持ちを討伐する!全員突撃!」
「!!!?」
とんでもない命令に、場の空気が凍った。慌てて副隊長が撤回を求めるが、辺境伯実子の権力を振りかざして兵士たちを追い立てる。
命令は撤回されないと見るや、副隊長は最後尾で震えていた新兵を突き飛ばし、
「お前だけでも逃げろ!責任は俺がとる!」
と叫んで逃がした。
(チッ……敵前逃亡とは軟弱な。まぁいい。新兵一人いなくなったところで、たいして戦力に変わりはない)
ラルフは剣をとると、必死で応戦する隊員たちのもとへ向かった。
「オオオオオオオオオオッ!!!」
気合を入れるように叫んで、ひときわ太い触手の一本に刀身を叩きつける。柔らかそうな見た目に反して強靭な筋繊維の塊である触手は、容易には断ち切れない。触手はラルフの攻撃を弾き飛ばすと、目にもとまらぬ速さでしなる先端を腹に打ち込んだ。
「がはっ!!!」
鎧のおかげでかろうじて貫通は免れたが、すさまじい衝撃にラルフの大柄な体が吹き飛ぶ。無様に地面にたたきつけられ、視界が明滅した。
「クソ、クソッ……!俺は強いんだ、こんなところで終わる男じゃねぇ!!!」
くらくらする頭を押さえ、剣を杖代わりに立ち上がるラルフ。頭の中に、女の嬌声が響いた。
『ラルフ様っていうの?王都の男どもにはないたくましさがあって、素敵!』
それは娼婦の声だった。父親の仕事に同行して、一度だけ王都を訪れた時の記憶。
父の手伝いで王宮に行くでもなく、ステラには悪いかなと思いつつ娼館で遊んだことがある。
女たちは逞しい体つきのラルフをおだて上げ、翌朝小遣いも装備も装飾品も何もかもむしり取っていった。
『金を返せ?何言ってるのよ、料金の分は悦ばせてやったじゃない』
『これだから田舎者はいやぁねぇ。お猿さんみたいに盛っていたのを忘れたのかしら?』
『愛妾にしてやってもいい?はぁ?何言ってんの?』
『あんた半分平民でしょ?爵位をもらってから口説けっての』
『ま、あんたみたいな野蛮人、爵位があってもお断りだけど!アハハハハ!!!』
屈辱だった。汚らわしい商売女にここまで愚弄されて、みじめさと怒りで頭がおかしくなりそうだった。
『アハハハハ!ウフフフフ!!!』
けたたましい笑い声は、いつしかステラの声になっていた。煽情的なデザインの花嫁衣装を纏ったステラが、顔のわからない国王にしなだれかかり、ラルフを嘲笑する。
『うふふふ、ラルフ様、私は王妃になるの。平民ごときが汚い手で触らないでくださる?』
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!馬鹿にしやがって、ステラ!!!お前も俺を平民混じりだからって見下すのかよぉおおおおおおお!!!!」
これは魔王の瘴気が齎す幻聴と幻覚で、ステラはあんなこと言わない。わかっているはずなのに、決してこちらを振り向かない彼女への憎悪が溢れて止まらなかった。
「坊ちゃん!幻覚です、落ち着いてください!!!」
副隊長の声が間近に聞こえ、もう一度強い衝撃が全身を襲った。あまりの激痛に幻聴と幻覚が遠のき、代わりに凄惨な現実が目に飛び込んでくる。
「あ……!」
ほとんど無傷で触手をうねらせる化け物。その周囲では、部下の兵士たちが散り散りになって倒れていた。特に副隊長は、ラルフを庇ったのかひときわ酷い重傷を負ってこちらに覆いかぶさり、ピクリともしない。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!親父に、どやされる……!!)
この期に及んで自分が叱られる心配をするラルフに、状況を覆す力など残されていなかった。
そんなとき、絶望に染まる彼のもとに届いたのは、凛とした女性の声だ。
「皆さんお願い、絶対に治すから死なないで!」
「す、てら……?」
降り注ぐ癒しの光に、反射的に振り返る。
ズドン!!!
するとラルフの頬をかすめて、すさまじい魔力の塊が飛来し魔物を穿った。
「ひっ……!」
見れば魔法で作られた巨大な氷の槍が、魔物の巨体を地面に縫い留めている。魔物は致命傷にあらがうように触手をのたうち回らせていた。
「チッ、仕留めきれなかったか……」
「アレク君、それは魔物の話だよね、ラルフ様を狙ったわけではないよね!!?」
「……副隊長殿が気の毒だったので直撃はやめておきました」
「ちゃんと否定して!?」
なんとも気の抜ける会話をしながら現れたのは、癒しの光を広範囲に展開するステラ。
「さて……お掃除?尻ぬぐい?状況はわかりませんが、始めましょうか」
そして、平民にはありえない魔力量を放出させながら王者のように辺りを睥睨する護衛の男だった。
自分で書いててなんだけど、勘違い男の思考って本当気持ち悪いね。
でも信じられるか……?これでも元婚約者の伯爵令息よりはマシなんだぜ……?